"チャンピオン"日誌・あの日あの時

63年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。

 ある時、ジョナサンに「新しいアイデア料理がありませんね」とメニューを見ながら言われた。

私は、海外旅行をすると、その国の料理を食べ歩き、美味しいと思った料理からヒントを得ると研究し、試食し、チャンピオン風にアレンジする。そしてパートナーの初子に試食をしてもらう。彼女のOKが出ると、メニューに載せている。

タイは、バンコクに在住の友人がいるので馴染のある国だ。最初に出来上がったのが、タイ料理で有名なトムヤムの香辛料を使った豚肉料理だった。それを、〝バンコクポーク〟と命名した。思ったより好評なので、牛肉を使い、〝タイランドビーフ〟に。スパゲッティもトムヤムの味で、ラーメン風にして、〝タイ風メン〟に。バターでソティして、〝スパゲテイド・タイフーン〟などもメニューに載せると、大好評だった。店の近くにあるタイ料理店のシェフが、試食に来て、「こんな美味しい料理はタイにはない!」と驚いていた。

その次は、ケニヤに行った時、ナイロビのレストランで食べた牛肉料理にヒントを得て作った、〝ケニヤビーフ〟も人気があった。「これは、ライオンの肉ですか?」とジョークを言う客もいた。

このようにして、新作料理を創作するのを、よく知っているジョナサンは、私をロンドンに招いてくれた。彼のホームタウンに二日間滞在、ジョナサンの両親と車に乗り、家族ぐるみで名所を観光させてもらった。そして、一流のレストランにも連れて行ってくれた。どの店の料理も美味しいのだが、チャンピオンのメニューに載せるには高級すぎた。ジョナサンは、役に立たなかったと残念がっていたが、彼の好意には感謝している。

ある夜、海外旅行会社に勤めている山田氏が、〝歴史散歩友の会〟のパンフレットを持って来た。その中に、〝キューバ・メキシコ七日間のツアー〟があった。山田氏に「参加しませんか」と誘われた。

〝キューバ・その光と影〟のツアーは十一月十六日十七時四十五分、日本航空で成田空港から出発した。当時、アメリカと国交がないので、バンクーバー経由でメキシコへ行き、一泊して、キューバの首都ハバナに着いた。参加者はリーダーの山田氏を入れて七人。カストロの革命広場、ホセマルティ記念博物館、ヘミングウェイゆかりの地、その他を観光した。因みに、キューバは社会主義国家だが、ハバナの最大の国営キャバレー〝トロピカーナ〟のショーで、セクシャルに踊るストリッパーたちも公務員なのだろうか。

ハバナの最後の夜、山田氏と二人で市街に出た。活気が溢れている大衆酒場があったので入ると、観光客で、ほぼ満席。欧米人の三十代のカップルと相席になった。英語で挨拶をして席に着くと、男性が私の顔を見て、笑いながら、バックからカメラを取り出した。〝キャノン〟だった。それを見て女性が話しかけてきた。「あなたたちは日本人ですね、私たちはドイツから来ました」と言って目礼をした。私も小型のキャノンを携帯していたので、それを見せて話は弾んだ。彼女はビリギットと名乗り、「夫は英語が苦手ですが、ドイツ語は上手です、私よりも」と言って、肩をすぼめた。その夫が、「カメラは一年前に日本を旅行した時に買いました」と言いながら、私たちにレンズを向けて、数回、シャッターを押した。気が付くと、私もシャッターに指が触れ、カメラマンになっていた。四人は意気投合して、深夜まで飲んだ。別れ際に名刺を交換して、「グッドラック」と握手。キューバは治安が良いのでホテルまで歩いて帰った。

翌日、メキシコに直行した。市内車窓観光だった。滞在時間が少なかったので印象に残る出来事はなかったが、キューバでは得られなかった料理のヒントがあった。それはホテルの朝食で食べた玉子料理だった。帰国して早速メニューに載せた。〝オムレッド・メヒコ〟である。これもヒット料理になった。

