"チャンピオン"日誌[あの日あの時あの人]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。19年2月より、新たに、「あの日あの時あの人」シリーズを開始。                                      英訳版[Champion's Journal - WordPress.com]https://asagayachampion.wordpress.com/

 百枚ちかく届いた年賀状の殆どは元常連客からだった。その中にオリンピックの聖火ランナーの写真版があった。少しぼけているが、青年が聖火を持って走っている。差出人は三遊亭小遊三さんだった。師匠の若き日の姿は六四年、東京オリンピックの時のものだ。その年の二月にチャンピオンは開業した。

 ある夜、常連客が引き、カウンターが空席になった時、中年の男性が同年輩の女性と来店した。私の前に座り、「チャンピオンて、店の看板が気にいったので入っちゃった」、飲みものを注文すると、行き成り「私は海老原博幸が好きなんです、彼の試合は全部見ています」と言いながらファイテングポーズをとった。私は、「その海老原と同じ日にプロテストを受けましたよ」と応じた。すると彼の目は鋭く光り、ボクシング談義になった。この人は何者だろうか?

 その日以来、月に一回か二回来店するようになった。ボクシングの話は何時も同じような内容だが、連れの女性は日替りだった。若い人もいたが彼女たちは薄化粧のステキな女性だった。そして、連れの男を師匠と呼び、敬語で話をしている。「何の師匠ですか」と訊くと、彼女たちの応えは曖昧だった。

 ある時、隣りのヤキトリ屋のママが彼女の店の客と来店した。ママは私に目くばせをし、「あの人」と言って指を差している。それに気が付いた師匠とママの目が合った。彼女は大声で、「小遊三さんじゃない!〝笑点〟の人気者の!私、ファンなの」と叫んだ。師匠は立ち上がり、「ばれちゃった」と小游三さん。笑いながら一礼すると、ほぼ満席の店内が、どっと沸いた。見たことのある顔だと思っていたが、小遊三さんはお忍びで来ていたのだった。

 その後は、小遊三さんが所属しているタマス卓球道場の若い仲間を連れて来るようになった。彼らとの席では二、三枚の座布団に座り、下ネタとアウトローのギャグをキザに演じる笑点〟の顔はなかった。愉快な普通のおじさんになっている。因みに小遊三さんとの交流は今でも続いている。年末には、〝笑点暦〟の豪華なカレンダーを送って下さる。私も師匠の高座を聴きに行っている。

 昭和が終り、年が明けて四日目の夜だった。開店当時からの常連が三人顔を合せた。古参客は、その時代の思い出話をしている。サラリーマンの三木さんは「ボクは早稲田の学生だった」、「オレは、まだ結婚していなかった」と古物商の吉永さん。「私は聖火ランナーだった」と美容師の勝ちゃんが得意げに言うと、「ウソーッ!」、隣りにいる二人の口調が重なった。
 痛風でアル中の勝ちゃんが聖火ランナーだったとは、信じがたい。「青梅街道を走ったんだ!」。勝ちゃんはグラスを置いて立ち上がった。その時、彼らの横で居眠りをしていたロクさんが目を覚まし、口を挟んだ。
「ニリンピックって知ってる?」。三木さんが、「それ何?」。ロクさんはフンと鼻で笑い、「競輪だよ」。三人は顔を合せ、「確かにニリンだ」。ロクさんはやばい空気を読んだのか、話題を変えてしまった。

 ロクさんは運動神経がにぶいので自転車に乗れない。そのコンプレックスを解消してくれる競輪の選手を尊敬しているという。「競輪場に行ったことはあるの?」と問われ、「後楽園野球場の隣りにある競輪場に行こうと思っていたんだけれど、美濃部都知事が競輪はギャンブルだと言って廃止してしまったんだ」。オレンジジュースを飲みながら、「ギャンブルは人間をクレージーにしてしまう」とロクさん節が続く。それを吉永さんが遮り、恒例の新年会の打ち合せを始めた。そこに印刷屋の木崎さんが入って来た。「寸劇をやろうよ、オレが脚本を書くから」。

