"チャンピオン"日誌[あの日あの時あの人]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。19年2月より、新たに、「あの日あの時あの人」シリーズを開始。

 常連客たちは、親しくなるとニックネームで呼びあっている。彼らのニックネームを付ける発想がユニークである。下ネタ好きの職業訓練所の先生は、〝エッチラ〟、何時もしょぼくれている東大生は、〝ショボン〟、苗字が坂田なので、「王将」の坂田三吉から命名して、〝さんちゃん〟、フガっと鼻をならして笑うので、〝フガちゃん〟、おごられ上手のオールドミスは、〝パラサイト〟、馬ずらの居酒屋のママは、〝ハイセイコー〟、森を逆さにして、〝リーモ〟、刈屋を逆さにして、〝リヤカー〟、エトセトラ。

 バーのホステスなのに、何時もスッピンの紀子さんは、「私がお化粧すると、〝おばけ〟になっちゃうわよ」と謙遜したのが仇になり、〝ゾンビ〟とニックネームを付けられてしまった。中年のサラリーマンの有田恵二氏は名前が恵二なので、〝デカ長〟、本人は頗る気に入っている。

 ニックネームで呼ばれて怒ったのは、ソンビちゃんだけだった。困った私は彼女に、そっとメモ紙を渡した。それからはニックネームで呼ばれると、笑顔で返事をするようになった。メモ紙には、〝存美〟と書いたのだ。そんなことを知らないイギリス人のエロイズとカナダ人のローリイはゾンビちゃんと呼ぶのを躊躇している。それはホラー映画のゾンビを連想するからだと、言って肩をすぼめた。

 ある時、駅前広場で、有田氏を見かけた。「デカ長!」と声をかけると、立ち止まり、「おう」と返事をした。そこに通りかかった若い警察官二人が直立不動になり、有田氏に向かって敬礼をした。気が付いた有田氏は、あわてて、返礼をしている。私は笑いを堪えていた。

 あの時代は有線放送が、ブームだった。オフィスが店の近くにあった。そこの社長の三井氏は当店の常連である。新曲を売り込みに来た歌手を時々店に連れて来る。これまでに、ロミ・山田、じゅん&ネネ、千昌夫、田中健、TVで見かける歌手たちだった。ある夜、三井氏が二十歳ぐらいの若者を連れて来た。「今度、放送係になった片桐です。よろしく」と常連客に紹介した。

 カウンターの奥で酔いつぶれていた肉屋のタブさんが目を覚まし、片桐君を見て、「社長、今日はピーターを連れて来たのか?」とおやじギャグ。それを耳にした常連客はピーターをそのまま片桐君のニックネームにしてしまった。そこまでは良かったのだが、「社長、こんなガキを連れて来ないで、美空ひばりか越路吹雪を連れて来いよ」と絡んできた。私は見兼ねて、「タブさん、今日は帰って下さい」と言って、嫌がるタブさんを外に出した。そして、店に戻ろうとした時、背後に殺気を感じた。振り向くとタブさんは両手で、私の肩を掴もうとしている。彼の背丈は一八〇センチ、体重は一〇〇キロある。学生時代、アマチュア相撲のチャンピオンだったとうそぶいている。捕まったら投げ飛ばされる!私は咄嗟に彼の両腕を払い、その手で胸を突っぱねた。するとタブさんは、バランスを崩し、後ろにばったりと倒れ、後頭部をしこたま打ってしまった。その音を聞いた常連たちが店から飛び出して来た。誰かが叫んだ。「晁さん凄い!ヘビー級の男をノックアウトしてしまった。決めたパンチは右ストレートですか、左フックですか?」と大騒ぎ。私が「胸を押しただけ」と言っても、誰も信用してくれない。当のタブさんは白目をむいて倒れたまま、びくともしない。私は狼狽した。もし、死んでしまったら、目撃者は誰もいない。この状況では殺人容疑で逮捕されてしまう。その時、「晁さんゴメン」と小さな声がかすかに聞こえた。タブさんは生きていたのだ。静かに起きあがり、野次馬にも一礼すると、覚束無い足取りで歩き出した。私は胸をなでおろし、タブさんが釣り堀の角を曲るまで見送っていた。

 ある夜、中学生時代に同級生だった篠原君が初老の紳士を連れて来た。「ヤマチョーさん、中村先生です」と紹介された。私は先生が店に入って来た時に気が付いていた。精悍な眼光は変っていなかった。先生は、「ヤマチョー君、久しぶり」と言って会釈した。

 中村一氏は、阿佐谷中学の数学の教師だった。厳格な人で、「今の若者は覇気がない。私が叩き直してやる」が口癖だった。体罰の奨励者で、戦争映画に出てくる鬼軍曹を彷彿させた。私は授業中に漫画をノートに描いていたのを見つかり、ゲンコツを頭にもらったことがある。先生は学生を問わず、一番恐れられている存在だった。

 あの日あの時あの昼休み、クラスメイトに、漫画を黒板に描いてくれとせがまれた。彼らの注文通り手塚治虫のキャラクターをボードに描きまくった。そこに中村先生が入って来た。みんなは慌てて席に着いたが、私は黒板の前に立ちすくんでしまった。「誰だ、これを描いたのは!」と言って絵をじっと見つめている。消そうとすると、「このままでいい、今日は黒板を使わずに授業をする」。観念して下を向いている私をチラッと見ただけでお咎めは無かった。このエピソードは学年中に伝わった。その話を篠原君がすると、先生は、「今でもあの時のことは覚えています。上手な絵だった。あの漫画を見てヤマチョー君の将来が見えたと思った。だけど、漫画家にならなかったのですね」と言って絵を描くジェスチャーをした。そこに篠原君が口をはさんだ。

「あの事件は山本君よりも、あの情況で先生が取った言動が絶賛され、話題になったのです。そして生徒たちの先生を見る目が変わったのです。」

先生は、「そんなことがあったのですか」と、笑みを浮かべて、「今だから言えますが、山本君のニックネームは私が付けたのです。ヤマモトチョウジュウロウは、長すぎるので短くしてヤマチョーに」。

三人は、顔を見合せて笑った。

あの日は雨だった。コーヒーを飲みながらTVを見ていると、初子が、「晁さん、これを見て」と朝刊の見出しを指差した。記事には、東日本大震災による天井崩落事故で多数の死傷者を出し、閉館を余儀なくされた九段会館は、昭和九年に軍人会館として建設され、昭和十一年の二・二六事件では、戒厳令司令部が置かれたという歴史をもつ会館だ。戦後はGHQに接収され、昭和三十二年に日本政府に返還された。同年、政府は日本遺族会に無償で貸し付け、九段会館と命名して九月一日に再出発した。

従業員は特別な技術職を除き、戦没者遺族を採用した。営業部長、総務部長、経理部長等の重役は陸軍、海軍の元将校が勤め、平の従業員は復員兵、未亡人、遺児等であった。因みに激戦地硫黄島の生還者もいた。と、記載されている。

