"チャンピオン"日誌[あの日あの時あの人]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。19年2月より、新たに、「あの日あの時あの人」シリーズを開始。

温かくなったコーヒーを飲みながら、「徹子の部屋」を見ていると、ケイタイが鳴った。ジョナサンからだった。

「三時に阿佐ヶ谷駅の南口に来れる?」

私に会わせたい人がいるという。その時間に南口に行くと、ジョナサンはブロンドヘアーとブラックヘアーの若い女性と立話をしていた。ジョナサンは、今までに、イギリス人、アメリカ人、カナダ人、ロシア人、ギリシャ人等を紹介してくれている。この二人はどこの国の人だろうか?

三人を近くの喫茶店に案内した。席に着くと、ブロンドの女性を指差して、「この人がチョーさんに是非会いたいというので連れて来ました」。

彼女の肩に手をかけ、「このひと見覚えがありますか?」。私が首をかしげると、ヒントはイギリス人です。名前はハンナ・ニコール」。

私が彼女の顔を、じっと見詰めると恥ずかしそうに微笑んだ。その表情には見覚えがある。それにファミリーネームの〝ニコール〟が結び付いた。

「エロイズの娘さん?

ジョナサンは、「ピンポン」。ブラックヘアーの女性はスペイン人で、ハンナの親友だった。

ハンナは立ち上がり自己紹介をした。私も英語で応対したが、このところ英語をしゃべる機会がなかったので、それがブランクになり、次の言葉がスムーズに出て来ない。それに気が付いたジョナサンが「私が通訳しましょうか」。ハンナの了解をえると「ハンナがチョーさんに会いたかった理由を話します」と続けた。

私が物心ついた頃から、リビングルームの壁の片隅にボクシングのグローブが吊るしてあった。それを気には留めなかったが、高校三年生の時、家にボーイフレンドが遊びに来た。彼はグローブを見て、「誰かボクシングをやる人がいるの?」と興味を示した。それまでは、グローブの存在を気にしたことがなかったが、友人に言われ、初めて意識した。そして、母に尋ねた。母は懐かしそうにグローブを手にして「これは私たちの結婚のお祝にもらった物なの」。二十七年前、母がステファンとシンガポールで挙式をあげた時、日本人のチョーさんが「ダーリンとケンカをする時に使いなさい、と言ってくれたものです。披露宴の会場は大爆笑だった」と振り返る。

それを聞いて、私はびっくりした。イギリス人のギャグとジョークは日常茶飯事だが、そんなことをする日本人がいるのは意外だった。その人はどんな人なのか会ってみたいと思った。あれから十年経った今日、ジョナサンのおかげで、やっとチョーさんに会えたのが嬉しい。と、ジョナサンは声優のように抑揚をつけて語った。

ハンナの母エロイズはロンドン生れで、東京にある英会話教室の先生だった。ある時、渋谷の街でスカウトされて、〝イトウヨウカドウ〟のTVのコマーシャルに出演したことがある、ステキな女性だった。ハズバンドのステファン・ニコールもハンサムで、美男美女のカップルであった。

彼等は結婚して、ロンドンに住んでいる。精力的なカップルで、毎年ベビーが誕生。年子で五人。それが、みんな女の子だった。ハンナは、その長女である。エロイズからのクリスマスカードには、いつも成長する彼女たちの写真が載っている。これぞ〝美女ありき〟だった。

ハンナに「あのグローブのギャグには何かヒントがあったのですか?」と聞かれ、「それは、ベストフレンドのジョナサンの影響でしょう」と答えた。

あの時はジョナサンが、ロンドンに私を招待してくれた、滞在二日目の夕方だった。私が手にしているカメラを見て、「何か写したいものがありますか?」と聞くので、「ダイアナ王妃を写したい」とジョークを言うと、ジョナサンは困った表情になり、「ごめんなさい。昨日予約の電話をするのを忘れていました」とジョークで返されてしまった。更に「エリザベスなら大丈夫です」。私は「えっ、女王ですか?」。ジョナサンは片目をつぶって、「いいえ、私の妹です」と、またやられてしまった。確かに、妹は女王と同じ名前だった。ビールを飲みながら、そんな雑談が三時間近く続いた。別れぎわに、「またお会いしたいですね」と言うとハンナは、「三度目はロンドンで会いましょう」。私は驚いて、「二度目でしょう?」。ハンナは、にっこりと笑い、「チョーさんが母にグローブを手渡し時、私は彼女の胎内にいたのですよ」。

私は思わず呟いた。「オーマイガード」。

阿佐谷の商店街パールセンターは八月に七夕祭り、九月は天祖神社の例大祭がある。南はパールセンター、北はスターロード、その他の商店街から御神輿が出る。若者が威勢よく担ぎ、町内を練り歩く。お祭りは二日間で、一日目は担ぎ手が多い。三十人か四十人いるが、二日目は、担ぎ手が少ない。そこで、チャンピオンの常連たちの出番になる。リーダーは輿石嘉之氏で、通称神輿のコーチャンである。コーチャンは神田の生まれのチャキチャキの江戸っ子だ。子供の頃から、お祭りが大好きで、お祭りがあると何処にでも出かけて行き、御神輿を担いだ。今までに、神田明神、花川戸、三社祭。遠方では沖縄まで、自分の顔のきくところへは何処へでも担ぎに行ったベテランである。十年前に阿佐谷に引越して来てからはパールセンターの御神輿を仕切っている。

阿佐谷パールセンター御神輿コーチャンは江戸っ子特有の〝ヒと〟がうまくしゃべれない。引越が〝シッコヒ〟に、お汁粉が〝ヒルコ〟になる。台湾出身の歌手オーヤン・フィフィが、〝オーヤン・シーシー〟になってしまう。そんなわけで、英語をしゃべって、通じたことがないと言っている。それが外国人嫌いの原因かも知れない。「オレは〝ジンガイ〟は嫌いだ」が口癖【左・晶チャン。中・コーチャン】       であった。

あの日は担ぎ手が十三人集まった。その中にジョナサン、デビット、リチャードの三人かいた。コーちゃんの言う〝ジンガイ〟である。パールセンターの老舗で、平田屋化粧品店の晶チャンが、町内会のハンテンを人数分持って来た。にわかに着替え室になったチャンピオンで、担ぎ手が着替えているところに、エロイズ、ジェーン、パメラが入って来た。彼女たちのハンテンはないので、御神輿を担ぐ人の付き添え役になり、担ぎ手がピンチになった時に交代する〝変り手〟と一緒に行動することになった。コーチャンの「よし!行くぞ!」の掛け声で御神輿が待っているパールセンターに向かった。

チャンピオン一家が入ると担ぎ手は四十人ぐらいになった。「ワッショイ!「チョイサ!」の掛声でリズムを取り、御神輿は大きなうねりとなり動き出した。買物客でごったがえす商店街を一時間ぐらい担ぎ、十分ぐらいの休息を取った。お店の人が振る舞ってくれるビールを飲みながら、ジョナサンがハンテンから肩を出し、「ここが痛い!」。見ると赤く腫れて痛痛しい。デビットとリチャードの肩も腫れている。それを見たコーチャンが、「あんたたちは背が高いから担ぎ棒がまともに肩に当っちゃうんだ、どうする、もう止めるか?」とにらみつけると、ジョナサンが「いいえ、最後まで担ぎます!」。日本語できっぱりと言った。再び御神輿が威勢よく動き出した。