キューバとメキシコで撮った百四枚の写真を整理していると、一枚の写真に目が止った。ビリギットが笑顔でポーズをとっているショットだ。ムービースターのブロマイドのよう。その写真をA4に伸ばし、手紙を添えて、ビリギットに送った。一カ月もたたない内に礼状と自家製のマーマレードが送られて来た。今までに英国人、米国人、カナダ人と文通をしていたが、物が送られてきたのは初めてだった。この人だったら良きペンパルになると思い、私も手作りの特製ドレッシングを送った。その礼状はすぐに来た。手紙には西ドイツの南の町バックナグの郊外に住み、リンゴ園を所有、冬は道路が凍るほど寒いと書いてあった。私は、〝寒い〟にヒントを得て、ホカロンを送ってみた。ホカロンには驚いたらしい。日本の文化に触れたと次の手紙に書いてあった。年末にはカレンダーが送られて来た。美しい風景の写真が十二枚、大きく印刷されてあり、それらは彼女たちが住む地方の名所だと説明があった。私はこんな素敵な所に妻と行ってみたいと社交辞令で書いた。すると、是非いらっしゃい、私たちが案内しますと誘われた。その時は躊躇したが、その後の文通で、行くことが具体的になった。秋がベストだと記してあったので、ドイツに行くのは十月に決めた。

シュツッガルトの空港に到着すると夫妻が迎えに来てくれていて、ベンツで彼女たちの家に直行した。二人は私たちが持参した土産の甚平と浴衣に袖を通し、「ワンダフル!」と喜んでくれ、ビールで再会の乾杯をした。そして、三階に案内してくれた。そこはホテルの小部屋のようだった。「ここを使って下さい」と言われ、リラックスした。翌日からビリギットが運転する自家用車のベンツで四日間の観光が始まった。

最後の夜は日本から持参したマヨネイズと醤油を使い現地で買ってもらった鳥のもも肉で、チャンピオンの人気料理のチキンソテーを作った。初子は醤油を使い、お清汁を作り、ビリギットはドイツの家庭料理を作り、日独合作パーティーになった。ビールを飲み、イギリスの民謡〝埴生の宿(ホームスイートホーム)〟を日本語とドイツ語で合唱した。

翌朝、ビリギットに「すっかりお世話になりました、滞在費を払います」と言うと、彼女は毅然とした表情で「あなたたちを私が招待したのです。ゲストからお金を頂けません」と、きっぱり言われた。彼女の隣に居るラウスコルブス氏は、笑顔で頷いている。その言葉にドイツ人の気質を感じ、好意に甘えた。

交流は今でも続いている。                          【山本晁重朗】

ある夜、春原氏が店に威勢よく入って来た。「カオサイが日本に来るぞ!」と言いながら、サウスポースタイルで、パンチを打つ真似をした。誰かが、「カオサイは引退したのに何をしに来るの?」と言うと、それを待っていたとばかりに、「渡辺二郎と試合をするのだ!」と答えた。

渡辺二郎は日本拳法四段、大阪の追手門学院大学のキャプテンだった。卒業すると大阪帝拳ジムに入門した。プロテストを難なくパスした拳法家はボクシング界に殴り込みをかけたのだ。その成果はすぐに出た。デビュー戦から連続KO勝ち、十六戦目でWBA世界Jバンタム(現・スーパーフライ)級タイトルをKOで獲得した。そのタイトル(WBA・WBC)を十回防衛し、八六年に引退している。片やカオサイは九三年に引退しているが世界Jバンタム級の王座を十九回も防衛している。

この二人を現役時代に対決させるのがファンの夢だった。その夢がエキシビジョンマッチで実現することになったのだ。

それを伝えに来た春原氏は喫茶店〝ポエム〟の店長だった。〝ポエム〟は、永島慎二の人気漫画「若者たち」の舞台になっている有名店である。春原氏はマニアックなボクシングファンだ。酒は飲めないので、普段は口数は少ないが、ボクシングの話題になると雄弁になる。ある時、『ワールドボクシング』誌の編集長が、「私の助手が欲しいのですが、誰か、いい人いませんか」と言うので、春原氏を紹介した。二人は意気投合し、春原氏は〝ポエム〟を辞めて、ボクシング出版社の社員になってしまった。

