"チャンピオン"日誌・あの日あの時

63年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。

 我が母校の杉並区立第七小学校の正門の前に、日大相撲部の稽古場がある。その隣に同じような稽古場が出来たので見に行くと、大きな看板に、〝花籠部屋〟と書いてあった。それから数年後、成田東に、〝二子山部屋〟が出来、次に文化学園大学の付属高校の近くに、〝放駒部屋〟が出来て、阿佐谷は、お相撲さんの町になってしまった。〝本場所〟がない時は、昼間からパールセンターを肩を並べて闊歩し、夜は酒場で町内の若者と和気あいあいと飲んでいる姿も見かける。駅の近くにあるオデオン座に行くと、場内の中央にある通路の前列の席が、四席並んで壊れている。お相撲さんが大きな体を無理やり入れて座るからだそうだ。マネージャーは、「直してもすぐに壊されるから、そのままにしてある」とぼやいていた。

 ある夜、そんな話を肴にしてパールセンターの長老、石井明氏と居酒屋で久しぶりに飲んだ。石井氏が言う。

「あれは昭和五十年代だったと思う、輪島が優勝した時はパールセンターをパレードしたし、いい時代だったね。」

わたしたちの話を聞いていたのか、隣で飲んでいた年輩のオジサンが、「懐かしいね」と言いながら椅子の向きを変え、仲間に入った。そして、「オレの話を聞いてくれ」と言うので石井氏と耳をかたむけた。

あの時は夕方だった。駅前のタクシー乗り場に背が高くてスタイルの良いイケメンのお相撲さんが若い衆を二人連れて立っていた。その人の前を行き来している人達は、誰もが気に留めず、存在すら無視していた。その人は当時人気絶頂の横綱千代の富士だったのだ。お相撲さんを見慣れている阿佐谷の住民にとって千代の富士は普通の相撲取りだったのだ。

当時、チャンピオンにも花籠部屋の相撲取りが時々来てくれた。輪島は学生時代にはよく来たが、横綱になってからは一度しか来なかった。ある日、日大相撲部の学生が、「先輩の色紙です」と言って、輪島の手形を持って来てくれた。それを店の目立つところの壁に貼っておいた。ある晩、輪島の学生時代の先輩が来店。輪島の色紙を見て鑑定をしてくれた。

「マスター、この色紙は本物だ。北口の駅前のラーメン屋に立派な額に入れて飾ってあるのは偽物だよ。だってあの色紙のサインの字がうますぎる。」

ひょうきんな気合の入れかたをして人気者になった高見盛は学生時代から来ていた。彼は納豆チャーハンが大好きで、いつもそれしか注文しなかった。チョンマゲを結ってから仲間と来店した時も、納豆チャーハンだった。連れの相撲取りは三五〇gのビッグステーキを食べているのに。

ある夜、長身で筋肉質の相撲取りが入って来た。ちょっと酔っているようだった。「マスターはプロボクサーだったんだってね。相撲とボクシングとどっちが強いかオレと勝負をしよう」と、詰め寄られた。私は、「あなたはヘビー級だし、私はフライ級なので、試合になりません」と断ると、後から来店した関脇の二子岳が、「それじゃあ、ルールを決めよう、オレがレフリーをやるから、マスターやってみなよ」と口をはさんだ。私は、「じゃあ、やってみます」と答えてしまった。

「ルールは、マスターは、ボディをナックルで打っていいが、顔は平手打ちだけ。睦の海は張り手と投げ、〝まいった〟と言うまで、時間は無制限。」

場所は店の隣の駐車場に決まった。零時を過ぎていたので、駐車している車は少なかった。そこはスポーツジムのリングくらいのスペースがあり、適度の明るさがあった。二子岳の「ファイト」で始まった。睦の海は両腕をぶるんぶるんと振り回しながら前進してくる。私はそのスイングをダッキングでかわし、懐に入りボディに右左のパンチを打ち込み、ガードが下がり、空いている顔に平手打ちを連発し、フットワークを使い、相手の攻撃をかわした。その攻撃パターンを繰り返ししていると、睦の海は、鬼のような形相で私を追い回した。調子に乗った私は、サイドステップ、バックステップと足を使い睦の海の攻撃をかわしていたが、この試合場が駐車場であることをつい忘れてしまった。大きくバックステップをした時、後ろにあった車にお尻が当り、はじきとばされて、睦の海の前に飛び出してしまった。睦の海は私を掴み、投げ飛ばすと、私は四、五メートル地面の上を横滑りになり、慌てて起きようとした時、睦の海が馬乗りになった。私は、「まいった!」と叫んだ。そこで二子岳が、「ストップ」と声をかけ、陸の海の右手を上げた。

いつの間にか見物人が、五、六人居た。私の両肘と左の頬から血が滲んていた。「マスターが可哀相!」と女性の声が聞こえた。レフリーの二子岳が、慰めるように言ってくれた。

「睦の海は、酒場で知り合った格闘技の経験のある人には必ず、他流試合を申し込んでいるが、空手、日本拳法、柔道の有段者たちには、みんな断られてしまった。ところが、このマスターは挑戦を受けちゃったのだから、凄い!負けましたが立派です。」

見物人は、それを聞いて納得したようだった。

酒を飲み直しながら、二子岳が言った。

「こんな結果になるとは思わなかった。もし、あのアクシデントが無かったら、マスターは、ハワイ出身の高見山を首投げで土を付けた十両の睦の海に勝ったかもしれない。でも勝負は時の運と言うからね。」

