"チャンピオン"日誌・あの日あの時

63年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。

 かつて、阿佐ヶ谷に映画館が三軒あった。七〇年代に入ると駅の近くにあるオデオン座だけになってしまった。そこの支配人の県氏も常連客であった。いつも月初めに来店、「今月分だよ」と言って、帰り際に招待券を十枚置いていく。それを映画好きの常連客に配っていた。県氏は独身で、「高倉健と同じ歳だ」が口癖だ。「若い時は映画俳優になりたかったが気がついたら、映画を見せる方の仕事をしている」と、酔っ払うとひとり言のように呟く。ある夜、県氏はめずらしく同年配のステキな女性を連れて来た。焼酎の水割を飲みながら、女性と青春時代に見た懐かしい映画の話で盛り上がっている。それを興味深く聞いていると、私はヤンチャな少年時代を思い出した。

映画をただで見まくっていたのである。映画が終り、観客がどっと出て来たところに、まぎれ込んで入ったり、友人五人から一人分の入場料金を集めて、チケットを一枚買い、入場するすきを見て、非常口を開け、外で待っているみんなを入れたこともある。夕方、雨が降るとチャンスだった。傘を持って映画館に行き、「お父さんが見に来ているので、これを届けに来ました」と言って中に入る。もちろん、父など場内にはいない。そんなことをやっていたのは、映画を見るのが目的だけではなく、スリルも楽しんでいた。さらにエスカレートして映画館の裏側にあるトイレの窓から入るのを思いついた。ある夜、トイレの窓から入ろうとして足を入れるとギュッと掴まれた。「しまった」、どうしようと思っていると、中から女性の声が、「だめこんなことしちゃ、そんなに映画が見たいのなら入口にいらっしゃい。今日は勘弁してあげるから、二度とこんなことをしちゃだめよ」と怒られた。入口に行くと若い女性が立っていた。

「君なのね」

私がうなずくと中に入れてくれた。その女性は映画のヒロインの〝天使〟のように見えた。以後、映画のただ見はやめた。

そんな悪だった少年時代を思い出した切っ掛けは、県氏の連れの女性が、かつて阿佐ヶ谷の映画館に勤めていた話をしていたからだ。この女性に〝天使〟のことを聞けば、彼女の近況が分かるかも知れないと思った。二人の会話がとぎれた時、それとなく彼女に尋ねた。

「パールセンターにあった松竹座を知っていますか?

彼女は、「若い頃、あそこにいました」と言い、怪訝な顔をしたので、まさかと思ったが、トイレの話をすると、彼女は立ち上がり、私をじっと見詰める。

「あなたがあの時の少年なの?目の前に足が出てきたので、びっくりしたわ!」

カウンターがなかったら抱きつかれそうだった。

この奇遇な再会のエピソードは、パートナーの初子が音頭を取って結成した〝映画フレンド会〟でも話題になり、ゲストに彼女を呼ぼうという声もあったが、さすがにそれはやめることにした。

映画フレンド会は毎日第三水曜日の七時から会合があり、十数人が集まる。テーブルを囲み飲食をしながら、三時間ぐらい洋画、邦画を問わず、古今の映画のディスカッションをする。

ある晩、「デビュー戦が決まったぞ」と、金子正義がドアを開けながら叫んだ。カウンターの客が一斉に振り向いた。正義は二十六歳。本業はペンキ屋。二十五歳から近くにある石橋ボクシングジムでトレーニング。ジムの帰りに来店し、ビールで乾いた喉を潤している常連客だ。

「よし!みんなで応援に行こう」と立ち上がったのは学生時代に日本拳法のキャプテンだった小宮山晶治だ。

正義の試合は、トーナメントの新人王戦だ。初めて見に行ったのは、たったの二人だったが、彼らがボクシングの面白さを得意げに話すので、正義の試合がある度にファンは増え、準決勝戦までに勝ち進んだ時には、〝正義の後援会〟ができてしまった。会長に元ライト級新人王の咲谷達夫がなった。

