"チャンピオン"日誌[あの日あの時あの人]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。19年2月より、新たに、「あの日あの時あの人」シリーズを開始。                                      英訳版[Champion's Journal - WordPress.com]https://asagayachampion.wordpress.com/

 コーヒーを飲みながら、一五〇枚ぐらい届いた年賀状から御年玉の当り番号を調べていると、初子が、「電話です、今井先生から」。その時、いやな予感がした。それは今まで家に電話がかかってきた事がなかったからだ。

 今井重幸氏は、パントマイムのヨネヤマママコ、フラメンコダンサーの小松原庸子を育て、世に出した人で、チャンピオンの家主でもある。

 「今晩七時に駅前の喫茶店アコヒーダーに来て下さい」

 二〇〇七年一月十六日だった。指定された時間に行くと、今井氏は店の片隅で、レモンティを飲んでいた。新年の挨拶をすると、本題に入った。

 「建物が老朽化しているので、立て直したいのです。それで、店を今月いっぱいで明け渡してもらいたいのですが」

 私は血の気を失い、コーヒーカップを落としそうになった。電話を受けた時の悪い予感が的中したのだ。黙り込んでしまった私に、「立退き料を二百万出します」と言うのだが、私は、「いきなりそんなことを言われても返事は出来ません」と言い店を飛び出した。

 私が七〇歳になった時、引退して息子の寛朗にチャンピオンの跡を継いでもらうことになっている。それは初子の提案で、私たちの理想だった。寛朗は五年前に九段会館を退職し、チャンピオンで修業をしている。店を立ち退けば、私たちの生活も未来も無くなってしまう。

 知人の弁護士に電話をすると、立退きは六カ月前に通告しなければならない。その家主の行為は違法なので、明け渡さなくてもいい!と言われた。翌日、初子とアコヒーダーで今井氏と会い、弁護士に言われたことを話すと、しばらく考えていたが、「それでは、四月三十日までにしましょう」。

 常連客に店の明け渡しをの話をすると、彼らはびっくりして、「そんなバカな!四十三年も続いている店を、いきなり立ち退けって!」「オレが今井先生に掛けあってやる!」「どうしても出なきゃならないのなら一千万円の立退料をもらわなくちゃ!」「店を止めることはない!居座っちゃえ」と喧々諤々!。今井先生への非難の声ばかりではなかった。「あんなに面倒見のよい人がどうしたのだろう」「今井先生らしくない、何かの間違いよ!」と好意的な人もいる。

 今井重幸は背丈は一七〇センチぐらい。中年の紳士だ。鼻の下と顎に髭をはやしているので髭の先生とも呼ばれ、まんじ敏幸の名前で、舞台演出家、構成作家として活躍している。その道では有名な人らしい。チャンピオンに時々顔を出し、誰とでも気さくにおしゃべりをするので人気者だ。新年会、忘年会はチャンピオンの裏にある貸しスタジオを無料で使わせてくれた。そしてパーティに参加すると、隠し芸で歌う人のピアノ伴奏をしてくれる。そんな人がらの今井先生が常連客に罵倒されるような非情な行為をするのが解せない。

 そこで、私は偽証事件でお世話になった佐々木弁護士に電話を入れた。今までの経緯を話すと、前触れもなくビルを建て直すと言い出した原因を知りたいと言われた。私は電話を切ると、今井氏の幼馴染で、大学も同期の村上氏を訪ねた。彼は不動産会社の社長なので、この一件に係わっていると思ったからだ。私の勘は当っていた。今井氏は緊急に、まとまった金が、必要になったのだ。ビルを建直すのではなく、六〇坪ある土地の借地権を売ろうとしているのだった。

「何か大きな興行に手を出して失敗したようだ。今井とは長い付合いがある、これ以上話すことは出来ない」

 村上氏から聞いたことを、そのまま佐々木氏に伝えると、今井さんから店舗を借りる時に、どんな契約をしたのか聞かれた。

 後に、チャンピオンの二階でバー〝ランボオ〟の経営者になるほりさんのすすめで、アルスノヴァビルの一階にある休業中の小さなバーを居抜きで借りることになった。オーナーは今井氏だった。

 今井氏は、「平沢貞通を救う会」の後援会で、森川事務局長に紹介され、冤罪事件の話題で意気投合した人だ。駅前の喫茶店で今井氏が便箋に店舗の賃貸の契約書を書き、私はサインするだけだった。「保証人は森川さんになってもらおうと思っています」と言うと、「山本さんは私の友人です、保証人はいりません、ここにサインをすればOKです」。私がサインをすると、「保証金五万円と家賃一万五千円の二カ月分、合計八万円を三井銀行の私の口座に振り込んでください」。鍵を渡され、「昭和三十九年二月十一日から使ってください」。私の話を興味深く聞いていた佐々木氏は、「山本君は随分信頼されているんだね。ところで、今までに家賃を滞納したことはあるの?」。

 開店した翌年の三月十五日、私は偽証容疑で検察庁特捜部に逮捕され、一カ月間、巣鴨の東京拘置所に勾留された。四月十五日、保釈になり、二日後に店をオープンしたが、TV、新聞の事件の報道が影響してか、知人が二人来店しただけだった。これからどうなるのかと困惑している時、今井氏から電話があった。アルスノヴァの事務所に行くと、「大変だったね」と労いの言葉をかけてくれた。私はチャンピオンの家主として、世間の風当りが強かったのではないかと心配した。「家賃の件ですが」と切り出されたので、店を追い出されるかも知れないと覚悟をした。ところが今井氏は、「店を一カ月も休んだので、収入は無かったでしょう。このままでは店を維持して行けないのではないのかな。店が軌道にのるまで家賃は払わなくてもいいです」と気を遣ってくれた。そして、「何カ月分か溜ったら、トータルして月割りで払ってくれればいいです」とも言ってくれた。私はその行為に甘え、四ヶ月の未払いだった家賃を六回の月割りで支払った。「そんなことがありました」。佐々木氏は数秒沈黙してから、声のトーンを上げて、「その時、山本君は今井さんに助けられたのだ。その今井さんが老朽化して、一円の価値も無いが、長年住んでいるビルを手放すほど緊急に大金を必要としているのだ。今度は山本君が今井さんを助ける番だと思う。今井さんは確かに法律を違反しているが、人間いつの世でも義理と人情は不可欠だと思う」。私は佐々木弁護士の見解に納得がいった。そして今井氏の事務所に承諾の電話を入れた。