睦の海はグラスに手を付けず、私に怪我をさせてしまったのが気まずいのか、黙って下を向いていたが、いきなり立ち上がると、私を見つめた。彼の目のまわりが赤く腫れている。ビールを飲み干すと、私の手を握り、「ありがとう」と言って、二子岳を置いたまま帰ってしまった。その後、睦の海は常連客となり、相撲を引退し高円寺に〝チャンコむつ〟を経営してからも、交流は続いている。

ある日、私が店に向って歩いていると、後ろから乗用車が近づいて来たので横によけると、更に近づいて来る。「マスター」と呼ぶ声がするので、振り向くと、助手席に荒勢が乗っていた。「マスター、睦チャンとやったんだってね、二子岳がみんなの前でしゃべっていたよ」と、いたずらっぽく笑った。「お店まで乗せてあげる」と言うので、中に入ると、相撲部の学生が運転をしていた。「この車は誰のもの?」と尋ねると荒勢は、「五日前に錦糸町で拾ったんです」と言ったが、彼はお国訛りがきつく、聞きとりにくいので、運転手の学生に通訳してもらった。錦糸町に荒勢の先輩がいて、その家に行く途中にこの車が路上に駐車していた。帰りに同じ道を歩いていたら、この車が同じ場所に駐車していたので、あれから三時間も経っている。これは駐車違反だと、ドアに手をかけたら開いたので中を覗くとキーが付けっぱなしだった。それで、一緒にいた学生に運転させて、阿佐谷に帰り、駅前の米屋の駐車場に置いていた。三日たっても持ち主が名乗り出ないので、たまたま乗りまわしている。と、要約してくれた。その二日後、米を注文したので、店主が配達をしてくれた。彼はいきなり、「昨日は、大変な事があったんです」と話しだした。夕方、顔に傷のあるやくざ風の中年男が来て、駐車場に止めてあるベンツは何時からここにあるのか、誰が駐車したのか、ねほりはほり聞かれて恐かった。そこに、のこのこと荒勢がやって来た。やくざは、「お前がオレの車を盗んだのか!オレはあちこち一週間も探したんだ!」と怒鳴り飛ばした。大きな体を小さくして、誤っている相撲取りが、荒勢だったと気がつくと、やくざは、「今日は許してやる、半殺しにしてやろうと思ったが、オレは関取と同郷だし、お前のファンなので許してやる」と言って帰っていった。米屋は、「警察沙汰にならなくてよかった」と、胸をなでおろしていた。

相撲部の学生も常連だった。一人で三人前は食べるので彼らの顔を見ると、すぐにご飯の鍋に火を付けた。一年生が先輩のテイクアウトを取りに来ることがしばしばあった。ある日、小柄の学生が来たので、「君はマネージャー候補ですか」と聞くと、「いいえ、レギュラーです」と答えた。その人が、後の業師、舞の海だった。キャプテンの田中君はいつも一年生を、二、三人連れて来る面倒見のよい男だった。当店の近くにある日本料理店には一人で通い、その店の看板娘と、卒業すると同時に結婚した。ある時、新しいキャプテンが来店したので、「最近、田中君が見かけないけど、どうしている」と尋ねると、キャプテンが言った。

「マスター、田中〝君〟はやめてください。田中先輩は監督なんです。」

「そうか、田中さんは、どうしてプロにならなかったの?」

「それは分かりませんが、監督は二度、全日本相撲選手権で優勝しています。凄いのは、輪島先輩は監督と三度対戦して、一度も勝てなかったのです。」

その学生は、田中監督がプロになれば、絶対に横綱になれる人だと豪語した。そして、先輩にも後輩にも好かれている人で、相撲部出身の力士の四股名は、田中監督が付けていると言う。

田中さんは、社会人になっても、学生を、二、三人連れて、時々来店、奥さんと二人で来る時もあった。その田中さんが、世間を震撼させた日大のドン、田中英寿理事長と同一人物とは思えない。

                                       【山本晁重朗

夕方五時から一時間、雨の日も風の日も、散歩をする。コースも決っている。我が家を出ると、元、〝チャンピオン〟があった店の前を通り、商店街のパールセンターから青梅街道に出て、成田東にある善福寺川公園まで行く。

ある日、元、〝チャンピオン〟があった店の前にさしかかった時、黒のスポーツウェアーを着たスタイルのいい青年が、ウロウロしていた。不審に思い、近づいてみると、見覚えるのある顔だった。「失礼ですが、山中慎介さんでは?」と声をかけると、青年は立ち止まり、「はい、そうです。ここで待ち合わせをしているのです」と、目の前にある新築のビルを指差して、「確か、ここにチャンピオンがありましたね」と言うので、「その店は、十一年前にビルが老朽化してしまったので、止むを得ず閉店しました。四十三年間も営業していたのですが」と説明した。山中氏は、「チャンピオンのこと、詳しいですね。貴方も常連客だったのですか?」と言われたので、「いいえ、私はオーナーだったのです」と答えた。

「えっ、そうなんですか、私は学生時代、阿佐ヶ谷に四年間住んでいたので、何回か店に行きました。」

「そうでしたか。」

二人の会話は続いた。

山中慎介は元WBC世界バンタム級のチャンピオンである。山中のパンチには、〝神の手〟、〝ゴッドハンド〟の代名詞がある。左の一発で相手を倒すパワーがあるのでKOアーティストとも言われていた。当時、日本には十一
人も世界チャンピオンがいたが、その中で、一番人気があった。山中は世界バンタム級のタイトルを、連続十二回防衛(八KO)している。しかし、十三回目の防衛戦はルイス・ネリーに、四ラウンドTKOで敗れてしまった。半年後、同選手と再戦するが、二ラウンドでTKO負け(ネリーは体重超過でタイトル剥奪)。