カオサイの何回目かの防衛戦だったか忘れたが、バンコクの郊外にあるギャラクシージムでカオサイの公開練習があった。私が取材に行くと、春原氏がリングサイドでカメラを構えているではないか。そっと近づき、背後から肩を叩こうとした時、「晁さん!春原さん!」と声がかかった。振り向くと、そこにテレビカメラを担いでいる横に、友田君が居たのだ。友田君は学生時代にボクシング部に所属していて、当店の常連客だった。その友田君はテレビ東京に就職して、ボクシングの担当者になり、初仕事でバンコクに派遣されていたのだった。この異国で三人が同じ目的で、出会ったのは、まさに〝サプライズ〟である。そんなエピソードもあった。

数日後、春原氏は招待券を二枚持ってきた。チケットには渡辺二郎とカオサイの顔写真が印刷されていて、〝夢の対決〟エキシビジョンマッチと書いてあった。

後楽園ホールは満員だった。選手の控室に行くと、関係者でごった返していた。カオサイはバンテージを巻き、中央でインタビューを受けていたが、何時も彼の隣に居るワイフの由美子さんの姿がなかった。あたりを見わたすと、ひとりポツンと片隅に立っていた。私は、「今日は、お久しぶりです」と声をかけると、由美子さんは私の顔をチラッと見て、「ごめんなさい!私はあなたを知りません」と言って下を向いてしまった。

「バンコクで何回もお会いしている山本です!」

由美子さんは、「でも知らない人です」と言うと、後ろを向いてしまった。

試合は時間通りに始まった。その前に赤コーナーに居るカオサイに由美子さんは大きな花束を贈呈していたが、気のせいか、ぎこちなく見えた。試合は四ラウンドで、三ラウンドはヘッドギアを付け、ラストラウンドはヘッドギアをはずし、素顔を見せてファイトをしている。観衆の声援で期待通りの好ファイトをしているのは分かるが、私には雑音にしか聞こえなかった。それは由美子さんが、〝あなたを知りません〟と言ったのは何故なのだろうか、理解できないからだ。カオサイが経営しているビリヤードに招待された時も、カオサイの運転で弟分のチャナのジムに案内してもらった時も、何時もカオサイの隣に居て、通訳をしてくれていた。そして、〝今度はあなたの店チャンピオンで会いましょう〟と言ってくれた由美子さんが、なぜ、あのような態度をとったのか、カオサイとの間に何かがあったのだろうか。カオサイはリングに上がると〝鬼〟になるが、普段は温厚な人柄で、引退してからも、二人仲良くテレビに出演している人気者であった。そして、私をミスター・ヤマモトと呼び、親しくしてくれた。

翌日、バンコク在住の青島氏に電話をした。由美子さんの昨日の言動を伝えると、「ボクが親しくしている新聞記者に聞いてみます」と言ってくれた。二日後、青島氏から電話があった。

「離婚していました。原因はわかりませんが、由美子さんは数カ月前に大阪の実家に帰ってしまったそうです。由美子さんが東京の試合場に居たのは、カオサイに呼び出されたのではないでしょうか。」

「やはり、国際結婚は難しいですか?」と尋ねると、青島氏は、「難しいと思いますよ。ボクの妻はタイ人なので、それは良く分かります。ボクも東京に帰りたくなった時が何回かありましたから」と答えるので、私は、「由美子さんはしっかり者で、意志の強い人だと思っていたのに、離婚するなんて考えられない」と言うと、青島氏は、「ボクは結婚して十二年になるけど、ボクなりに頑張っています」と話してくれた。

