"チャンピオン"日誌[あの日あの時あの人]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。19年2月より、新たに、「あの日あの時あの人」シリーズを開始。

 金曜日の夜九時は申し合せたように常連客はカウンター席に座る。
 ある夜、正装した中年の男がドアを開けた。店内を見渡し、空席がないので店を出ようとした時、私と視線が合った。見覚えのある顔だ。その男に突然、「何か御用はありませんか」と声を掛けられた。私は反射的に、「今日は間に合っています」と応えてしまった。男は、「では、また来ます」。会釈をすると出て行った。常連たちが呆気にとられ、「今の人何者ですか?」。怪訝な顔で、りきさんが訊ねた。

「葬儀屋さんです」。一同、「えっ!」。

「昨年、お祭りで御輿を担いだ時、隣り合わせになった人です。御輿を担ぐとき、〝ソイヤ!ソイヤ!〟と掛け声を出すのですが、彼の掛け声は、〝ソーギヤ!ソーギヤ!〟って聞こえるのです」

彼らが笑い終るのを待って、「実家の葬儀社を継ぐ前は魚屋に勤めていたそうです。だから、御用聞きをしたんだ」と正義ちゃん。「それじゃ、出来過ぎだよ」と武藤君。「酒を飲むと魚屋に戻っちゃうんだ」と吉永さん。彼らは、しっちゃかめっちゃかになっている。そんな空気に飲まれず、マイペースでビールを飲んでいるのが、自称東大の数学教師、松島さんだ。三十代の独身で、女性には興味がないのか、女性と話をしているのを見たことがない。ところが、マニアックなボクシングファンで、それも数学的なのだ。選手の戦歴や年齢を正確に覚えていて、その話題になると雄弁になる。常連たちに記録屋と呼ばれている。

かつて、〝一番街〟には、バー、スナック、居酒屋が百二十軒もあったが、近年では、三十数軒しかない。そんな寂れた所に、常連客の守谷さんが、洋風居酒屋を開業したのだ。店名は〝バルト〟。カウンターとテーブルがあって、客は四十人近く収容出来る。更に空間があり、テーブルを移動すると、小さなステージになる。そこで、朗読劇や演奏会を催しする。従業員はアルバイトが一人。常連客に学生時代の友人が二、三人いるので、忙しい時には、彼らの手を借りる。なかなかの遣り手のマスターである。

ある時、バルトのマスターが、アイドル歌手の早見優に似た若い女性を連れて来た。その日は金曜日でなかったのでカウンターに座れた。マスターは常連の前に立ち、彼女の肩に手をかけて、「この人はヴァイオリニストです。明日、うちのステージで、演奏をします。みなさん是非、聴きに来て下さい」。紹介された彼女も立ち上がり、「橋口瑞恵です。どうぞいらして下さい」。にっこりと笑い、頭を下げた。エキゾチックな横顔に魅了されたのか、居合わせた常連たちは口々に「聴きに行きます!」とヴァイオリニストに声を掛けた。驚いたのは数学の先生もその中に居たのだ。

橋口瑞恵は、十歳でエクアドル国立音楽院を飛び級卒業。在学中はモスクワのグネシン音楽院の現学長、アンドレイ・ポドゥゴルニ氏による指導を受け、十歳にして年間百回を超えるリサイタルツアーをエクアドル国内で広く行った。日本に帰国の際には、別離を惜しまれ、在エクアドル共和国スペイン大使館によって、〝さよならコンサート〟が催された。帰国後、慶應義塾大学に進学。卒業後は様々な仕事を経験し、〇二年から東京を中心として演奏活動を開始した。プロフィールを見ると、かなりの実力者だ。

店内は満席だった。瑞恵さんは、昨日と同じ普段着で颯爽と現れた。ヴァイオリンを構えると、モーツァルトとベートーヴェンの曲を十分間の休憩を挟んで、約二時間演奏をした。私は、モダンジャズとロカビリーのコンサートに行ったことがあるが、クラシックのコンサートは初めてである。曲が終わるたびに拍手が店内に響いた。クラシックに興味がなかった私にはどの曲も同じように聞こえたが、彼女のダイナミックな演奏スタイルに圧倒された。店内を見わたすと年輩者が目立った。その中に松島さんの姿もあった。

木曜日はチャンピオンの定休日である。毎週、その日だけ大川ボクシングジムのトレーナーになる。先輩に頼まれると断れないのだ。ジムは明大前にある。東京行四時二十五分の電車に乗るとジムに五時に着く。

ある日、その時間に瑞恵さんが、プラットフォームに立っていた。新宿まで一緒だった。彼女も毎週木曜日に新宿の某所にヴァイオリンを教えに行くという。

瑞恵さんは次の木曜日から私が乗る電車の時間に合せてくれた。週に一回だが、車中で二人の雑談が続くと、私はヴァイオリンに、瑞恵さんはボクシングにいつしか興味を持つようになった。そして瑞恵さんが教えている生徒と、私が教えている練習生の話題の中には指導者にとって貴重なものがあった。

ある時、ヴァイオリンの次に好きなものは何?と聞くと、自転車だという。「学生時代は休暇の度に野宿をしながらサイクリングをし、日本のあちこちを放浪した」と御転婆ぶりを話してくれた。そのエピソードを聞いて、無地のブラウスとジーパン姿で演奏するスタイルに納得がいった。まさにボヘミアンなヴァイオリニストである。

ある日、何時ものプラットフォームの場所に、瑞恵さんが背の高いイケメンの青年と並んで立っていた。「大久保さんです」と紹介され、三人は新宿まで一緒だった。

 次の木曜日には瑞恵さんの姿はなかった。阿佐谷から新宿までの十一分間のデート?は、三カ月余りで、あえなく終了した。それから数ヶ月後、瑞恵さんの名字が、橋口から大久保に変わった。

 瑞恵さんは十三年に府中市分倍河原駅の駅前に、本格的な音響の貸し音楽ホール〝ミエザホール〟をオープン。オーナーとして、このホールを拠点としながら、様々なアーティスト演奏活動を行っている。

Mizue・18.2.4 ミエザホールは駅から〇分。四階建てのビルで二階がホールになっている。正面が舞台で、ピアノが左側に置いてある。収容客数は五十人ぐらいだ。少し遅れて行ったので、会場は、ほぼ満席だった。

 「チョーさん、席、取ってあるよ」

 前方の席から聞えた。そこに松島さんが居た。彼は数年前に郷里の金沢に引越しているのだ。新幹線で、東京まで来て、このホール直行、その後は、阿佐谷のホテルで一泊して翌日、帰るスケジュールだという。〝追っ掛け〟も、ここまでくると凄い!以前、瑞恵さんに松島さんの存在を聞いたことがある。彼女は、「何処の会場でも来て下さるので嬉しい、松島さんの顔を見るとほっとします」と言っていた。

十五分間の休憩の時間に、私は瑞恵さんが、坂本龍一のプロデュースによるオーチャードホールと彩の国さいたま芸術劇場でソロ演奏をしたエピソードを松島さんに話した。彼は、「坂本龍一は、英中伊合作映画『ラストエンペラー』や日英豪他合作映画『戦場のメリークリスマス』の音楽を担当した世界的に有名な作曲家じゃない!」。

 「そうです、『戦場のメリークリスマス』の監督は、あの大島渚でしたね」

後ろの席にいる年輩の男性に声を掛けられた。「今、大島渚て言ったでしょう。私は熊井啓監督の友人です。家も近くなのです」と話に割り込んできた。私は戸惑いながら、「偶然ですね、私も熊井さんと親しくしていました」と言うと、その男性は、米沢純夫と名乗った。