 数日後、木崎さんは「一本刀土俵入」と「ロミオとジュリエット」の脚本のコピーを持って来た。

 「一本刀土俵入」のキャストはすぐに決った。東洋大学拳法部キャプテンの晶ちゃんが駒形の茂兵衛の役をやりたいと名乗り出た。おかみさんの役はテレビタレントのさとみさんに依頼した。晶ちゃんに対抗してか、ロクさんがロミオの役をやりたいと言い出し、失笑を買った。ロクさんの役ではないと皆にからかわれ、しゅんとしていると、チャンピオンのアイドル、自称十七歳のポン子が、「私がジュリエットをやるから、ロクさん、ロミオをやんなよ」と助け舟を出した。喜んでいるロクさんにポン子は、「台詞は確り覚えてね」と釘をさした。

 新年会は毎年一月第二土曜日、隣りの貸しスダジオで、午後七時から十二時まで催している。常連たちの隠し芸が面白いので、仲間が五十人から六十人は集まる。

 その年の新年会は午前中に雨が降り寒い日だった。スタジオには暖房設備はないが、狭い会場を六十八人の出席者の体温が、それを補った。

 隠し芸が始まり、宴たけなわになった。歌、ダンス、ギター演奏、エトセトラ。

 司会の荻野さんが、次は「一本刀土俵入」とアナウンス。

 晶チャンは本格的にやりたいと言うので、日大相撲部からふんどしを借りてきた。ふんどしは大きくて重い。絞めかたが分からないと言うので当日、相撲部の学生に来てもらった。

 舞台の中央で、「これが、おかみさんに見せる、おいらの土俵入でござんす」。晶チャンは、ここが見せ場とばかりに、大みえを切り、しこをふんだ。会場から、「ニッポンイチ!」と声がかかったので、調子にのり、もう一度、大きくしこをふんだ。その時、〝どさっ〟と物が落ちる音が聞えた。かぶりつきで見ていたホステスの在美ちゃんが、「キャーッ!エッチ」。

 時計屋の荻野さんが自前のマイクを持って、「本日のメインイベント〝ロミオとジュリエット〟です」。舞台の中央にスタジオにあったでかい脚立を置き、その上にポン子のジュリエットが腰掛け、その横にロミオのロクさんが立っている。ロクさんはジュリエットを見上げ、「マイダーリン、ジュリエット、私のジュリエット」。両手を広げ、堂々と、気持ちよさそうにアドリブもいれて演じている。ところがジュリエットは悲しそうな表情をしているだけで何も言わない。これはポン子の演技なのかと思っていると、司会者が、「ポンちゃん台詞を忘れたの?」、マイクで呼びかけた。ポン子は、すくと立上がり、「だって!ロクさんは私の台詞まで言っちゃったんだもの」、場内は一瞬、シーンとしたが、誰かが、「クスッ」と笑った。それにつられて場内は笑いと拍手のうずになった。司会者が、「凄い!コント55号の〝欽どこ〟よりも面白い!」と絶賛。脚本家の木崎さんにマイクを向けると、「オレが書いた脚本はコントではない!」と怒っている。その後ろにロクさんとポン子が気まずそうに立っていた。

 甘い物が好物だったロクさんは持病の糖尿病が悪化して入院。タローちゃんが見舞いに行った時は小野田六四郎の名札は二日前に外されていた。世田谷の松沢病院だった。クリスチャンのロクさんが召天して三十年。オリンピックの活字を見るとロクさんが好きだった、〝ニリンピック〟を思い出す。
                                       【山本晁重朗

 赤ちょうちんで酒を飲むと、ロクさんを思い出す。

ロクさんは、小野田六四郎の愛称で、小太りの風貌は作曲家にしてタレントの小林亜星に似ていた。生まれは横須賀、地元の高校を卒業すると米軍キャンプに就職した。給料は全額預金し、夜は下宿の近くの大衆酒場で働き、酒もタバコもやらずストイックな生活をして百万円を貯えた。