その会館に、私は先輩の紹介で洋食部の料理人として、採用されたのだった。初子は、それを思い出して、私に記事を見せたのだ。

開館初期は、全国にある遺族会の高齢者の方々が送迎バスで来館、靖国神社を参拝し、宿泊するホテルであった。宿泊者が使用する風呂場があり、午後八時を過ぎると従業員も入浴が出来た。ある晩、私が湯船につかっていると、五十代の男性が入ってきた。私に笑顔で接し、「どんな仕事をしているのですか?待遇はどう?」などと世間話をするように聞いてくる。洗い場に並んで坐したので、「おじさん、背中を流しましょう」と言うと、年齢を聞かれ、「二十歳です」と答えた。すると男性は、「その年なら戦争中は最前線で戦っている若者だ、そんな人に背中を流してもらえない」と断るので、「僕は毎日、調理場で俎板を洗っています。おじさんの背中も同じようなものです」と言い、手拭いで背中をこすった。

十月一日から結婚式場、劇場、宿泊施設など全館が営業を開始する。

その当日の早朝、大ホールに従業員三百二十人を集め、事務局長徳永正利の挨拶があった。その人は、あのおじさんではないか!翌日、局長室に風呂での無礼を謝罪に行った。局長は、「君は戦死した息子と同じ年なのです。裸の付き合いをした君を忘れない」と力強く手を握ってくれた。

それから二年後、徳永氏は遺族会の推薦で参院選に出馬した。私は五年間勤めた会館を退職し、数年後、結婚披露宴を、古巣の会館で催した。その時、大きな花束が届いた。贈り主は、国交大臣徳永正利であった。
                                       【山本晁重朗】

 ある朝、「『東京新聞』にチャンピオンの記事が載っていますよ」と、まりさんから電話があった。ポストに新聞を取りに行き、テーブルの上にひろげ、ページをめくった。古びたビルの一角にあるチャンピオンの写真は小さいが、カラー刷りなので、すぐに分かった。

 記事は、〝私の東京物語〟のタイトルで、青柳いづみこさんのエッセイだった。

 その内容は――、「阿佐谷南口の川端通りには、元ボクサーが経営するレストランチャンピオンの二階に、〝ランボー〟という名物バーがある。カウンターだけの店で、丸いスツールには割れせんべいのように、ひびがはいっていた。寡黙のおやっさんが一人でやっていて、ボロボロのジャケットから出したLPレコードを無造作にかけ、カクテルはみんな二百八十円。つまみは電気コンロであぶったスルメで、マヨネイズをつけていただく」であった。その通りである。それに付け加えると、おやっさんは口髭と顎鬚を生やした通称〝ほりさん〟と呼ばれている中年の男性である。ちなみに店名の〝ランボー〟はフランスの詩人アルチュール・ランボーから命名している。青柳さんはおやっさんと書いているが風貌は、色白で痩せ形。若い頃はイケメンだったと思う。その面影は今でもある。

 ランボーはチャンピオンがレストランに改築した時、家主の今井重幸氏が、二階にある寝室と居間を改築して出来た店で、ランボーのほかに同じスペイスの店と共同トイレがある。

 ほりさんはランボーを開店する前は駅の裏にあった小さなスナックの雇われマスターだった。その店の常連客の今井氏にすすめられて、バーをオーブンしたのである。私も〝ホリチャン〟のスナックの常連客だったので、親しい付き合いがあった。ホリチャンもスナックのマスターの時代からチャンピオンの常連であったが、異色の存在だった。それはボクシングファンで映画ファンでもなかったからだ。作曲家でもある今井先生はほりさんは詩人だと言っている。言われてみれば、そんな雰囲気はあるが、店内にはそれを裏づけるものは見当たらない。

 一番街を突き当たりまで行って左に曲ったところに、居酒屋の〝だいこん屋〟がある。マスターの松本純氏は私と同年輩で、若い頃は捕鯨船に乗り、太平洋を航海した荒くれ男だったという。それを象徴するかのように店の片隅に鯨のペニスが立掛てある。昼間、スーパーで買い物をしている時、よく出くわすが、いつも大きな下駄をはいている。電車の中で見かけた時も、スーツを着てネクタイをしめていたが足元を見ると、いつもの下駄だった。そのマスターは俳人であり、俳句の著書もある。エッセイも書いている。

 ランボーは伝説の店だ。壁に貼られた映画のポスターが。古いLPレコードからはブラームスが流れ、洋酒の瓶が時を刻みながらズラリと並んでいる。タイムスリップし、時間が止ったようなアナログな雰囲気はこたえられない。堀さんと言う詩人のようなマスターの店だ。と、書いている。

 漫画家永島慎二の著書に、『怪人ぐらいだあ』がある。怪人、変人を書いたエッセイで、その中に、〝ホリさん〟と知り合って十何年になろうとしているのにホリさんのことをあまり知らない。知っているならば、ランボーの下のキッチンチャンピオンのマスター、元ボクサーのチョウさんのことの方が、ヨホドよく知っている。ホリさんは、〝とうめいな恥ずかしさの風に吹かれて〟のような男で、詩を書く人か、小説なんぞ書いている人か、それとも何もしない人なのか私には分からない。と、書いている。

 永島慎二は阿佐谷在住の漫画家で、おもな作品は、『柔道一直線』、『漫画家残酷物語』、『フーテン』、阿佐谷の街を舞台にした『若者たち』がある。永島氏は当店の常連でもあり、『若者たち』のマンガのストーリーの中にチャンピオンが描かれたこともある。ボクシングファンで、ファイティング原田や海老原博幸の試合を話題にしていた。

 ある時、ホリチャンと土屋春一さんがカウンターで隣り合わせになったことがある。珍しくホリチャンが春さんに話しかけている。「ひとつ聞いていいですか?」と念をおしてから、「パンチドランカーってどんな症状になるのですか?」と質問した。ぺちゃんこの鼻をこすりながら、元プロボクサーの春さんは、自分の体験を語った。

 土屋春一はバンタム級の選手だった。東日本新人王戦で、KO率四割のハードパンチャー山口鉄弥と対戦した。初回からフルラウンド、山口選手の強打を浴びていたが、一度もダウンはしなかった。終了のゴングが鳴り、リングを下りた時の顔は腫れて変形していた。

 土屋春一の本職は、左官屋である。一日だけ休んで翌日から現場に出て仕事をした。ところが、壁にセメントをぬっていたのに、タイムスリップしたのか、気がつくと、仲間と弁当を食べている。次に気がついた時は風呂に入っていた。ところどころの記憶が抜けているのだ。そんな症状が一週間も続いた。これが、〝パンチドランカー〟なのかと思ったら恐くなってボクシングは止めた。

 ホリチャンは、春さんの顔をじっと見つめながら聞いていたが、「ありがとう」と言って店を出て行った。

 時計の針が三時をまわり、後かたづけをしているとホリチャンが入って来た。「晁さんに頼みたいことがあるので、明日の昼間アパートに来てくれませんか」と言うので、私は「いいですよ明日二時頃、伺います」と頷いた。