「ところで、昨夜、私の店に電話をしましたか?もしもしと何度も言ったのですが、相手は何も言わないのが気がかりなのです。」

青島氏は、「ボクではありません。それは、もしかすると、〝私はあなたを知りません〟と言った人では?きっとそうですよ!」と言って、青島氏の声は大きくなり、しゃべり続けているのに、私はそっと受話器を置いた。
                                       【山本晁重朗】

 小雨が降る夜だった。ソー君が久々に顔を見せた。ソー・ウィリアムスはシンガポールの留学生で、定食屋の「王将」でアルバイトをしている。日本語、英語、中国語を話せるが、中国語以外は、あまり巧くない。英語はTHの発音が出来ないので、「タンキュー」になる。ブルー・スリーのマニアックなファンで、ブルー・スリーの映画は全部見ていると自慢する。ソー君もカンフーの経験があるので、私にボクシングとカンフーはどっちが強いか!と何回もチャレンジしていたが、実現しなかった。

ソー君は突然言い出した。

「私は阿佐ヶ谷に二年近く住んでいましたが、来週、国に帰ります。タンキューでした。」

居合わせた常連客が、「送別会をやろう」と言うと、「タンキュー、でも時間がありません」と言い、私にシンガポールの住所と電話番号を書いたメモ用紙を手渡し、「晁さん、必ず来て下さい、紹介したい人がいます」と言い、ビールを一本飲んだだけで帰ってしまった。そこに、たまたま海外旅行会社に勤めている小川氏がいて、「バンコク、シンガポールの四泊五日の観光ツアーがあるよ、行ってみたら」と言うのを聞いていた初子が、「バンコクには常連客だった青島さんがタイの女性と結婚して、現地にいるでしょう、会いに行けるじゃない」と言うので、そのトラベルがすぐに決まってしまった。

数日後、来店した、『ワールドボクシング』誌の編集長の前田氏に、「バンコクに行くなら、世界Jバンタム級チャンピオンのカオサイ・ギャラクシーを取材してくれないか」と頼まれた。私は早速、青島氏に手紙を書いた。

バンコクに着くと青島氏に電話を入れた。添乗員に二日間の合間に自由時間をもらい、青島氏にカオサイが所属するギャラクシージムに案内してもらった。カオサイに英語で挨拶をし、名刺を出すと、私の顔を見て、たどたどしい日本語で、「アナタ日本人?私のフィアンセも日本人です」と聞くので、「そうです」と答えると、強持てのボクサーは笑顔になり、私の注文通りのファィティングポーズを撮らせてくれた。取材が終わった時、彼は、「今度私の家に来て、フィアンセを取材して下さい。フィアンセの由美子は日本人に会いたいと言っています」と英語で話し、住所と電話番号を書いた紙をくれた。

次の日、シンガポールの空港に着くと、ソー君が出迎えてくれた。彼の隣に見覚えのある女性がいた。ソー君は、「私の奥さんです」と紹介した。その人は台湾の留学生だったマーさんではないか!マーさんは、ジョナサンが二年前に店に連れて来た女性だ。ジョナサンは、『ジャパンタイムズ』の記者で、都内に住んでいる外国人に会うと店に連れて来る。今までにアメリカ人、ロシア人、アフガニスタン人、カナダ人らを私に紹介してくれたイギリス人である。マーさんは気さくな人で、日本語の発音がセクシーだと言う人もいて、当店のマドンナだった。その彼女が二カ月前に突然、姿を消してしまったのだ。私は思わず、「そうか、ソー君がマーさんを拉致したのか、君は凄い!スーパーマンだ」と言うと、ソー君は、「いいえ、ドラゴンです」と答える。ドラゴンはブルー・スリーの役名である。

数年後の深夜、青島氏とバンコクの野外レストンで飲んでいると、警官に職務質問された。腰につけたピストルを物珍しそうに見ていたからだろう。私が、「カオサイに会いに来たのです」と答えると、怪訝な顔になった。そこで、カオサイと私のツー・ショットの写真を見せた。警官の態度がとたんに変カオサイ&晁さんり、ビールを一本ご馳走してくれて、「何か困ったことが起きたら、ここに連絡しなさい」と、カードまでくれた。カオサイの写真は水戸黄門の印籠のような威力があるのに驚いた。引退してもカオサイの人気は衰えていない。世界Jバンタム級タイトルを十九回の防衛記録を残して引退、皇太子(現国王)の媒酌で日本女性の由美子さんと結婚した。