雨が降ってきた。だんだん激しくなり、土砂降りになった。弥次馬は近くの店の軒下に避難した。変り手も御神輿から離れたが、担ぎ手はずぶ濡れになりながら更に気合を入れて担いでいる。その横にエロイズ、ジェーン、パメラたちもずぶ濡れになりながら御神輿に付添っている。私が「何時までそこにいるの、早く!あそこの軒下に行きなさい!」と怒鳴るとエロイズが「ジョナサンたちが濡れながら担いでいるのに私たちは離れられません!」。花棒を担いでいたコーチャンはその遣り取りに気がついたのか、私に大声で言った。

「あいつらは根性があるし人情もある、江戸っ子とおんなじだ。オレ、〝ガイジン〟好きになった。

御神輿を担いだ人に銭湯の入浴チケットが配られる。私はデビットとリチャードを連れて一番街の銭湯に行った。浴場はすいていた。洗い場に七、八人しか居なかった。富士山の壁画をバックにして三十代の体格の良い若者が二人、湯船の縁に腰掛けていた。二人の背中には、唐獅子牡丹と桜吹雪の見事な入れ墨があった。彼らはそれを見せびらかしているように見えた。デビットたちは、それにすぐ反応した。気がついた私は「イギリス人が、あなたたちの入れ墨を近くで見たいと言っていますが」と言うと二人は「どうぞ」と快く受けてくれた。デビットたちは「ワンダフル!ファンタステイク!」の連続だった。ここまでは良い雰囲気だったが、唐獅子のお兄さんが、デビットの左腕にある小さなバラのタトウを見つけると、それを指差して、「これは何だ、ラクガキか、洗ったら消えちゃうんだろう」。自分の背中を指差して、「よく見ろ!これは芸術作品だぞ!」と威張りだした。洗い場は険悪なムードになった。その時、「チャンピオンのおじさん、どうしたの」と子供の声がした。店の取り引き先の八百屋のアッチャンだった。父親と来ていた。アッチャンはおちゃめの五歳児だ。私はアッチャンに耳打ちして、入れ墨のお兄さんの前に行かせた。アッチャンは入れ墨を指差して「すごいね、この入れ墨いくらしたの!」と大声で叫んだ。驚いたお兄さんは「このガキの親はどこにいるのだ!」と怒鳴った。私は「はい!ここにいます」と言って手を上げた。そして「唐獅子牡丹も、子供には勝てないね!」と言って大声で笑った。周囲にいた人たちも笑い出し、それが浴場中に反響した。

 

 どちらが先に手を差し出したのか見ていなかったが、デビットと唐獅子のお兄さんは照れ臭そうに握手をしていた。その横にリチャードがレフリーのような顔をして立っている。

 アッチャンの父親に「やくざ恐くないの」と聞かれたので、「安倍譲二さんから貰った本に、〝入れ墨を見せびらかして粋がっている奴は小心者だ〟と書いてあった」と八百屋さんの耳元で囁いた。
                  
                                       【山本晁重朗】
 

 ある時、耳を澄ますと隣のスタジオから、〝カタコト、カタコト〟と金づちで床を叩くような音が壁を通して聞えてきた。その音に気がついたエッチラが「隣のスタジオで大工さんが仕事をしているのかな」と呟いた。私もキャベツを切るのをやめて、耳をかたむけると、たしかにリズミカルな音が聞えてくる。その音が、その日から毎晩、同じ時間に聞えてくるので、常連たちの話題になっていた。そんな夜、中年の女性が入ってきた。背が高くて大きな瞳の映画女優のような人だった。彼女は常連客に「今晩は、私は隣のスタジオでフラメンコの稽古をしている小松原庸子です。よろしく」と挨拶をした。エッチラが立ち上がり「貴方が大工さんだったのですね」と言われた彼女は一瞬、首をかしげたが、エッチラが言わんとしていることに気がつき「あの音は靴を踏みならすサパテアードです」。
 その時、小松原さんに風貌が似ている女性が入って来た。小松原さんは「彼女はフラメンコのギターリストで、私のパートナーの戸田恵子さんです。よろしく」と紹介した。このコンビは稽古が終わると時々店に顔を見せてくれた。赤ワインを飲み、常連客とおしゃべりをする。そんな気さくな人柄の二人は彼らの人気者になってしまった。

 数ヶ月後、小松原さんが一人で来店、「来週の月曜日に新宿の朝日生命ホールでフラメンコを踊ります。見に来てね」と言ってチケットをくれた。それを常連客に話すと是非見に行きたいと言うので人選して四人連れて行った。会場は満席だった。私は映画でフラメンコを見たことはあるが、舞台で見るのは初めてだった。戸田さんのギターのリズムに乗ってダイナミックに踊る小松原さんの情熱的で、セクシーな表情に魅了された。カメラを持ってきていたので舞台に近づき、シャッターを切りまくった。踊りの動きが早いので、撮るのは難しかったが、自分なりに踊りのパターンを捕らえてみた。三十六枚撮りのフィルムを一本撮ったが、出来あがった写真を見ると、まともなショットは一枚もなかった。後日、来店した小松原さんに「チョーさん、写真を撮ったでしょう。見せて」と言われたので、「見せる写真が一枚もありません」と断ると、「私がどんな踊りをしていたのか見たいのです」と言うので、私は仕方なくネガをプリントして全部渡した。すると、「踊りの流れを見たいのでフィルムも貸して下さい」と言うので、ネガをべた焼きにして、事務所に届けた。

 小松原さんの公演の五日後、舞台照明家の刈屋氏が、数日前の日付の新聞を持って来た。

「小松原庸子の記事が載っているぞ

そこには小松原さんが踊っているワンショットが載り、〝フラメンコダンサー小松原庸子、華やかなデビュー〟と絶賛する見出しがあった。小松原は五八年、単身スペインに渡り、エンリケ・エル・コホにフラメンコを学び、スペインのステージに立っている、フラメンコの第一人者である、と記してあった。それを読んだ常連客は、「そんな、有名な人だったのか」と顔を見合せて驚いた。

小松原さんは六九年に、小松原庸子スペイン舞踊団を結成した。一回目の公演の時、「チョーさんの写真を使わせてね」と言うので、どの写真を使うのか気掛りだった。ある夜、晶チャンが「駅前の喫茶店に小松原さんのフラメンコのポスターが張ってあった」と教えてくれた。見に行くと、入口の左側の壁に、新聞紙の半分ぐらいの大きさのカラー刷ポスターが張ってあった。小松原さんが踊っているショットで、確かに私が撮った写真だった。私はポスターを凝視した。そこから、フラメンコを撮るシャッターチャンスのヒントを得た。

小松原さんの照明係の刈屋氏にポスターの話をすると、「チョーさん、写真上手だよ」と誉められた。その気になった私は、フラメンコの公演のホールに足を頻繁に運んだ。そして、自称、舞踊団の専属カメラマンになった。


 ある時、私が何時もステージの写真を撮る時に座る椅子に、年輩のカメラマンがいた。三脚を立てて、望遠レンズを付けたニコンを操作している。目が〝ギョロッ〟として大きい、どこかで見たことのある人物だった。ホールのマネージャーに聞くと、「秋山庄太郎さんです
」と教えてくれた。秋山氏は写真界の大御所だ。私は彼の邪魔にならない場所で、その日は撮影した。