 昨夜、手渡された地図を見ながらアパートに向った。アパートは店から徒歩十分ぐらいの住宅街の片隅にある古い二階建てだった。二号室のドアには小さなカードが張ってあって、〝堀部純一〟と書いてある。誰かにもらった名刺の裏を使ったのだろう。私は気が付くと、その表札を凝視していた。それは誰にも知られていないホリチャンのフルネームが書いてあったからだ。ホリチャンは私の気配を感じたのかドアを開けた。粗末な六畳間だった。窓際の左側に机と椅子があった。机の上には灰皿と封を切ったタバコが、置いてあるだけで、私が想像していた、分厚い書物や筆記用具は見あたらなかった。部屋の中央に小さなちゃぶ台が置いてある。灰皿とサッポロビールが一本と、グラスが二つあった。ホリチャンはこの部屋に十年以上も住んでいると言っているが、ここには生活の匂いがしない。私が来るので、掃除をして、見られたくないものをかたづけてしまったのだろうか。それにしてもランボーの店内の雰囲気とはあまりにも違うので、立ったまま、部屋の中を見わたした。ランボーの店内と同じなのは、タバコの煙が霞のように漂っているだけだ。ホリチャンはヘビースモーカーだった。三、四本をたて続けに吸っている。ホリチャンは私がビールを飲み干すのを待って本題に入った。

 十日前、旅行会社の小川さんにツアーを組むのに定員が一人たりないので、格安にするからヨーロッパ旅行に行きませんか、と誘われた。ヨーロッパ旅行は子供の頃からの夢だったので、チャンスと思いメンバーに入れてもらった。だが、こんな小さな店の経営者が、ヨーロッパ旅行をするほど儲かっているのかと思われるのが嫌なので、常連客には一週間、里帰りをしていることにしてもらいたいと注文を付けた。ところが小川さんは酔っぱらって、「ほりさんをヨーロッパに連れて行くんだ」と親しい常連客二、三人にしゃべってしまった。その客たちに口止めはしたのだが、彼らは密かに餞別をくれたのだ。三日前、店を閉めて帰る時、階段で足を踏み外して下まで滑り落ちてしまった。その時、後頭部をしこたま打ってしまい、出血は無かったが、目まいがして、暫く立ち上がれなかった。アパートに帰り、氷で頭を冷やして寝た。朝九時に起きて、河北病院に向かったのだが、いきなり、「ほりさん何処に行くの」と今井先生に声をかけられた時、ホリチャンは駅のホームに立っていた。そこに来た記憶がないのだ。凄いショックだった。そして恐くなった。もし旅行中に、こんな事が起きたら、土屋春一さんと同じような事が起きたら、ツアーのメンバーに迷惑がかかる。ホリチャンは即座に小川さんの会社に電話を入れた。小川さんは納得して、旅行はキャンセルにしてくれたのだが、問題は常連客だった。餞別はもらっているし、他の客もうすうす知っているようだ。中止にした理由を、どのように説明すればいいのか、パンチドランカーになったなんて言いたくない。小川さんと相談した結果、旅行は予定通りに参加することにして、ヨーロッパ旅行に関する資料はアパートに送ってくれることになった。そして出発日の十月五日から七日間は、アパートからは出ないこと、人に見られないことが条件であった。そこで私が選ばれたのである。それは昼間、アパートにコンビニの弁当、その他の注文されたものを密かに届ける役目だった。

 十月五日、ランボーのドアに「十月五日から十二日まで里帰りをするので休みます」と張り紙がしてあった。私が毎日二時少し前に外出するので初子は不審に思っていたが、「散歩」と言ってごまかした。妻にも内緒にしてある。注文されたものを持ってアパートに行くと、ホリチャンは、ちゃぶ台の上にヨーロッパの地図をひろげていた。旅行の予定表を見ながら、「今はこのへんかな」とパリを指差している。私はそんなホリチャンを見て、毎日こんなことをしているのかと思うとタバコの煙が目に染みた。

 十月十三日、ホリチャンは八日ぶりに看板のスイッチを入れた。その日、ホリチャンは客にどんな対応をしたのかは知らない。

 それから一週間後、喫茶店ポエムに呼び出され、ホリチャンは無地の封筒を「お礼い」と言って私の前に置いた。「それで、どうでした」と聞くと、ホリチャンは、「餞別をくれた人たちには、小川さんがパリで買って来てくれたおみやげを、そっとわたしただけで、いつものランボーでした」と言った。二人の話がとぎれた時、「昨日、ビデオで見たんだけど、あれはやっぱり八百長だったね、真剣勝負じゃない」と隣の若者の声が聞えてきた。「アリは猪木に騙されたんだ、観客もなッ!」とつづいた。彼らが話題にしているのは、昭和五十一年六月二十六日にプロボクサーとプロレスラーが、日本武道館で対決した〝世紀の凡戦〟と言われている、いわく付きの試合だった。格闘技に興味がないはずのホリチャンが聞き耳をたてている。彼らの会話は偶然とはいえ、ホリチャンにとって、当て付けの皮肉に聞こえたのだろうか。私はそんなホリチャンに気を使い、〝異種格闘技(モハメド・アリVSアントニオ猪木)〟の疑惑についての説明をした。それにしても、元号が平成に変わっても、語り継がれているのには驚いた。そこで、あまり知られていないエピソードを話した。

 「あの試合の三人の審判員の中に往年の人気レフリーの遠山甲がいました。彼は天皇陛下の学習時代の盟友だった。お忍びで銀座によく飲みに行ったそうです。」

私は、席を立ちながら、「天皇陛下は、お忍びで遠山さんと銀座に飲みに行ったのを今でも覚えているのだろうか」と呟くと、堀部純一も立ち上がり、何時ものホリチャンの顔になった。
                                       【山本晁重朗】