 佐々木氏の意見に納得した初子も閉店のお知らせを書いた。


          ※


 突然ですが、皆様より御愛顧を賜ってまいりました当「チャンピオン」が四月末をもって「閉店」することになりました。

 新年早々、突如家主より、建物の老朽化や諸事情の理由により、明け渡しを要求されまして、やむなく決断いたしました。

 四十三年間、点して来た「チャンピオン」の灯を消す寂しさを、しみじみと身に堪え、一日一日御報告が遅くなってしまいました。

 長年に渡り「チャンピオン」を愛していただき心より感謝申し上げます。

 多くの方々との出逢いと交流は、私達の人生において大切な宝物です。本当にありがとうございました。また、いつか必ず皆様にお会い出来ますことを信じつつ、再建の検討のためにもしばらくお休みをさせていただきます。


          ※


 サヨナラパーティは、四月二十八日土曜日、午後七時に始った。店内にある椅子を全部外に出して、立食スタイルにした。常連客が次々と来店、閉店を惜しむ挨拶を交わしていた。店内に入れない人たちは外に出したテーブルの上の料理を食べ、店の中から運ばれて来るビールを飲んでいた。通り掛かりの人が、閉店するのを知り、仲間に入ってしまった人が何人かいた。パーティは午前四時まで続き、参加者は六十人ぐらいだった。最後に店をバックにして記念写真を撮り、大盛況だった。

「チャンピオン」集合写真。 二十九日、三十日は普通どおりの営業をした。サヨナラパーティに参加出来なかった人たちが来店。

 「新しい店を開店したらず知らせて!」

 異口同音が耳に残った。

 最後の仕事が終り、初子と店を出ると、外は明るくなっていた。ゆっくりと歩いた。我家の前で、新聞配達のお兄さんに手渡された「東京新聞」の朝刊の日付が五月一日になっていた。ページをめくると「我が心のチャンピオン」の大きな活字が目に留まった。初子が覗き込んで、「藤島大さんが書いてくれたんだ」。サブタイトルが、「名物酒場の閉店」だった。


          ※


 最近、本コラムに「いつもの酒場」をよく登場させた。しつこいと自分でも分かっていた。でもそうしたかった。なぜなら「いつもの酒場」が閉じてしまうからだ。東京・阿佐谷の洋食店兼酒場「チャンピオン」は四月三十日、ひとまず四十三年の歴史を終えた。主人の山本晁重朗さんは、かつて極東ジムのフライ級、リングでチャンピオンになれなかったが、東京五輪の年に開いた「チャンピオン」を多くの老若男女の心のチャンピオンに育て上げた。(中略)店を切り盛りする妻の初子さんは気鋭の俳人で、このほど三冊目の句集『火を愛して水を愛して』(三輪初子、文学の森)が出版された。勇退の父に代り鍋をふる二男の寛朗さんはボクシングのプロライセンスを持ち、本格イタリア料理を身につけ、なお「洋食の味」を守る優しい男。

 建物の老朽化などを理由に家主から急な明け渡し要求があった。さみしい。ただし、これはKO負けでもドクターストップでもない。チャンピオン優勢の長い長い一ラウンドが終っただけなのである。

                           (藤島大・スポーツライター)

「チャンピオン」夜景。
                                                                          
                                                                             
                                                                          

                                                                              【山本晁重朗】

 新型コロナウイルスの感染拡大で東京五輪は一年延期が決った。
 今から五十六年前、東京五輪が開催された年、昭和三十九年に深夜飲食店チャンピオンは開業した。その時に、〝都条例〟があった。東京都内でのバーの営業は二十三時まで、それ以降の営業は食べものを提供する店のみとされていた。違反して営業停止になった店もあると聞く。
 条例の対応策としてか深夜まで営業する店は看板に〝バー〟と書かずに、〝スナック〟と書く店が出現した。当店のメニューにはスパゲッティ、野菜サラダ、カレーライスがあるので、都条例の違反にはならなかったが、十一時から深夜にかけては、食べものを注文する客が少なくなり、バーと同じ常況になってしまう。そんな時、警察に踏み込まれたら、条例違反と見なされてしまうだろう。そこで、常連客が飲んでいるビールグラスか酒杯の横に空のどんぶりか、お皿を置かせてもらい、食べものを提供しているカモフラージュをした。
 ある夜、同業者のバーのマスターが来店、空のどんぶりでカモフラージュしているのを見て、「看板にスナックと書けばいいんだ、うちはバーを消して、スナックと書き直したんだ、そうしたら警察は店内を覗きに来なくなった」。私は早速、看板にスナックと赤い字で大きく書いた紙を張り付けた。
 数日後、「今晩は!」、入口のドアが開き少年が立っていた。常連の沼さんが、「チョウさん、子供が入って来たぞ」。私が、「ここは未成年者が来るところではないよ」と言うと、少年は、にこりと笑い、「この店は軽食とかスナック菓子を食べさせてくれるのでしょう。ボクはサンドウィッチを食べに来たのです」。ビールを飲んでいた星野さんが、「君はよくスナックの本来の意味を知っているね、たいしたもんだ、私の隣りに座りなさい」。少年を席に着かせると、「私のおごりでオレンジジュースを出して上げて」。
 少年は東田中学の三年生、十五歳、武藤はじめと名乗った。その日以来、週に二、三回来店。高校生になっても、それが続き、ジュースかコーラを飲みながら酔っぱらいのおじさんを相手に会話を楽しんでいた。そして常連たちに武藤君と呼ばれ、かわいがられている。「いっぱいぐらい飲めよ」と誰にすすめられてもアルコール類は成人になるまで口にしなかった。そんな武藤君は、「えらい!」と常連たちに誉められていた。ある日、ユニークな武藤君は陸上自衛隊に志願すると、チャンピオンから姿を消した。
 二〇一七年一〇月一日、チャンピオンフレンドOB会を催した。会場は阿佐谷北口の中華料理店珍香園で、男が十一人、女が四人のメンバーだった。
 二〇〇一年の三十八周年記念パーティから十六年、二〇〇七年に閉業してから十年の歳月が流れていた。チャンピオンで毎晩のように飲んでいた〝あの時代〟は、二十代から三十代であったメンバーは現在六十代から八十代になっている。年長の矢挽さんの「乾杯!」で会は始まった。OB会の会計係の咲谷さんが、「久しぶりの対面なので、自己紹介をしよう」と切り出した。誰からともなく順番に自己紹介が始った。彼らはチャンピオンに初めて来た時の年齢と現在の年齢、職業、近況を話し出した。年金生活者が七人もいた。それぞれがユーモアのあふれるおしゃべりで笑いが絶えない。彼らの共通しているのは飲む量はへっているが、家の近くの飲み屋に通っていることだった。
 彼らは酔いに連れチャンピオンの昔話に花を咲かせた。その中で話題になったのが、可憐な少年時代しか知らない彼らは、白髪のおじさんが武藤君であることに気が付いた時だった。「えっ!あの武藤君なの?」と驚いている。武藤君は立ち上がり、「ムトウクンでーす、六十八歳になりました」と叫び、ビールをいっきに飲み乾した。それを見た力さんが、「武藤君はすごい飲みっぷりだ、オレは女房に飲チャンピオンフレンドOB会[17.10.1]みすぎないようにって何時も注意されている」。その力さんを横目で見て、矢挽さんが、「私は医者に酒は止められているが、飲むのをやめるのなら死んだ方がいい!」と言って酒杯を掲げた。同年輩の鶴田さんが同調すると、「そうだ、そうだ」とコーちゃんもグラスを掲げた。かつて、矢挽さんが言っているのと同じ台詞を聞いたことがある。有線放送の社長、三井さんだ。彼は脳溢血で倒れたが前日まで飲んでいたという。八十一歳だった。
 粋がって飲んでいる男たちと同席している女性たちは実年齢より、若く見え、「トコちゃん」「ハッちゃん」「ひとみちゃん」「ケイコさん」と昔の名前で呼ばれ、〝あの時代〟にタイムスリップしたかのようにはしゃいでいる。
 トコちゃんからビールをお酌してもらった武藤君は矢挽さんの前に立ち、「お酒は百薬の長です。好きなだけ飲んで長生きしましょう!」。苦笑する矢挽さんに向って正義ちゃんが音頭を取り、「かんぱい!」。
 三時間をオーバーしたOB会はコーちゃんの〝一本締〟で無事に終了した。
 次回のOB会は、三年後の十月第一日曜日と決った。その日は、今年の十月四日だ。延期にならなければいいのだが。
                                       【山本晁重朗】