映画フレンドの会と正義の後援会は対立はしなかったが、なんとか、この二つの会を統一しようと思い、映画界とボクシング界に共通している著名人のサインを一枚の色紙に書いてもらうことにした。〝四角に賭ける青春〟のタイトルで対談したことがある仮名で書くと同姓同名になる二人を選んだ。日本人として初めての世界王者世界フライ級チャンピオン)の白井義男氏と映画評論家で、『キネマ旬報』編集長(一九六八年から七六年)だった白井佳夫氏である。

まず阿佐ヶ谷在住の白井佳夫氏を訪ねて、「リングとスクリーンは四角です。この四角の色紙に、お二人のサインをいただきたいのです」と、お願いすると快く受けてくれた。ところが、佳夫氏は、「白井義男さんに先に書いてもらいなさい」と言い、「その時、この本を渡してね」と、著書『監督の椅子』を持たされた。

後日、後楽園ホールの解説者席に居る白井義男氏に本を渡し、サインの趣旨を述べると、「分かりました。でも此処では書きません。仕事場ですから、私の家へ来て下さい」と言って、住所と地図を書いてくれた。家は川崎だった。翌日、指定された時刻に訪問をした。奥さんが笑顔で迎えてくれ、応接閒に通された。義男氏は色紙の左半分に、さらりとサインをした後、「この本を白井さんに」と言って、『カーン博士の肖像』を手渡された。その本と色紙を持って再び佳夫氏宅へ。佳夫氏は、義男氏のサインをしばらく見てから、ペンを手にした。サインは表札に書くような端正な文字だった。それはグローブをイメージしたスマートなサインと対照的である。その色紙を見ていると、二人のサイン、それぞれの人生と、ボクサーとライターとしてのプライドが表現されているような気がした。

貴重な一枚である。
                                       【山本晁重朗】

  ある夜のあの時は、珍しく客は一人も居なかった。パートナーの初子とテレビを観ていると、細身の中年女性が颯爽と入って来た。昔テレビで観たことのある顔だった。

「いらっしゃいませ」と言って、彼女と視線があった時に誰だか思い出した。
 
失礼ですが、ヨネヤマ・ママコさんではありませんか?」

すると、彼女は「良く分かったわね」と言いながら店の中を見わたしている。「この場所は私の寝室だったの、そしてこの裏のスタジオは私の稽古場だったのよ。結婚するのでここを出て行ったら、あの先生はここを改造してレストランにしたのね。このへんに事務所があったのだけど、今はお店の一部になってしまっている。もうあの頃の面影は何もないけど懐かしいわ」と、立ったまましゃべり続ける。

ヨネヤマ・ママコは、パントマイムの俳優だった。パントマイムは役者が身ぶりと表情だけで演じる無言劇で、フランス映画〝天井桟敷の人々〟のパントマイムが有名である。

ヨネヤマ・ママコはクレージーキャッツのテレビ番組のレギュラーで、植木等とからんで踊ったり、コントを演じたりしていた人気者であった。もちろん台詞は一言も無い。そんな彼女が、私の前で身ぶり手ぶりで、おしゃべりをしている!それは奇妙な光景であった。

そのことを、親しくしている有線放送の社長に話すと、「彼女はきっと自分を世に出して下さった恩師にお礼の挨拶に来たのでしょう。その帰りに、この店を覗いたのだと思う」と言って、社長はビールを飲み乾してから、続けて話してくれた。

「数カ月前にジーパン姿の若者がオフィスにデビュー曲を売り込みに来たのだが、この歌がヒットしたら必ずお礼の挨拶に来ますと言って、地酒の一升瓶を置いていった。その歌を毎晩有線に流してやったら、ヒットしちゃったよ。」