 常連客の職業は、バラエティに富んでいる。美容師、銀行員、作家、映画監督、役者、スポーツジャーナリストなどなど。大学生もいる。人数の多い順からいくと、早稲田、法政、上智、東大となる。彼らは職種が違うので思想は異なっているが、共通しているものは、ボクシングファンであり、映画ファンでもある。根っからのファンであった人もいるが、当店で感化された人もいる。
 ある夜、見知らぬ青年が笑顔で覗き込むようにして店に入って来た。その表情は、「僕を知っているでしょう?」と言いたげだった。私は困惑したが、直後に入って来た連れが、「元日本バンタム級チャンピオンの小林智昭君です」と紹介してくれた。二人は、カウンターに座りビールを注文した。それが小林氏との初対面だった。
 人気絶頂の日本バンタム級王者、高橋直人を打ち合いに引き込み、壮烈な殴り合いで、判定勝ち。タイトルを奪取した試合が思い出される。試合は、TVで観戦したのだが、その小林選手と目の前にいる小林氏が結びつかない。人なつこく温厚な人物だった。
 韓国で世界タイトルに挑みKO負け、目の異常を訴え、網膜剥離と診断され、未練を残して引退した。
 小林氏と私は、どちらともなくボクシングの話になってしまったが、その日を機に、彼は時々、店に顔を見せてくれるようになった。スポーツジャーナリストの二宮清純氏とも当店で知り合い親密になった。
 平成五年一月二十日の夜、二宮氏から小林氏の急死を電話で知らされた。関係者の話を総合してみると、小林氏は、レースカーの練習場で車を壁に激突、車は大破したが、外に放り出された小林氏は、すくっと起き上がり、「大丈夫だ」と手を横に振った。外傷は無かったので救急車は呼ばず、友人の車で近くの病院に行った。そこでも、「僕は大丈夫」と言い続け、事故当時の状況を看護婦に話していたが、急に顔色が悪くなり、その場に倒れてしまった。肺に折れた肋骨が刺さっていて内出血を起こし、緊急治療室に運ばれた時は、すでに手遅れだった。
 そんな容体になっていたのだから、かなりの苦痛があったに違いない。それを元日本王者のプライドとボクサーの習性が、痛みを我慢させてしまったのだろうか。小林氏はボクサーのまま死去してしまったように思えてならない。
 平成十二年一月二十日、二宮氏が発起人になって、小林氏の七回忌追悼の会が当店で、行われた。小林氏の母、ちづ子さんが、長野県から招かれ、元バンタム級王者、高橋直人氏、元Jライト級王者、赤城武幸氏ら、小林氏とゆかりのある人が大勢集まり、故人を偲び、和やかなひとときを過ごした。享年二十八歳だった。
 この追悼の会の発起人、二宮清純氏は、スポーツ紙や流通紙の記者を経て、フリーのジャーナリストとして独立。著書に『勝者の思考法』、『プロ野球衝撃の昭和史』などがあり、TVにも出演して知名人と対談をしているスポーツ評論家でもある。
 当店が購読している『東京新聞』に、「スホーツが呼んでいる」を連載している藤島大氏のコラムには、〝いつもの酒場〟として洋食兼酒場チャンピオンが時々登場する。藤島氏は二宮氏と同年輩。当店で偶然、対面したことがある。その時の二人の対談(?)は、録音しておきたかったぐらい奇抜な内容だった。藤島氏もスポーツ紙の記者を経て、スポーツジャーナリストとして独立。雑誌、新聞、CS放送でラグビーの解説者として活躍。著書に、『キャンバスの匂い』、ラグビー小説『北風』がある。
 ある夜、ボクシング誌の編集長の前田衷氏から電話があった。「藤島大さんはチャンピオンの常連だと聞いたのですが、電話番号を教えて下さい」と。タイミングの良いことに、藤島氏はカウンターで飲んでいたのだ。「大チャン、前田衷さんから電話」と言うと、首をかしげているので二人は面識がなかったのかと?。だが、そこは同じ業界の人間、話はすぐについたようだ。『ボクシング・ワールド』の新年号から、藤島氏の「キャンバスの匂い」の連載が始まった。
 昭和四十二年、店を改築して間もない頃、共同通信に勤務する津江章二氏が、「『ボクシングマガジン』の編集長です」と言って、色白の青年を紹介してくれた。その人が前田衷氏だった。彼は二宮氏らよりひと回り年上である。昭和五十七年に、『ワールド・ボクシング』の創刊に参加。その後、『ボクシング・ワールド』、『ボクシング・ビート』の編集長を歴任。ちなみに創刊号から十年間、「我らTVファン」のタイトルで、私のコラムを連載してくれた編集長でもある。昭和四十九年の秋、ザイール(コンゴ民主共和国)の首都、キンシャサでWBA・WBC統一世界ヘビー級タイトルマッチ、〝モハメド・アリVSジョージ・フォアマン〟の試合があった。このファイトを現場で取材した日本人は前田氏だけである。ボクシング界最大の伝説となった、この試合は世界中でTV放映された。前田氏は、その試合をリングサイドで観戦。そこで書き上げた記事は、臨場感と迫力があり、高く評価されている。
 ところで、もし、このベテランジャーナリスト三人が一同に顔を合せ、〝本音〟で、世界のボクシング界をテーマにしてディスカッションをしたら、どんな議論が展開されるのか想像しがたい。
 余談になるが、『キンサシャの奇跡』とタイトルを付けたアリの試合がビデオになっていると聞いたので、ビデオ屋に行ったが無かった。店員が、「『ロッキー』ならあります」と言うので、それを借りた。『ロッキー』のビデオは自宅の指定席で観戦した。
 真赤なグローブが空を切る。右アッパー、左フックが炸裂すると、血と汗が飛び散った。レフリーの「ダウン!」の宣告も歓声に消されてしまう。顔が腫れあがり、変形し、立っているのがやっと。それでも必死に殴り合う。これが、『ロッキー』の試合のシーンだ。いままでに、『チャンピオン』、『罠』、『四角いジャングル』、『殴られる男』、『傷だらけの栄光』などアメリカのボクシング映画が上映された。だが、そのストーリーはギャングがらみの八百長試合。そして主人公の死、と陰湿なものばかりだった。
 ところが、シルベスター・スタローンが、『ロッキー』で見事にドラマチックなアクション映画に変えてしまった。内容は世界ヘビー級王者だったモハメド・アリが無名選手のチャック・ウエプナーに挑戦者のチャンスを与えた試合をモチーフにして制作されたものだ。
 スタローンのボクサー役は本物以上だった。彼は元アメリカンフットボールの選手で、ボクシングの経験はない。すさまじい打ち合いと強烈なダウンシーンは、すべて演技である。もちろん、強烈なパンチは一発も当てていない。それを音響効果と映像テクニックで表現するのだから、映画はまさにマジックである。日本のボクシング映画はヒットしないというジンクスがあったが、それを赤井英和主演の『どついたるねん』が見事に破った。その監督が調子づいて、現役のボクサーを起用し、『鉄拳』を撮ったが大失敗。
 数年前にイギリスで試合中に女性がリングに駆け上がり、打ちまくっている選手の頭をハイヒールで殴り、グロッキーになっている息子を助けてしまう珍事があった。
 ある日あの時、後楽園ホールで、某選手がコーナーに追い込まれ、ダウン寸前のピンチに陥っているシーンを見た。セコンドが見かねてタオルを投入しようと立ち上がった。その時、グッロキーの選手とセコンドの視線が空中でビシッとぶつかった。と、セコンドは小さく頷き、タオルを引っ込めてしまった。その直後、枯木のように倒れたのは優勢だった対戦者だった。鮮やかな逆転KO劇である。
 某選手とセコンドは、あの短い視線の交錯の中で何を語り合ったのだろうか。ボクシングは台本のないドラマである。
 ――と、カウンターで雑談をしている常連の中に割り込んで、一気にしゃべった。すると頷きながら聞いていた美容師の上野さんに、「晁さん、何時から評論家になったの!」と揶揄された。                                    
                                       
                                       【山本晁重朗】

 ある夜、松田氏が私の前に立ち、店内を見まわした。そして何も言わずに外に出て行った。数十分後に店にもどり、「晁さんこの店も開店してから何年になる?」と聞かれて、「二月の十一日で三年になります」と答えると、松田氏はうなずき「外から、この物件を見ると隣りの劇団アルスノヴァの事務所は使われていないようだね。この店と事務所は壁で仕切られているだけだから壁を取り外せば店は広げられるよ」と言われた。
 「私もそれを考えていたのです」