 「それでは、調布から来たのですか、私は阿佐谷からです」

 すると隣の席にいた米沢さんの連れの女性が、「私も阿佐谷です。病院を経営しております。山住美津子です、熊井さんの奥さんの明子さんと同級生でした」。

 「では、久保田喜正さんを知ってますか?」

 山住さんは、「その人は絵描きさんでしょ」。久保田さんはチャンピオンの常連客だった。ステージを指差して、「橋口瑞恵さんとのご関係は?」の問いに院長は、「橋口さんは私の患者よ」と誇らしげに答えた。そして、「あなたがたと橋口さんは、どんな関係?」。私は思わず松島さんの顔を見た。話がややこしくなってきた。こんな局面に遭遇した時、テレビドラマの脚本家・向田邦子女史だったら、どのような描写をしただろうか。
                                           【山本晁重朗】

TVは、バラエティ番組を放映していた。そこに三十代の男が二人、入って来た。行き成り「えっ、野球やっていないの!」。もう一人の男が「早くチャンネルを変えてよ!」と叫んだ。私はすました顔で、「すみません、ウチのTVは野球は映らないんです」。私を睨みつける男に、「どうぞ、野球が映るTVがある店に行って下さい」と突っぱねる。若者は、ぶつぶつ言いながら出て行った。カウンターにいた郡司さんが「見せてやればいいのに、チョーさんは野球が嫌いなんだ」。痛いところを突かれたが、「みんながこの番組を見ているのに変えられないでしょ」とうそぶいた。そんな会話を聞きながら頷いているおじさんがカウンターに居た。日焼けした顔は日雇い労働者のよう。初めて見る客だった。息子らしき少年と座っている。父親が高校生の息子に説教をしているように見えた。ひそひそ話の声が、少しずつ大きくなってきたので、話の内容が、聞き取れた。それは、おじさんの風貌に似付かわないレベルの会話だった。私はこの二人は何者だろうか?興味を持った。

数日後、おじさんはひとりで来店した。カウンターに座り、「私はピストン堀口の試合を見ています」と話しかけてきた。わたしの反応を見て、白井義男は花田陽一郎から日本フライ級タイトルを奪取したとか、ライト級の秋山政司、ミドル級の辰巳八郎等は凄い選手だったとか、私がそのボクサーのファイトを見たことがない選手の名前が並んでいる。私は彼の歯切れのいい話しぷりに吸い込まれてしまった。

店の電話で呼び出された四十代の男が入って来た。「この人は、『大法輪』の編集長の黒神さんです」と紹介された。黒神さんが、「先生、遅くなってすみません」と頭を下げているので、「この人は何の先生ですか?」と聞くと、「作家の石和鷹さんです」。

石和鷹は、一九七六年より八五年まで、文芸雑誌『すばる』の編集長を勤め、その傍ら執筆を行い、「掌の護符」で芥川賞候補、続いて「果つる日」で同候補、八九年、『野分酒場』で泉鏡花文学賞、九五年、『クルー』で芸術選奨文部大臣賞を受賞している。

黒神さんいわく「石和さんは酒豪で、名うてのプレイボーイでもあり、女性との噂は絶えない。業界の無頼派といわれている作家です」。

ある時、石和さんが「ここのママは私の女房に似ている。今度連れて来ます」と言って数日後、奥さんを連れて来た。スタイリストで知的な美人だった。笑った時の横顔が初子に似ていた。

ある日、後楽園ホールに試合を見に行った時、水道橋の駅を出ると小雨が降っていた。傘を持っていなかったので、濡れながら歩いていると、年輩の男性が「入りませんか」と声をかけてくれた。彼は私の顔を見て「行き先は私と同じでしょう」と呟き、後楽園ホールまで一緒だった。私は礼を言い、チャンピオンの名刺を渡した。

ある夜、石和さんが「今日は私の古い友人を連れて来た」。その人はあの時、傘に入れてくれた人だった。「その節はありがとう御座いました」と頭を下げると、石和さんの友人は、にっこりと笑った。それを見て「えっ、知り合いだったの」。

その人は法昌寺の住職であり、歌人の福島泰樹氏だった。そして、マニアックなボクシングファンである。

石和さんが入ってきた時は、カウンター席は、一つしか空いていなった。そこに座ると隣の土屋さんが、カウンターに顔をこすり付け、両肘を広げて寝ている。頭の前に徳利とおちょこが、ころがっていた。石和さんが、当惑しているので、土屋さんを揺り起こした。「オレ帰る、いくら?」と寝惚けまなこ。「三百円です」。土屋さんは立ち上がり私を睨み付けて「三百円はないだろう。オレがボクシングの先輩だからといって安くしたんだろう」。土屋さんは店に入って来た時から、かなり酔っていた。お酒を一本注文しただけで寝てしまったのだ。「お酒を一本注文しただけです」と言うと、「バカヤロー!オレがこんなに酔っているのに一本しか飲んでいないはずがない!」と怒鳴るので、「はい分かりました、千円いただきます」と手を出すと、お金を払い、覚束無い足取りで出て行った。石和さんはそんな土屋さんに興味を持ったようだ。

「今の人、ボクサーだったの?」

「ボクの先輩です。東日本新人王戦でバンタム級の山口鉄弥と対戦しています

石和さんは、「あのハードパンチャーの日本バンタム級チャンピオンとグリーンボーイの時代に対戦しているのか」。さすが、ボクシング通の石和さんだ。三十年も前の選手の名前がスムーズに出てくる。

「土屋さんは打たれ強いタフなファイターだったので、酒を飲むとパンチドランカーの後遺症が、今でも出るみたいです

二日前、ガード下にある松の寿司のマスターが店に飛び込んできて、「土屋さんが客ともめています、何とかして下さい」と助けを、求めてきた。土屋さんは松の寿司の常連客で、その夜は貸し切りだったのを知らずに店に入り、飲み会をやっている若者たちに、入店を阻止されたが、「一パイ飲ませろ」とごねていた。酔っぱらっている土屋さんを連れて帰ろうとすると、茶髪の若者が、「オレはこのおやじを許せない!一発殴らせろ!」とからんできた。私は二人の間に入り、「よし、そんなに殴りたいのなら、そこの駐車場でおじさんと勝負をしろよ、オレがレフリーをやる。ただ、一つだけ条件がある。どんな事があっても警察沙汰にしないでくれ、この男は元ボクサーだ。ケンカをして、相手を半殺しにしてしまい、傷害罪で、三年、ムショに入っていたのだ、昨日、出て来たばかりだが」、そこまで言うと、若者の表情が変わり、「やめとく」と言って、心配そうに成り行きを見ていた仲間の中に隠れてしまった。ふらふらで、やっと立っている土屋さんの肩を支えてタクシー乗り場まで送って行った。

私の話が終ると、石和さんは、「チョーさんのハッタリは凄いね、今の話をもとにして小説を書きたくなった」。

毎週三時から二時間、我家の前にある空き地で〝日曜ボクシング〟の練習がある。あの日はジュン君と次男の寛朗の二人だった。シャドウボクシングをしているところに、石和さんが見学に来た。スパーリングを始めた時、「オレも仲間に入れてくれや」と背後から声がかかった。振り向くと、土屋さんがトレーニングウエアーで立っている。石和さんは目を見張った。私は攻防一体のボクシングを教えているので、二人のスパーリングは互に打ち合っていても、殆ど相手に当らない。それを見て土屋さんが、「そんなのボクシングじゃない!オレが相手をするから遠慮なく打ってこい」と怒鳴った。ジュン君と寛朗は土屋さんと対戦した。二人が打ったパンチの殆んどが顔面にヒットしたが、土屋さんは怯まず前進する。「これが土屋さんのファイテングスタイルか」、石和さんは呟きながら手帳にメモをしていた。帰り際に、「今日はラッキーだった、面白いものを見せてもらった。チョーさんと土屋さんをモデルにして小説を書いてもいいかな」。