平成三十年三月二十六日に三十五歳にして引退した。彼と私が、対話しているのは、その一カ月後の四月二十六日である。三十一戦の戦績があるのに傷一つない端正な顔立ちは、ボクサーには見えなかったのか、道路の真ん中で立ち話をしているのに、行き来している人たちは気が付かなかったようだ。私は、「ここで山中さんに会えたのも何かの縁ですね」と言って、石橋ボクシングジム・トレーナーの名刺を渡して別れた。

散歩が終り家に着いた時、携帯が鳴った。橋本昌子さんからだった。

「さっき、元のお店の前で立ち話をしていたでしょう。あの人、山中慎介じゃない?何の話をしていたの。」

彼女は流石、ボクシング関係者だ。気が付いていたのだ。橋本さんは女子ボクシングの世話役をしている。

「再戦一ラウンドに擦ったようなパンチで、山中さんがダウンしたのは、半年前、TKO負けした時のダメージが残っていたから倒れたのではないですか?と率直に聞いたのですが、否定されました。」

私が、そう言うと、彼女は、「そうですか。でも、TKOで負けたあの試合は、まともに強打を浴びていたので、かなりのダメージはあったと思う」と強調し、わたしと同じ見識だった。私がなぜ、山中氏にそんな質問をしたのか、後日、彼女と会って話した。

フレンド会の会計係の咲谷達夫は元プロボクサーだった。十七歳でデビューし、昭和三十二年、第十四回ライト級新人王になり、僅か六戦目に、同級日本チャンピオン小林秀人とノンタイトルで対戦、引き分けて、一躍、四位にランクされた新星だった。

その後、日本ライト級挑戦者決定戦で二位の金田森男(後に、ミドル級チャンピオン)と対戦することが決まり、ハードなトレーニングに入った。咲谷は一階級上のウェルター級の選手とスパーリング中に、右ストレートをまともに顎に受けて、ダウン、そのまま意識を失い、KOされたのと同じ状態になってしまった。JBCでは、試合でKOされたボクサーは、九十日間の出場停止になる。それは選手のダメージの回復をはかるための最小限必要な期間である。咲谷の試合は十日後だ。菊地トレーナーは困惑したが、意識を取り戻し咲谷の強い意志に押され、会長にアクシデントを隠して出場させた。

咲谷は先制攻撃で、金田をコーナーに追い込み、滅多打ち。これで勝負は決まったと、誰もが思った。その時、苦し紛れに振り回した金田の右が、咲谷の顎を擦すった。効いているパンチではない!だが、咲谷はダウン、そのままキャンバスに大の字で寝てしまった。レフリーはカウントをせず、両腕を大きく左右に振った。KO負けである。気を失っている咲谷はセコンドに抱えられ控室のベンチに寝かされた。三十分後、ドクターが再び診察に来た。

「大丈夫です。このまま、しばらく寝かせておいて下さい」と言って控室を出ると、入れ替りに、レフリーの手崎弘行が入って来た。意識不明の咲谷を見て、「私が起します」と言うと、姿勢を正し、かん高い声で、カウントを始めた。

「ワン、ツー、スリー!」

この声に反応して、咲谷の体が少しずつ動き出した。〝エイト〟をカウントした時、咲谷は立ち上がったではないか。そして、パッと目を開きファイティングポーズをとったのだ。それを見た菊地トレーナーは、咲谷の右腕を掴み、力強く上に突き上げた。そして、「チャンピオン!」と叫んだ。その声を耳もとで聞いて、〝キョトン〟としている咲谷に心配して駆け付けた同門の選手たちがいっせいに拍手をした。

話が終わると、橋本さんは山中に、質問した主旨は分かったが、咲谷の後遺症が気掛かりのようだった。咲谷に後遺症は全く無かった。電卓を使わずに暗算で、フレンド会の会計係をしている。聡明な男である。

数日後、月刊誌『ボクシングビート』の〝山中慎介引退特集〟を読んでいると、山中氏が「学生時代、阿佐ヶ谷に四年間住んでいたので、何回か店に行きました」と言っていたので、思い出したことがある。

年輩の常連客が、「オレがいた大学の後輩の、この子がボクシング部のレギュラーだと言っているので連れて来た」と学生服の青年を紹介してくれた。青年は立ち上がり挨拶をしたが、普通の学生でボクサーのイメージはなかった。むしろ演劇部の二枚目のタイプだった。

「卒業したら、プロボクサーになるのですか?」と聞くと、学生は、「はい」と真顔で答えた。私は、「君はハンサムだし、世界チャンピオンになれる顔をしている」と言うと、青年は照れ臭そうに頷いた。一週間後、青年が、「今日は、先輩は来ません、ボクだけです」と言いながらカウンター席に座った。私は、あの時のイケメン学生だとすぐに気が付いた。