 新型コロナウイルスの感染を防ぐため、ステイホームをしている時、本棚の上にある赤い表紙のアルバムが目に付いた。ずっしりと重い。分厚い表紙を開くと、〝「チャンピオン」開店三十八周年記念パーティのご案内〟が貼ってあった。

     ※
 前略、早速御案内申し上げます。

 私たちの「チャンピオン」は、東京オリンピックの開催された一九六四年にはじまり、二十一世紀幕開けの今年を数えて三十八年目を迎えます。そこで、有志の方たちが発起人となり、記念パーティを開催することになりました。「チャンピオン」で青春を過ごされたあの時、あの時代に戻り、様々なご縁に恵まれた懐かしい方々と、新旧一同に会し、大いに語り合い、楽しんでいただきたく、御案内申し上げる次第です。何卒、御出席賜りますようお願い申し上げます。尚、当日は、ボクシングのエキシビジョンや、プロの方々の音楽、歌、そしてフラメンコダンス、その他を予定しています。                                  
                                    発起人代表 鶴田正浩

     ※

 「日時 平成十三年十一月二十二日(木曜日)、午後六時三十分より、場所・九段会館(三階真珠の間)。会費 お一人様一万円(子供は無料です)」と記してあった。

 三十八周年記念パーティ開催の二カ月前に、ニューヨーク同時多発テロがあった。〝九・一一〟である。その二十日後に、初子と九段会館に行き、宴会係主任の庭月野氏を訪ねた。彼は私が会館に勤めていた時の友人で、私たちの結婚披露宴は彼が便宜をはかってくれた。立食パーティで出席者は百人だった。「三十八周年は二百人近く案内状を出している」と言うと、会館で一番広い三階の真珠の間を確保してくれた。

 アルバムの二頁を開くと、今井重幸氏が舞台の中央で乾杯のポーズをとっているショットがあった。その横に、発起人の鶴田正浩氏がマイクに向っているショットがあり、俳句誌「炎環」主宰の石寒太氏、スポーツライターの藤島大氏、二宮清純氏、前田哀氏らのショットが並んでいる。その中に日本語でスピーチをしているジョナサンのスナップショットもあった。

 次の頁には司会者の松岡みどりさん、そして私と初子が挨拶をしているツーショットがあった。それを見ていると私は何時の間にか十九年前にタイムスリップしてしまった。

 満員の立食スタイルの会場には、ボクシングの関係者、俳句の関係者、映画友の会、佐藤塾(空手)の関係者達の新旧常連客が入りまじり歓談していた。

 私はカメラを持って、ごった返す出席者の渦の中に入った。一人ひとりにお礼の挨拶をしながら、笑顔でポーズをとる彼らを撮りつつ歩き回っていると、「ちょうさん」、背後から声をかけられた。振り向くと、東大生だった上田薫ちゃんが美人の奥さんを紹介した。カップルは名古屋から来てくれたのだ。その隣にいる薫ちゃんと高校が同級だった長谷川夫妻は、小学生の娘と三人で新潟から、飲み仲間だった上智の木村君は宝塚から来てくれた。後に、安倍内閣の復興大臣になる田中和徳氏に肩を叩かれた。彼も学生時代からの客だった。

 七時から余興が始まるが、その前に、チャンピオンで知り合い、結婚したカップル第一号の永島夫妻と第九号の中村夫妻が舞台に上がりスピーチ。仲が良いところを見せつけられた。