翌日、バンコクの郊外にあるカオサイの邸宅に電話を入れた。約束の時間より、三十分早く着いてしまった。カオサイは笑顔で迎えてくれて、「私のワイフです」と由美子さんを紹介し、応接間に通された。正面にある飾り棚の中央にチャンピオンベルトが置かれ、そのまわりには数え切れないほどのトロフィーが無造作に置いてあった。カオサイの隣に座り、通訳をしてくれている由美子さんとはこの日が初対面である。写真で見るより遥かに美人だ。眼が大きくて、肌の色は南国の直射日光を拒むかのように白い。スンナリとした脚、背はカオサイより少し高そう。豊かな表情と声優が台本を読むような口調に知性を感じ、とても魅力的だ。そして、流暢なタイ語を話す彼女が、「この一年ぐらい日本語でお話をしていないのです。今日はたくさんおしゃべりをしましょう」と身を乗りだした。

「それでは、カオサイさんとの馴初めを聞かせて下さい。

平成元年四月八日、カオサイは横浜文化体育館で松村謙二の挑戦を受けるために来日した。たまたま、その試合の招待券を手にした由美子さんが、女友達と大阪から観戦に来ていた。試合後、ホテルのティールームで友人とおしゃべりをしていると、突然背後から誰かが話してかけてきた。ナマリのある英語だ。振り返ると、小一時間前、リング上で日本の選手を殴り続けていたタイ人だった。これが、カオサイとの出会いである。由美子さんは、社交辞令でサインを求めたりしているうちに祝勝会に出席するはめになってしまう。会場は、新宿のタイ料理店。そこまで行くマイクロバスの車中で、カオサイは由美子さんの自宅の住所と電話番号を聞き出している。カオサイは帰国すると、ラブコールとラブレターの猛攻撃。その熱意にうたれ、バンコクに行くことにした。一週間の滞在中にカオサイの素朴でやさしい人柄に触れ、生涯を共にする決心をした。

カオサイのプロポーズの言葉は、「ボクには、お金も土地も車もある。無いものは一つだけ、それはワイフです。ボクのワイフになる人は、あなたしかいないのです」だったと。言い終わると、由美子さんはカオサイと目を合わせて笑った。帰り際にご馳走になった手料理を誉めると、由美子さんは、「今度お会いするのは、あなたのお店〝チャンピオン〟にしましょう」と言ってくれた。

その言葉に、〝期待〟して豪邸を後にした。
                                       【山本晁重朗】

 かつて、阿佐ヶ谷に映画館が三軒あった。七〇年代に入ると駅の近くにあるオデオン座だけになってしまった。そこの支配人の県氏も常連客であった。いつも月初めに来店、「今月分だよ」と言って、帰り際に招待券を十枚置いていく。それを映画好きの常連客に配っていた。県氏は独身で、「高倉健と同じ歳だ」が口癖だ。「若い時は映画俳優になりたかったが気がついたら、映画を見せる方の仕事をしている」と、酔っ払うとひとり言のように呟く。ある夜、県氏はめずらしく同年配のステキな女性を連れて来た。焼酎の水割を飲みながら、女性と青春時代に見た懐かしい映画の話で盛り上がっている。それを興味深く聞いていると、私はヤンチャな少年時代を思い出した。