「マスターに世界チャンピオンになれる顔だと言われたのが、嬉しくて来ちゃいました。

山中氏とは、過去にそんなエピソードがあったのだ。あれから十数年、時は流れた。

今や、伝説の店になってしまった〝チャンピオン〟が、かつてあった場所に、〝無冠〟の山中慎介が立っていたのは、偶然だったとしても、その光景を忘れることはないだろう。


                                                                              【山本晁重朗】

スポーツ新聞に、〝東洋太平洋(OPBF)ライト級のタイトルマッチ〟の記事(平成四年五月十一日・後楽園ホール)が大きく一面に載っていた。王者大友巌にグッシー・ナザロフが挑むのだ。大友選手は日本ライト級タイトルを九回防衛、平成元年には同級OPBFの王座を獲得し、五回防衛している。挑戦者のナザロフは、ペレストロイカの波に乗って、アントニオ猪木がロシアから連れて来たアマチュア世界選手権銅メダリストの実力者だ。私は大友とナザロフの試合は殆ど観ている。両選手のKO率は八割。大友のパワーとタフネス、ナザロフのハイテクニックが激突する壮絶なファイトになると予想し、常連客にアピールした。店内の目立つ所に両選手のファイティングポーズのポスターも貼った。

観戦希望者の人数が決まると、プロモーターの大川氏に電話をして三千円の自由席のチケットを郵送してもらっている。今回もチケットの枚数を依頼すると、大川氏は「いつも大友の応援をしてくれているので、五千円の指定席を三千円にします」と言ってくれた。その影響もあったのか、ボクシングファンではない一般客の参加者も多かった。ロシア人のボクサーに興味があったのだろうか。

当日五時に後楽園ホールに行った。入口の近くにある売店の横で、大川氏が、招待客に挨拶をしていた。声をかけて、十四万一千円入った封筒を手渡した。「四七人分のお金が入っています」と言うと、大川氏は「そうですか、それでは大友選手に激励賞を出して下さい、幾らでもいいですから」と言うので驚いた。私はチケットを安くしてもらったが、四七枚も買っている。〝ありがとう〟も言わず、激励賞を出せとは、この人は何を考えているのだろうか。そして私の眼の前に祝儀袋を出し、「袋の表には自分の店の名前を書きなさい」と言って、ホールの方に行ってしまった。納得がいかなかったが、袋に千円札(激励賞の相場は一万円から三万円)を入れ、リングサイドの係の人に渡した。

会場は超満員だった。北側の指定席に行くと、咲谷氏が「晁さんここだよ!」と声をかけてくれた。席に着き、周囲を見渡すと、番号が続いている指定席なので、その一角にはチャンピオンの客の顔が並んでいた。売店で売っている紙コップの生ビールを飲んでいる人、持参したワインを隣の席の人と交わしている人も居て、和気あいあいの雰囲気だった。

八時分、ゴングの音が場内に響き渡り、両選手がリングに入場した。リングアナウンサーが、「試合に先立ちまして、大友選手への激励賞があります」と言って、十枚くらいあるある祝儀袋の名前を、次々と読み上げた。「株式会社東芝さま」の後だった。「アサガヤのチャンピオンフレンド会一同さま!」と読み上げた。誰かが叫んだ。

「おい!オレ達のチャンピオンフレンド会がアナウンスされたぞ!

彼等にしてみればサプライズだった。一斉に立ち上がり気勢をあげた。それに気づいたリング上の大友選手が私たちを見て、右のグローブを力強く突き上げた。私はその〝瞬間〟、そのグローブで顎を撃ち貫かれたようなショックを受け、〝激励賞〟の謎が解けた!大川氏はここまで読んでいたか!

二次会の店は、オデオン座の裏にある大衆割烹和田屋の二階に決まっている。座敷なので詰めて座れば三十人は入れる。試合が終わった時点で帰ってしまった人もいる。阿佐ヶ谷まで来た人は四十名ぐらいだった。大友は残念ながら判定で負けてしまったので咲谷氏の音頭は献杯だった。部屋の中に入りきれず階段にいる四人も〝ケンパイ〟と声を上げた。飲みながら大友選手のファイトについてディスカッションで騒いでいる仲間に、ストップをかけたのは咲谷氏だった。

「この機会にフレンド会の役員を決めよう、会計係は私がやります。晁さんは会員名簿を作って下さい。そして会長を選びましょう。」

初代の会長は松田氏が選ばれた。松田氏は建築会社の社長。威張らない、気取らないをモットーとする好人物で、当店の人気者だ。ある時、飲み疲れて寝ている若者に、「今夜はオレのところに泊まっていけ」と言って、揺り起こし、その男の連れの二人にも、「君たちも来い」と三人連れて帰った。数日後、その若者の一人が来店し、「目が覚めたらボクシングジムのリングの中で寝ていたんだ。びっくりした」と頭をかいた。松田氏は石橋ボクシングジムの会長の義兄だった。面倒見が良すぎるのが玉に傷である。

名簿を作るのに常連客の名刺と住所を書いたメモ紙などを整理していると、銀行の名刺が四枚も出て来た。銀行名は異なるが彼らに共通しているものがあった。彼らには格闘技のキャリアがあったのだ。空手、柔道、合気道、剣道の有段者だった。その中で一番若い岡崎君に、「もし強盗が店に入って来たらどうする」と聞くと、「その時は私の得意の右の廻し蹴りでKOですよ」と言ってから、声を小さくして話してくれた。

「実は、三カ月前に私が営業で外出している時に、仮面のピストル強盗が店に入ったのです。五百万を盗られました。私が居合わせなかったのが残念です。ところが犯人は防犯カメラに写っていたので、一週間後に逮捕されました。警察が犯人の部屋を家宅捜査をしましたらウチの銀行の預金通帳が出てきたのです。それを見ると犯人は犯行の次の日から五百万円を五回に分けて預金をしているのが記帳されていたのです。びっくりしました。」