翌日、家主の承諾を得に行った。事が決れば話は早い。松田氏は建築会社の社長だ。一週間で店は改築された。カウンターはそのまま残して、四人掛けのテーブルを二台置き、今までの倍の十六席になった。〝スナックチャンピンオン〟の看板を外し、〝レストランチャンピオン〟の看板を掲げた。今までは酒のつまみ程度の料理しかメニューになかったが、これからは銀座のスエヒロ、九段会館の洋食部で修業した腕を発揮出来る。料理の種類を増やし、メニューも書いた。新装開店祝いのパーティーは常連客を招待した。店内ははち切れんばかりの熱気があり、「おめでとう」の声で盛り上がった。「テーブル席があるので、家族と来れる」と言う人が多かったが、「前の雰囲気が好きだったのに」と批判的な人も何人かいた。翌日から一週間ぐらいは常連客が、友人や家族を連れて来て食事をしていたが、新規の客は少なかった。私はこのままでは駄目だ、何とかしなくてはと思っているとパートナーの初子が、    「ポークカツとハンバーグの定食を出したら」とアイデアを提供、「よしやってみよう!」と私は早速、外に〝定食あります。ライス、スープ付、五百円〟の張り紙を出した。

 定食を注文する客は何人かいた。ある時、バーのマスターが店のホステスを連れて来店、定食を注文した。出された料理を見て、「定食に付くのはスープじゃない、みそ汁だよ」と言われ、ショックだった。当店は洋食屋なのだ、みそ汁を付けるのには抵抗があった。だが、客がそれを求めているのなら、出そう。そこで、洋食屋らしいみそ汁を作ろうと考え、みそ汁の〝実〟にトマト、キュウリ、生の玉ねぎを小さく切り、沸騰したみそ汁のお椀に浮かした。味噌の味にトマトの酸味が調和し、微妙な旨味を出している。私はこれぞ洋食のみそ汁だと思った。このみそ汁はバーのホステスの口コミでなどで評判になり、みそ汁だけ注文する客もいた。注意しなくてはならないのは、一人分ずつ作るので、ものすごく熱い!

 〝当店のみそ汁は熱いので、一気飲みはお断わり〟と張り紙をした。

 それを無視して粋がって飲んだ中年の男性が、熱さに耐えきれず、口から吐き出し、お椀を膝の上にひっくり返したことがあった。そして男の大事なところを火傷してしまった。

 ある夜、若い女性が定食を食べながら、「このみそ汁のことを記事に書いていいですか」と言うので、「どうぞ」と答えると、名刺をくれた。『週刊女性自身』のライターだった。その女性が一週間後、記事が載っている雑誌を持って来た。〝元プロボクサーのマスターと奥様のふたりで経営するチャンピオンのみそ汁は〟の見出しで、みそ汁にまつわるエピソードの記事であった。その二日後、スポーツ誌の記者が来て、いろいろと取材をしていった。後に、郵送してくれた月刊誌を読むと、みそ汁ではなく、元プロボクサーだった私に興味があったようだ。主役はみそ汁ではない!元プロボクサーの私になっていた。

 ともあれ、週刊誌の記事が宣伝となり、食事の客が増え、九時頃まで満席。その後が常連客の時間となり、深夜はバーのホステスが客と夜食をする店になり、それは正にスポーツライターの藤島大氏がコラムに書く〝洋食兼酒場〟になった。

 みそ汁でマスコミの波に乗ったチャンピオンはTVに出演した。私が半畳ぐらいしかない狭い調理場で仕事をしている動きはスピーディーでシャドウボクシングをしているみたいだと言われ、カメラはその姿を狙っている。ボクシングシューズを履いて下さいと注文をつけたTV局があり、店の外に出て、女子アナにシャドウボクシングを教えるシーンを撮っていたTV局もあった。そこまでくると、私の存在はピエロのようだ。そんなTVを見た若いボクシングファンたちが来店。彼らの要望で、〝青空ボクシングジム〟を始める破目になってしまった。私の住まいの近くに空き地があるので、そこを練習場にして、毎週日曜日の午後三時から二時間、指導をした。練習生になれる条件はチャンピオンの客。入門者は二人から始まり、六人になったところで締め切った。グローブはタイ在住の青島氏に頼んで送ってもらった。一年後、その中の三人が石橋ジム、大川ジム、ヨネクラジムに入門してプロボクサーになっている。後に、〝殴られ屋〟になった高橋君はその中の一人である。

 ある日、青空ジムを、格闘技専門誌〝Kマガジン〟が取材に来た。トレーニングシーンを写真入りで載せてくれた。その雑誌を読んだのか、フジTVが店に取材に来た。青空ジムの練習生の話を聞きたいと言うので、高橋君に来てもらった。彼は、奥さんと三歳の娘を連れて来た。女子アナの質問に、高橋君は、「青空ジムの練習が終わった後、ここで食べる料理が楽しみなのです。何を食べてもおいしいから」と言ったら、隣にいる奥さんが、「この店の料理はオリジナルで、よその店では食べられません、私はいつもチキンソテーです」と言った。近くにいた客がつぎつぎに「ボクはタイランドビーフ」、「私はバンコックポーク」、「スパゲッティのラーメン風のチャンピオンメンもうまい」と言って、料理談義になってしまった。これがきっかけとなり、TV局のスタジオで、私は料理を作ることになった。

 それは、五日後の日曜日、午前十時放映の料理番組であった。タイトルは、〝街のシェフが作る料理〟だったと思う。当日の朝七時にTV局の車が迎えに来ることになった。当店は深夜営業なので、三時に閉店して、後片付けをすると四時になる。TV局に行く準備をすると、すぐに七時になってしまう。そのままTV局に行けば、本番まで、二十時間以上も起きていることになるが「大丈夫なの」と、その時、初子が心配してくれて、「私があなたの助手としてついて行きます!」と気合を入れてくれた。

 私は、「よし頑張るぞ!」と言って、ファイティングポーズをとった。

 TV局から電話があり、調理の道具は一式揃っているので、料理をする材料だけ持って来て下さい、と指示された。だが、私はいつもの使い慣れたフライパンと包丁と菜箸を持って行くことにした。

 七時に迎えの車が店の前に止った。道具を持って、初子と車に乗ろうとすると、「助手はいりません」と断られてしまった。

 TV局に着くとスタジオに通された。そこには調理台とガス台があるこじんまりしたキッチンのセットがあった。ディレクターが「あなたの助手を務める永さんです」と若い女性を紹介してくれた。永六輔さんの娘さんだった。永さんに、「この番組は、ぶっつけ本番の生放映なので撮り直しはありません。よろしくお願いします。先週出演したシェフは緊張しすぎて、放映中に指を包丁で切ってしまいました。俎板が血だらけになり、スタッフが慌ててコマーシャルを流しました。山本さんは場慣れしているので心配はないと思いますが」と言われた。

その時、睡眠不足の私は、〝ドキッ〟とした。

TV局の料理番組を見ると、あらかじめ準備が出来ていて、スムーズに料理が仕上がっている。私の場合は異なっていた。永さんが「今日のシェフはチキンソテーとタイランドビーフの二品を作ります」と私を紹介すると、ゴングが鳴った。ガスに火を付けるところから始まり、フライパンを乗せ、鶏肉の骨を取り、肉を切り、塩胡椒をする、それをフライパンにのせる。私の横に立っている永さんが、いろいろと質問をしてくる。それに答えながら手を進めていく。出来上がった料理を調理台にある銀ぼんにのせ、「出来ました」と言うとゴングが鳴った。そこでコマーシャル。ディレクターが「すごい、ジャスト三分です。この調子で次の料理を作って下さい」と言った。