小松原舞踊団の事務所にネガとべた焼きを届けに行った。テーブルの上に葉書サイズの写真が四枚あった。小松原さんが「秋山先生が撮った写真です」と言うので、見せてもらった。一枚ずつ見ながら「この情熱的な表情はいいですね。このカメラアングルも凄い」と感想を述べると、小松原さんは「ここに写っているフラメンコダンサーは秋山先生のオリジナルで、私はその被写体にすぎません」と写真を指さして「こんな恐い顔を撮るなんて」と素っ気ない。

私が持って行った写真を見て、「チョーさんは何時も私の好きなポーズを写してくれている、だからチョーさんの写真を使うのです」と言われて、返答に困惑した。そのことを作曲家の今井先生に話すと「チョーさんは小松原に惚れているな、それが写真に出ているのだ」と言われた。

小松原さんの兄貴は大映の男優、菅原謙次である。兄貴には六歳の息子がいる。ある夜、小松原さんから電話があった。兄貴の息子は日本舞踊を習っている。明日、歌舞伎座で発表会がある。その写真を撮って欲しい、とのことだった。私は小松原さんに言われた時間に、歌舞伎座の裏口から中に入った。楽屋には小松原と書いた札が掛かっていると聞いている。その部屋を探そうとしていると、細身の若い男がいたので、「小松原の楽屋に行きたいのですが」と声をかけた。「私が案内します」と言って、楽屋まで連れて行ってくれた。その人は「ここです」と言いながら部屋の中まで一緒に入った。そして小松原さんに挨拶をすると、二人は親しく話をしている。その人が帰ってから、小松原さんは「チョーさん、素敵な人に案内してもらったのね」と言うので、「あの人は誰ですか?」と尋ねた。

「知らなかったの、玉三郎さんですよ」

「えっ、あの女形のですか?

菅原氏の息子の舞台写真を三十六枚撮りのフィルムで一本撮った。翌日、写真を届けると「玉三郎さんのは無いの?」と言われ、「息子さんの写真を撮って、すぐに帰りました」と答えると、小松原さんは口に手を当てて、「あの後、玉三郎さんが踊ったのに、バカネッ!」。

私の息子の将光が六歳になった時、フラメンコの公演に連れて行った。私は撮影をしていたので。息子は開演中に何をしていたのか分からなかったが、家に帰ると小さな板の上に乗りサパテアードのまねをしている。フラメンコに興味を持ったのかと思い、そのことを小松原さんに話した。彼女は「本人にフラメンコをやりたいか?と聞いて、〝やりたい〟と言ったら、明日からスタジオに連れていらっしゃい」と言ってくれた。そこで、将光に「フラメンコをやるか?」と聞くと、「ウン」と答えた。


 ある日、開店と同じに小松原さんが入って来た。

「高円寺に新しいスタジオが出来たの。そこに引越すので、誰か車の運転ができる人を紹介して下さい

その話を常連客にすると、晶チャンが手を上げた。小宮山晶治は学生時代、東洋大学日本拳法部のキャプテンだった。先輩の伝手で食品会社に就職。営業部に勤務している。

引越は二日かかった。晶チャンは小松原さんに接して、彼女の温厚な人柄に触れ、すっかり惚れ込んでしまったようだ。常連に、「オレ、小松原さんのところで働きたい」と呟いた。誰かが言った。

「あそこは女の園だよ、晶チャンじゃ無理!

数日後、小松原さんから電話があった。

「引越を手伝ってくれた小宮山さんは、学生時代、日本拳法のキャプテンだったんでしょう。武道家と舞踊家は共通するものがあるみたい。女の子たちにも人気があるし、ウチで働いてくれないかしら」

早速、小宮山晶治に意向を打診すると、〝オッス〟の一声だった。

晶チャンからマネージャーの肩書の入っている名刺をもらったエッチラは、「今度、オレを使ってよ」と名刺を見ながら言った。

あれは小松原さんが高円寺のスタジオに引越す二年前のことだった。職業訓練所の先生のエッチラが新年会の余興にフラメンコを踊りたいと言うので、小松原さんに相談した。「面白そうね」と言って、フラメンコの衣装とカセットテープを貸してくれた。メイクは化粧品店のトコチャンが担当した。タイトルを〝エッチラメンコ〟と付けた。女装したエッチラはフラメンコのテープの曲に合せて、見よう見真似で踊った。会場は大はしゃぎ。そのムードに誘われたのか、小松原さんが二階から降りてきて、エッチラと一緒に踊ったのだ。これはハプニングだった。会場に居た六十二人の出席者は感動して、手拍子。「オーレイ!ブラボー!」と叫んだ。そして、小松原さんを囲んで乾杯!

「真夏の夜のフラメンコ」小松原スペイン舞踊団は、七一年から毎年、七月の末から八月の初めの土曜日、日曜日の二日間、日比谷野外音楽堂で〝真夏の夜のフラメンコ〟の公演をしている。主催ソル・デ・エスパーニャ、後援スペイン大使館、協力アサヒビール株式会社だった。晶チャンがマネージャーになった年の〝真夏の夜のフラメンコ〟は、何回目だったか忘れたが、十三人のツアーを組んで野外音楽堂に向かった。満席だったが、晶治マネージャーが、ちゃんと席を取ってくれていた。中央からちょっと外れるが、見やすい場所だった。スポンサーのアサヒビールが観客に紙コップの生ビールを振る舞っていた。会場の入口の左側に売店がある。チケットの半券をアサヒビールの係員に渡すと生ビールを手渡される。招待客と関係者はチケットがないので、その人たちの為に晶チャンはビールの引換券を作っていた。そのカードを私に、二十枚くれた。リーダーのエッチラに渡すと、仲間に配っていた。私は写真を撮るので一杯も飲まなかったが、彼らはチケットの半券とカードで生ビールを飲みまくっていた。

司会の菅原謙次の「オーレイ!」の掛け声の合図で、ギターのリズムに乗り、小松原さんを中心に若い女性のダンサーが十数人、舞台に踊り出た。その情熱的なムードは観客の心に力強く響き、舞台と客席が一体となった。生ビールをしこたま飲んでいるエッチラたちは、上機嫌。フラメンコのリズムに合せて手拍子とサパテアード。その一角は異様に盛り上がっている。それを見た小宮山晶治は、「オーレイ!」と叫び、日比谷公園の夜空に右の拳を突き上げた。

ちなみに息子、将光もこの舞台にその他一同で出演している。将光は六歳から小松原さんの指導を受け、そのまま舞踊団員になっている。三十五歳で独立し、〝ジャマキート舞踊団〟を結成した。


 ある日、机の引き出しの中から、新聞の切り抜きが見つかった。それは、「東京新聞」の夕刊で、小松原さんの記事が載っていた。

「日本のフラメンコ界のパイオニア小松原庸子(84)が、二年前、両足の膝頭手術を受け人工関節を埋め込んだ。手術の際は、『もう二度と舞台に立てないかもしれない』と覚悟を決めたが、奇跡的な回復を遂げた

私は、この記事を読んで、数年前の夏、久し振りに野外音楽堂に行ったのを思い出した。〝真夏の夜のフラメンコ〟は盛況だった。ショーが終り、舞台挨拶をする小松原さんは昔と変わらぬ艶やかな姿だった。だが小松原さんの踊りは出番がなかったのが気掛かりになり、楽屋を訪ねた。スペイン人のダンサーと話をしている小松原さんに「ご無沙汰しております」と声をかけると。「あら、お久しぶり」と言って近づき、私の手を両手で握ってくれた。そして耳元でささやいた。

「どちらさまでしたっけ?