そして、「取調べには黙秘しているので、犯行の動機と目的が分からないのです」と、岡崎君は首をかしげていた。

ある夜、吉永氏が、「こないだ行った秋川渓谷のアルバムを見せて」と言うので、フレンド会の企画で秋川渓谷に水遊びに行ったアルバムを見せた。吉永氏はビールを飲みながら楽しそうにページをめくっていたが、ふと、その手が止った。「晁さん、この集合写真を見て」と言われたので覗いてみると、水辺に水着姿の老若男女と子供たちの楽しそうな笑顔が写っている。吉永氏は四十人くらい居るその中から一人の男に指を差した。見ると、その人はR銀行融資課課長の矢吹氏だった。

「この男は、いやな奴だ!みんながバーベキューに使う道具や、ござなどを水辺に運んでいるのに、ジャケットを着たまま見ているだけ、何も手伝わない、いい年をしていて何様だと思っているんだ!」

吉永氏は言いながら怒っていた。

その時より、二年前の夏 ―――

矢吹氏は一週間ぐらい姿を見せていなかった。R銀行に電話をすると、「矢吹は、四日前に交通事故に遭い河北病院に入院しています」と事務的に言われた。河北病院は店から徒歩十分。見舞いに行くと、矢吹氏は一人部屋に居た。浴衣を着て、ベッドに腰かけている。笑顔で迎えてくれたので、「心配しました。腕の一本や二本折れたのかと思ったのに、元気そうですね」と言うと、「その腕が一本無くなったのだよ」と言って、左側の袖をまくった。そこには腕が無かったのだ。

「えっ!どうしたのですか?」と、顔を見ると矢吹氏は、「気が付いたら病院のベッドに寝ていたんだ」と言って、新聞を見せて、「これを兄が持って来てくれたんだ」と手渡された。読んでみると、二十時十分中野駅に入って来た電車の前にホームから男が飛び降り、十メートル引きずられ電車は停車位置に止まった。〝自殺か?〟

「人身事故になっていますが、真相はどうなんですか?」と聞くと、「あの夜は、銀行の顧客と駅前の居酒屋でちょっと飲んで、九時にその店を出たんだ。酔っぱらってはいなかったし、どうしてホームから飛び降りたのか分からないんだ」と深刻な表情になった。「誰かに押されたのでは」と言うと、「そうかな?」と言って目を閉じ、首をひねった。私の帰り際に「義手を付けることになるよ」と言って左腕があったところを指差した。

この事故を吉永氏は知らなかったのだ。「そうだったのか、オレは矢吹さんに悪いことをしてしまった。すぐにでも謝りたい」と言うので、私は「電話をしましょうか、謝るのなら早い方がいい」と言って、十時は過ぎていたが矢吹氏に電話をした。すると矢吹氏は、「これから店に行く」と言って電話を切った。二十分後に矢吹氏は店に現われた。吉永氏は立ち上がり、「知らなかったとはいえ、私の無礼をお許しください」と頭を下げると、矢吹氏は、「とんでもない、私の方が〝ありがとう〟と言いたいのです」と答え、亞然とする吉永氏に、「私は病院の帰りに電車に乗った時、五歳くらいの男の子に、『お母さん、あの人の手が変だよ、ロボットみたい!』と言われ、ショックだった。そばにいた人たちも私の義手を見ていた。あんな恥ずかしい思いは二度としたくない、あれ以来、義手を隠すようになったのです。あの秋川でも隠していたのですが、何人かに気付かれました。ところが、吉永さんは私を五体満足の人間として見てくださいました。だから何も手伝わない私を厳しい目で見ていましたね、それが私は嬉しいのです」と言って、右手を差し出した。吉永氏は小さく頷き、一礼して、その手をしっかりと両手で握った。

暑い夜だった。
                                       【山本晁重朗】

 ある時、ジョナサンに「新しいアイデア料理がありませんね」とメニューを見ながら言われた。

私は、海外旅行をすると、その国の料理を食べ歩き、美味しいと思った料理からヒントを得ると研究し、試食し、チャンピオン風にアレンジする。そしてパートナーの初子に試食をしてもらう。彼女のOKが出ると、メニューに載せている。

タイは、バンコクに在住の友人がいるので馴染のある国だ。最初に出来上がったのが、タイ料理で有名なトムヤムの香辛料を使った豚肉料理だった。それを、〝バンコクポーク〟と命名した。思ったより好評なので、牛肉を使い、〝タイランドビーフ〟に。スパゲッティもトムヤムの味で、ラーメン風にして、〝タイ風メン〟に。バターでソティして、〝スパゲテイド・タイフーン〟などもメニューに載せると、大好評だった。店の近くにあるタイ料理店のシェフが、試食に来て、「こんな美味しい料理はタイにはない!」と驚いていた。

その次は、ケニヤに行った時、ナイロビのレストランで食べた牛肉料理にヒントを得て作った、〝ケニヤビーフ〟も人気があった。「これは、ライオンの肉ですか?」とジョークを言う客もいた。

このようにして、新作料理を創作するのを、よく知っているジョナサンは、私をロンドンに招いてくれた。彼のホームタウンに二日間滞在、ジョナサンの両親と車に乗り、家族ぐるみで名所を観光させてもらった。そして、一流のレストランにも連れて行ってくれた。どの店の料理も美味しいのだが、チャンピオンのメニューに載せるには高級すぎた。ジョナサンは、役に立たなかったと残念がっていたが、彼の好意には感謝している。

ある夜、海外旅行会社に勤めている山田氏が、〝歴史散歩友の会〟のパンフレットを持って来た。その中に、〝キューバ・メキシコ七日間のツアー〟があった。山田氏に「参加しませんか」と誘われた。