映画をただで見まくっていたのである。映画が終り、観客がどっと出て来たところに、まぎれ込んで入ったり、友人五人から一人分の入場料金を集めて、チケットを一枚買い、入場するすきを見て、非常口を開け、外で待っているみんなを入れたこともある。夕方、雨が降るとチャンスだった。傘を持って映画館に行き、「お父さんが見に来ているので、これを届けに来ました」と言って中に入る。もちろん、父など場内にはいない。そんなことをやっていたのは、映画を見るのが目的だけではなく、スリルも楽しんでいた。さらにエスカレートして映画館の裏側にあるトイレの窓から入るのを思いついた。ある夜、トイレの窓から入ろうとして足を入れるとギュッと掴まれた。「しまった」、どうしようと思っていると、中から女性の声が、「だめこんなことしちゃ、そんなに映画が見たいのなら入口にいらっしゃい。今日は勘弁してあげるから、二度とこんなことをしちゃだめよ」と怒られた。入口に行くと若い女性が立っていた。

「君なのね」

私がうなずくと中に入れてくれた。その女性は映画のヒロインの〝天使〟のように見えた。以後、映画のただ見はやめた。

そんな悪だった少年時代を思い出した切っ掛けは、県氏の連れの女性が、かつて阿佐ヶ谷の映画館に勤めていた話をしていたからだ。この女性に〝天使〟のことを聞けば、彼女の近況が分かるかも知れないと思った。二人の会話がとぎれた時、それとなく彼女に尋ねた。

「パールセンターにあった松竹座を知っていますか?

彼女は、「若い頃、あそこにいました」と言い、怪訝な顔をしたので、まさかと思ったが、トイレの話をすると、彼女は立ち上がり、私をじっと見詰める。

「あなたがあの時の少年なの?目の前に足が出てきたので、びっくりしたわ!」

カウンターがなかったら抱きつかれそうだった。

この奇遇な再会のエピソードは、パートナーの初子が音頭を取って結成した〝映画フレンド会〟でも話題になり、ゲストに彼女を呼ぼうという声もあったが、さすがにそれはやめることにした。

映画フレンド会は毎日第三水曜日の七時から会合があり、十数人が集まる。テーブルを囲み飲食をしながら、三時間ぐらい洋画、邦画を問わず、古今の映画のディスカッションをする。

ある晩、「デビュー戦が決まったぞ」と、金子正義がドアを開けながら叫んだ。カウンターの客が一斉に振り向いた。正義は二十六歳。本業はペンキ屋。二十五歳から近くにある石橋ボクシングジムでトレーニング。ジムの帰りに来店し、ビールで乾いた喉を潤している常連客だ。

「よし!みんなで応援に行こう」と立ち上がったのは学生時代に日本拳法のキャプテンだった小宮山晶治だ。

正義の試合は、トーナメントの新人王戦だ。初めて見に行ったのは、たったの二人だったが、彼らがボクシングの面白さを得意げに話すので、正義の試合がある度にファンは増え、準決勝戦までに勝ち進んだ時には、〝正義の後援会〟ができてしまった。会長に元ライト級新人王の咲谷達夫がなった。

映画フレンドの会と正義の後援会は対立はしなかったが、なんとか、この二つの会を統一しようと思い、映画界とボクシング界に共通している著名人のサインを一枚の色紙に書いてもらうことにした。〝四角に賭ける青春〟のタイトルで対談したことがある仮名で書くと同姓同名になる二人を選んだ。日本人として初めての世界王者世界フライ級チャンピオン)の白井義男氏と映画評論家で、『キネマ旬報』編集長(一九六八年から七六年)だった白井佳夫氏である。

まず阿佐ヶ谷在住の白井佳夫氏を訪ねて、「リングとスクリーンは四角です。この四角の色紙に、お二人のサインをいただきたいのです」と、お願いすると快く受けてくれた。ところが、佳夫氏は、「白井義男さんに先に書いてもらいなさい」と言い、「その時、この本を渡してね」と、著書『監督の椅子』を持たされた。

後日、後楽園ホールの解説者席に居る白井義男氏に本を渡し、サインの趣旨を述べると、「分かりました。でも此処では書きません。仕事場ですから、私の家へ来て下さい」と言って、住所と地図を書いてくれた。家は川崎だった。翌日、指定された時刻に訪問をした。奥さんが笑顔で迎えてくれ、応接閒に通された。義男氏は色紙の左半分に、さらりとサインをした後、「この本を白井さんに」と言って、『カーン博士の肖像』を手渡された。その本と色紙を持って再び佳夫氏宅へ。佳夫氏は、義男氏のサインをしばらく見てから、ペンを手にした。サインは表札に書くような端正な文字だった。それはグローブをイメージしたスマートなサインと対照的である。その色紙を見ていると、二人のサイン、それぞれの人生と、ボクサーとライターとしてのプライドが表現されているような気がした。