数日後、石和さんは生原稿を持って来た。

「これを読んで、書かれては困ること、ボクシングのテクニックの表現の間違いがあったら言ってください

原稿を茶封筒に入れて置いていった。

平成三年十月二十日、石和さんが意気揚揚と店に入って来た。何かを抱えている。

「本が出来ました。タイトルは『レストラン喝采亭』です。チョーさんに一冊、土屋さんにも、これを渡して下さい

家に帰ると早速読んだ。「いくらJRの駅に近いとはいえ、繁華街とは反対側の裏通りにある雑居ビル一階の小さな洋食屋〝レストラン喝采亭〟は」から始まり、元ボクサーのマスター佐分利とバッファロー矢上の新人王戦のエピソードを中心にした物語であった。

ある日、日大相撲部のキャプテンが来店、「駅前の本屋で、立ち読みをしていたら、〝JRの駅の近くの洋食屋〟が出て来たので、気になって読みつづけたら、そこに出てくる洋食屋はチャンピオンがモデルになっているのではないか、と思い、その本を買いました。佐分利はマスターで、バッファロー矢上は酔っぱらいの土屋さんでしょ」、キャプテンは続けた。「面白いから、合宿所で回し読みをしています」と。

ある夜、咲谷さんとリングサイドで観戦したJフェザー級タイトルマッチ、マーク堀越対高橋ナオトの感動したファイトの話をしていると、石和さんが口をはさんだ。「私はその試合を見ていない」。

その試合は、平成元年一月二十二日に挙行された日本Jフェザー級タイトルマッチで、王者マークにナオトが挑んだ試合だ。初回から激しい打撃戦となり、三回、四回、八回とダウンの応酬。九回、マークがダウン、起き上がり宇宙遊泳をするような動きで、レフリーにファイト続行のアピールをしたが、マークの祈願はかなえられなかった。島川レフリーは、夢遊病者のように立っているナオトの右腕を高だかと上げた。正に死闘だった。この試合は年間最高試合に選ばれた。

私は、その試合のビデオカセットを持っていたので、石和さんの家に届けた。翌日、石和さんが来店すると行き成り、「島川レフリーは凄い!人間の体力、精神力のぎりぎりの限界を見極めて戦わせた判断力はたいしたものだ。ボクシングは危険なスポーツだ、一つ間違えれば、〝死〟がある。この試合が、〝年間最高試合〟に選ばれたのは島川威のレフリングだ!他のレフリーだったら八ラウンドの高橋の強烈なダウンシーンを見て、これ以上、戦わせるのは危険と見なし、ストップをかけたであろう」。石和さんの熱弁に常連は呆気にとられている。「オレ島川さんに会いたい!」。

島川さんは親しい友人なので、二人の対話のセッティングはスムーズに行った。島川威が指定した場所は三鷹駅の近くにあるスナックだった。二人は昭和八年生まれの同世代。話は盛り上がっていた。石和さんは、それを対談形式にして、週刊誌に載せた。

ニックネームが、〝デスク〟の木崎さんが、「このところ石和さんを見かけないけど、飲みに来ている?」と常連に問い掛けると、彼らは首を横に振った。初子が、「方南町のアパートで執筆中じゃないかな、書き上げるまで阿佐谷に来ないよ、きっと」。私は石和さんが自宅では原稿を書かない、と言っていたのを思い出した。石和さんは方南町にアパートを借りている。

数ヶ月後、石和さんは大学ノートより少し小さな白板にひもを付け、首に掛けて現れた。〝下咽頭ガンの手術で声帯を取ってしまったのです。声が出ないので筆談をします〟と黒のマジックペンで白板に書いた。それは国語の先生が、黒板に書くような端正な字だった。そして早い。

赤ワインを注文したので、常連は驚いた。木崎さんが、「そんな状態なのに飲みに来るなんて」と言うと、石和さんは、〝そんな目で私を見るな、声が出ないだけだ〟と白板に書くと、ワインをひと口飲み、グラスを目の前に掲げて、虚勢を張った。

数週間後、来店した時は白板をぶらさげていなかった。痩せた体から絞り出すようにして、「コエを出すクンレンをしているんだ」と、たどたどしくしゃべった。そんな石和さんを常連は作り笑いで迎えた。

ある夜、石和さんの息子から電話があった。

「父は下咽頭ガンを宣告され何度か手術をしましたが、肺に転移し、それを切除したのですが、末期症状になりました。数日前から河北病院に入院しています

そのことを常連に話すと、「河北病院なら近いのでみんなで見舞いに行こう!何時行く!」ということになった。

「まずボクが一人で行って病状を見てくる」

翌日、初子と病院の個室に向かった。ベッドで寝ていた石和さんは、私たちを見て起き上がった。痩せこけている。はだけたパジャマからあばら骨が見え、どす黒くなった顔は小さくなり、ミイラのよう。私たちは声を失った。石和さんは虚ろな目で私たちを見た。「オレは壊れものだ、もうこの世のものではない」と呟き、ベッドにしゃがみ込んでしまった。枕が音もなく床に落ち、沈黙は続く。閉めた窓のカーテンが外からの明りを遮り、殺風景の個室は死刑囚の独房のような空気が漂っていた。

早朝、電話のベルで起こされた。「石和です」、奥さんの声だった。
                                       【山本晁重朗】

温かくなったコーヒーを飲みながら、「徹子の部屋」を見ていると、ケイタイが鳴った。ジョナサンからだった。

「三時に阿佐ヶ谷駅の南口に来れる?」

私に会わせたい人がいるという。その時間に南口に行くと、ジョナサンはブロンドヘアーとブラックヘアーの若い女性と立話をしていた。ジョナサンは、今までに、イギリス人、アメリカ人、カナダ人、ロシア人、ギリシャ人等を紹介してくれている。この二人はどこの国の人だろうか?

三人を近くの喫茶店に案内した。席に着くと、ブロンドの女性を指差して、「この人がチョーさんに是非会いたいというので連れて来ました」。

彼女の肩に手をかけ、「このひと見覚えがありますか?」。私が首をかしげると、ヒントはイギリス人です。名前はハンナ・ニコール」。

私が彼女の顔を、じっと見詰めると恥ずかしそうに微笑んだ。その表情には見覚えがある。それにファミリーネームの〝ニコール〟が結び付いた。

「エロイズの娘さん?

ジョナサンは、「ピンポン」。ブラックヘアーの女性はスペイン人で、ハンナの親友だった。

ハンナは立ち上がり自己紹介をした。私も英語で応対したが、このところ英語をしゃべる機会がなかったので、それがブランクになり、次の言葉がスムーズに出て来ない。それに気が付いたジョナサンが「私が通訳しましょうか」。ハンナの了解をえると「ハンナがチョーさんに会いたかった理由を話します」と続けた。

私が物心ついた頃から、リビングルームの壁の片隅にボクシングのグローブが吊るしてあった。それを気には留めなかったが、高校三年生の時、家にボーイフレンドが遊びに来た。彼はグローブを見て、「誰かボクシングをやる人がいるの?」と興味を示した。それまでは、グローブの存在を気にしたことがなかったが、友人に言われ、初めて意識した。そして、母に尋ねた。母は懐かしそうにグローブを手にして「これは私たちの結婚のお祝にもらった物なの」。二十七年前、母がステファンとシンガポールで挙式をあげた時、日本人のチョーさんが「ダーリンとケンカをする時に使いなさい、と言ってくれたものです。披露宴の会場は大爆笑だった」と振り返る。

それを聞いて、私はびっくりした。イギリス人のギャグとジョークは日常茶飯事だが、そんなことをする日本人がいるのは意外だった。その人はどんな人なのか会ってみたいと思った。あれから十年経った今日、ジョナサンのおかげで、やっとチョーさんに会えたのが嬉しい。と、ジョナサンは声優のように抑揚をつけて語った。

ハンナの母エロイズはロンドン生れで、東京にある英会話教室の先生だった。ある時、渋谷の街でスカウトされて、〝イトウヨウカドウ〟のTVのコマーシャルに出演したことがある、ステキな女性だった。ハズバンドのステファン・ニコールもハンサムで、美男美女のカップルであった。