 余興のトップバッターは殴られ屋の純君だった。新宿の歌舞伎町で、酔っ払いのうさばらしに、一分間千円で殴らせるという珍商売だ。当時、彼はマスコミの寵児になった。因みに日曜ボクシングのレギュラーでもある。その殴られ屋に挑戦したのが鶴田氏の娘さんの育子ちゃんだった。十二オンスのグローブを付けた彼女は、舞台の中央で、純君を殴りまくったが、パンチは一発も当たらなかった。拍手と感声が静まるのを待って、橋口瑞恵さんがさっそうと登場、ヴァイオリンを演奏。続いて珠木美甫さんのシャンソン。そして大橋巨泉の娘さんのジャズシンガー、美加さんと、妹のチカさんのデュエット。この姉妹は阿佐谷恒例の〝ジャズストリート〟のレギュラーで、会場を満席にするボーカリストである。レコード会社新星堂の鶴田氏が、「彼女たちのデュエットは、初めて聴いた。素晴しい!」と絶賛した。「カン、カン、カン」と、ゴングのテンカウントが場内に鳴り響いた。それは私がゴングの代りに調理場から借りてきたフライパンを、ステンレースのスプーンで叩いた音だ。舞台に現役のベテランレフリー島川威氏が登場。日曜ボクシングの練習生のスパーリングが始った。一ラウンド二分の三回戦。両者の激しい打ち合いに会場は興奮のるつぼと化し、後楽園ホールさながらの声援がとんだ。

 その余韻が治まらないうちに、メインイベントのフラメンコダンサーが舞台に華やかなドレスで登場。息子将光のジャマキート舞踏団だ。「オーレイ」、「ブラボー」と掛け声が入り、情熱的なムードが会場と一体になった。

 余興が終り、舞台に元日本チャンピオンが四人登場。ライト級のシャイアン山本、Jライト級の赤城武幸、Jミドル級の引地博、ライト級の大山悦。シャイアン山本氏が代表で、「三十八周年おめでとう。チャンピオンの防衛回数をもっと伸ばして下さい」と激励の挨拶をしてくれた。彼らが舞台を下りると、私と初子が上がり、花束が贈呈され、お礼の挨拶。そこに御輿のコーちゃんが登場、三、三、七拍子でパーティは無事に終了した。

 二次会は隣の桜の間だった。会計係の深代チャンが、「出席者は子供四人をプラスして二百三人です」と耳打ちをした。会場は真珠の間より狭い。どんな状態なのか見に行くと、入口に鷺谷達夫さんがいて、両手を広げ、私を迎えた。その瞬間を女性カメラマンの岩本昌子さんが捉えた。そして、その写真がアルバムのラストの頁に貼ってあった。

 五六頁に一九四枚の写真が納まっているこのアルバムは、私にとって貴重なものである。見終ると裏表紙を閉じ、そっと戻した。            
                                       【山本晁重朗】

パジャマに着替えた時、ケイタイが鳴った。「まだ起きているの?」。次男の寛朗の声だった。新型コロナウイルスの感染拡大の緊急事態宣言が出た。売上げが減少している。それが気掛りのようだ。「でも、皆で頑張っているから心配しないで」。まだ店に居る気配がした。

寛朗は平成十四年からチャンピオンが閉業するまでの五年間、私のもとで料理の修業をしている。その時の常連だった馬場昭次氏に、料理の腕と人格が認められ、チャンピオンが閉業すると、JR中野駅南口、丸井デパートの横丁にある、スペイン料理店「シオノ」の店長に抜擢された。店は繁盛している。そして、チャンピオンの常連だった人たちが寛朗の存在を知ると次々と来店し、今や、「シオノ」の常連客になっている。寛朗の座右の銘は、〝出会いを大切にする〟だという。

あの時は常連客が二人居ただけだった。「今日は暇だから早く帰ろうかな」と時計を見た時、赤電話が鳴った。ほりちゃんからだった。「チョウさん!来て下さい、沼さんがエディさんに絡んでいるのです」。ほりちゃんは後に、チャンピオンの二階にバー「ランボー」を開業する同業者だ。その時点では鍋屋横丁交差点の近くにあるバーの雇われマスターだった。客に絡んでる沼さんは田宮二郎にちょっと似てる中年のキザな男で、シルバーウイスキーのセールスマンだ。素面の時は好人物なのだがアルコールが入ると、がらりと人柄が変り、誰にでも絡んでしまう。

ほりちゃんの電話ではエディさんに絡んでいると言っているが、あのボクシングトレーナーのエディ・タウンゼントだろうか。数日前、ほりちゃんが来店した時に、店の近くに住んでいるので、飲みに来ることがあると言っていたが。

エディ・タウンゼントはハワイ生れの日系人で、プロレスラーの力道山の招きで来日した。ハンマーパンチの藤猛、海老原博幸、ガッツ石松、柴田国明、井岡弘樹ら五人の世界チャンピオンを育てた名伯楽である。

「早く行って上げなよ、新沼はチョウさんの言うことは聞くから」。沼さんと大学が同期だった星野さんが言うので、前掛をはずし、駅前のタクシー乗場に走った。

沼さんは、なんとかなるだろうが、エディさんはTVで見ただけで面識が無い。どうしよう。

店内は薄暗かった。ほりちゃんが沼さんがいる席に案内した。沼さんは立ち上がり、「チョウさん来てくれたか!」。彼の前にいた若者二人も立ち上がり、「この野郎はエディさんをバカにしたのだ!こんなジジイがエディじゃない、偽物だ!と」。私は三人に頭を下げると、「オレたちはエディさんのファンなのだ、この野郎は、こんな店にエディさんは来ない、と絡んでいやがった」。どうやらこの若者たちは、ここに居合わせた客のようだ。私が平に謝ると、「落し前をつけてやる」とわめいている。当のエディさん困惑した目で私を見た。そして、「アナタ、アノトキのヒト!」。

数年前、私が所属していた極東ボクシングジムの会長、小高伊和夫の葬儀の日に会った人だった。葬儀はジムの場内で行われた。弔問客が多かったので、場外に並び焼香の順番を待っていた。朝から降っていた小雨が突然、土砂降りになったので、あわてて、傘をさした。その時、私の前に居た人に、「入りませんか」と声を掛けた。「アリガトウゴザイマス」。たどたどしい日本語だった。あの人はエディさんだったのか。