貴重な一枚である。
                                       【山本晁重朗】

  ある夜のあの時は、珍しく客は一人も居なかった。パートナーの初子とテレビを観ていると、細身の中年女性が颯爽と入って来た。昔テレビで観たことのある顔だった。

「いらっしゃいませ」と言って、彼女と視線があった時に誰だか思い出した。
 
失礼ですが、ヨネヤマ・ママコさんではありませんか?」

すると、彼女は「良く分かったわね」と言いながら店の中を見わたしている。「この場所は私の寝室だったの、そしてこの裏のスタジオは私の稽古場だったのよ。結婚するのでここを出て行ったら、あの先生はここを改造してレストランにしたのね。このへんに事務所があったのだけど、今はお店の一部になってしまっている。もうあの頃の面影は何もないけど懐かしいわ」と、立ったまましゃべり続ける。

ヨネヤマ・ママコは、パントマイムの俳優だった。パントマイムは役者が身ぶりと表情だけで演じる無言劇で、フランス映画〝天井桟敷の人々〟のパントマイムが有名である。

ヨネヤマ・ママコはクレージーキャッツのテレビ番組のレギュラーで、植木等とからんで踊ったり、コントを演じたりしていた人気者であった。もちろん台詞は一言も無い。そんな彼女が、私の前で身ぶり手ぶりで、おしゃべりをしている!それは奇妙な光景であった。

そのことを、親しくしている有線放送の社長に話すと、「彼女はきっと自分を世に出して下さった恩師にお礼の挨拶に来たのでしょう。その帰りに、この店を覗いたのだと思う」と言って、社長はビールを飲み乾してから、続けて話してくれた。

「数カ月前にジーパン姿の若者がオフィスにデビュー曲を売り込みに来たのだが、この歌がヒットしたら必ずお礼の挨拶に来ますと言って、地酒の一升瓶を置いていった。その歌を毎晩有線に流してやったら、ヒットしちゃったよ。」

その歌は、〝星影のワルツ〟だった。

「あの若者は、今やテレビで歌っているけど、それっきりだ。有名になると、そんなことは忘れちゃうんだね。」

ある晩、店を開けるのを待っていたように、体格のよい青年が入って来た。常連客の誰かに紹介されたのだろう。青年は「私は歌手です。私の歌を聞いてください」と言ってカウンターに小型のテープレコーダーを置いた。「歌うならお客さんが大勢いる時の方が、いいんじゃない?」と言うと、青年は「マスターに聞いてもらいたいのです」と答え一礼して、「私の名前は日高正人です。デビュー曲の〝鹿児島の雨に濡れて〟を歌います」と言って、テープの伴奏を流し歌い始めた。ところが彼の声はマイクを通していないのに、レコードを聞いているような響きと雰囲気があった。私は即座に有線放送の社長を店に呼んだ。社長も日高を気に入り、「有線に流そう!リクエストが来るぞ」とエキサイト。

当時、日本テレビが全日本歌謡選手権という人気番組を放送していた。無名の歌手が出場し、厳しい審査を通過して十週勝ち抜くとチャンピオンになるシステムだった。この番組から五木ひろし、八代亜紀らが優勝してスターの座に就いている。日高は、この番組にチャレンジしたいと言うのだが、彼は鹿児島県から上京して建築会社に就職、自主制作でレコードを一曲出しただけなのだ。私はこの番組への挑戦は無謀に思えた。そこで、「君が優勝したら世界チャンピオンの輪島功一とステージで歌わせてやる」とハッパをかけた。輪島は二十八歳で世界王者になり、三度も同級王座に就いた努力の男、根性の男と称えられたボクサーである。試合後リングで、自分でレコーディングした〝炎の男〟を熱唱した人気者である。