その歌は、〝星影のワルツ〟だった。

「あの若者は、今やテレビで歌っているけど、それっきりだ。有名になると、そんなことは忘れちゃうんだね。」

ある晩、店を開けるのを待っていたように、体格のよい青年が入って来た。常連客の誰かに紹介されたのだろう。青年は「私は歌手です。私の歌を聞いてください」と言ってカウンターに小型のテープレコーダーを置いた。「歌うならお客さんが大勢いる時の方が、いいんじゃない?」と言うと、青年は「マスターに聞いてもらいたいのです」と答え一礼して、「私の名前は日高正人です。デビュー曲の〝鹿児島の雨に濡れて〟を歌います」と言って、テープの伴奏を流し歌い始めた。ところが彼の声はマイクを通していないのに、レコードを聞いているような響きと雰囲気があった。私は即座に有線放送の社長を店に呼んだ。社長も日高を気に入り、「有線に流そう!リクエストが来るぞ」とエキサイト。

当時、日本テレビが全日本歌謡選手権という人気番組を放送していた。無名の歌手が出場し、厳しい審査を通過して十週勝ち抜くとチャンピオンになるシステムだった。この番組から五木ひろし、八代亜紀らが優勝してスターの座に就いている。日高は、この番組にチャレンジしたいと言うのだが、彼は鹿児島県から上京して建築会社に就職、自主制作でレコードを一曲出しただけなのだ。私はこの番組への挑戦は無謀に思えた。そこで、「君が優勝したら世界チャンピオンの輪島功一とステージで歌わせてやる」とハッパをかけた。輪島は二十八歳で世界王者になり、三度も同級王座に就いた努力の男、根性の男と称えられたボクサーである。試合後リングで、自分でレコーディングした〝炎の男〟を熱唱した人気者である。

奇跡か実力か、日高は優勝した。困った!私は輪島と面識がないのだ。考えた末、大先輩の元日本バンタム級チャンピオン石橋広次氏のジムに相談に行った。会長は快く引き受けてくれ、輪島のマネージャーに掛け合ってくれた。だが輪島は多忙と断られてしまった。がっくりして帰ろうとしていた時、電話が鳴った。輪島からだった。

「日高君との約束の話を聞きました。明日会いましょう。」

石橋会長は無言で親指を立てた。

一週間後、日高は週刊誌を抱えて来店した。頁をめくるとステージで歌う日高と輪島のツーショットが載っていた。
                                                 【山本晁重朗】

 〝大杉漣さん急死〟の新聞記事を見た。テレビでも放映された。六十六歳の死は、あまりにも早すぎる。新聞によれば、一九九〇年代に、北野武監督の映画『ソナチネ』、『キッズ・リターン』、『HANA- BI』などに出演していたとある。その頃、北野映画の助監督をしていた大崎章氏が、ある晩、「一緒に仕事をしている仲間です」と言って、三十代の役者を三人連れて来たことがあった。その中に大杉漣がいたと思ったのだ。ところが、妻の初子は、店に来たのは大杉漣ではなくて、石橋凌だと言うのだ。私の思い違いであろうか。
 私は東京オリンピック開催の年にこの店を開業してから、その日の出来事と来店した気になる人物の名前を日記帳に書き続けている。押入れの奥に年号順に重ねてある日記帳を取り出し、九〇年代のを、片っ端から読んでみると、確かに、その日に来たのは石橋凌であって、大杉漣ではなかった。
 古い日記を読むのも面白いことに気がつき、頁をめくると、現在一線で活躍している人の名前が次々と出て来た。スポーツライターの藤島大氏、二宮清純氏、評論家の川本三郎氏、映画監督の小林政広氏等である。そして十数年前のある事件を思い出した。
 暑い日だった。家に市川市所轄の刑事が二人来た。常連客の奏三郎の息子桂吾のアリバイの確認に来たのだ。去る四月二二日の夜、二十五歳の男性が殺害されたそうだ。被害者は札幌生まれで北大を卒業。東京都内の某会社に勤務、市川のアパートで一人暮らしをしていた。警察が被害者の経歴を調べていると容疑者に秦桂吾が浮かんだのだ。桂吾は神田生まれのチャキチャキの江戸っ子。なぜか北海道に行き北大に入学している。卒業すると東京に戻り出版社に就職して、市川駅の近くのアパートに一人で住んでいる。そのアパートの隣の部屋の住人が何者かに殺されたのである。被害者と桂吾は同年配であり、北大を卒業して上京したのも同時期だった。驚いたことに二人は札幌でも同じアパートに住んでいたのだった。そればかりかアパートの近くにある貸本屋の会員でもあった。ここまで二人の接点があるのに桂吾は、その男の顔を知らないし、話したこともないと供述している、と刑事は言う。
 それが事実ならば、あまりにも偶然過ぎないか、警察が桂吾を疑うのは当然である。
 「桂吾は四月二二日の夜、父とあなたの店に飲みに行ったと言っているのですが」と尋ねられ、私は「その日はボクシングを観に行ったので店は休みました」と即答した。
 刑事は「なぜその日を覚えているのですか」と聞くので、「私が教えた選手の応援に行ったからです」と答えた。刑事二人は顔を見合わせ頷き、立ち上がりかけた時、「一応、日記を確かめてみます」と言って日記帳を持って来た。そして、その日の頁を読んだ。
 「試合は昼間だったので、夜、店を開けた。秦親子が最初の客だった」と記してあった。刑事は愕然として日記帳を凝視していた。
 翌日、秦桂吾から電話があった。
 「ありがとう!」
 声が弾んでいた。
                                       【山本晁重朗】