エディさんは粋がっている若者の前に立ち、私と握手を交わした。驚いている彼らに、「コノヒト、ワタシノトモダチ」。その一言で一件落着した。

あの人の名前はリングネームではない。元世界フライ級チャンピオン花形進は本名である。米国の有名プロモーターのドン・キングが本名であるのならば、二人の名前は彼らのビジネスに相応したネーミングだ。ドン・キングは、プロレス、プロボクシングのプロモートを手掛けた若き日のドナルド・トランプのライバルだったと聞く。まさにキングは王様である。

花形を英語にするとスターだが、名前とは程遠い地味なボクサーだった。昭和三十八年に十五歳でデビュー。四十九年十月十八日、チャチャイ・チオノイ(タイ)をKOで世界フライ級タイトルを、奪取するまで十年の歳月があり、六十二戦目だった。因みにライバルの大場政夫が世界タイトルを奪取したのはデビューから四年、二十八戦目だった。そして、事故死するまでに五度防衛しているが、花形選手は翌年のサラバリアとの初防衛戦に失敗している。その後、黒星を二つ重ねて引退した。

そんな地味なボクサーが、数年後、横浜の池辺町に花形ボクシングジムをオープンしたのだ。

チャンピオンの常連のプロボクサー高橋純が、そのジムに所属している。彼の案内で、花形ジムを見学に行った。ジムは三階建の新築ビルの一階にあった。純君が花形会長を紹介してくれた。気さくな人柄で私を歓迎してくれた。ジムは広いフロアに正規と同じサイズのリングがある。その横に大小のサンドバックが五、六本吊るしてあった。ビデオカメラも設置してあり、設備が整った近代的なジムだった。

オフィスでコーヒーをご馳走になりながら、「世界チャンピオンになると、こんな立派なジムが持てるのですね」と言うと、会長は首を横に振り、「ファイトマネーで、このジムを所有したのではありません」。右手の人差指を立て、「一本の牛乳ビンが縁で、このジムのオーナーになったのです」。

会長は、その経緯を話してくれた。

TVのインタビューが終り、ジムの外に出ると、入門したばかりの練習生が、にっこりと笑い挨拶をしたので、「一緒に帰ろう」と声をかけた。練習生は、「ボクシングマガジン」を読んだのだろう、私が世界チャンピオンになるまでの苦労談をよく知っている。彼はTVのインタビューとは異なった質問をいろいろとするので、私は、それなりに楽しかった。駅前の売店で牛乳を二本買い、「喉が渇いたね」と、言って一本、彼に渡した。

それから数年後、引退して古巣のジムのトレーナーになった私の前に、あの時の練習生が立派な扮装で現れた。彼は、「バブルの波に乗って、事業が大成功しました。近々、三階建のビルを建てるのです。二階、三階はオフィスにして、一階をボクシングジムにします。そこを花形さんに使ってもらいたいのです」。いきなり言われたので、驚いていると、「あの時に頂いた〝牛乳〟のお礼です」。

会長の話を訊いた私は、花形選手との〝出会い〟と練習生のその時の心境を推測した。練習生にとって世界チャンピオンは雲の上の人だ。そんな人から貰った牛乳ビンには、彼の人生に刺激を与える何かがあったのだろう。練習生にとって花形会長は、〝スター〟だったのだ。

花形ボクシングジムをオープンして、半世紀。一本の牛乳ビンは、日本王者六名、世界王者一名を輩出している。

七十二歳で日本ボクシング協会の会長に就任し、努力と根性の人が、今、新型コロナウイルス終焉を目指して頑張っている。
                                       【山本晁重朗】

ある夜、常連客の木村和男君がポスターを持って来た。「これを店に貼ってくれますか」。見ると、〝日本空手道佐藤塾〟と大きな字で書いてあった。その横に、〝塾生募集〟とある。「ボクシングの店に空手はだめですか」と声が控えめだった。私は、「空手も好きですよ」と言って壁を指差した。そこには大川ボクシングジムのポスターが貼ってある。「その横に並べて、そのポスターを貼ります」。其処は一番目立つ場所だ。

数日後、スポーツ刈りで体格のいい中年の男が来店した。男は一礼すると、「空手塾のポスターが貼ってある店があると聞きましたので、見に来ました」。「あそこにあります」。目くばせすると、男はポスターの前に立ち、「ありがとう御座います。このポスターは誰が持って来たのですか?」。「木村和男君です」。男は頷き、「木村は私の道場の塾生です」。私は一歩前に出て、「では、あなたは佐藤勝昭さんですね」。見たことのある顔だと思っていたので、すぐに彼だと分かった。「私はあなたの試合を見ています」。佐藤氏は、「本当ですか」と言いながら席に着いた。

佐藤勝昭は昭和五十年に、〝世界空手道選手権大会で、優勝した初代の世界チャンピオンである。昭和五十二年に極真会を退会して〟日本空手道佐藤塾を設立している。三十一歳だった。道場はJR武蔵境の駅前ビルの地下にある。

佐藤氏は隣に貼ってある大川ジムのポスターを見ているので、「私はこの店を開業する前は大川ジムのトレーナーだったんです」と言うと、佐藤氏は、「ボクシングのテクニックは凄い!空手家が、パンチを二発打つのと同じスピードで五発打てる。そしてパンチ力もある」。今までに何人かの異種格闘家が来店しているが、こんなことを言われたのは初めてであった。私は佐藤氏の横顔を見詰め、世界の頂点を極める人は矢張り、どこか違うと思った。佐藤氏は、「ビールのグラスは大きいものを下さい」と言うので、酎ハイ用の大きいグラスをわたすと、ビールをなみなみとついだ。それを飲み乾すと、「道場に来て、パンチの指導をしてくれませんか」。私はそれに応えず、「今度の店の定休日に見学に行きます」と言いながら、佐藤氏がついでくれたビールグラスを目の前に掲げた。