私は一歩、後ろに下がって、「庸子先生!ボクの顔をよく見て下さい!」。

彼女は目を見開き、「なんだ!チョーさんじゃない!」。

厚化粧の笑顔から付け睫毛がひらりと落ちた。
                                       【山本晁重朗】


 常連客たちは、親しくなるとニックネームで呼びあっている。彼らのニックネームを付ける発想がユニークである。下ネタ好きの職業訓練所の先生は、〝エッチラ〟、何時もしょぼくれている東大生は、〝ショボン〟、苗字が坂田なので、「王将」の坂田三吉から命名して、〝さんちゃん〟、フガっと鼻をならして笑うので、〝フガちゃん〟、おごられ上手のオールドミスは、〝パラサイト〟、馬ずらの居酒屋のママは、〝ハイセイコー〟、森を逆さにして、〝リーモ〟、刈屋を逆さにして、〝リヤカー〟、エトセトラ。

 バーのホステスなのに、何時もスッピンの紀子さんは、「私がお化粧すると、〝おばけ〟になっちゃうわよ」と謙遜したのが仇になり、〝ゾンビ〟とニックネームを付けられてしまった。中年のサラリーマンの有田恵二氏は名前が恵二なので、〝デカ長〟、本人は頗る気に入っている。

 ニックネームで呼ばれて怒ったのは、ソンビちゃんだけだった。困った私は彼女に、そっとメモ紙を渡した。それからはニックネームで呼ばれると、笑顔で返事をするようになった。メモ紙には、〝存美〟と書いたのだ。そんなことを知らないイギリス人のエロイズとカナダ人のローリイはゾンビちゃんと呼ぶのを躊躇している。それはホラー映画のゾンビを連想するからだと、言って肩をすぼめた。

 ある時、駅前広場で、有田氏を見かけた。「デカ長!」と声をかけると、立ち止まり、「おう」と返事をした。そこに通りかかった若い警察官二人が直立不動になり、有田氏に向かって敬礼をした。気が付いた有田氏は、あわてて、返礼をしている。私は笑いを堪えていた。

 あの時代は有線放送が、ブームだった。オフィスが店の近くにあった。そこの社長の三井氏は当店の常連である。新曲を売り込みに来た歌手を時々店に連れて来る。これまでに、ロミ・山田、じゅん&ネネ、千昌夫、田中健、TVで見かける歌手たちだった。ある夜、三井氏が二十歳ぐらいの若者を連れて来た。「今度、放送係になった片桐です。よろしく」と常連客に紹介した。

 カウンターの奥で酔いつぶれていた肉屋のタブさんが目を覚まし、片桐君を見て、「社長、今日はピーターを連れて来たのか?」とおやじギャグ。それを耳にした常連客はピーターをそのまま片桐君のニックネームにしてしまった。そこまでは良かったのだが、「社長、こんなガキを連れて来ないで、美空ひばりか越路吹雪を連れて来いよ」と絡んできた。私は見兼ねて、「タブさん、今日は帰って下さい」と言って、嫌がるタブさんを外に出した。そして、店に戻ろうとした時、背後に殺気を感じた。振り向くとタブさんは両手で、私の肩を掴もうとしている。彼の背丈は一八〇センチ、体重は一〇〇キロある。学生時代、アマチュア相撲のチャンピオンだったとうそぶいている。捕まったら投げ飛ばされる!私は咄嗟に彼の両腕を払い、その手で胸を突っぱねた。するとタブさんは、バランスを崩し、後ろにばったりと倒れ、後頭部をしこたま打ってしまった。その音を聞いた常連たちが店から飛び出して来た。誰かが叫んだ。「晁さん凄い!ヘビー級の男をノックアウトしてしまった。決めたパンチは右ストレートですか、左フックですか?」と大騒ぎ。私が「胸を押しただけ」と言っても、誰も信用してくれない。当のタブさんは白目をむいて倒れたまま、びくともしない。私は狼狽した。もし、死んでしまったら、目撃者は誰もいない。この状況では殺人容疑で逮捕されてしまう。その時、「晁さんゴメン」と小さな声がかすかに聞こえた。タブさんは生きていたのだ。静かに起きあがり、野次馬にも一礼すると、覚束無い足取りで歩き出した。私は胸をなでおろし、タブさんが釣り堀の角を曲るまで見送っていた。

 ある夜、中学生時代に同級生だった篠原君が初老の紳士を連れて来た。「ヤマチョーさん、中村先生です」と紹介された。私は先生が店に入って来た時に気が付いていた。精悍な眼光は変っていなかった。先生は、「ヤマチョー君、久しぶり」と言って会釈した。

 中村一氏は、阿佐谷中学の数学の教師だった。厳格な人で、「今の若者は覇気がない。私が叩き直してやる」が口癖だった。体罰の奨励者で、戦争映画に出てくる鬼軍曹を彷彿させた。私は授業中に漫画をノートに描いていたのを見つかり、ゲンコツを頭にもらったことがある。先生は学生を問わず、一番恐れられている存在だった。

 あの日あの時あの昼休み、クラスメイトに、漫画を黒板に描いてくれとせがまれた。彼らの注文通り手塚治虫のキャラクターをボードに描きまくった。そこに中村先生が入って来た。みんなは慌てて席に着いたが、私は黒板の前に立ちすくんでしまった。「誰だ、これを描いたのは!」と言って絵をじっと見つめている。消そうとすると、「このままでいい、今日は黒板を使わずに授業をする」。観念して下を向いている私をチラッと見ただけでお咎めは無かった。このエピソードは学年中に伝わった。その話を篠原君がすると、先生は、「今でもあの時のことは覚えています。上手な絵だった。あの漫画を見てヤマチョー君の将来が見えたと思った。だけど、漫画家にならなかったのですね」と言って絵を描くジェスチャーをした。そこに篠原君が口をはさんだ。

「あの事件は山本君よりも、あの情況で先生が取った言動が絶賛され、話題になったのです。そして生徒たちの先生を見る目が変わったのです。」

先生は、「そんなことがあったのですか」と、笑みを浮かべて、「今だから言えますが、山本君のニックネームは私が付けたのです。ヤマモトチョウジュウロウは、長すぎるので短くしてヤマチョーに」。

三人は、顔を見合せて笑った。

あの日は雨だった。コーヒーを飲みながらTVを見ていると、初子が、「晁さん、これを見て」と朝刊の見出しを指差した。記事には、東日本大震災による天井崩落事故で多数の死傷者を出し、閉館を余儀なくされた九段会館は、昭和九年に軍人会館として建設され、昭和十一年の二・二六事件では、戒厳令司令部が置かれたという歴史をもつ会館だ。戦後はGHQに接収され、昭和三十二年に日本政府に返還された。同年、政府は日本遺族会に無償で貸し付け、九段会館と命名して九月一日に再出発した。

従業員は特別な技術職を除き、戦没者遺族を採用した。営業部長、総務部長、経理部長等の重役は陸軍、海軍の元将校が勤め、平の従業員は復員兵、未亡人、遺児等であった。因みに激戦地硫黄島の生還者もいた。と、記載されている。