キッズ・リターン
キッズ・リターンa

 早朝、電話のベルで起こされた。

「アーユーOK、ダイジョウブカ!シンパイデス」

それは東日本大震災があった翌日だった。たどたどしい日本語なので、サイモン・リュウだとすぐに分かった。香港からの久々に聞く声だった。

何十年前だったか忘れたが、丸ノ内線霞ヶ関のホームに立っていると、入って来る電車を指さして、「シンジュクステーションイクカ」と声をかけられた。振り向くと私と同年輩の青年が近づいて来た。風貌は日本人だが雰囲気が何となく違うので、英語で応対すると、香港からビジネスで来た中国人だった。車中で新宿に行く目的を聞くと、「サクラカメラ店にキャノンを買いに行く」と英語で答えた。

「そのカメラ店は新宿の何処にあるのか」と聞くと、「知らないが新宿に行けば分かる」と友人に言われたそうだ。私は驚いた。有名店なら誰かに聞けば分かるが、彼はその店の住所も電話番号も知らないのだ。私は乗り掛かった舟だと思い、「よし、私が探してあげる」と言ってしまった。二人で街に出た。駅前の交番で聞くと、店はすぐに見つかったが、店長が不在で、一時間後に来てくれと言われた。仕方なく近くの喫茶店に入った。

中国人はバックからメモ用紙とボールペンを取り出し、漢字で筆談をしようと言うのだ。それは私の英会話力が乏しいからだろう。時々読めない漢字が出てくると、彼は英語で補ってくれた。そしてお互いに自己紹介が出来たのだった。彼の名前はサイモン・リュウ、歳は私と同じだった。メモ用紙にはキャッシー航空の社員、仕事で一週間、東京に滞在と書いてあった。一時間後、カメラ店に行くと店長は帰って来ていたが、サイモン氏との遣り取りが巧くゆかなかったのか、カメラを買うことが出来なかった。落胆している彼が気の毒になり、チャンピオンに連れて行くことにした。

その夜の一番目の客はサイモン氏になった。次々と常連客が来店したので、サイモン氏を紹介した。彼らは英語をしゃべる中国人に興味を持ち、英語で話しかけた。サイモン氏はスイスに二年間留学し、英語を勉強しているだけあって、アクセントがきれい。そして相手のレベルに合せて、スローリ、アンド、クリアリイで応対している。

一週間の滞在中、毎晩七時に食事をしに来てくれた。アルコールはあまり飲まないが、友達になってしまった常連との会話を楽しんでいた。

いつもカウンターの奥の席でいる吉永氏は外資系の会社に勤めている。サイモン氏達の会話がこじれたり、行詰ったりすると何気なく通訳をしてくれた。サイモン氏と対等に話せるのは彼だけだった。私はそんな吉永氏が羨ましかった。