定休日を木曜日にしたのは、ごく最近だった。道場はJR武蔵境の南口て、ボーリング場があるビルの地下にあった。七時に道場のドアを開けると、佐藤氏が笑顔で迎えてくれた。大川ジムより、ひと回り広い道場に塾生が四十人ぐらい稽古に励んている。片隅で見ていると、佐藤師範は手を叩き、彼らを中央に集めた。そして、私を紹介した。「元プロボクサーの山本晁重朗さんです。毎週木曜日にパンチの指導に来てくれます」と言ったので、私は驚いた。見学に来ただけなのに指導者になってしまっている。稽古が終わると、「一杯やりましょう」。近くの行き付けのバーに誘われた。佐藤氏は可也のビール党で、佐藤氏専用の大ジョッキーが置いてあった。大ビンのビールが一本入る。私にも同じジョッキーを持たせて、一本ついでくれた。「押忍!」で乾杯。「これで山本さんは佐藤塾の同志です」。一杯飲み乾した佐藤氏は、「やっぱりパンチだけだったらボクシングの方が強いです」。それは、私のパンチの指導を見た感想だろうか。私はふとある空手家を思い出した。「大山倍達さんが、若い頃、日本ミドル級チャンピオンのピストン堀口とスパーリングを二ラウンドやったけど、私のパンチは一発も当たらなかったと言っていました」。佐藤氏は立ち上がり、「それは誰から聞いたのですか?」。私は怪訝な顔で、「大山さんからですが」。「大山館長と面識があるのですか?」。「えゝあります」。

ある日、平沢貞通を救う会の事務局員だった私は、事務局長の森川哲郎氏の自宅兼事務所に出勤すると、大柄でがっちりとした体格の客人がいた。森川氏が、「この人は空手家の大山倍達さんです」と紹介してくれた。

大山倍達は戦後、初の全日本空手道選手権大会で優勝。以後、〝昭和の武蔵〟をめざして精進を重大山倍達さんね、猛牛と格闘し角を叩き折り、〝ウシ殺しの大山〟の異名をとる。国内にはなく、昭和二十七年、渡米、空手代表としてプロボクサー、プロレスラーと対戦して、連戦連勝している空手家である。その偉業をマスコミに載せたのが森川氏であった。実録小説を書いている。その森川哲郎を大山氏は尊敬しているという。

大山氏の血気盛んなエピソードを頷きながら聞いていた佐藤氏は、空になったジョッキに気付きビールを注文した。

私が救う会の事務局員になった時は、二十五歳だった。森川事務局長と何時も行動を共にしているので、大山氏と会う機会が多かった。極真会館の道場開きのパーティにも出席した。初代の極真会会長に選ばれた佐藤栄作氏(のちに総理大臣になる)と大山氏のツーショットを写している。因みにその写真が大きな額に納まって館長室の正面の壁に掛けてある。大山氏はチャンピオンに来店したことはないが、新装開店の時に、〝極真会館空手道場、大山倍達〟の大きな花輪をお祝に下さった。

佐藤塾へ指導に行く度に新しい塾生の顔がある。名前を覚えるのが大変だった。三度目の木曜日に行った時、佐藤師範は私のトレーニングウエアにクレームをつけた。「ここは空手の道場なのです。ボクシングシューズも脱いで空手の道着を着て下さい」と忠告された。私は早速、青梅街道にある井上武道具店に行った。店員が私の顔を見て、「帯は黒ですね」と言ったが、私は初心者の白帯を選んだ。

私の空手着姿を見た佐藤師範は、「似合いますよ」と言って笑ったが、師範代の高橋さんは、「指導者が白帯とはね?」と首をかしげている。塾生たちは、「親しみがあっていい」と言って積極的に指導を受ける若者が増えた。

マンガ「空手バカ一代」がヒットし、世間は空手ブームになっていた。佐藤塾にもTVが取材に来た。その時、師範は、私に黒帯をそっと貸してくれた。それを締めてカメラの前に並んだ。

土曜日の十時頃、塾生が二人来店。「オス!」と言って一礼し、カウンターに座ると、「先生!自分にビールを下さい」。立ち上がって「ボクはハンバーグをいただきます」と大声で注文するので常連たちはびっくりしている。「君たち、ここは道場じゃないのだから先生はやめて下さい」と注意すると、「どこに居ても、先生は先生です!」。肉屋のコーちゃんが、「ちょうさんは何の先生なの?」。

そこに月刊誌「ボクシングワールド」の編集長の前田さんが、元世界Jライト級チャンピオンの小林弘さんを連れて来た。常連たちは、「雑草の男!」、「クロスカウンターの名手!」と声を掛けると、小林さんは両手を上げてガッツポーズ。如才ない人で、気さくにファンの質問に答えている。彼の芸術的に曲がり、潰れている鼻は、世界タイトルを通算六回防衛している歴戦のたまものである。前田さんは今までに、Jミドル級の輪島功一、Jバンタム級の飯田覚士ら、元世界チャンピオンを連れて来ている。小林さんは帰り際に、「ジムに遊びに来て下さい」と言ったので、前田さんに紹介された時に交換した名刺を見た。ジムの所在地は武蔵境だった。もしかすると佐藤塾の近くかもしれない。木曜日は少し早めに家を出て、小林ジムを訪ねると、佐藤塾道場のすぐ近くだった。ジムは大川ジムより少し狭かったが、設備が近代的だった。小林会長に、「空手の道場が、この近くにあるので、佐藤塾長を紹介したい」と進言すると、小林会長は、「是非」の一声だった。道場を案内し、佐藤塾長を紹介すると、意気投合し、二人の交流が始まった。

佐藤勝昭は、昭和六十一年から新ルールによる全日本空手道選手権大会を、主催している。会場は代々木体育館だった。その来賓席の中央には小林弘の姿があった。そして、後楽園ホールのリングサイドには佐藤氏が座していた。数年後、佐藤氏の結婚披露パーティには小林夫妻は招待され、私もカップルで出席している。

道場には足掛三年と三ヶ月、指導に行っていた。山中湖の夏の合宿にも二度参加している。私は腰の回転で打つパンチの打ち方、キックに対してパンチを打つ間合い、空手の型にはないフックとアッパー、サイドステップなどを指導した。佐藤師範は空手を通して、礼節、義理、人情、そして武道の精神を指導していた。彼の思想に共鳴し、佐藤塾での三年と三ヶ月は、私にとって貴重な体験であった。佐藤勝昭は、九歳年下であるが、私の人生の師でもある。

ある夏の夜、神博行君が格闘技の専門誌を持って来店した。彼は札幌出身で二年前に来店し、常連客になっている。雑誌には、〝空手バカ一代〟のヒーローである極真会館長の大山倍達が、主催する〝夏の合宿五日間募集〟の記事が載っていた。神君は札幌の空手道場に通った経験があるので、この合宿に応募したいという。私が佐藤塾でパンチの指導をしていたのを知っているので、報告に来たのだ。私は老婆心で、自分の名刺に、〝大山先生、神博行君は私の友人です、よろしくお願いします〟と書いて渡したのだ。