彼等は結婚して、ロンドンに住んでいる。精力的なカップルで、毎年ベビーが誕生。年子で五人。それが、みんな女の子だった。ハンナは、その長女である。エロイズからのクリスマスカードには、いつも成長する彼女たちの写真が載っている。これぞ〝美女ありき〟だった。

ハンナに「あのグローブのギャグには何かヒントがあったのですか?」と聞かれ、「それは、ベストフレンドのジョナサンの影響でしょう」と答えた。

あの時はジョナサンが、ロンドンに私を招待してくれた、滞在二日目の夕方だった。私が手にしているカメラを見て、「何か写したいものがありますか?」と聞くので、「ダイアナ王妃を写したい」とジョークを言うと、ジョナサンは困った表情になり、「ごめんなさい。昨日予約の電話をするのを忘れていました」とジョークで返されてしまった。更に「エリザベスなら大丈夫です」。私は「えっ、女王ですか?」。ジョナサンは片目をつぶって、「いいえ、私の妹です」と、またやられてしまった。確かに、妹は女王と同じ名前だった。ビールを飲みながら、そんな雑談が三時間近く続いた。別れぎわに、「またお会いしたいですね」と言うとハンナは、「三度目はロンドンで会いましょう」。私は驚いて、「二度目でしょう?」。ハンナは、にっこりと笑い、「チョーさんが母にグローブを手渡し時、私は彼女の胎内にいたのですよ」。

私は思わず呟いた。「オーマイガード」。

阿佐谷の商店街パールセンターは八月に七夕祭り、九月は天祖神社の例大祭がある。南はパールセンター、北はスターロード、その他の商店街から御神輿が出る。若者が威勢よく担ぎ、町内を練り歩く。お祭りは二日間で、一日目は担ぎ手が多い。三十人か四十人いるが、二日目は、担ぎ手が少ない。そこで、チャンピオンの常連たちの出番になる。リーダーは輿石嘉之氏で、通称神輿のコーチャンである。コーチャンは神田の生まれのチャキチャキの江戸っ子だ。子供の頃から、お祭りが大好きで、お祭りがあると何処にでも出かけて行き、御神輿を担いだ。今までに、神田明神、花川戸、三社祭。遠方では沖縄まで、自分の顔のきくところへは何処へでも担ぎに行ったベテランである。十年前に阿佐谷に引越して来てからはパールセンターの御神輿を仕切っている。

阿佐谷パールセンター御神輿コーチャンは江戸っ子特有の〝ヒと〟がうまくしゃべれない。引越が〝シッコヒ〟に、お汁粉が〝ヒルコ〟になる。台湾出身の歌手オーヤン・フィフィが、〝オーヤン・シーシー〟になってしまう。そんなわけで、英語をしゃべって、通じたことがないと言っている。それが外国人嫌いの原因かも知れない。「オレは〝ジンガイ〟は嫌いだ」が口癖【左・晶チャン。中・コーチャン】       であった。

あの日は担ぎ手が十三人集まった。その中にジョナサン、デビット、リチャードの三人かいた。コーちゃんの言う〝ジンガイ〟である。パールセンターの老舗で、平田屋化粧品店の晶チャンが、町内会のハンテンを人数分持って来た。にわかに着替え室になったチャンピオンで、担ぎ手が着替えているところに、エロイズ、ジェーン、パメラが入って来た。彼女たちのハンテンはないので、御神輿を担ぐ人の付き添え役になり、担ぎ手がピンチになった時に交代する〝変り手〟と一緒に行動することになった。コーチャンの「よし!行くぞ!」の掛け声で御神輿が待っているパールセンターに向かった。

チャンピオン一家が入ると担ぎ手は四十人ぐらいになった。「ワッショイ!「チョイサ!」の掛声でリズムを取り、御神輿は大きなうねりとなり動き出した。買物客でごったがえす商店街を一時間ぐらい担ぎ、十分ぐらいの休息を取った。お店の人が振る舞ってくれるビールを飲みながら、ジョナサンがハンテンから肩を出し、「ここが痛い!」。見ると赤く腫れて痛痛しい。デビットとリチャードの肩も腫れている。それを見たコーチャンが、「あんたたちは背が高いから担ぎ棒がまともに肩に当っちゃうんだ、どうする、もう止めるか?」とにらみつけると、ジョナサンが「いいえ、最後まで担ぎます!」。日本語できっぱりと言った。再び御神輿が威勢よく動き出した。

雨が降ってきた。だんだん激しくなり、土砂降りになった。弥次馬は近くの店の軒下に避難した。変り手も御神輿から離れたが、担ぎ手はずぶ濡れになりながら更に気合を入れて担いでいる。その横にエロイズ、ジェーン、パメラたちもずぶ濡れになりながら御神輿に付添っている。私が「何時までそこにいるの、早く!あそこの軒下に行きなさい!」と怒鳴るとエロイズが「ジョナサンたちが濡れながら担いでいるのに私たちは離れられません!」。花棒を担いでいたコーチャンはその遣り取りに気がついたのか、私に大声で言った。

「あいつらは根性があるし人情もある、江戸っ子とおんなじだ。オレ、〝ガイジン〟好きになった。

御神輿を担いだ人に銭湯の入浴チケットが配られる。私はデビットとリチャードを連れて一番街の銭湯に行った。浴場はすいていた。洗い場に七、八人しか居なかった。富士山の壁画をバックにして三十代の体格の良い若者が二人、湯船の縁に腰掛けていた。二人の背中には、唐獅子牡丹と桜吹雪の見事な入れ墨があった。彼らはそれを見せびらかしているように見えた。デビットたちは、それにすぐ反応した。気がついた私は「イギリス人が、あなたたちの入れ墨を近くで見たいと言っていますが」と言うと二人は「どうぞ」と快く受けてくれた。デビットたちは「ワンダフル!ファンタステイク!」の連続だった。ここまでは良い雰囲気だったが、唐獅子のお兄さんが、デビットの左腕にある小さなバラのタトウを見つけると、それを指差して、「これは何だ、ラクガキか、洗ったら消えちゃうんだろう」。自分の背中を指差して、「よく見ろ!これは芸術作品だぞ!」と威張りだした。洗い場は険悪なムードになった。その時、「チャンピオンのおじさん、どうしたの」と子供の声がした。店の取り引き先の八百屋のアッチャンだった。父親と来ていた。アッチャンはおちゃめの五歳児だ。私はアッチャンに耳打ちして、入れ墨のお兄さんの前に行かせた。アッチャンは入れ墨を指差して「すごいね、この入れ墨いくらしたの!」と大声で叫んだ。驚いたお兄さんは「このガキの親はどこにいるのだ!」と怒鳴った。私は「はい!ここにいます」と言って手を上げた。そして「唐獅子牡丹も、子供には勝てないね!」と言って大声で笑った。周囲にいた人たちも笑い出し、それが浴場中に反響した。

 

 どちらが先に手を差し出したのか見ていなかったが、デビットと唐獅子のお兄さんは照れ臭そうに握手をしていた。その横にリチャードがレフリーのような顔をして立っている。

 アッチャンの父親に「やくざ恐くないの」と聞かれたので、「安倍譲二さんから貰った本に、〝入れ墨を見せびらかして粋がっている奴は小心者だ〟と書いてあった」と八百屋さんの耳元で囁いた。
                  