その会館に、私は先輩の紹介で洋食部の料理人として、採用されたのだった。初子は、それを思い出して、私に記事を見せたのだ。

開館初期は、全国にある遺族会の高齢者の方々が送迎バスで来館、靖国神社を参拝し、宿泊するホテルであった。宿泊者が使用する風呂場があり、午後八時を過ぎると従業員も入浴が出来た。ある晩、私が湯船につかっていると、五十代の男性が入ってきた。私に笑顔で接し、「どんな仕事をしているのですか?待遇はどう?」などと世間話をするように聞いてくる。洗い場に並んで坐したので、「おじさん、背中を流しましょう」と言うと、年齢を聞かれ、「二十歳です」と答えた。すると男性は、「その年なら戦争中は最前線で戦っている若者だ、そんな人に背中を流してもらえない」と断るので、「僕は毎日、調理場で俎板を洗っています。おじさんの背中も同じようなものです」と言い、手拭いで背中をこすった。

十月一日から結婚式場、劇場、宿泊施設など全館が営業を開始する。

その当日の早朝、大ホールに従業員三百二十人を集め、事務局長徳永正利の挨拶があった。その人は、あのおじさんではないか!翌日、局長室に風呂での無礼を謝罪に行った。局長は、「君は戦死した息子と同じ年なのです。裸の付き合いをした君を忘れない」と力強く手を握ってくれた。

それから二年後、徳永氏は遺族会の推薦で参院選に出馬した。私は五年間勤めた会館を退職し、数年後、結婚披露宴を、古巣の会館で催した。その時、大きな花束が届いた。贈り主は、国交大臣徳永正利であった。
                                       【山本晁重朗】

 ある朝、「『東京新聞』にチャンピオンの記事が載っていますよ」と、まりさんから電話があった。ポストに新聞を取りに行き、テーブルの上にひろげ、ページをめくった。古びたビルの一角にあるチャンピオンの写真は小さいが、カラー刷りなので、すぐに分かった。

 記事は、〝私の東京物語〟のタイトルで、青柳いづみこさんのエッセイだった。

 その内容は――、「阿佐谷南口の川端通りには、元ボクサーが経営するレストランチャンピオンの二階に、〝ランボー〟という名物バーがある。カウンターだけの店で、丸いスツールには割れせんべいのように、ひびがはいっていた。寡黙のおやっさんが一人でやっていて、ボロボロのジャケットから出したLPレコードを無造作にかけ、カクテルはみんな二百八十円。つまみは電気コンロであぶったスルメで、マヨネイズをつけていただく」であった。その通りである。それに付け加えると、おやっさんは口髭と顎鬚を生やした通称〝ほりさん〟と呼ばれている中年の男性である。ちなみに店名の〝ランボー〟はフランスの詩人アルチュール・ランボーから命名している。青柳さんはおやっさんと書いているが風貌は、色白で痩せ形。若い頃はイケメンだったと思う。その面影は今でもある。

 ランボーはチャンピオンがレストランに改築した時、家主の今井重幸氏が、二階にある寝室と居間を改築して出来た店で、ランボーのほかに同じスペイスの店と共同トイレがある。

 ほりさんはランボーを開店する前は駅の裏にあった小さなスナックの雇われマスターだった。その店の常連客の今井氏にすすめられて、バーをオーブンしたのである。私も〝ホリチャン〟のスナックの常連客だったので、親しい付き合いがあった。ホリチャンもスナックのマスターの時代からチャンピオンの常連であったが、異色の存在だった。それはボクシングファンで映画ファンでもなかったからだ。作曲家でもある今井先生はほりさんは詩人だと言っている。言われてみれば、そんな雰囲気はあるが、店内にはそれを裏づけるものは見当たらない。

 一番街を突き当たりまで行って左に曲ったところに、居酒屋の〝だいこん屋〟がある。マスターの松本純氏は私と同年輩で、若い頃は捕鯨船に乗り、太平洋を航海した荒くれ男だったという。それを象徴するかのように店の片隅に鯨のペニスが立掛てある。昼間、スーパーで買い物をしている時、よく出くわすが、いつも大きな下駄をはいている。電車の中で見かけた時も、スーツを着てネクタイをしめていたが足元を見ると、いつもの下駄だった。そのマスターは俳人であり、俳句の著書もある。エッセイも書いている。

 ランボーは伝説の店だ。壁に貼られた映画のポスターが。古いLPレコードからはブラームスが流れ、洋酒の瓶が時を刻みながらズラリと並んでいる。タイムスリップし、時間が止ったようなアナログな雰囲気はこたえられない。堀さんと言う詩人のようなマスターの店だ。と、書いている。

 漫画家永島慎二の著書に、『怪人ぐらいだあ』がある。怪人、変人を書いたエッセイで、その中に、〝ホリさん〟と知り合って十何年になろうとしているのにホリさんのことをあまり知らない。知っているならば、ランボーの下のキッチンチャンピオンのマスター、元ボクサーのチョウさんのことの方が、ヨホドよく知っている。ホリさんは、〝とうめいな恥ずかしさの風に吹かれて〟のような男で、詩を書く人か、小説なんぞ書いている人か、それとも何もしない人なのか私には分からない。と、書いている。

 永島慎二は阿佐谷在住の漫画家で、おもな作品は、『柔道一直線』、『漫画家残酷物語』、『フーテン』、阿佐谷の街を舞台にした『若者たち』がある。永島氏は当店の常連でもあり、『若者たち』のマンガのストーリーの中にチャンピオンが描かれたこともある。ボクシングファンで、ファイティング原田や海老原博幸の試合を話題にしていた。

 ある時、ホリチャンと土屋春一さんがカウンターで隣り合わせになったことがある。珍しくホリチャンが春さんに話しかけている。「ひとつ聞いていいですか?」と念をおしてから、「パンチドランカーってどんな症状になるのですか?」と質問した。ぺちゃんこの鼻をこすりながら、元プロボクサーの春さんは、自分の体験を語った。

 土屋春一はバンタム級の選手だった。東日本新人王戦で、KO率四割のハードパンチャー山口鉄弥と対戦した。初回からフルラウンド、山口選手の強打を浴びていたが、一度もダウンはしなかった。終了のゴングが鳴り、リングを下りた時の顔は腫れて変形していた。

 土屋春一の本職は、左官屋である。一日だけ休んで翌日から現場に出て仕事をした。ところが、壁にセメントをぬっていたのに、タイムスリップしたのか、気がつくと、仲間と弁当を食べている。次に気がついた時は風呂に入っていた。ところどころの記憶が抜けているのだ。そんな症状が一週間も続いた。これが、〝パンチドランカー〟なのかと思ったら恐くなってボクシングは止めた。

 ホリチャンは、春さんの顔をじっと見つめながら聞いていたが、「ありがとう」と言って店を出て行った。

 時計の針が三時をまわり、後かたづけをしているとホリチャンが入って来た。「晁さんに頼みたいことがあるので、明日の昼間アパートに来てくれませんか」と言うので、私は「いいですよ明日二時頃、伺います」と頷いた。

 昨夜、手渡された地図を見ながらアパートに向った。アパートは店から徒歩十分ぐらいの住宅街の片隅にある古い二階建てだった。二号室のドアには小さなカードが張ってあって、〝堀部純一〟と書いてある。誰かにもらった名刺の裏を使ったのだろう。私は気が付くと、その表札を凝視していた。それは誰にも知られていないホリチャンのフルネームが書いてあったからだ。ホリチャンは私の気配を感じたのかドアを開けた。粗末な六畳間だった。窓際の左側に机と椅子があった。机の上には灰皿と封を切ったタバコが、置いてあるだけで、私が想像していた、分厚い書物や筆記用具は見あたらなかった。部屋の中央に小さなちゃぶ台が置いてある。灰皿とサッポロビールが一本と、グラスが二つあった。ホリチャンはこの部屋に十年以上も住んでいると言っているが、ここには生活の匂いがしない。私が来るので、掃除をして、見られたくないものをかたづけてしまったのだろうか。それにしてもランボーの店内の雰囲気とはあまりにも違うので、立ったまま、部屋の中を見わたした。ランボーの店内と同じなのは、タバコの煙が霞のように漂っているだけだ。ホリチャンはヘビースモーカーだった。三、四本をたて続けに吸っている。ホリチャンは私がビールを飲み干すのを待って本題に入った。