一週間後、神君が意気揚揚と店に入って来た。「合宿はどうだった」と聞くと待ってましたとばかりに話し出した。

合宿最後の日に大山先生が、指導員二人と歩いていたので、大山先生の前に立ち、ちょうさんの名刺を渡しました。怪訝な表情で見ていましたが、「君は私に何をしてもらいたいのですか」と聞かれたので、「館長と一緒に写真を撮ってもらいたいのです」と言ったのです。

神君は葉書サイズの写真を、私の前に出した。それは神君と大山館長のツーショットだった。神君は自慢げに常連たちにも見せていた。

数日後、家に神君から残暑見舞いが届いた。

その葉書は大山館長とのツーショットの写真版だった。神君に電話をすると、その葉書は友人、知人に三十枚ぐらい出したという。木村君が来店したので、それを見せると、「これチョッとヤバイんじゃないですか、極真会の関係者が見たら、何か言ってくるかもしれない」。

午後三時、外出しようとした時、電話のベルが鳴った。「山本君、大山です」。館長からの電話だった。私は怒られるのを覚悟した。「夏の合宿に道場生を紹介してくれてありがとう」。私はあわてて、「写真を撮らせて頂き、ありがとう御座いました」。受話器を持つ手が震えている。大山氏は、「神君は素敵な青年です、私に直訴したのですから、気に入りました」。意外な言葉に驚いていると、「池袋の駅の近くにうまい焼肉屋があるのです。今晩、奥さんと来ませんか」。私は行き成り言われたので、気が転倒してしまった。〝はい〟と即答しそうになったが、今日は金曜日、常連たちが集まる日だ。今までに休んだことのない大事な日なのだ。躊躇したが、「今夜はお店があるので」と無意識に言ってしまった。大山氏は、「では、次の機会にしましょう」と言って電話は切れた。

それから数年後、佐藤塾の木村君が店に来て、「大山館長が肺癌で、入院しています」と教えてくれた。初子とお見舞いに行きたいので、入院先を尋ねたが、それは誰にも知らせていないという。

ある朝、初子から無言で渡された新聞に目を通すと、〝ゴッドハンド(神の手)の大山倍達さん死去〟と大きな見出しがあった。死因は肺癌だった。平成六年四月二十六日、七十歳。

私は茫然とした。「焼肉屋へ行こう」と誘われた時、〝はい〟と言えなかったことを今でも悔やんでいる。

 映画館ユジクの前で立ち止まり、タイムテーブルを見ていると、「マスター」と声をかけられた。振り向くと同年輩の男が、「ゲンキ?」と言いながら近づいて来た。その人は元チャンピオンの常連客だった。マニアックな映画ファンだったのを思い出したが、名前が出てこない。相手も私の名前を忘れたので、マスターと呼んだんだろう。「最近、何か見た」、「ウン、見たよ、アメリカ映画で、えーとアカデミー賞をとったやつ」と言ったものの映画のタイトルが出てこない。

「ほら、あれだよ」「あれか、オレも見たよ」「面白かったね」

二人は、その映画の話をしたのだが、ちぐはぐだった。十分ぐらい立ち話をしていると、お互いにタイトルを思い出した。だが、二人が口にしたタイトルは異なっていた。そのように、近年はとかく忘れっぽいのである。

ところが、四十年、五十年前の出来事は昨日のように覚えているから不思議だ。

チャンピオンを開業したのは半世紀以上も前だ。居抜きで借りた店はカウンターだけで、八人座ると満席になった。私は銀座ビフテキのスエヒロと九段会館の洋食部で料理の修業をしているので、食べ物のメニューを出したかった。だが、それは不可能だった。この店は元バーだった故に、家庭用のガスが二台と氷で冷やす小さな冷蔵庫があるだけだ。

店はスナックなので、ビール、ハイボール、ウイスキーのオンザロックが主な飲みもので、料理はスパゲッティと生野菜サラダだけである。店は口コミで軌道にのり、七時を過ぎると常連客で席は埋まった。客層は二十代から三十代で、学生、サラリーマン、自営業だった。共通しているのは、よく飲み、よくしゃべる。彼らの話題は豊富で、映画とボクシングのトークが多かった。

ある夜、スポーツ刈りの青年が入って来た。ひとつ空いていた席に座り、ビールを注文した。一杯飲み乾すと立ち上がり、「ボクは昨日、この店の近くに引越して来ました。名前は相川愛一郎です。愛ちゃんと呼んで下さい」と挨拶をした。常連たちは酔っぱらっているので、すぐに彼を受け入れて、仲間にしてしまった。次の日から愛ちゃんは毎晩、七時になると顔を見せた。

生れは静岡県富士市で、明治大学のラグビー部のレギュラーだったが、腰を痛めて退部した。就職した出版社が倒産したので、今は休職中である。と、経歴をしゃべりまくっている。それでも、人なつっこい笑顔と、どんなジャンルの話題にも対応出来る軽妙な話術で人を笑わせ、人気者になってしまった。

ある時、キザで酔っ払いの中年男ぬまさんが、バーのママを連れて来た。「美人のママにカクテルを作って」と気どってみせた。ぬまさんは、私がカクテルを作れないのを知っているのに、意地悪だ。どうしようと思っていると、愛ちゃんが、「ボクが作ります」と言ってカウンターの中に入って来た。

「ボクはバーテンのアルバイトをやったことがあるので、まかしておいて下さい」

愛ちゃんは格好よくシェーカーを振った。その日から彼は、当店のバーテンダーになってしまった。愛ちゃんは同じ年だが、私より背は高い、風貌がいいので、初めて来店した客に「マスター」と呼ばれることもあった。