                                       【山本晁重朗】
 

 ある時、耳を澄ますと隣のスタジオから、〝カタコト、カタコト〟と金づちで床を叩くような音が壁を通して聞えてきた。その音に気がついたエッチラが「隣のスタジオで大工さんが仕事をしているのかな」と呟いた。私もキャベツを切るのをやめて、耳をかたむけると、たしかにリズミカルな音が聞えてくる。その音が、その日から毎晩、同じ時間に聞えてくるので、常連たちの話題になっていた。そんな夜、中年の女性が入ってきた。背が高くて大きな瞳の映画女優のような人だった。彼女は常連客に「今晩は、私は隣のスタジオでフラメンコの稽古をしている小松原庸子です。よろしく」と挨拶をした。エッチラが立ち上がり「貴方が大工さんだったのですね」と言われた彼女は一瞬、首をかしげたが、エッチラが言わんとしていることに気がつき「あの音は靴を踏みならすサパテアードです」。
 その時、小松原さんに風貌が似ている女性が入って来た。小松原さんは「彼女はフラメンコのギターリストで、私のパートナーの戸田恵子さんです。よろしく」と紹介した。このコンビは稽古が終わると時々店に顔を見せてくれた。赤ワインを飲み、常連客とおしゃべりをする。そんな気さくな人柄の二人は彼らの人気者になってしまった。

 数ヶ月後、小松原さんが一人で来店、「来週の月曜日に新宿の朝日生命ホールでフラメンコを踊ります。見に来てね」と言ってチケットをくれた。それを常連客に話すと是非見に行きたいと言うので人選して四人連れて行った。会場は満席だった。私は映画でフラメンコを見たことはあるが、舞台で見るのは初めてだった。戸田さんのギターのリズムに乗ってダイナミックに踊る小松原さんの情熱的で、セクシーな表情に魅了された。カメラを持ってきていたので舞台に近づき、シャッターを切りまくった。踊りの動きが早いので、撮るのは難しかったが、自分なりに踊りのパターンを捕らえてみた。三十六枚撮りのフィルムを一本撮ったが、出来あがった写真を見ると、まともなショットは一枚もなかった。後日、来店した小松原さんに「チョーさん、写真を撮ったでしょう。見せて」と言われたので、「見せる写真が一枚もありません」と断ると、「私がどんな踊りをしていたのか見たいのです」と言うので、私は仕方なくネガをプリントして全部渡した。すると、「踊りの流れを見たいのでフィルムも貸して下さい」と言うので、ネガをべた焼きにして、事務所に届けた。

 小松原さんの公演の五日後、舞台照明家の刈屋氏が、数日前の日付の新聞を持って来た。

「小松原庸子の記事が載っているぞ

そこには小松原さんが踊っているワンショットが載り、〝フラメンコダンサー小松原庸子、華やかなデビュー〟と絶賛する見出しがあった。小松原は五八年、単身スペインに渡り、エンリケ・エル・コホにフラメンコを学び、スペインのステージに立っている、フラメンコの第一人者である、と記してあった。それを読んだ常連客は、「そんな、有名な人だったのか」と顔を見合せて驚いた。

小松原さんは六九年に、小松原庸子スペイン舞踊団を結成した。一回目の公演の時、「チョーさんの写真を使わせてね」と言うので、どの写真を使うのか気掛りだった。ある夜、晶チャンが「駅前の喫茶店に小松原さんのフラメンコのポスターが張ってあった」と教えてくれた。見に行くと、入口の左側の壁に、新聞紙の半分ぐらいの大きさのカラー刷ポスターが張ってあった。小松原さんが踊っているショットで、確かに私が撮った写真だった。私はポスターを凝視した。そこから、フラメンコを撮るシャッターチャンスのヒントを得た。

小松原さんの照明係の刈屋氏にポスターの話をすると、「チョーさん、写真上手だよ」と誉められた。その気になった私は、フラメンコの公演のホールに足を頻繁に運んだ。そして、自称、舞踊団の専属カメラマンになった。


 ある時、私が何時もステージの写真を撮る時に座る椅子に、年輩のカメラマンがいた。三脚を立てて、望遠レンズを付けたニコンを操作している。目が〝ギョロッ〟として大きい、どこかで見たことのある人物だった。ホールのマネージャーに聞くと、「秋山庄太郎さんです
」と教えてくれた。秋山氏は写真界の大御所だ。私は彼の邪魔にならない場所で、その日は撮影した。

小松原舞踊団の事務所にネガとべた焼きを届けに行った。テーブルの上に葉書サイズの写真が四枚あった。小松原さんが「秋山先生が撮った写真です」と言うので、見せてもらった。一枚ずつ見ながら「この情熱的な表情はいいですね。このカメラアングルも凄い」と感想を述べると、小松原さんは「ここに写っているフラメンコダンサーは秋山先生のオリジナルで、私はその被写体にすぎません」と写真を指さして「こんな恐い顔を撮るなんて」と素っ気ない。

私が持って行った写真を見て、「チョーさんは何時も私の好きなポーズを写してくれている、だからチョーさんの写真を使うのです」と言われて、返答に困惑した。そのことを作曲家の今井先生に話すと「チョーさんは小松原に惚れているな、それが写真に出ているのだ」と言われた。

小松原さんの兄貴は大映の男優、菅原謙次である。兄貴には六歳の息子がいる。ある夜、小松原さんから電話があった。兄貴の息子は日本舞踊を習っている。明日、歌舞伎座で発表会がある。その写真を撮って欲しい、とのことだった。私は小松原さんに言われた時間に、歌舞伎座の裏口から中に入った。楽屋には小松原と書いた札が掛かっていると聞いている。その部屋を探そうとしていると、細身の若い男がいたので、「小松原の楽屋に行きたいのですが」と声をかけた。「私が案内します」と言って、楽屋まで連れて行ってくれた。その人は「ここです」と言いながら部屋の中まで一緒に入った。そして小松原さんに挨拶をすると、二人は親しく話をしている。その人が帰ってから、小松原さんは「チョーさん、素敵な人に案内してもらったのね」と言うので、「あの人は誰ですか?」と尋ねた。

「知らなかったの、玉三郎さんですよ」

「えっ、あの女形のですか?

菅原氏の息子の舞台写真を三十六枚撮りのフィルムで一本撮った。翌日、写真を届けると「玉三郎さんのは無いの?」と言われ、「息子さんの写真を撮って、すぐに帰りました」と答えると、小松原さんは口に手を当てて、「あの後、玉三郎さんが踊ったのに、バカネッ!」。

私の息子の将光が六歳になった時、フラメンコの公演に連れて行った。私は撮影をしていたので。息子は開演中に何をしていたのか分からなかったが、家に帰ると小さな板の上に乗りサパテアードのまねをしている。フラメンコに興味を持ったのかと思い、そのことを小松原さんに話した。彼女は「本人にフラメンコをやりたいか?と聞いて、〝やりたい〟と言ったら、明日からスタジオに連れていらっしゃい」と言ってくれた。そこで、将光に「フラメンコをやるか?」と聞くと、「ウン」と答えた。


 ある日、開店と同じに小松原さんが入って来た。

「高円寺に新しいスタジオが出来たの。そこに引越すので、誰か車の運転ができる人を紹介して下さい

その話を常連客にすると、晶チャンが手を上げた。小宮山晶治は学生時代、東洋大学日本拳法部のキャプテンだった。先輩の伝手で食品会社に就職。営業部に勤務している。

引越は二日かかった。晶チャンは小松原さんに接して、彼女の温厚な人柄に触れ、すっかり惚れ込んでしまったようだ。常連に、「オレ、小松原さんのところで働きたい」と呟いた。誰かが言った。

「あそこは女の園だよ、晶チャンじゃ無理!