〝キューバ・その光と影〟のツアーは十一月十六日十七時四十五分、日本航空で成田空港から出発した。当時、アメリカと国交がないので、バンクーバー経由でメキシコへ行き、一泊して、キューバの首都ハバナに着いた。参加者はリーダーの山田氏を入れて七人。カストロの革命広場、ホセマルティ記念博物館、ヘミングウェイゆかりの地、その他を観光した。因みに、キューバは社会主義国家だが、ハバナの最大の国営キャバレー〝トロピカーナ〟のショーで、セクシャルに踊るストリッパーたちも公務員なのだろうか。

ハバナの最後の夜、山田氏と二人で市街に出た。活気が溢れている大衆酒場があったので入ると、観光客で、ほぼ満席。欧米人の三十代のカップルと相席になった。英語で挨拶をして席に着くと、男性が私の顔を見て、笑いながら、バックからカメラを取り出した。〝キャノン〟だった。それを見て女性が話しかけてきた。「あなたたちは日本人ですね、私たちはドイツから来ました」と言って目礼をした。私も小型のキャノンを携帯していたので、それを見せて話は弾んだ。彼女はビリギットと名乗り、「夫は英語が苦手ですが、ドイツ語は上手です、私よりも」と言って、肩をすぼめた。その夫が、「カメラは一年前に日本を旅行した時に買いました」と言いながら、私たちにレンズを向けて、数回、シャッターを押した。気が付くと、私もシャッターに指が触れ、カメラマンになっていた。四人は意気投合して、深夜まで飲んだ。別れ際に名刺を交換して、「グッドラック」と握手。キューバは治安が良いのでホテルまで歩いて帰った。

翌日、メキシコに直行した。市内車窓観光だった。滞在時間が少なかったので印象に残る出来事はなかったが、キューバでは得られなかった料理のヒントがあった。それはホテルの朝食で食べた玉子料理だった。帰国して早速メニューに載せた。〝オムレッド・メヒコ〟である。これもヒット料理になった。

キューバとメキシコで撮った百四枚の写真を整理していると、一枚の写真に目が止った。ビリギットが笑顔でポーズをとっているショットだ。ムービースターのブロマイドのよう。その写真をA4に伸ばし、手紙を添えて、ビリギットに送った。一カ月もたたない内に礼状と自家製のマーマレードが送られて来た。今までに英国人、米国人、カナダ人と文通をしていたが、物が送られてきたのは初めてだった。この人だったら良きペンパルになると思い、私も手作りの特製ドレッシングを送った。その礼状はすぐに来た。手紙には西ドイツの南の町バックナグの郊外に住み、リンゴ園を所有、冬は道路が凍るほど寒いと書いてあった。私は、〝寒い〟にヒントを得て、ホカロンを送ってみた。ホカロンには驚いたらしい。日本の文化に触れたと次の手紙に書いてあった。年末にはカレンダーが送られて来た。美しい風景の写真が十二枚、大きく印刷されてあり、それらは彼女たちが住む地方の名所だと説明があった。私はこんな素敵な所に妻と行ってみたいと社交辞令で書いた。すると、是非いらっしゃい、私たちが案内しますと誘われた。その時は躊躇したが、その後の文通で、行くことが具体的になった。秋がベストだと記してあったので、ドイツに行くのは十月に決めた。

シュツッガルトの空港に到着すると夫妻が迎えに来てくれていて、ベンツで彼女たちの家に直行した。二人は私たちが持参した土産の甚平と浴衣に袖を通し、「ワンダフル!」と喜んでくれ、ビールで再会の乾杯をした。そして、三階に案内してくれた。そこはホテルの小部屋のようだった。「ここを使って下さい」と言われ、リラックスした。翌日からビリギットが運転する自家用車のベンツで四日間の観光が始まった。

最後の夜は日本から持参したマヨネイズと醤油を使い現地で買ってもらった鳥のもも肉で、チャンピオンの人気料理のチキンソテーを作った。初子は醤油を使い、お清汁を作り、ビリギットはドイツの家庭料理を作り、日独合作パーティーになった。ビールを飲み、イギリスの民謡〝埴生の宿(ホームスイートホーム)〟を日本語とドイツ語で合唱した。

翌朝、ビリギットに「すっかりお世話になりました、滞在費を払います」と言うと、彼女は毅然とした表情で「あなたたちを私が招待したのです。ゲストからお金を頂けません」と、きっぱり言われた。彼女の隣に居るラウスコルブス氏は、笑顔で頷いている。その言葉にドイツ人の気質を感じ、好意に甘えた。

交流は今でも続いている。                          【山本晁重朗】

ある夜、春原氏が店に威勢よく入って来た。「カオサイが日本に来るぞ!」と言いながら、サウスポースタイルで、パンチを打つ真似をした。誰かが、「カオサイは引退したのに何をしに来るの?」と言うと、それを待っていたとばかりに、「渡辺二郎と試合をするのだ!」と答えた。

渡辺二郎は日本拳法四段、大阪の追手門学院大学のキャプテンだった。卒業すると大阪帝拳ジムに入門した。プロテストを難なくパスした拳法家はボクシング界に殴り込みをかけたのだ。その成果はすぐに出た。デビュー戦から連続KO勝ち、十六戦目でWBA世界Jバンタム(現・スーパーフライ)級タイトルをKOで獲得した。そのタイトル(WBA・WBC)を十回防衛し、八六年に引退している。片やカオサイは九三年に引退しているが世界Jバンタム級の王座を十九回も防衛している。