そして上京。阿佐谷の北口商店街スターロードに小さな居酒屋を開業し、店名は髙峰とした。店内はカウンターだけで、メニューはたったの六種類。だが何を注文しても出て来るのが遅い。それでも値段が安いのとロクさんの人柄で繁盛している。学生や、サラリーマンが集まる若者の店だった。

ある時、「煮込みのなかからレシートが出て来た」と客からクレームをつけられた。ロクさんは「オレ、今それをさがしていたんだ。そんなところにあったの?」と、とぼけた。こんなひょうきんなところが客に受けていた。

ロクさんは狭い調理場に小さな椅子を置き、オーダーの無い時は腰かけて居眠りをしている。

ある日、一人で映画館に行った。『ロミオとジュリエット』を、一番前の席で観ていたが、腰掛けると眠る癖がついているので、つい眠ってしまった。ところが余りにもイビキが強烈なので周囲の客が係員に通報した。場外に連れだされ、「入場料は返すから出て行って下さい」と怒鳴られ、金をもらって外に出た。そしてロクさんは、おもむろにポケットからくちゃくちゃのチケットを取り出した。それは招待券だった。

ロクさんは自分の店を会社、住んでいるアパートをマンションと常連客に言う。そして外国人(欧米)を進駐軍と呼ぶ。

ある夜、髙峰にアメリカ人のロジャーと飲みに行った。ロクさんにロジャーを紹介すると、「君は進駐軍か」と言って米軍キャンプ仕込みの英語で、挨拶をした。ロジャーはきょとんとして、私にンチューグンって何ですか?」。ロジャーは流暢に日本語を話す外国人だが、進駐軍と呼ばれたのは初めてだろう。困惑している。私が説明すると納得した。その彼の顔を見てロクさんは「ドゥユーアンダスタンド?」。彼は咄嗟に立ち上がり「イエス〝ラジャー〟」と応えた。ロクさんは「オレは名前を聞いているんじゃないよ」、手を左右に振った。私の隣に居た早大生が笑いながら「〝了解〟と言ったんですよ」。ロクさんはテレ笑いをして頭をかいた。因みにアイスランド人のマギーも進駐軍と呼ばれた。

木曜日はチャンピオンの定休日だ。それを忘れたのか鶴田さんは店の前まで来てしまった。久しぶりに阿佐谷に来たので、このまま帰りたくない。そこで、ロクさんの店に行くことにした。髙峰とチャンピオンは客が行き来する同盟店になっている。そこに行けば顔見知りの誰かがいるはずだ。

鶴田正浩は大手レコード店新星堂の重役だ。彼は誰とでも気さくに応対するチャンピオンの人気者である。そして三代目のフレンド会の会長に選ばれている。鶴田さんは知らなかったようだが、ロクさんも鶴田さんのファンだった。

その日から数日後、来店した鶴田さんは、ロクさんの店に一人で行った日の体験談を、ウイスキーのオンザロックを飲みながら話してくれた。

店内に客が三人いたが、チャンピオンとの共通の客は居なかった。ロクさんは私が一人で来たのを凄く喜んでくれて、会話が弾んだ。気がつくと十二時近くになっていた。しこたま酔ってしまい、帰ろうとするとロクさんが「オレのマンションに泊っていきなよ」と言うので、その気になって看板まで飲んだ。「さあ帰りましょう」と言われてロクさんのマンションに向かった。ライオンズマンションの前に立ち止ったので「ここですか?」と聞くと「いいえ、この裏です」。そこはJRの線路際のオンボロアパートだった。モーフを一枚貸してくれたので、それをかけて寝転んだが、クーラーが無いので窓を開けっぱなしにしている。蚊にさされるし、電車の音が聞える。その上、ロクさんのイビキが強烈なので一睡も出来なかった。それでも酔っていたので少しは眠ったようだ。目が覚めた時、ロクさんはまだ眠っていたので、そのまま帰った。翌日、電話でお礼を言うと「オレの会社で飲んだ時は、またマンションに泊って下さい」。その声を聞いていると小林亜星が扮する寺内貫太郎のとぼけた姿とダブリ、脳裏をかすめた。