 十日前、旅行会社の小川さんにツアーを組むのに定員が一人たりないので、格安にするからヨーロッパ旅行に行きませんか、と誘われた。ヨーロッパ旅行は子供の頃からの夢だったので、チャンスと思いメンバーに入れてもらった。だが、こんな小さな店の経営者が、ヨーロッパ旅行をするほど儲かっているのかと思われるのが嫌なので、常連客には一週間、里帰りをしていることにしてもらいたいと注文を付けた。ところが小川さんは酔っぱらって、「ほりさんをヨーロッパに連れて行くんだ」と親しい常連客二、三人にしゃべってしまった。その客たちに口止めはしたのだが、彼らは密かに餞別をくれたのだ。三日前、店を閉めて帰る時、階段で足を踏み外して下まで滑り落ちてしまった。その時、後頭部をしこたま打ってしまい、出血は無かったが、目まいがして、暫く立ち上がれなかった。アパートに帰り、氷で頭を冷やして寝た。朝九時に起きて、河北病院に向かったのだが、いきなり、「ほりさん何処に行くの」と今井先生に声をかけられた時、ホリチャンは駅のホームに立っていた。そこに来た記憶がないのだ。凄いショックだった。そして恐くなった。もし旅行中に、こんな事が起きたら、土屋春一さんと同じような事が起きたら、ツアーのメンバーに迷惑がかかる。ホリチャンは即座に小川さんの会社に電話を入れた。小川さんは納得して、旅行はキャンセルにしてくれたのだが、問題は常連客だった。餞別はもらっているし、他の客もうすうす知っているようだ。中止にした理由を、どのように説明すればいいのか、パンチドランカーになったなんて言いたくない。小川さんと相談した結果、旅行は予定通りに参加することにして、ヨーロッパ旅行に関する資料はアパートに送ってくれることになった。そして出発日の十月五日から七日間は、アパートからは出ないこと、人に見られないことが条件であった。そこで私が選ばれたのである。それは昼間、アパートにコンビニの弁当、その他の注文されたものを密かに届ける役目だった。

 十月五日、ランボーのドアに「十月五日から十二日まで里帰りをするので休みます」と張り紙がしてあった。私が毎日二時少し前に外出するので初子は不審に思っていたが、「散歩」と言ってごまかした。妻にも内緒にしてある。注文されたものを持ってアパートに行くと、ホリチャンは、ちゃぶ台の上にヨーロッパの地図をひろげていた。旅行の予定表を見ながら、「今はこのへんかな」とパリを指差している。私はそんなホリチャンを見て、毎日こんなことをしているのかと思うとタバコの煙が目に染みた。

 十月十三日、ホリチャンは八日ぶりに看板のスイッチを入れた。その日、ホリチャンは客にどんな対応をしたのかは知らない。

 それから一週間後、喫茶店ポエムに呼び出され、ホリチャンは無地の封筒を「お礼い」と言って私の前に置いた。「それで、どうでした」と聞くと、ホリチャンは、「餞別をくれた人たちには、小川さんがパリで買って来てくれたおみやげを、そっとわたしただけで、いつものランボーでした」と言った。二人の話がとぎれた時、「昨日、ビデオで見たんだけど、あれはやっぱり八百長だったね、真剣勝負じゃない」と隣の若者の声が聞えてきた。「アリは猪木に騙されたんだ、観客もなッ!」とつづいた。彼らが話題にしているのは、昭和五十一年六月二十六日にプロボクサーとプロレスラーが、日本武道館で対決した〝世紀の凡戦〟と言われている、いわく付きの試合だった。格闘技に興味がないはずのホリチャンが聞き耳をたてている。彼らの会話は偶然とはいえ、ホリチャンにとって、当て付けの皮肉に聞こえたのだろうか。私はそんなホリチャンに気を使い、〝異種格闘技(モハメド・アリVSアントニオ猪木)〟の疑惑についての説明をした。それにしても、元号が平成に変わっても、語り継がれているのには驚いた。そこで、あまり知られていないエピソードを話した。

 「あの試合の三人の審判員の中に往年の人気レフリーの遠山甲がいました。彼は天皇陛下の学習時代の盟友だった。お忍びで銀座によく飲みに行ったそうです。」

私は、席を立ちながら、「天皇陛下は、お忍びで遠山さんと銀座に飲みに行ったのを今でも覚えているのだろうか」と呟くと、堀部純一も立ち上がり、何時ものホリチャンの顔になった。
                                       【山本晁重朗】