次の料理のタイランドビーフは、タイの香辛料トムヤムを使ったオリジナルである。これもゴングで終了した。

スタジオの中央にカウンターのセットがある。そこに料理通の知名人が三人いた。出来上がった料理が運ばれ、彼らは試食した。そして異口同音で「美味い」と誉めてくれた。その中の一人が「手さばきが良くて、動きにスピードがあるのには驚きました。それはボクサーだったからですか?」と質問されたので、「そうかもしれません。料理とボクシングが共通しているのは、センスとスピードです。従って、〝料理は瞬間芸術〟だと私は思っています」と答えた。

すると、永さんから「山本さんにとってボクシングとは何ですか?」と聞かれた。

「ボクシングは私の人生です」

スタッフに「おつかれさん」と肩をたたかれ、私の仕事は無事に終った。地下の駐車場で待っていた車に乗ると、行き成り睡魔に襲われた。

 

「チャンピオンです」と運転手に声をかけられ目を覚ますと店の前だった。  

                                      【山本晁重朗】

 ある月曜日の夜、店を開けると同時に白い杖を持った青年が入って来た。

 「太福のマスターに紹介されました。」

 青年はカウンターの椅子に座る前に、「私の名前は尾崎紀美彦です。歌手の尾崎紀世彦さんと美と世の字が違うだけです」といった。

 太福は定食屋で、当店のライバル店である。数日前にマスターから電話があった。

「尾崎さんは毎晩、定食を食べに来る常連客です。尾崎さんに『定休日の月曜日は食べに行くところがない、コンビニの弁当を買い、家で食べている』、そんな愚痴をこぼされて、その日は“チャンピオン”に行きなさいと紹介しました。尾崎さんは目がパッチリと開いていますが、“盲人”です。」

尾崎さんはビールを注文した。気になるので見ていると、グラスが置いてある位置をたしかめてからビールをゆっくりと注いだ。それは健常者と変わらなかった。だが彼の視線の先は別のところにあった。尾崎さんはその日から毎週月曜日に来店する常連客になった。

尾崎さんは八王子生まれの三十一歳。中学生の時は卓球部のキャプテン、高校生では野球部のレギュラー、スポーツマンである。ある時、試合中にボールが顔面を直撃し、それが原因で失明してしまった。高校を特例で卒業すると、アメリカに留学、カイロプラクティックを学び、マッサージ師になった。

二十三歳になった時、親の援助で、阿佐谷北の日大二高の近くに一軒家を借りて、“マッサージ尾崎”の看板を掲げた。尾崎さんは健常者と変らない好青年なので女性の客が多い。予約制になっている。私が電話で予約をしてマッサージをしてもらっている時、尾崎さんが障害者の卓球大会に出場した時の話をしてくれた。三試合勝ち抜き、優勝したと言うので、目が見えないのに、どのようにして卓球が出来るのか聞くと、笑いながら話してくれた。

「私には三年間の卓球のキャリアがあります。玉がラケットに当る音、卓球台に落ちた時の音、観客の声などで、玉の位置を判断するのです。私の頭の中には対戦者と玉と卓球台があるのです。あの座頭市が相手の殺気を感じ取り、立ち回るのと同じです。審判員にも、それが判ってもらえなかった。『尾崎君は目が見えるのでしょう』と言われ、医師の証明書を見せるまで、優勝を認められなかった。」

チャンピオンフレンド会の忘年会は、毎年十二月の第二土曜日、午後七時から十二時まで、隣のスタジオを借りて催しをする。五十人から六十人集まる。呼び物は隠し芸大会である。歌、踊り、ギター演尾崎紀美彦氏奏、女装してフラメンコ、プロボクサーを相手にする女性のスパーリング、エトセトラ。そこに尾崎さんが出場したのだ。司会者が、「尾崎さんはマッサージ師です。目は見えません」と紹介。彼が舞台に立つと、若い女性を一人選んでもらい、その女性と三分ぐらいジョークをまじえての雑談をする。そして、その女性の身長、年齢、顔の特徴を当てる。尾崎さんらしい隠し芸であった。それが殆ど当っているので拍手喝采だった。

あの時は常連客でごった返す金曜日の夜だった。「ミスターヤマモト、ヒヤ、アイアム!」と声が聞こえたので、フライパンを置いて振り向くと青年の顔が見えた。「ドゥユーリメンバーミー」と言われ、私が首を傾げると青年は、「アイアムフロムアイスランド」と言うので、私は驚き、あわてて「イエス、アイリメンバーユ!」と叫んだ。

その青年は、一年前にタイの世界チャンピオン、チャナ・ポーパオインを取材に行った時、現地在住の青島氏に紹介されたマギーだ。彼はバンコクにタイ式マッサージを習いに来ていた。マギーがアイスランドに空手道場を開くので「学生時代に修業した大阪の松濤館に来年、挨拶に行く予定がある」と言うので、「その時、時間があったら、東京の私の店に来て下さい」と名刺を渡した。マギー曰く、成田行きの機内で隣のシートに居合せた日本人に“チャンピオン”の名刺を見せると、その日本人はオギクボまで行くので、「フォロミー」と言ってくれて、アサガヤまで一緒だった。駅前の交番で名刺を見せるとこの店を教えてくれた。

マギーは北欧人の平均体格からみると小柄な方なので、体格が同じぐらいの常連にしてみれば違和感がない。「ウエルカム」と言って彼を歓迎し、ビールで乾杯。マギーはアイスランドの大使のように自国をアピールした。アイスランドは大きな火山島で、温水はあちこちに湧き出ている。温水プールはどの学校にもある。水道の蛇口をひねれば温水が出る。それを分かりやすく、スローリィアンドクリアリでしゃべり、カウンター席は盛り上がった。後で気が付いたのだが、マギーは九日間、東京に滞在する予定だと言っていたのに、ホテルは決っていなかった。どうしよう。そんな話になった時、中国拳法の揚先生が「弟子の中国人が住んでいる私のアパートは四部屋あるが、一部屋だけ洋間になっている。中国人は洋間を嫌うので、その部屋だけは、いつも空いている。そこで良かったら、使ってもいいよ」と言ってくれたので一件落着した。

翌日来店したマギーが「帰国したら、空手道場を開くので、日本武道の道場を見学して、その雰囲気を知りたい」と言うので、揚先生に頼み、中国拳法道場を手始めにして、空手、柔道の道場を案内してもらった。剣道は私の知人の刑事に依頼して、杉並警察署の道場を見学させてもらった。マギーは滞在中毎晩、来店している。五日目の夜、久々に筑波大学の教授、矢島先生が来店。マギーと同年輩のフランス人の青年を連れて来た。フランス人は「こんなところでアイスランド人に会うなんて奇跡だ!ミラクル!」とオーバーに表現し、二人は興奮して英語とフランス語でしゃべりまくっている。二人は話し合っているうちにマギーが明日から二日間、大阪の松濤館道場に行くので、留守中の二日間、マギーが借りている部屋を使わないか、ということになったようだ。