この二人を現役時代に対決させるのがファンの夢だった。その夢がエキシビジョンマッチで実現することになったのだ。

それを伝えに来た春原氏は喫茶店〝ポエム〟の店長だった。〝ポエム〟は、永島慎二の人気漫画「若者たち」の舞台になっている有名店である。春原氏はマニアックなボクシングファンだ。酒は飲めないので、普段は口数は少ないが、ボクシングの話題になると雄弁になる。ある時、『ワールドボクシング』誌の編集長が、「私の助手が欲しいのですが、誰か、いい人いませんか」と言うので、春原氏を紹介した。二人は意気投合し、春原氏は〝ポエム〟を辞めて、ボクシング出版社の社員になってしまった。

カオサイの何回目かの防衛戦だったか忘れたが、バンコクの郊外にあるギャラクシージムでカオサイの公開練習があった。私が取材に行くと、春原氏がリングサイドでカメラを構えているではないか。そっと近づき、背後から肩を叩こうとした時、「晁さん!春原さん!」と声がかかった。振り向くと、そこにテレビカメラを担いでいる横に、友田君が居たのだ。友田君は学生時代にボクシング部に所属していて、当店の常連客だった。その友田君はテレビ東京に就職して、ボクシングの担当者になり、初仕事でバンコクに派遣されていたのだった。この異国で三人が同じ目的で、出会ったのは、まさに〝サプライズ〟である。そんなエピソードもあった。

数日後、春原氏は招待券を二枚持ってきた。チケットには渡辺二郎とカオサイの顔写真が印刷されていて、〝夢の対決〟エキシビジョンマッチと書いてあった。

後楽園ホールは満員だった。選手の控室に行くと、関係者でごった返していた。カオサイはバンテージを巻き、中央でインタビューを受けていたが、何時も彼の隣に居るワイフの由美子さんの姿がなかった。あたりを見わたすと、ひとりポツンと片隅に立っていた。私は、「今日は、お久しぶりです」と声をかけると、由美子さんは私の顔をチラッと見て、「ごめんなさい!私はあなたを知りません」と言って下を向いてしまった。

「バンコクで何回もお会いしている山本です!」

由美子さんは、「でも知らない人です」と言うと、後ろを向いてしまった。

試合は時間通りに始まった。その前に赤コーナーに居るカオサイに由美子さんは大きな花束を贈呈していたが、気のせいか、ぎこちなく見えた。試合は四ラウンドで、三ラウンドはヘッドギアを付け、ラストラウンドはヘッドギアをはずし、素顔を見せてファイトをしている。観衆の声援で期待通りの好ファイトをしているのは分かるが、私には雑音にしか聞こえなかった。それは由美子さんが、〝あなたを知りません〟と言ったのは何故なのだろうか、理解できないからだ。カオサイが経営しているビリヤードに招待された時も、カオサイの運転で弟分のチャナのジムに案内してもらった時も、何時もカオサイの隣に居て、通訳をしてくれていた。そして、〝今度はあなたの店チャンピオンで会いましょう〟と言ってくれた由美子さんが、なぜ、あのような態度をとったのか、カオサイとの間に何かがあったのだろうか。カオサイはリングに上がると〝鬼〟になるが、普段は温厚な人柄で、引退してからも、二人仲良くテレビに出演している人気者であった。そして、私をミスター・ヤマモトと呼び、親しくしてくれた。

翌日、バンコク在住の青島氏に電話をした。由美子さんの昨日の言動を伝えると、「ボクが親しくしている新聞記者に聞いてみます」と言ってくれた。二日後、青島氏から電話があった。

「離婚していました。原因はわかりませんが、由美子さんは数カ月前に大阪の実家に帰ってしまったそうです。由美子さんが東京の試合場に居たのは、カオサイに呼び出されたのではないでしょうか。」

「やはり、国際結婚は難しいですか?」と尋ねると、青島氏は、「難しいと思いますよ。ボクの妻はタイ人なので、それは良く分かります。ボクも東京に帰りたくなった時が何回かありましたから」と答えるので、私は、「由美子さんはしっかり者で、意志の強い人だと思っていたのに、離婚するなんて考えられない」と言うと、青島氏は、「ボクは結婚して十二年になるけど、ボクなりに頑張っています」と話してくれた。

「ところで、昨夜、私の店に電話をしましたか?もしもしと何度も言ったのですが、相手は何も言わないのが気がかりなのです。」

青島氏は、「ボクではありません。それは、もしかすると、〝私はあなたを知りません〟と言った人では?きっとそうですよ!」と言って、青島氏の声は大きくなり、しゃべり続けているのに、私はそっと受話器を置いた。
                                       【山本晁重朗】

 小雨が降る夜だった。ソー君が久々に顔を見せた。ソー・ウィリアムスはシンガポールの留学生で、定食屋の「王将」でアルバイトをしている。日本語、英語、中国語を話せるが、中国語以外は、あまり巧くない。英語はTHの発音が出来ないので、「タンキュー」になる。ブルー・スリーのマニアックなファンで、ブルー・スリーの映画は全部見ていると自慢する。ソー君もカンフーの経験があるので、私にボクシングとカンフーはどっちが強いか!と何回もチャレンジしていたが、実現しなかった。