数日後、小松原さんから電話があった。

「引越を手伝ってくれた小宮山さんは、学生時代、日本拳法のキャプテンだったんでしょう。武道家と舞踊家は共通するものがあるみたい。女の子たちにも人気があるし、ウチで働いてくれないかしら」

早速、小宮山晶治に意向を打診すると、〝オッス〟の一声だった。

晶チャンからマネージャーの肩書の入っている名刺をもらったエッチラは、「今度、オレを使ってよ」と名刺を見ながら言った。

あれは小松原さんが高円寺のスタジオに引越す二年前のことだった。職業訓練所の先生のエッチラが新年会の余興にフラメンコを踊りたいと言うので、小松原さんに相談した。「面白そうね」と言って、フラメンコの衣装とカセットテープを貸してくれた。メイクは化粧品店のトコチャンが担当した。タイトルを〝エッチラメンコ〟と付けた。女装したエッチラはフラメンコのテープの曲に合せて、見よう見真似で踊った。会場は大はしゃぎ。そのムードに誘われたのか、小松原さんが二階から降りてきて、エッチラと一緒に踊ったのだ。これはハプニングだった。会場に居た六十二人の出席者は感動して、手拍子。「オーレイ!ブラボー!」と叫んだ。そして、小松原さんを囲んで乾杯!

「真夏の夜のフラメンコ」小松原スペイン舞踊団は、七一年から毎年、七月の末から八月の初めの土曜日、日曜日の二日間、日比谷野外音楽堂で〝真夏の夜のフラメンコ〟の公演をしている。主催ソル・デ・エスパーニャ、後援スペイン大使館、協力アサヒビール株式会社だった。晶チャンがマネージャーになった年の〝真夏の夜のフラメンコ〟は、何回目だったか忘れたが、十三人のツアーを組んで野外音楽堂に向かった。満席だったが、晶治マネージャーが、ちゃんと席を取ってくれていた。中央からちょっと外れるが、見やすい場所だった。スポンサーのアサヒビールが観客に紙コップの生ビールを振る舞っていた。会場の入口の左側に売店がある。チケットの半券をアサヒビールの係員に渡すと生ビールを手渡される。招待客と関係者はチケットがないので、その人たちの為に晶チャンはビールの引換券を作っていた。そのカードを私に、二十枚くれた。リーダーのエッチラに渡すと、仲間に配っていた。私は写真を撮るので一杯も飲まなかったが、彼らはチケットの半券とカードで生ビールを飲みまくっていた。

司会の菅原謙次の「オーレイ!」の掛け声の合図で、ギターのリズムに乗り、小松原さんを中心に若い女性のダンサーが十数人、舞台に踊り出た。その情熱的なムードは観客の心に力強く響き、舞台と客席が一体となった。生ビールをしこたま飲んでいるエッチラたちは、上機嫌。フラメンコのリズムに合せて手拍子とサパテアード。その一角は異様に盛り上がっている。それを見た小宮山晶治は、「オーレイ!」と叫び、日比谷公園の夜空に右の拳を突き上げた。

ちなみに息子、将光もこの舞台にその他一同で出演している。将光は六歳から小松原さんの指導を受け、そのまま舞踊団員になっている。三十五歳で独立し、〝ジャマキート舞踊団〟を結成した。


 ある日、机の引き出しの中から、新聞の切り抜きが見つかった。それは、「東京新聞」の夕刊で、小松原さんの記事が載っていた。

「日本のフラメンコ界のパイオニア小松原庸子(84)が、二年前、両足の膝頭手術を受け人工関節を埋め込んだ。手術の際は、『もう二度と舞台に立てないかもしれない』と覚悟を決めたが、奇跡的な回復を遂げた

私は、この記事を読んで、数年前の夏、久し振りに野外音楽堂に行ったのを思い出した。〝真夏の夜のフラメンコ〟は盛況だった。ショーが終り、舞台挨拶をする小松原さんは昔と変わらぬ艶やかな姿だった。だが小松原さんの踊りは出番がなかったのが気掛かりになり、楽屋を訪ねた。スペイン人のダンサーと話をしている小松原さんに「ご無沙汰しております」と声をかけると。「あら、お久しぶり」と言って近づき、私の手を両手で握ってくれた。そして耳元でささやいた。

「どちらさまでしたっけ?

私は一歩、後ろに下がって、「庸子先生!ボクの顔をよく見て下さい!」。

彼女は目を見開き、「なんだ!チョーさんじゃない!」。

厚化粧の笑顔から付け睫毛がひらりと落ちた。
                                       【山本晁重朗】


 常連客たちは、親しくなるとニックネームで呼びあっている。彼らのニックネームを付ける発想がユニークである。下ネタ好きの職業訓練所の先生は、〝エッチラ〟、何時もしょぼくれている東大生は、〝ショボン〟、苗字が坂田なので、「王将」の坂田三吉から命名して、〝さんちゃん〟、フガっと鼻をならして笑うので、〝フガちゃん〟、おごられ上手のオールドミスは、〝パラサイト〟、馬ずらの居酒屋のママは、〝ハイセイコー〟、森を逆さにして、〝リーモ〟、刈屋を逆さにして、〝リヤカー〟、エトセトラ。

 バーのホステスなのに、何時もスッピンの紀子さんは、「私がお化粧すると、〝おばけ〟になっちゃうわよ」と謙遜したのが仇になり、〝ゾンビ〟とニックネームを付けられてしまった。中年のサラリーマンの有田恵二氏は名前が恵二なので、〝デカ長〟、本人は頗る気に入っている。

 ニックネームで呼ばれて怒ったのは、ソンビちゃんだけだった。困った私は彼女に、そっとメモ紙を渡した。それからはニックネームで呼ばれると、笑顔で返事をするようになった。メモ紙には、〝存美〟と書いたのだ。そんなことを知らないイギリス人のエロイズとカナダ人のローリイはゾンビちゃんと呼ぶのを躊躇している。それはホラー映画のゾンビを連想するからだと、言って肩をすぼめた。

 ある時、駅前広場で、有田氏を見かけた。「デカ長!」と声をかけると、立ち止まり、「おう」と返事をした。そこに通りかかった若い警察官二人が直立不動になり、有田氏に向かって敬礼をした。気が付いた有田氏は、あわてて、返礼をしている。私は笑いを堪えていた。

 あの時代は有線放送が、ブームだった。オフィスが店の近くにあった。そこの社長の三井氏は当店の常連である。新曲を売り込みに来た歌手を時々店に連れて来る。これまでに、ロミ・山田、じゅん&ネネ、千昌夫、田中健、TVで見かける歌手たちだった。ある夜、三井氏が二十歳ぐらいの若者を連れて来た。「今度、放送係になった片桐です。よろしく」と常連客に紹介した。

 カウンターの奥で酔いつぶれていた肉屋のタブさんが目を覚まし、片桐君を見て、「社長、今日はピーターを連れて来たのか?」とおやじギャグ。それを耳にした常連客はピーターをそのまま片桐君のニックネームにしてしまった。そこまでは良かったのだが、「社長、こんなガキを連れて来ないで、美空ひばりか越路吹雪を連れて来いよ」と絡んできた。私は見兼ねて、「タブさん、今日は帰って下さい」と言って、嫌がるタブさんを外に出した。そして、店に戻ろうとした時、背後に殺気を感じた。振り向くとタブさんは両手で、私の肩を掴もうとしている。彼の背丈は一八〇センチ、体重は一〇〇キロある。学生時代、アマチュア相撲のチャンピオンだったとうそぶいている。捕まったら投げ飛ばされる!私は咄嗟に彼の両腕を払い、その手で胸を突っぱねた。するとタブさんは、バランスを崩し、後ろにばったりと倒れ、後頭部をしこたま打ってしまった。その音を聞いた常連たちが店から飛び出して来た。誰かが叫んだ。「晁さん凄い!ヘビー級の男をノックアウトしてしまった。決めたパンチは右ストレートですか、左フックですか?」と大騒ぎ。私が「胸を押しただけ」と言っても、誰も信用してくれない。当のタブさんは白目をむいて倒れたまま、びくともしない。私は狼狽した。もし、死んでしまったら、目撃者は誰もいない。この状況では殺人容疑で逮捕されてしまう。その時、「晁さんゴメン」と小さな声がかすかに聞こえた。タブさんは生きていたのだ。静かに起きあがり、野次馬にも一礼すると、覚束無い足取りで歩き出した。私は胸をなでおろし、タブさんが釣り堀の角を曲るまで見送っていた。