サイモン氏が帰国してから一週間後、吉永氏が「私の部下です」と言って、若いイギリス人を連れて来た。

「デビットは来日したばかりで、日本語が話せないので頼みます。」

彼は近くのアパートに住んでいるので、時々顔を見せた。ある時、デビットに、「英語と日本語の会話の交換勉強をしないか」と提案すると、喜んで応じてくれた。毎週日曜日の午後一時から二時間、私の家ですることにした。数カ月後、その成果を試すチャンスがきた。デビットが、店に何回か連れて来た友人の若いカップルが来週、シンガポールで、ウェディングパーティーを挙行するので、招待すると言うのだ。スピーチも頼まれた。早速英語で原稿を書き、それを読み返し、暗記した。

当日、シンガポールのエアポートにデビットが迎えに来てくれた。英国スタイルの式が終り、パーティーになった。招待客は五十人ぐらい。英国人、米国人、シンガポール人で日本人は私だけ。新郎新婦の親しい友人たちが次々とスピーチをする。欧米人はジョークが大好きだ、笑いと拍手で盛り上がる。

司会者から、「本日のスペシャルゲスト、ヒーイズ、フロムジャパン!」と紹介され、マイクを持たされた。

「私は日本の代表で来ました。まず総理大臣からのメッセージがあります。総理はひと言『アーユーゲンキ?』」とジョークを言うと、それが受けたので、笑い声がもれる。日本での彼らとの出会いと月並みのお祝いの言葉を述べてから、新婦にボクシングのグローブを差し出した。そして、「これは貴女がダーリンとケンカをする時に使って下さい。パンチの打ち方は、このパーティーの後に教えます」と言った。しばし大爆笑と拍手が続いた。それが終わるのを待って、新郎にボクシング雑誌を渡した。表紙には〝ワールドボクシング〟と英語で書いてある。「そこにパンチのよけ方が書いてあるので、ベッドに入る前に読んで下さい」と言うと、再び笑いと拍手。新郎が雑誌を受け取り、ページをめくり叫んだ。

オーノー私は日本語が読めない!」                   _AC_US160_[1]

その時、デビットの声が聞こえた。

「ちょうさん!やったね」

日本語だった。

【山本晁重朗】


 あるテレビ局の番組で、池上彰が1990年2月11日に東京ドームで挙行された世界ヘビー級タイトルマッチにまつわるエピソードを披露した。2月11日は私の誕生日なので、その日のことは良く覚えている。

 常連客にスポーツライターの藤島大氏がいる。彼が書くコラムに“いつもの酒場”が時々登場する。そこは、洋食店兼酒場の“チャンピオン”であると。その藤島氏が世界ヘビー級のタイトルマッチのチケットをくれた。マイク・タイソンにジェームス・ダグラスが挑む試合だった。

 チケットは二枚ある。カウンターの席で飲んでいる六人の中から誰を誘おうかと迷っていた。ドアが開き、「ごぶさたしました」と言いながら、ジョナサンが入って来た。彼は日本に二十年も住んでいるので、日本語はペラペラ。

「昨日までロンドンの実家に居たのです。」

それを聞いた世界情勢の話が好きな咲谷氏が、「ロンドンに居たのですか、それではロンドンから見た東京はどうですか?」と質問した。ジョナサンは両手で目を隠しながら、「私は目が悪いのでパリまでしか見えませんでした」と答えた。爆笑!質問した咲谷氏だけがキョトンとしていた。私はその時、ジョナサンを誘うことに決めた。

当日、東京ドームの入口でジョナサンと待ち合せた。ドームの中に入るのは初めて、五万人収容出来る会場だけあって広い。中央にあるリングが小さく見えた。貰ったチケットは六万円の席なので、かなり前の方かと思っていたら、リングから20メートルぐらい後方の席だった。