その日から二日後、フランス人が来店。「マギーにキーをかえして下さい」と言うので、「あと一日泊るのでは?」と問い掛けると肩をすくめ「でも、あの部屋はもういやです」と言い、小さな声で答えた。

「寝ているとゴーストが出るのです。」

揚先生に電話をすると「十年前にあの部屋で中国人が首つり自殺をしたんだよ、出るかもしれないね」とのことだった。

大阪から戻って来たマギーにその話をした。

「ゴーストは出るよ、ベッドの周りを歩き廻る音がするからね、でもワタシに危害を加えたりしないから平気だけど。」

そんな話をしている時に尾崎さんが店に入って来た。尾崎さんをマギーの隣に座らせ、英語で紹介した。マギーはマッサージに興味を持った。それはタイ式マッサージのライセンスを持っているからだ。尾崎さんはカイロプラクティックだ。二人は互いのテクニックのディスカッションになった。尾崎さんは帰り際に「晁さん、明日の午後三時にマギーを私の治療室に連れて来て下さい」と言って、マギーに「シーユートマロウ」とを振った。

マギー氏マギーの東京滞在最後の夜、日大相撲部の学生が二人来店した。マギーは二人を見て「ワタシ、あの人たちとアームレスリングがしたい」と言うので、そのことを学生に伝えると、「あの外国人ですか」と顔を見合せ、「ボクらはいいですが、彼のウエイトはウエルター級ぐらいでしょ、ボクらはヘビー級です、それでもいいなら、やりましょう」と言ってくれた。

テーブルを土俵にし、「お前が先にやれ」と言われた学生とマギーはテーブルの中央で手を握り合った。レフリーの私が「はじめ!」と声をかけると、両者の腕は十秒ぐらい動かなかったが、じわじわとマギーの腕に相手は圧倒され勝負はついた。驚いた先輩学生は「お前、手を抜いただろう!今度はオレがやる」と、凄い形相でチャレンジしたが勝てなかった。マギーは「サンキュー」と言って自分の席にもどった。

十分後、学生が私の前に立ち、「このままでは相撲部のプライドが許しません。相撲部で一番強いのを連れて来ましたので対戦させてください」と言った。その学生の体格はマギーとあまり変らなかった。マギーは二人と対戦している。当然疲れいると思い、「どうする」と聞くと、挑戦は「OK!」、受けると言うので、対戦させた。店内の総ての客が観戦する中でのファイトだった。熱戦の末、マギーは相手の腕をテーブルに捩じ伏せた。啞然としている学生に「ユーアーグッドファイター、サンキュー」と言って、チャレンジャーと握手をした。その笑顔は相手をしてくれた彼らに感謝をしているようだった。

学生が帰った後、マギーにアームレスリングのファイトの秘訣を聞いた。

アームレスリングは腕力ではない、テクニックである。対戦者が力を入れる時と抜く時がある。力を抜こうとしたその一瞬、一気に攻める。それは対戦者の目の微妙な動きで分かる。だから試合中は相手の目しか見ていない、と教えてくれた。

マギーは親しくしていた常連たちに「Xマスカードを送るからアドレスを書いて下さい」と手帳をひろげていた。

翌日、尾崎さんから電話があり、二人で成田空港までマギーを見送りに行った。「シユーアゲイン」の言葉を最後にマギーは消息を絶った。Xマスカードは誰のところにも来なかった。ヒーハズゴーン!

                                       【山本晁重朗】
                                                                                             

 あの夜は、常連客に「この店のクーラーは、壊れているんじゃないの」とぼやかれるほど、暑かった。山崎君も「暑いですね」とつぶやきながら、カウンター席の私の前に座った。山崎英眞は私が所属していた極東ボクシングジムの後輩で、アマチュアの選手だった。ちなみに私のスパーリングパートナーでもあった。

 ある時、二人でジムの帰りに新宿の歌舞伎町を散策した。相変わらず人々でごった返している。ふと気が付くと、四人のチンピラに囲まれていた。そして、ミラノ座の裏に連れて行かれ、長身の茶髪の男に、「お前、オレに眼付けただろう!」と言い掛かりをつけられ、私の胸を拳で突いた。私は黙ったまま、相手を睨みつけた。すると顔に傷のある男がナイフをちらつかせながら、「お前ら、いい面構えしているな!どこの組の者だ」と啖呵を切られたので、「オレたち〝極東〟だけど」と言ってしまつた。すると、彼らは顔を見合せ、態度が、がらりと変わり、「悪かったな、〝極東組〟は組員が多いので仲間の顔を覚えきれないんだ」と言って、彼らは雑踏の中に消えていった。二人で顔を見合せて笑った。極東拳は暴力団の極東組と間違えられるので、つねづね嫌なジムの名前だと思っていたが、その〝名前〟で助けられるとは皮肉なものだ。

 山崎君はアルコールを飲めないのに、まずはビールを注文する。そして私のグラスに注ぐのが何時ものことだった。ところが、今夜は自分のグラスに注いで飲み始めたのだ。私は、これは何かあるなと思った。案の定、彼は、「晁さん、オレ今年三十歳になったのです。誰かいい人を紹介して下さい」と言われ、咄嗟に数カ月前から毎週火曜日に来店する沙チャンの顔が目に浮んだ。彼女は十九歳で八王子の美容院に勤めている可愛い娘で、常連たちのあいだで人気があった。

 「ひとりいい娘がいるんだ、来週の火曜日、七時に来なさい、それとなく紹介するから」と即答した。山崎君は、チェーン店の理髪一番に勤めている理容師だ。沙チャンは美容師だし、二人には共通するものがあると思ったので、山崎君にすすめてみたのだ。指定した火曜日から沙チャンの隣の席には何時も山崎君が座っている。沙チャンはウィスキーの水割で、山崎君はコーラ。それで二人の会話は盛り上がっているようだった。数週間の時が流れ、ある深夜、山崎君が沙チャンをアパートに送った帰りに店に寄った。山崎君は、いきなり、「どうしよう!沙チャンは来週、美容院の寮に入ることになったと言うのです」と顔をしかめてうなだれた。私は、「山崎君、やっとチャンスが来たね、君は車を持っているのだから、引越を手伝えばいいんだよ」とはっぱをかけた。一週間後、山崎君はさっそうと店に入って来た。私が、「美容院の寮の部屋は、広いの?」と聞くと、山崎君は言った。

「八王子には行かなかったのです。沙チャンの引越の荷物はボクの自宅の自分の部屋に運びました!」

それを耳にした常連たちは、立ち上がり、「やったね!」と言って、ビールで乾杯をした。その時も山崎君のグラスの中はコーラだった。三カ月後、沙チャンの郷里、和歌山県から両親が上京し、私の古巣の九段会館で挙式をあげた。それから一年後に、二人は自分たちの貯えと、山崎君の親の援助をうけて、鷺ノ宮駅の近くの店舗を借り、喫茶店を開店した。屋号は、〝みつばち〟だった。

 