 ある夜、中学生時代に同級生だった篠原君が初老の紳士を連れて来た。「ヤマチョーさん、中村先生です」と紹介された。私は先生が店に入って来た時に気が付いていた。精悍な眼光は変っていなかった。先生は、「ヤマチョー君、久しぶり」と言って会釈した。

 中村一氏は、阿佐谷中学の数学の教師だった。厳格な人で、「今の若者は覇気がない。私が叩き直してやる」が口癖だった。体罰の奨励者で、戦争映画に出てくる鬼軍曹を彷彿させた。私は授業中に漫画をノートに描いていたのを見つかり、ゲンコツを頭にもらったことがある。先生は学生を問わず、一番恐れられている存在だった。

 あの日あの時あの昼休み、クラスメイトに、漫画を黒板に描いてくれとせがまれた。彼らの注文通り手塚治虫のキャラクターをボードに描きまくった。そこに中村先生が入って来た。みんなは慌てて席に着いたが、私は黒板の前に立ちすくんでしまった。「誰だ、これを描いたのは!」と言って絵をじっと見つめている。消そうとすると、「このままでいい、今日は黒板を使わずに授業をする」。観念して下を向いている私をチラッと見ただけでお咎めは無かった。このエピソードは学年中に伝わった。その話を篠原君がすると、先生は、「今でもあの時のことは覚えています。上手な絵だった。あの漫画を見てヤマチョー君の将来が見えたと思った。だけど、漫画家にならなかったのですね」と言って絵を描くジェスチャーをした。そこに篠原君が口をはさんだ。

「あの事件は山本君よりも、あの情況で先生が取った言動が絶賛され、話題になったのです。そして生徒たちの先生を見る目が変わったのです。」

先生は、「そんなことがあったのですか」と、笑みを浮かべて、「今だから言えますが、山本君のニックネームは私が付けたのです。ヤマモトチョウジュウロウは、長すぎるので短くしてヤマチョーに」。

三人は、顔を見合せて笑った。

あの日は雨だった。コーヒーを飲みながらTVを見ていると、初子が、「晁さん、これを見て」と朝刊の見出しを指差した。記事には、東日本大震災による天井崩落事故で多数の死傷者を出し、閉館を余儀なくされた九段会館は、昭和九年に軍人会館として建設され、昭和十一年の二・二六事件では、戒厳令司令部が置かれたという歴史をもつ会館だ。戦後はGHQに接収され、昭和三十二年に日本政府に返還された。同年、政府は日本遺族会に無償で貸し付け、九段会館と命名して九月一日に再出発した。

従業員は特別な技術職を除き、戦没者遺族を採用した。営業部長、総務部長、経理部長等の重役は陸軍、海軍の元将校が勤め、平の従業員は復員兵、未亡人、遺児等であった。因みに激戦地硫黄島の生還者もいた。と、記載されている。

その会館に、私は先輩の紹介で洋食部の料理人として、採用されたのだった。初子は、それを思い出して、私に記事を見せたのだ。

開館初期は、全国にある遺族会の高齢者の方々が送迎バスで来館、靖国神社を参拝し、宿泊するホテルであった。宿泊者が使用する風呂場があり、午後八時を過ぎると従業員も入浴が出来た。ある晩、私が湯船につかっていると、五十代の男性が入ってきた。私に笑顔で接し、「どんな仕事をしているのですか?待遇はどう?」などと世間話をするように聞いてくる。洗い場に並んで坐したので、「おじさん、背中を流しましょう」と言うと、年齢を聞かれ、「二十歳です」と答えた。すると男性は、「その年なら戦争中は最前線で戦っている若者だ、そんな人に背中を流してもらえない」と断るので、「僕は毎日、調理場で俎板を洗っています。おじさんの背中も同じようなものです」と言い、手拭いで背中をこすった。

十月一日から結婚式場、劇場、宿泊施設など全館が営業を開始する。

その当日の早朝、大ホールに従業員三百二十人を集め、事務局長徳永正利の挨拶があった。その人は、あのおじさんではないか!翌日、局長室に風呂での無礼を謝罪に行った。局長は、「君は戦死した息子と同じ年なのです。裸の付き合いをした君を忘れない」と力強く手を握ってくれた。

それから二年後、徳永氏は遺族会の推薦で参院選に出馬した。私は五年間勤めた会館を退職し、数年後、結婚披露宴を、古巣の会館で催した。その時、大きな花束が届いた。贈り主は、国交大臣徳永正利であった。
                                       【山本晁重朗】

 ある朝、「『東京新聞』にチャンピオンの記事が載っていますよ」と、まりさんから電話があった。ポストに新聞を取りに行き、テーブルの上にひろげ、ページをめくった。古びたビルの一角にあるチャンピオンの写真は小さいが、カラー刷りなので、すぐに分かった。

 記事は、〝私の東京物語〟のタイトルで、青柳いづみこさんのエッセイだった。

 その内容は――、「阿佐谷南口の川端通りには、元ボクサーが経営するレストランチャンピオンの二階に、〝ランボー〟という名物バーがある。カウンターだけの店で、丸いスツールには割れせんべいのように、ひびがはいっていた。寡黙のおやっさんが一人でやっていて、ボロボロのジャケットから出したLPレコードを無造作にかけ、カクテルはみんな二百八十円。つまみは電気コンロであぶったスルメで、マヨネイズをつけていただく」であった。その通りである。それに付け加えると、おやっさんは口髭と顎鬚を生やした通称〝ほりさん〟と呼ばれている中年の男性である。ちなみに店名の〝ランボー〟はフランスの詩人アルチュール・ランボーから命名している。青柳さんはおやっさんと書いているが風貌は、色白で痩せ形。若い頃はイケメンだったと思う。その面影は今でもある。

 ランボーはチャンピオンがレストランに改築した時、家主の今井重幸氏が、二階にある寝室と居間を改築して出来た店で、ランボーのほかに同じスペイスの店と共同トイレがある。

 ほりさんはランボーを開店する前は駅の裏にあった小さなスナックの雇われマスターだった。その店の常連客の今井氏にすすめられて、バーをオーブンしたのである。私も〝ホリチャン〟のスナックの常連客だったので、親しい付き合いがあった。ホリチャンもスナックのマスターの時代からチャンピオンの常連であったが、異色の存在だった。それはボクシングファンで映画ファンでもなかったからだ。作曲家でもある今井先生はほりさんは詩人だと言っている。言われてみれば、そんな雰囲気はあるが、店内にはそれを裏づけるものは見当たらない。

 一番街を突き当たりまで行って左に曲ったところに、居酒屋の〝だいこん屋〟がある。マスターの松本純氏は私と同年輩で、若い頃は捕鯨船に乗り、太平洋を航海した荒くれ男だったという。それを象徴するかのように店の片隅に鯨のペニスが立掛てある。昼間、スーパーで買い物をしている時、よく出くわすが、いつも大きな下駄をはいている。電車の中で見かけた時も、スーツを着てネクタイをしめていたが足元を見ると、いつもの下駄だった。そのマスターは俳人であり、俳句の著書もある。エッセイも書いている。

 ランボーは伝説の店だ。壁に貼られた映画のポスターが。古いLPレコードからはブラームスが流れ、洋酒の瓶が時を刻みながらズラリと並んでいる。タイムスリップし、時間が止ったようなアナログな雰囲気はこたえられない。堀さんと言う詩人のようなマスターの店だ。と、書いている。

 漫画家永島慎二の著書に、『怪人ぐらいだあ』がある。怪人、変人を書いたエッセイで、その中に、〝ホリさん〟と知り合って十何年になろうとしているのにホリさんのことをあまり知らない。知っているならば、ランボーの下のキッチンチャンピオンのマスター、元ボクサーのチョウさんのことの方が、ヨホドよく知っている。ホリさんは、〝とうめいな恥ずかしさの風に吹かれて〟のような男で、詩を書く人か、小説なんぞ書いている人か、それとも何もしない人なのか私には分からない。と、書いている。