「ここからではよく見えない、今からジプシーウォッチャーをするぞ」と言うと、ジョナサンは怪訝な顔をしている。

「フォロー ミー」

まだ、前座試合が始まっていないので空席が目立つ。手始めにリングから後方10メートルぐらいの所にある空席を選んだ。二人で座っていると、間もなく中年の男性が二人、チケットを見ながら近づいてきた。私は、すくっと立ち上がり、「何番を、お探しですか?」と聞いた。

Hの21と22番です。

「その席ならここです」と指をさすと、座りながら「ありがとう」と礼を言われた。広い会場で自分の席を探すのは容易ではないのだ。

「次はあそこだ、前から七番目」

そこでも同じことをして次の席を探した。「これが、ジプシーウォッチャーだ」と言うと、「サンキューと言って握手する人もいました。これはジプシーガイドですよ」と、ジョナサンは楽しそう。

そうこうしているうちに、前座試合が始った。

「さあ、これから我々の席を決めなくては」と言って、リングサイドの最前列の中央に目を付けた。試合が始まっているのに空席が二つあったからだ。

「あそこが穴場だ、行こう。」

前座試合が終わっても、そこには誰も来なかった。ジョナサンは親指を立て「ラッキー」。

私の右側に、三、四人の外国人が居た。彼らは、ファイトしている選手に野次を飛ばしたり、ビールを飲みながら大声ではしゃいでいる。ここが空席だった原因は彼らの存在かも知れない。ジョナサンの耳元で、「あの人たちは、どこの国の人?」と聞くと、「あのマナーの悪い連中は、アメリカ人です」と、イギリス人は冷ややかにつぶやいた。メインイベントのゴングが鳴ると彼らの声は更に大きくなり、タイソンがダウンした時は、中央に居た男が立ち上がり、腕を振り回して怒鳴っていた。11bこのシーンをあのテレビ番組で、池上彰が思い出させてくれたのだ。それは、池上彰がエピソードの中で、「四十三歳のトランプがタイソンの試合をリングサイドで観戦していたのです」と言ったからである。

私は即座、ジョナサンのケイタイに「あの時、金髪の大男がいたでしょう。大声で怒鳴っていた」と言うと、「そう言われてみれば、あの男がトランプだ!私たちはトランプと同じリングサイドに居たんだ。明日、会社で話題にします、今夜は眠れない!」と興奮していた。

その指で、すぐに『ボクシングビート』誌の元編集長のナンバーをプッシュした。前田氏に話すと、驚くと思ったが、素っ気なかった。

「トランプはボクシングのプロモートもしていたんだ。そんなことはボクシング関係者なら誰でも知っているよ。エッ、知らなかったの。」

ショック、私も今夜は眠れない!