奇跡か実力か、日高は優勝した。困った!私は輪島と面識がないのだ。考えた末、大先輩の元日本バンタム級チャンピオン石橋広次氏のジムに相談に行った。会長は快く引き受けてくれ、輪島のマネージャーに掛け合ってくれた。だが輪島は多忙と断られてしまった。がっくりして帰ろうとしていた時、電話が鳴った。輪島からだった。

「日高君との約束の話を聞きました。明日会いましょう。」

石橋会長は無言で親指を立てた。

一週間後、日高は週刊誌を抱えて来店した。頁をめくるとステージで歌う日高と輪島のツーショットが載っていた。
                                                 【山本晁重朗】

 〝大杉漣さん急死〟の新聞記事を見た。テレビでも放映された。六十六歳の死は、あまりにも早すぎる。新聞によれば、一九九〇年代に、北野武監督の映画『ソナチネ』、『キッズ・リターン』、『HANA- BI』などに出演していたとある。その頃、北野映画の助監督をしていた大崎章氏が、ある晩、「一緒に仕事をしている仲間です」と言って、三十代の役者を三人連れて来たことがあった。その中に大杉漣がいたと思ったのだ。ところが、妻の初子は、店に来たのは大杉漣ではなくて、石橋凌だと言うのだ。私の思い違いであろうか。
 私は東京オリンピック開催の年にこの店を開業してから、その日の出来事と来店した気になる人物の名前を日記帳に書き続けている。押入れの奥に年号順に重ねてある日記帳を取り出し、九〇年代のを、片っ端から読んでみると、確かに、その日に来たのは石橋凌であって、大杉漣ではなかった。
 古い日記を読むのも面白いことに気がつき、頁をめくると、現在一線で活躍している人の名前が次々と出て来た。スポーツライターの藤島大氏、二宮清純氏、評論家の川本三郎氏、映画監督の小林政広氏等である。そして十数年前のある事件を思い出した。
 暑い日だった。家に市川市所轄の刑事が二人来た。常連客の奏三郎の息子桂吾のアリバイの確認に来たのだ。去る四月二二日の夜、二十五歳の男性が殺害されたそうだ。被害者は札幌生まれで北大を卒業。東京都内の某会社に勤務、市川のアパートで一人暮らしをしていた。警察が被害者の経歴を調べていると容疑者に秦桂吾が浮かんだのだ。桂吾は神田生まれのチャキチャキの江戸っ子。なぜか北海道に行き北大に入学している。卒業すると東京に戻り出版社に就職して、市川駅の近くのアパートに一人で住んでいる。そのアパートの隣の部屋の住人が何者かに殺されたのである。被害者と桂吾は同年配であり、北大を卒業して上京したのも同時期だった。驚いたことに二人は札幌でも同じアパートに住んでいたのだった。そればかりかアパートの近くにある貸本屋の会員でもあった。ここまで二人の接点があるのに桂吾は、その男の顔を知らないし、話したこともないと供述している、と刑事は言う。
 それが事実ならば、あまりにも偶然過ぎないか、警察が桂吾を疑うのは当然である。
 「桂吾は四月二二日の夜、父とあなたの店に飲みに行ったと言っているのですが」と尋ねられ、私は「その日はボクシングを観に行ったので店は休みました」と即答した。
 刑事は「なぜその日を覚えているのですか」と聞くので、「私が教えた選手の応援に行ったからです」と答えた。刑事二人は顔を見合わせ頷き、立ち上がりかけた時、「一応、日記を確かめてみます」と言って日記帳を持って来た。そして、その日の頁を読んだ。
 「試合は昼間だったので、夜、店を開けた。秦親子が最初の客だった」と記してあった。刑事は愕然として日記帳を凝視していた。
 翌日、秦桂吾から電話があった。
 「ありがとう!」
 声が弾んでいた。
                                       【山本晁重朗】

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