 永島慎二は阿佐谷在住の漫画家で、おもな作品は、『柔道一直線』、『漫画家残酷物語』、『フーテン』、阿佐谷の街を舞台にした『若者たち』がある。永島氏は当店の常連でもあり、『若者たち』のマンガのストーリーの中にチャンピオンが描かれたこともある。ボクシングファンで、ファイティング原田や海老原博幸の試合を話題にしていた。

 ある時、ホリチャンと土屋春一さんがカウンターで隣り合わせになったことがある。珍しくホリチャンが春さんに話しかけている。「ひとつ聞いていいですか?」と念をおしてから、「パンチドランカーってどんな症状になるのですか?」と質問した。ぺちゃんこの鼻をこすりながら、元プロボクサーの春さんは、自分の体験を語った。

 土屋春一はバンタム級の選手だった。東日本新人王戦で、KO率四割のハードパンチャー山口鉄弥と対戦した。初回からフルラウンド、山口選手の強打を浴びていたが、一度もダウンはしなかった。終了のゴングが鳴り、リングを下りた時の顔は腫れて変形していた。

 土屋春一の本職は、左官屋である。一日だけ休んで翌日から現場に出て仕事をした。ところが、壁にセメントをぬっていたのに、タイムスリップしたのか、気がつくと、仲間と弁当を食べている。次に気がついた時は風呂に入っていた。ところどころの記憶が抜けているのだ。そんな症状が一週間も続いた。これが、〝パンチドランカー〟なのかと思ったら恐くなってボクシングは止めた。

 ホリチャンは、春さんの顔をじっと見つめながら聞いていたが、「ありがとう」と言って店を出て行った。

 時計の針が三時をまわり、後かたづけをしているとホリチャンが入って来た。「晁さんに頼みたいことがあるので、明日の昼間アパートに来てくれませんか」と言うので、私は「いいですよ明日二時頃、伺います」と頷いた。

 昨夜、手渡された地図を見ながらアパートに向った。アパートは店から徒歩十分ぐらいの住宅街の片隅にある古い二階建てだった。二号室のドアには小さなカードが張ってあって、〝堀部純一〟と書いてある。誰かにもらった名刺の裏を使ったのだろう。私は気が付くと、その表札を凝視していた。それは誰にも知られていないホリチャンのフルネームが書いてあったからだ。ホリチャンは私の気配を感じたのかドアを開けた。粗末な六畳間だった。窓際の左側に机と椅子があった。机の上には灰皿と封を切ったタバコが、置いてあるだけで、私が想像していた、分厚い書物や筆記用具は見あたらなかった。部屋の中央に小さなちゃぶ台が置いてある。灰皿とサッポロビールが一本と、グラスが二つあった。ホリチャンはこの部屋に十年以上も住んでいると言っているが、ここには生活の匂いがしない。私が来るので、掃除をして、見られたくないものをかたづけてしまったのだろうか。それにしてもランボーの店内の雰囲気とはあまりにも違うので、立ったまま、部屋の中を見わたした。ランボーの店内と同じなのは、タバコの煙が霞のように漂っているだけだ。ホリチャンはヘビースモーカーだった。三、四本をたて続けに吸っている。ホリチャンは私がビールを飲み干すのを待って本題に入った。

 十日前、旅行会社の小川さんにツアーを組むのに定員が一人たりないので、格安にするからヨーロッパ旅行に行きませんか、と誘われた。ヨーロッパ旅行は子供の頃からの夢だったので、チャンスと思いメンバーに入れてもらった。だが、こんな小さな店の経営者が、ヨーロッパ旅行をするほど儲かっているのかと思われるのが嫌なので、常連客には一週間、里帰りをしていることにしてもらいたいと注文を付けた。ところが小川さんは酔っぱらって、「ほりさんをヨーロッパに連れて行くんだ」と親しい常連客二、三人にしゃべってしまった。その客たちに口止めはしたのだが、彼らは密かに餞別をくれたのだ。三日前、店を閉めて帰る時、階段で足を踏み外して下まで滑り落ちてしまった。その時、後頭部をしこたま打ってしまい、出血は無かったが、目まいがして、暫く立ち上がれなかった。アパートに帰り、氷で頭を冷やして寝た。朝九時に起きて、河北病院に向かったのだが、いきなり、「ほりさん何処に行くの」と今井先生に声をかけられた時、ホリチャンは駅のホームに立っていた。そこに来た記憶がないのだ。凄いショックだった。そして恐くなった。もし旅行中に、こんな事が起きたら、土屋春一さんと同じような事が起きたら、ツアーのメンバーに迷惑がかかる。ホリチャンは即座に小川さんの会社に電話を入れた。小川さんは納得して、旅行はキャンセルにしてくれたのだが、問題は常連客だった。餞別はもらっているし、他の客もうすうす知っているようだ。中止にした理由を、どのように説明すればいいのか、パンチドランカーになったなんて言いたくない。小川さんと相談した結果、旅行は予定通りに参加することにして、ヨーロッパ旅行に関する資料はアパートに送ってくれることになった。そして出発日の十月五日から七日間は、アパートからは出ないこと、人に見られないことが条件であった。そこで私が選ばれたのである。それは昼間、アパートにコンビニの弁当、その他の注文されたものを密かに届ける役目だった。

 十月五日、ランボーのドアに「十月五日から十二日まで里帰りをするので休みます」と張り紙がしてあった。私が毎日二時少し前に外出するので初子は不審に思っていたが、「散歩」と言ってごまかした。妻にも内緒にしてある。注文されたものを持ってアパートに行くと、ホリチャンは、ちゃぶ台の上にヨーロッパの地図をひろげていた。旅行の予定表を見ながら、「今はこのへんかな」とパリを指差している。私はそんなホリチャンを見て、毎日こんなことをしているのかと思うとタバコの煙が目に染みた。

 十月十三日、ホリチャンは八日ぶりに看板のスイッチを入れた。その日、ホリチャンは客にどんな対応をしたのかは知らない。

 それから一週間後、喫茶店ポエムに呼び出され、ホリチャンは無地の封筒を「お礼い」と言って私の前に置いた。「それで、どうでした」と聞くと、ホリチャンは、「餞別をくれた人たちには、小川さんがパリで買って来てくれたおみやげを、そっとわたしただけで、いつものランボーでした」と言った。二人の話がとぎれた時、「昨日、ビデオで見たんだけど、あれはやっぱり八百長だったね、真剣勝負じゃない」と隣の若者の声が聞えてきた。「アリは猪木に騙されたんだ、観客もなッ!」とつづいた。彼らが話題にしているのは、昭和五十一年六月二十六日にプロボクサーとプロレスラーが、日本武道館で対決した〝世紀の凡戦〟と言われている、いわく付きの試合だった。格闘技に興味がないはずのホリチャンが聞き耳をたてている。彼らの会話は偶然とはいえ、ホリチャンにとって、当て付けの皮肉に聞こえたのだろうか。私はそんなホリチャンに気を使い、〝異種格闘技(モハメド・アリVSアントニオ猪木)〟の疑惑についての説明をした。それにしても、元号が平成に変わっても、語り継がれているのには驚いた。そこで、あまり知られていないエピソードを話した。

 「あの試合の三人の審判員の中に往年の人気レフリーの遠山甲がいました。彼は天皇陛下の学習時代の盟友だった。お忍びで銀座によく飲みに行ったそうです。」

私は、席を立ちながら、「天皇陛下は、お忍びで遠山さんと銀座に飲みに行ったのを今でも覚えているのだろうか」と呟くと、堀部純一も立ち上がり、何時ものホリチャンの顔になった。
                                       【山本晁重朗】

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