 常連客の職業は、バラエティに富んでいる。美容師、銀行員、作家、映画監督、役者、スポーツジャーナリストなどなど。大学生もいる。人数の多い順からいくと、早稲田、法政、上智、東大となる。彼らは職種が違うので思想は異なっているが、共通しているものは、ボクシングファンであり、映画ファンでもある。根っからのファンであった人もいるが、当店で感化された人もいる。
 ある夜、見知らぬ青年が笑顔で覗き込むようにして店に入って来た。その表情は、「僕を知っているでしょう?」と言いたげだった。私は困惑したが、直後に入って来た連れが、「元日本バンタム級チャンピオンの小林智昭君です」と紹介してくれた。二人は、カウンターに座りビールを注文した。それが小林氏との初対面だった。
 人気絶頂の日本バンタム級王者、高橋直人を打ち合いに引き込み、壮烈な殴り合いで、判定勝ち。タイトルを奪取した試合が思い出される。試合は、TVで観戦したのだが、その小林選手と目の前にいる小林氏が結びつかない。人なつこく温厚な人物だった。
 韓国で世界タイトルに挑みKO負け、目の異常を訴え、網膜剥離と診断され、未練を残して引退した。
 小林氏と私は、どちらともなくボクシングの話になってしまったが、その日を機に、彼は時々、店に顔を見せてくれるようになった。スポーツジャーナリストの二宮清純氏とも当店で知り合い親密になった。
 平成五年一月二十日の夜、二宮氏から小林氏の急死を電話で知らされた。関係者の話を総合してみると、小林氏は、レースカーの練習場で車を壁に激突、車は大破したが、外に放り出された小林氏は、すくっと起き上がり、「大丈夫だ」と手を横に振った。外傷は無かったので救急車は呼ばず、友人の車で近くの病院に行った。そこでも、「僕は大丈夫」と言い続け、事故当時の状況を看護婦に話していたが、急に顔色が悪くなり、その場に倒れてしまった。肺に折れた肋骨が刺さっていて内出血を起こし、緊急治療室に運ばれた時は、すでに手遅れだった。
 そんな容体になっていたのだから、かなりの苦痛があったに違いない。それを元日本王者のプライドとボクサーの習性が、痛みを我慢させてしまったのだろうか。小林氏はボクサーのまま死去してしまったように思えてならない。
 平成十二年一月二十日、二宮氏が発起人になって、小林氏の七回忌追悼の会が当店で、行われた。小林氏の母、ちづ子さんが、長野県から招かれ、元バンタム級王者、高橋直人氏、元Jライト級王者、赤城武幸氏ら、小林氏とゆかりのある人が大勢集まり、故人を偲び、和やかなひとときを過ごした。享年二十八歳だった。
 この追悼の会の発起人、二宮清純氏は、スポーツ紙や流通紙の記者を経て、フリーのジャーナリストとして独立。著書に『勝者の思考法』、『プロ野球衝撃の昭和史』などがあり、TVにも出演して知名人と対談をしているスポーツ評論家でもある。
 当店が購読している『東京新聞』に、「スホーツが呼んでいる」を連載している藤島大氏のコラムには、〝いつもの酒場〟として洋食兼酒場チャンピオンが時々登場する。藤島氏は二宮氏と同年輩。当店で偶然、対面したことがある。その時の二人の対談(?)は、録音しておきたかったぐらい奇抜な内容だった。藤島氏もスポーツ紙の記者を経て、スポーツジャーナリストとして独立。雑誌、新聞、CS放送でラグビーの解説者として活躍。著書に、『キャンバスの匂い』、ラグビー小説『北風』がある。
 ある夜、ボクシング誌の編集長の前田衷氏から電話があった。「藤島大さんはチャンピオンの常連だと聞いたのですが、電話番号を教えて下さい」と。タイミングの良いことに、藤島氏はカウンターで飲んでいたのだ。「大チャン、前田衷さんから電話」と言うと、首をかしげているので二人は面識がなかったのかと?。だが、そこは同じ業界の人間、話はすぐについたようだ。『ボクシング・ワールド』の新年号から、藤島氏の「キャンバスの匂い」の連載が始まった。
 昭和四十二年、店を改築して間もない頃、共同通信に勤務する津江章二氏が、「『ボクシングマガジン』の編集長です」と言って、色白の青年を紹介してくれた。その人が前田衷氏だった。彼は二宮氏らよりひと回り年上である。昭和五十七年に、『ワールド・ボクシング』の創刊に参加。その後、『ボクシング・ワールド』、『ボクシング・ビート』の編集長を歴任。ちなみに創刊号から十年間、「我らTVファン」のタイトルで、私のコラムを連載してくれた編集長でもある。昭和四十九年の秋、ザイール(コンゴ民主共和国)の首都、キンシャサでWBA・WBC統一世界ヘビー級タイトルマッチ、〝モハメド・アリVSジョージ・フォアマン〟の試合があった。このファイトを現場で取材した日本人は前田氏だけである。ボクシング界最大の伝説となった、この試合は世界中でTV放映された。前田氏は、その試合をリングサイドで観戦。そこで書き上げた記事は、臨場感と迫力があり、高く評価されている。
 ところで、もし、このベテランジャーナリスト三人が一同に顔を合せ、〝本音〟で、世界のボクシング界をテーマにしてディスカッションをしたら、どんな議論が展開されるのか想像しがたい。
 余談になるが、『キンサシャの奇跡』とタイトルを付けたアリの試合がビデオになっていると聞いたので、ビデオ屋に行ったが無かった。店員が、「『ロッキー』ならあります」と言うので、それを借りた。『ロッキー』のビデオは自宅の指定席で観戦した。
 真赤なグローブが空を切る。右アッパー、左フックが炸裂すると、血と汗が飛び散った。レフリーの「ダウン!」の宣告も歓声に消されてしまう。顔が腫れあがり、変形し、立っているのがやっと。それでも必死に殴り合う。これが、『ロッキー』の試合のシーンだ。いままでに、『チャンピオン』、『罠』、『四角いジャングル』、『殴られる男』、『傷だらけの栄光』などアメリカのボクシング映画が上映された。だが、そのストーリーはギャングがらみの八百長試合。そして主人公の死、と陰湿なものばかりだった。
 ところが、シルベスター・スタローンが、『ロッキー』で見事にドラマチックなアクション映画に変えてしまった。内容は世界ヘビー級王者だったモハメド・アリが無名選手のチャック・ウエプナーに挑戦者のチャンスを与えた試合をモチーフにして制作されたものだ。
 スタローンのボクサー役は本物以上だった。彼は元アメリカンフットボールの選手で、ボクシングの経験はない。すさまじい打ち合いと強烈なダウンシーンは、すべて演技である。もちろん、強烈なパンチは一発も当てていない。それを音響効果と映像テクニックで表現するのだから、映画はまさにマジックである。日本のボクシング映画はヒットしないというジンクスがあったが、それを赤井英和主演の『どついたるねん』が見事に破った。その監督が調子づいて、現役のボクサーを起用し、『鉄拳』を撮ったが大失敗。
 数年前にイギリスで試合中に女性がリングに駆け上がり、打ちまくっている選手の頭をハイヒールで殴り、グロッキーになっている息子を助けてしまう珍事があった。
 ある日あの時、後楽園ホールで、某選手がコーナーに追い込まれ、ダウン寸前のピンチに陥っているシーンを見た。セコンドが見かねてタオルを投入しようと立ち上がった。その時、グッロキーの選手とセコンドの視線が空中でビシッとぶつかった。と、セコンドは小さく頷き、タオルを引っ込めてしまった。その直後、枯木のように倒れたのは優勢だった対戦者だった。鮮やかな逆転KO劇である。
 某選手とセコンドは、あの短い視線の交錯の中で何を語り合ったのだろうか。ボクシングは台本のないドラマである。
 ――と、カウンターで雑談をしている常連の中に割り込んで、一気にしゃべった。すると頷きながら聞いていた美容師の上野さんに、「晁さん、何時から評論家になったの!」と揶揄された。                                    
                                       
                                       【山本晁重朗】

 ある夜、松田氏が私の前に立ち、店内を見まわした。そして何も言わずに外に出て行った。数十分後に店にもどり、「晁さんこの店も開店してから何年になる?」と聞かれて、「二月の十一日で三年になります」と答えると、松田氏はうなずき「外から、この物件を見ると隣りの劇団アルスノヴァの事務所は使われていないようだね。この店と事務所は壁で仕切られているだけだから壁を取り外せば店は広げられるよ」と言われた。
 「私もそれを考えていたのです」

翌日、家主の承諾を得に行った。事が決れば話は早い。松田氏は建築会社の社長だ。一週間で店は改築された。カウンターはそのまま残して、四人掛けのテーブルを二台置き、今までの倍の十六席になった。〝スナックチャンピンオン〟の看板を外し、〝レストランチャンピオン〟の看板を掲げた。今までは酒のつまみ程度の料理しかメニューになかったが、これからは銀座のスエヒロ、九段会館の洋食部で修業した腕を発揮出来る。料理の種類を増やし、メニューも書いた。新装開店祝いのパーティーは常連客を招待した。店内ははち切れんばかりの熱気があり、「おめでとう」の声で盛り上がった。「テーブル席があるので、家族と来れる」と言う人が多かったが、「前の雰囲気が好きだったのに」と批判的な人も何人かいた。翌日から一週間ぐらいは常連客が、友人や家族を連れて来て食事をしていたが、新規の客は少なかった。私はこのままでは駄目だ、何とかしなくてはと思っているとパートナーの初子が、    「ポークカツとハンバーグの定食を出したら」とアイデアを提供、「よしやってみよう!」と私は早速、外に〝定食あります。ライス、スープ付、五百円〟の張り紙を出した。

 定食を注文する客は何人かいた。ある時、バーのマスターが店のホステスを連れて来店、定食を注文した。出された料理を見て、「定食に付くのはスープじゃない、みそ汁だよ」と言われ、ショックだった。当店は洋食屋なのだ、みそ汁を付けるのには抵抗があった。だが、客がそれを求めているのなら、出そう。そこで、洋食屋らしいみそ汁を作ろうと考え、みそ汁の〝実〟にトマト、キュウリ、生の玉ねぎを小さく切り、沸騰したみそ汁のお椀に浮かした。味噌の味にトマトの酸味が調和し、微妙な旨味を出している。私はこれぞ洋食のみそ汁だと思った。このみそ汁はバーのホステスの口コミでなどで評判になり、みそ汁だけ注文する客もいた。注意しなくてはならないのは、一人分ずつ作るので、ものすごく熱い!