                                      【山本晁重朗】

 閑静な住宅街の一角に古ぼけた小さな店があった。八人座ると満席になるバーだった。そこを居抜きで借り、深夜飲食店にした。  
 オープンしたのは二七歳の誕生日だった。白いプラスティックの置き看板に“チャンピオン”と赤字で大きく、その右側に黒字で小さく“野郎の店”そして、左側に“女性歓迎”と書いた。 薄暗かった店内を明るくして、正面にある食器棚の上に来客が目を惹くように奇妙な物を置いてみた。古びた片方のハイヒール、板に刺した錆びたナイフ、歯の磨り減った片方の下駄などである。それらはゴミ捨場から拾ってきたものだ。初めての客は、「あれは何ですか?」と聞くだろう。それを待っていて答えるのが狙いだ。
 「あのハイヒールは越路吹雪がラストダンスの時に履いた靴、ナイフは裕次郎が砂山で見つけたジャックナイフ、そして、NHKの天気予報士が使っていた下駄」と。そんなギャグが気に入ってくれた人が常連客になった。
 次に何か良いアイディアはないものだろうかと考えていると、中年のサラリーマンが二人、入ってきた。彼らはハイボールを飲みながら、「この店は場所が悪いので長続きしないんだよね」と、顔を見合わせ、「この前の経営者は若いママだったけど、三ヶ月で、その前の色っぽいおばさんも頑張っていたけど四ヶ月でギブアップしたよ」と、空席をチラッと見て、「この店は何ヶ月持つだろうか」と二人は私に聞こえるように話している。それはこのところ若い女性や、カップルが来るようになり、ちょっと気をよくしている私への戒めだろうか。champion[1] 
 翌日、店の近くにある銭湯にポスターを貼りに行った。キャッチフレーズは、“湯上りにぐっと飲みたやビールかな”だった。数日後、「マスターの川柳につられて飲みに来ちゃった」と、セールスマン風のキザな男が入って来た。ビールを注文して「このビールは良く冷えていてうまい!如何ですか」と、三人で飲んでいる常連に声をかけ、ビールを振る舞い、かれこれ二、三時間談笑していた。「おあいそ」と言われたので、飲食代を請求すると、財布の中を覗いて「あっ、お金が無い、ここに来る前の店で全部使っちゃたんだ、まだあると思っていた、ごめん!つけといてくれ、明日持って来るから。オレは通称ヌマさんだ」と言われ困惑した。初めて来たこの酔っぱらいを信用出来るだろうか。そこで、彼が盛んに自慢をしていたイタリア製の靴を片方脱がして、「これを明日まで預かります」と言い、嫌がるヌマさんに、“天気予報士”の下駄を履かせ、帰ってもらった。 
 次の日、ヌマさんが顔を見せたのは、深夜一時を過ぎていた。「ジャンのママを連れて来たよ」と、中年の女性を紹介してくれた。八千草薫を彷彿とさせる美人だった。ジャンは、そのママと可愛いホステスが二人いるバーで、この界隈では一番繁盛している。カウンターとテーブル、小さなフロアがあって、チークダンスが踊れる。ツイストが流行っていたので、若い客も多かった。ママがいきなり「マスターはボクサーだったの?」と目を輝かせた。流石プロだ、目の付け所が違う。薄暗い片隅にそっと吊るしてある六オンスのグローブを見付けたのだ。 「時々、酔っ払った客同士がケンカをするので困っているのです」と言われ、「そんな時は電話を下さい、すぐお店に飛んで行きますから」とつい、言ってしまった。
 数日後、ジャンのママから電話があった。
 「今、背中に入れ墨をした男が暴れているのです、すぐ来て下さい!」
 社交辞令で言ったのに本気にされてしまった。どうしよう、やくざは恐い。そっと覗きに行って、その状況を駅前の交番に知らせれば良いのだと思い、店に入ってみた。中は騒然としていて、慎太郎刈りの若い男が、カウンターの上で仁王立ちになり、ビール瓶を振り回し、大声でわめいている。片肌脱いだ背中の唐獅子牡丹が艶やかで、まるで東映映画のヒーローだ。ほぼ満席の客たちも立ち上がって野次馬となり、一緒に騒いでいる。これは営業妨害だ。近づいて若者の顔を見て驚いた。その男は私がガキ大将だった時のライバルのコーチャンではないか。浩二は子供の頃からやくざに憧れていた。まさか、ここで会うとは。私は咄嗟に怒鳴った。
 「お前、そこで何をしているんだ、やめろ!」
 浩二は私をじっと見て、「やばい!チャンピオンのマスターだ!相手が悪いや、マスターの顔を立てて、ここから降りる」と言って、人を掻き分けて外に出ていった。外にはパトカーが止っている。誰かが通報したのだろう。私と浩二が幼馴染だったのを知らない客たちは、「チャンピオンのマスターは凄い!」「カッコウイイ!」と、私を取り囲んだ。それが風評になり界隈に流れた。
 一週間後、店を開けると同時に浩二が入って来た。「こないだは声を掛けてくれて、ありがとう。酔った勢いでカウンターに上がったのだが、あんな騒ぎになってしまったので引っ込みがつかなくなっていた」と、頭を下げカウンターの上に何か置いて素早く出て行った。それは新聞紙に包んだ赤ワインのボトルだった。新聞紙を広げると紙面にバレーボールの試合の写真と東洋の魔女の活字が大きく載っていた。         [山本晁重朗]

このページのトップヘ