ある夜、山下智子が神妙な顔で入って来た。

「私、今のアパートを出なくちゃならないみたい。」

彼女は、徳島県出身の三十二歳。独身で化粧品会社ポーラの経理課に勤めている。毎日、会社の帰りに来店、軽く食事をすますと、ビール(大ビン)を、三、四本飲み、楽しい雰囲気を作る女性である。

「昨夜ね、大家さんが、ご主人の郷里から送って来た物のおすそ分けと言って、こんな物をくれたの。包の中を見ると腐った豆が入っていたのよ。こんな物をくれたのは私にアパートを出て行けと言っていることかしら?」

それを私が手に取ってみると、〝納豆〟だった。四国生れの智子さんは納豆を初めて見たそうだ。

翌日、智子さんはスーパーマーケット西友のチラシを持って来た。「晁さん、これを壁に貼って下さい」と手渡されたので、見てみると裏の白い部分に、〝この犬を捜して下さい〟と太文字で書いてあった。その横にボールペンで書いた犬の絵があり、犬の特徴も書いてあった。体形はドーベルマンぐらい。毛並はグレイ、名前は〝シロ〟。その紙をのぞきこんだ中島君が、「賞金三万円だぞ!」と叫んだ。智子さんの話では、依頼主は智子さんの上司の土屋課長で、半年前に、彼の大学の先輩から血統書付きの雄犬を十万円で譲ってもらった。生後三カ月だった子犬を、先輩のすすめで、調教師に三カ月あずけた。その犬が、一週間前に彼の家に帰って来た。犬小屋を買い、庭で放し飼いにしていたが、四日前に姿を消した。家の周辺を捜したが見つからなかいので、公開捜査にしたそうだ。それを聞いた智子さんが、「私が親しくしているお店のマスターに頼んで上げます」と言って、その紙を持って来たのだと言う。私はボクサー犬を飼っているし、犬のことにはオーソリティだと思い込んでいる智子さんは始めから私をあてにしていたようだった。私は、「それは気の毒ですね、明日捜しに行きます」と安易に引き受けた。そして上司の住所を聞くと、馬橋だった。そこは、店から歩いて三十分ぐらいの所なので、その近辺から捜すことにしようと思った。家に帰ると、愛犬のエルが尻尾を振って私を迎えてくれた。それを見て私はシロオは逃げたのではない!人に逢いに行こうとしているのではないか?その相手は調教師だろうか?調教師は訓練を厳しくし、犬との心の距離を常に保たなくてはならない。犬が調教師になついてしまうと飼主に帰せなくなるからだ。それは調教師の掟だと聞いたことがある。調教所は野方だ、犬には帰巣本能がある。野方に向かって歩いているのではないか。もしかするとその調教師は〝若い女性だったのでは〟と、勘繰る。

私は毎日、午後二時にエルを連れて、一時間散歩をする。そのコースはだいたい決まっている。馬橋にある東公園には必ず行く。そこは、〝犬の出入り禁止〟の立て札が無い。犬の散歩道の穴場になっている。私はエルの散歩はやめて、一人で公園内をぶらついてみた。何時ものように色んな種類の犬が飼主と散歩をしている。顔見知りの人と挨拶をして、三十分ぐらい歩き廻ったが無駄な時間だった。公園の外に出た時、五、六メートルぐらい先に灰色の毛並の痩せた犬が歩いていた。野良犬のように見えたが、何気無く、「シロオ」と呼んでみた。すると、その犬は私を見て近づいて来た。私は犬の頭をなぜながら首輪を見ると、小さな字でシロオと書いてあった。だがあのチラシに書いてあった犬の絵との風貌があまりにも違うので一瞬、躊躇したが、ズボンのベルトをリールがわりにして取り敢えず、家に連れて帰った。智子さんに電話をすると、びっくりしていたが、飼主の土屋さんと駅前で会うことにしてくれた。土屋さんは犬を見ると、しゃがみこみ泣き出しそうな声で、「シロオ」と呼んだ。シロオは土屋さんの顔を見て、足早で近づき、飼主の顔をペロペロと、舐めた。その光景を見て、私は礼金を辞退して帰った。その日の夜、智子さんが、土屋課長からと言って、白い封筒を持って来た。中には三万円入っていた。

 

あの晩、一週間ぶりに来店した永島氏は、カウンターに座ると、「晁さん、オレまた、やっちゃったんだ」と言ってから、ビールを注文した。永島氏は三十六歳、山之内製薬の営業課長だ。彼は当店では酔っ払いの部類に入るが、酒癖は悪くない方だ。彼はビールしか飲まない。それもサッポロビールだけだ。キリンビールなんかは馬の小便だとうそぶく。

「俺には女はいらない、ビールがあればいいんだ。結婚なんかしたら自由が無くなる。」

これが永島氏の口癖だった。三カ月前、六年間住んでいたアパートを出て、オデオン座の裏のマンションの三階に引越した。ところが、酔っ払うと、なぜか今まで住んでいたアパートに帰ってしまう。ある夜、たまたま鍵が開いていたので部屋の中に入り、冷蔵庫からビールを取り出して飲んでいる所に現在の住人が帰って来て、大騒ぎになったことがある。住人は五十代男性だったので、その時は何とか許してもらったが、〝また、やってしまった〟のでは警察沙汰になったのだろう。私は永島氏を、このままにしておいては危ないと思い、何とかしなくてはと考えていると名案がうかんだ。山下智子さんに白羽の矢を立てたのだ。智子さんと永島氏は当店の常連であるが、二人が隣り合わせになったことはない。そこで智子さんに永島氏の隣の席に座るように頼んだ。智子さんが話しかけると、永島氏は戸惑っているので、私が、「あなた方には共通点があるのですよ」と言うと二人が怪訝な顔をしたので、「お二人の名前に共通点があるのです。永島智昭、山下智子、〝智〟の字です」と話すと、二人がびっくりしているので、「まだあります。あなたたちはサッポロビールしか飲まないでしょう」と、そう言われてみればそうだと、気がついた二人は、照れ臭そうに顔を見合せて、乾杯をした。土曜日だったこともあって、閉店まで意気投合して飲んでいた。そこで智子さんに、「智昭さんは酔っ払うと以前住んでいたアパートに行ってしまうのです。智子さんのアパートと智昭さんのマンションは方角が同じなので、今日は智昭さんをマンションまで送って行ってください」と頼んだ。その日以来、二人は毎週土曜日には閉店まで飲み、智子さんは智昭さんをマンションまで送っている。それから二カ月後、二人は中野サンプラザで、山之内製薬会社とポーラ化粧品会社の友人達に囲まれて、盛大な挙式をあげた。

 

国際結婚が二組あった。シンガポールの留学生ソー・ウィリアム君と台湾の留学生マーさんだ。彼らも当店で知り合い、何時の間にか結婚していた。もう一組はイギリス人のステファン・ダーニンと小川直子さんだった。彼らは、直子さんがステファンに英会話を習ったのが切っ掛けだった。山崎君と永島氏のカップルは、私が手助けをしたが、その他の五組の若き男女は当店で知り合い、恋に落ち、結婚している。北海道は帯広の在住で、上京すると、必ず来店し、チャンピオンの人気料理〝チキンソテイ〟を食べていた初子と私との結婚をプラスするとトータル十組になる。
                                       【山本晁重朗】

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