 〝当店のみそ汁は熱いので、一気飲みはお断わり〟と張り紙をした。

 それを無視して粋がって飲んだ中年の男性が、熱さに耐えきれず、口から吐き出し、お椀を膝の上にひっくり返したことがあった。そして男の大事なところを火傷してしまった。

 ある夜、若い女性が定食を食べながら、「このみそ汁のことを記事に書いていいですか」と言うので、「どうぞ」と答えると、名刺をくれた。『週刊女性自身』のライターだった。その女性が一週間後、記事が載っている雑誌を持って来た。〝元プロボクサーのマスターと奥様のふたりで経営するチャンピオンのみそ汁は〟の見出しで、みそ汁にまつわるエピソードの記事であった。その二日後、スポーツ誌の記者が来て、いろいろと取材をしていった。後に、郵送してくれた月刊誌を読むと、みそ汁ではなく、元プロボクサーだった私に興味があったようだ。主役はみそ汁ではない!元プロボクサーの私になっていた。

 ともあれ、週刊誌の記事が宣伝となり、食事の客が増え、九時頃まで満席。その後が常連客の時間となり、深夜はバーのホステスが客と夜食をする店になり、それは正にスポーツライターの藤島大氏がコラムに書く〝洋食兼酒場〟になった。

 みそ汁でマスコミの波に乗ったチャンピオンはTVに出演した。私が半畳ぐらいしかない狭い調理場で仕事をしている動きはスピーディーでシャドウボクシングをしているみたいだと言われ、カメラはその姿を狙っている。ボクシングシューズを履いて下さいと注文をつけたTV局があり、店の外に出て、女子アナにシャドウボクシングを教えるシーンを撮っていたTV局もあった。そこまでくると、私の存在はピエロのようだ。そんなTVを見た若いボクシングファンたちが来店。彼らの要望で、〝青空ボクシングジム〟を始める破目になってしまった。私の住まいの近くに空き地があるので、そこを練習場にして、毎週日曜日の午後三時から二時間、指導をした。練習生になれる条件はチャンピオンの客。入門者は二人から始まり、六人になったところで締め切った。グローブはタイ在住の青島氏に頼んで送ってもらった。一年後、その中の三人が石橋ジム、大川ジム、ヨネクラジムに入門してプロボクサーになっている。後に、〝殴られ屋〟になった高橋君はその中の一人である。

 ある日、青空ジムを、格闘技専門誌〝Kマガジン〟が取材に来た。トレーニングシーンを写真入りで載せてくれた。その雑誌を読んだのか、フジTVが店に取材に来た。青空ジムの練習生の話を聞きたいと言うので、高橋君に来てもらった。彼は、奥さんと三歳の娘を連れて来た。女子アナの質問に、高橋君は、「青空ジムの練習が終わった後、ここで食べる料理が楽しみなのです。何を食べてもおいしいから」と言ったら、隣にいる奥さんが、「この店の料理はオリジナルで、よその店では食べられません、私はいつもチキンソテーです」と言った。近くにいた客がつぎつぎに「ボクはタイランドビーフ」、「私はバンコックポーク」、「スパゲッティのラーメン風のチャンピオンメンもうまい」と言って、料理談義になってしまった。これがきっかけとなり、TV局のスタジオで、私は料理を作ることになった。

 それは、五日後の日曜日、午前十時放映の料理番組であった。タイトルは、〝街のシェフが作る料理〟だったと思う。当日の朝七時にTV局の車が迎えに来ることになった。当店は深夜営業なので、三時に閉店して、後片付けをすると四時になる。TV局に行く準備をすると、すぐに七時になってしまう。そのままTV局に行けば、本番まで、二十時間以上も起きていることになるが「大丈夫なの」と、その時、初子が心配してくれて、「私があなたの助手としてついて行きます!」と気合を入れてくれた。

 私は、「よし頑張るぞ!」と言って、ファイティングポーズをとった。

 TV局から電話があり、調理の道具は一式揃っているので、料理をする材料だけ持って来て下さい、と指示された。だが、私はいつもの使い慣れたフライパンと包丁と菜箸を持って行くことにした。

 七時に迎えの車が店の前に止った。道具を持って、初子と車に乗ろうとすると、「助手はいりません」と断られてしまった。

 TV局に着くとスタジオに通された。そこには調理台とガス台があるこじんまりしたキッチンのセットがあった。ディレクターが「あなたの助手を務める永さんです」と若い女性を紹介してくれた。永六輔さんの娘さんだった。永さんに、「この番組は、ぶっつけ本番の生放映なので撮り直しはありません。よろしくお願いします。先週出演したシェフは緊張しすぎて、放映中に指を包丁で切ってしまいました。俎板が血だらけになり、スタッフが慌ててコマーシャルを流しました。山本さんは場慣れしているので心配はないと思いますが」と言われた。

その時、睡眠不足の私は、〝ドキッ〟とした。

TV局の料理番組を見ると、あらかじめ準備が出来ていて、スムーズに料理が仕上がっている。私の場合は異なっていた。永さんが「今日のシェフはチキンソテーとタイランドビーフの二品を作ります」と私を紹介すると、ゴングが鳴った。ガスに火を付けるところから始まり、フライパンを乗せ、鶏肉の骨を取り、肉を切り、塩胡椒をする、それをフライパンにのせる。私の横に立っている永さんが、いろいろと質問をしてくる。それに答えながら手を進めていく。出来上がった料理を調理台にある銀ぼんにのせ、「出来ました」と言うとゴングが鳴った。そこでコマーシャル。ディレクターが「すごい、ジャスト三分です。この調子で次の料理を作って下さい」と言った。

次の料理のタイランドビーフは、タイの香辛料トムヤムを使ったオリジナルである。これもゴングで終了した。

スタジオの中央にカウンターのセットがある。そこに料理通の知名人が三人いた。出来上がった料理が運ばれ、彼らは試食した。そして異口同音で「美味い」と誉めてくれた。その中の一人が「手さばきが良くて、動きにスピードがあるのには驚きました。それはボクサーだったからですか?」と質問されたので、「そうかもしれません。料理とボクシングが共通しているのは、センスとスピードです。従って、〝料理は瞬間芸術〟だと私は思っています」と答えた。

すると、永さんから「山本さんにとってボクシングとは何ですか?」と聞かれた。

「ボクシングは私の人生です」

スタッフに「おつかれさん」と肩をたたかれ、私の仕事は無事に終った。地下の駐車場で待っていた車に乗ると、行き成り睡魔に襲われた。

 

「チャンピオンです」と運転手に声をかけられ目を覚ますと店の前だった。  

                                      【山本晁重朗】

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