ソー君は突然言い出した。

「私は阿佐ヶ谷に二年近く住んでいましたが、来週、国に帰ります。タンキューでした。」

居合わせた常連客が、「送別会をやろう」と言うと、「タンキュー、でも時間がありません」と言い、私にシンガポールの住所と電話番号を書いたメモ用紙を手渡し、「晁さん、必ず来て下さい、紹介したい人がいます」と言い、ビールを一本飲んだだけで帰ってしまった。そこに、たまたま海外旅行会社に勤めている小川氏がいて、「バンコク、シンガポールの四泊五日の観光ツアーがあるよ、行ってみたら」と言うのを聞いていた初子が、「バンコクには常連客だった青島さんがタイの女性と結婚して、現地にいるでしょう、会いに行けるじゃない」と言うので、そのトラベルがすぐに決まってしまった。

数日後、来店した、『ワールドボクシング』誌の編集長の前田氏に、「バンコクに行くなら、世界Jバンタム級チャンピオンのカオサイ・ギャラクシーを取材してくれないか」と頼まれた。私は早速、青島氏に手紙を書いた。

バンコクに着くと青島氏に電話を入れた。添乗員に二日間の合間に自由時間をもらい、青島氏にカオサイが所属するギャラクシージムに案内してもらった。カオサイに英語で挨拶をし、名刺を出すと、私の顔を見て、たどたどしい日本語で、「アナタ日本人?私のフィアンセも日本人です」と聞くので、「そうです」と答えると、強持てのボクサーは笑顔になり、私の注文通りのファィティングポーズを撮らせてくれた。取材が終わった時、彼は、「今度私の家に来て、フィアンセを取材して下さい。フィアンセの由美子は日本人に会いたいと言っています」と英語で話し、住所と電話番号を書いた紙をくれた。

次の日、シンガポールの空港に着くと、ソー君が出迎えてくれた。彼の隣に見覚えのある女性がいた。ソー君は、「私の奥さんです」と紹介した。その人は台湾の留学生だったマーさんではないか!マーさんは、ジョナサンが二年前に店に連れて来た女性だ。ジョナサンは、『ジャパンタイムズ』の記者で、都内に住んでいる外国人に会うと店に連れて来る。今までにアメリカ人、ロシア人、アフガニスタン人、カナダ人らを私に紹介してくれたイギリス人である。マーさんは気さくな人で、日本語の発音がセクシーだと言う人もいて、当店のマドンナだった。その彼女が二カ月前に突然、姿を消してしまったのだ。私は思わず、「そうか、ソー君がマーさんを拉致したのか、君は凄い!スーパーマンだ」と言うと、ソー君は、「いいえ、ドラゴンです」と答える。ドラゴンはブルー・スリーの役名である。

数年後の深夜、青島氏とバンコクの野外レストンで飲んでいると、警官に職務質問された。腰につけたピストルを物珍しそうに見ていたからだろう。私が、「カオサイに会いに来たのです」と答えると、怪訝な顔になった。そこで、カオサイと私のツー・ショットの写真を見せた。警官の態度がとたんに変カオサイ&晁さんり、ビールを一本ご馳走してくれて、「何か困ったことが起きたら、ここに連絡しなさい」と、カードまでくれた。カオサイの写真は水戸黄門の印籠のような威力があるのに驚いた。引退してもカオサイの人気は衰えていない。世界Jバンタム級タイトルを十九回の防衛記録を残して引退、皇太子(現国王)の媒酌で日本女性の由美子さんと結婚した。

翌日、バンコクの郊外にあるカオサイの邸宅に電話を入れた。約束の時間より、三十分早く着いてしまった。カオサイは笑顔で迎えてくれて、「私のワイフです」と由美子さんを紹介し、応接間に通された。正面にある飾り棚の中央にチャンピオンベルトが置かれ、そのまわりには数え切れないほどのトロフィーが無造作に置いてあった。カオサイの隣に座り、通訳をしてくれている由美子さんとはこの日が初対面である。写真で見るより遥かに美人だ。眼が大きくて、肌の色は南国の直射日光を拒むかのように白い。スンナリとした脚、背はカオサイより少し高そう。豊かな表情と声優が台本を読むような口調に知性を感じ、とても魅力的だ。そして、流暢なタイ語を話す彼女が、「この一年ぐらい日本語でお話をしていないのです。今日はたくさんおしゃべりをしましょう」と身を乗りだした。

「それでは、カオサイさんとの馴初めを聞かせて下さい。

平成元年四月八日、カオサイは横浜文化体育館で松村謙二の挑戦を受けるために来日した。たまたま、その試合の招待券を手にした由美子さんが、女友達と大阪から観戦に来ていた。試合後、ホテルのティールームで友人とおしゃべりをしていると、突然背後から誰かが話してかけてきた。ナマリのある英語だ。振り返ると、小一時間前、リング上で日本の選手を殴り続けていたタイ人だった。これが、カオサイとの出会いである。由美子さんは、社交辞令でサインを求めたりしているうちに祝勝会に出席するはめになってしまう。会場は、新宿のタイ料理店。そこまで行くマイクロバスの車中で、カオサイは由美子さんの自宅の住所と電話番号を聞き出している。カオサイは帰国すると、ラブコールとラブレターの猛攻撃。その熱意にうたれ、バンコクに行くことにした。一週間の滞在中にカオサイの素朴でやさしい人柄に触れ、生涯を共にする決心をした。

カオサイのプロポーズの言葉は、「ボクには、お金も土地も車もある。無いものは一つだけ、それはワイフです。ボクのワイフになる人は、あなたしかいないのです」だったと。言い終わると、由美子さんはカオサイと目を合わせて笑った。帰り際にご馳走になった手料理を誉めると、由美子さんは、「今度お会いするのは、あなたのお店〝チャンピオン〟にしましょう」と言ってくれた。

その言葉に、〝期待〟して豪邸を後にした。
                                       【山本晁重朗】

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