その頃、世界フライ級のタイトルを失ったファイティング原田と東洋バンタム級チャンピオン青木勝利のノンタイトル戦が話題になっていた。古物商の吉永さんが、天才のハードパンチャー青木が勝つと豪語したので、愛ちゃんは、対抗して努力型の原田がKOで勝つと言い張った。口論になり、勝敗にビールを賭けることになってしまった。結果は原田のKO勝ちだった。負けた吉永さんはカウンターにビールを十本並べた。そして、「今日はオレのおごりだ!飲んでくれ」と叫んだ。いきさつを知らない常連たちは並べられたビールを飲み、「カンパイ」。吉永さんには、〝完敗〟と聞えたのではないか。ところが愛ちゃんは吉永さんに、「無理しないで五本でいいよ」と言ったのに、「十本賭けたのだから、同情はいらない」、きっぱり断った吉永さんの男気にボクは負けましたと、言っていた。

数ヶ月後、愛ちゃんは突然、可愛い女の子を連れて来た。名前はひろ子、十七歳だという。

「ボクは来月、一番街にバーを開業します、この子がホステスです」

それを聞いた私も常連たちも啞然とした。開業資金は病院を経営している実家の父親が出してくれるという。

阿佐谷南口のパチンコ屋の横を左に曲ると高円寺に向って飲み屋街がある。そこが一番街で、バー、スナック、居酒屋が百二十軒のきを並べている。オリンピックの名残りもあって、深夜までにぎやかで、どの店も繁盛していた。開店する店は、その中ほどにあった。チャンピオンより広い。カウンターとテーブルがあり、キャパは十六席。店名は〝メロス〟だった。

愛ちゃんが、バーを開店するのを驚いている常連たちに開店祝に行こうと声をかけた。当日、私はカウンターの中に入り、マスターの愛ちゃんと並んだ。「この店はチャンピオンの姉妹店です。よろしく」と挨拶をした。店はチャンピオンの常連客であふれている。ビールグラスを掲げて、「おめでとう」。ホステスのひろ子ちゃんもホールで接待し、愛嬌を振りまき大盛況だった。

パーティが終り、店を出ると吉永さんが私を呼び止め、「愛ちゃんは人気者だから、チャンピオンの客を取られちゃうぞ」とささやいた。「それでもいいよ、愛ちゃんには助けられたし、これで恩返しが出来た」とは言ったものの、それが現実となった。何時も七時頃に来る客が十時すぎに来店、「メロスで飲んで来た。愛ちゃん張り切っているよ」と言う客が増えたのだ。

月日は流れ、ある夜、有線放送の三井さんが来店した。

「チャンピオンは相変らず盛況だね、メロスは閑古鳥が鳴いているぞ」

隣で飲んでいた野沢君が、「一週間前にメロスに行ったら、客は四人居ただけで、顔見知りの人は居なかった」。そう言われてみれば、最近はメロスで飲んで来た話を聞かなくなった。常連たちは、もうメロスに行かなくなったのだろうか。

メロスが開店してから二度目の春を迎えたある夜、愛ちゃんが開店と同時に入って来た。店内に客が居ないのを見定めると、「おやじが倒れたんだ、店を閉めて実家に帰ります」と言い残して、愛ちゃんは阿佐谷の町から姿を消した。

それから二年後だったと思う。吉永さんが来店し、「愛ちゃんが死んだって、ひろ子ちゃんから電話があった」。

葬式の日時も知らされていたので、二人は静岡県の愛ちゃんの実家に行くことになった。吉永さんは、「親の死に目に会えなかったと愛ちゃんは嘆いていたし、これで病院の跡取りは居なくなったんだ。ひろ子ちゃんは、まだ若いのに未亡人になってしまった」と、車窓から景色を見ながら、ぼやいていた。

富士市の駅に降りて、外に出ると、目の前に富士山がパノラマのように広がっている。二人は立ちすくんだ。屋久島生れの吉永さんは初めて見る光景だ。

「風呂屋のペンキ画より凄い!」

駅前でタクシーに乗った。吉永さんは、「相川病院に行って下さい」。行き先を告げると、運転手は、「この町に、そんな病院はありません」。「そんなことないよ、総合病院だよ」。運転手は振り向いて、「相川医院ならありますが」。吉永さんは声を大にして、「じゃあ其処に行って!」と言うと、運転手は、「歯医者ですよ」。

入口のベルを押すと、ひろ子ちゃんが出て来た。「お義父さん!東京から吉永さんたちが来ました」。二人は顔を見合せ、「お父さん、死んだんじゃなかったのか」。吉永さんは首をかしげた。

ひろ子を助手席に乗せ、お父さんの運転で、お母さんと私たちは葬儀場に行った。車中でひろ子は、愛ちゃんはアル中だったと言うだけで、死因を訊くと、答えは曖昧だった。

儀式が終り、御清所に案内された。そこで、お母さんに愛ちゃんの高校時代の同級生を紹介してもらった。「大学も同じだったんですか?」と訊くと、「相川は、大学には行ってないよ」。「ラグビーの選手だったと聞いていたのですが」。「相川はスポーツは苦手だし、飛行機は恐いと言って、海外旅行を誘ったがだめだった」。

ハワイに行った話も聞いているので、私は狐につままれたようになり、吉永さんの顔を見た。不信の念をいだいた吉永さんは、「あなたは何年生れですか?」と質問すると、同級生の年齢は私たちより三歳も年上だった。同級生は、「相川はビールが好きで、高校生の頃から親の目を盗んで飲んでいました。それと本が好きだったようです」。「どんな本ですか」。「哲学の本から週刊誌まで読んでいました」。吉永さんが、「だから彼は物知りだったのか」とつぶやいた。その時、同級生は、「そうだ、相川は太宰治の愛読者だ、と言っていました」。私と吉永さんは目を合せて頷いた。そのショックで頭が混乱した。

一番街のやきとり屋鳥正で愛ちゃんの偲ぶ会を催した。吉永さんと連名で香典を出してくれた十二名が出席した。献杯し、みんながほろ酔いになるのを見計らって、愛ちゃんの秘話を披露した。どんな反応があるだろうか。心配だった。話が終ると神妙な顔で聞いていた彼らは、いっせいに笑いだした。「ウソー!」、「本当!」、「信じられない」、「ジョークでしょう」の声が交差した。

調理場で仕込み中のおやじさんが、鳥肉を串に刺す手を止めて、「にぎやかだけど、今日は何の集りなの?」。私は、「偲ぶ会です。〝メロス〟の」と応え、手もとにあったビールを飲み乾した。

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