鶴田さんはロクさんとのエピソードを笑い話にしてしまった。そんなところが鶴田さんの魅力なのかもしれない。

ある時、私は安いツアーにロクさんとラーメン屋の太郎チャンを誘い、フィリッピン旅行をした。そのとき、ロクさんは空港のロビーにアロハシャツで現れた。「ハワイに行くんじゃないよ」と揶揄され、「これはオレの一張羅なんだ」と照れた。「そりはいいけど、どうして前掛けを締めているの?」。ロクさんは下っ腹をおさえながら「これがないとズボンが下がってしまうんだ」と苦笑した。そして珍道中が始まった。旅の終りに宿泊したホテルのロビーをバックにし、ツアーで知り合った人たちをストロボカメラで写していた。それを見ていたロクさんが、「オレに撮らせろ」と言うのでカメラをわたした。ロクさんはぎこちない手つきでカメラを額に付け、シャッターを押した。その瞬間、顔が真白に光った。プリントするとロクさんの大きな目玉が写っていた。

あれから三十年。今でも思い出は尽きない。
 享年五十歳。

 数少ない遺品の中に、松本清張の著書『球形の荒野』があった。

 

 戦争の終らぬ星の星まつり       三輪初子
                                       【山本晁重朗】

 テレビの画面に映るローマ教皇の姿を見ながら、朝刊に目を落とすと、〝ローマ教皇のミサ五万人(東京ドーム)〟の大きな見出しがあった。その横に袴田さん拘置所で洗礼、招待受け参列したと続いている。 

 キリスト教徒らがドームを埋め尽した大規模なミサで、袴田さんの席は前列に用意された。かねて弁護団や支援者が面会を求める手紙を教皇宛に送っていたところローマ教皇庁の報道官が今月十五日、袴田さんがミサに招待されていることを公表。日本のカトリック司教協議会が二十日、招待状を届けた。黒のスーツに蝶ネクタイ姿で袴田さんは参列したと「東京新聞」に記してあった。

 袴田巌は昭和三十四年、バンタム級でデビューした。二十三歳だった。フェザー級でもファイトをし、六位にランクされている。ボクシング界の黄金時代だった。〝ダイヤモンドグローブ〟、〝チャンピオンスカウト〟その他二局のテレビ潘組があり、ゴールデンタイムに一日おき、放映されていた。選手の試合数も多かった。月に二回はリングに上がるのが普通だった。袴田と同じ年に海老原博幸がデビュー、翌年原田正彦(ファイティング原田)と新人王戦で対決している。袴田がファイトをしたバンタム級では米倉健司、石橋広次、フェザー級では大川寛、高山一夫、勝又行雄。テクニシャンとハードパンチャーが名を連ね、東洋王者の金子繁治、関光徳は大スターだった。そんな時代のランキングボクサーは存在価値があった。

 年間十九回もリングに上がった袴田は三十五戦してKO勝ちもKO負けもなかった。根性とスタミナ、タフネスを身上とするファイターで、人気ボクサーと激しい打ち合いを演じ、客席をわかせていた。

 その袴田が引退後、事件に巻きこまれ、逮捕された。それが、「袴田事件」である。

 無実を訴えるが、死刑の判決が下り、四十八年間独房に勾留された冤罪事件だ。

 平成二十六年三月二十七日、袴田さんは釈放された。

 その二年後の三月二十七日に、「袴田さんの再審早期開始を求める集会」が静岡県浜松市で開かれた。支援者約八十人の前で、袴田さんは「勝たなければしようがない。幸せに生きることが大切」と挨拶。一緒に暮らしている姉の秀子さんも「会話や笑顔が増えてきた」と述べ、弟の回復ぶりを報告した。

袴田さんと晁さん その後、この集会に東京から掛けつけ、同じ年にプロデビューした私が紹介された。マイクを持ち、「あなたは一年間に十九回も試合をした体力と精神力がある人です。これからもがんばって無罪を勝ち取るまで戦って下さい」と励ました。

 かつて袴田さんとは東洋J・ライト級王者勝又行雄氏の自宅で、ライト級日本ランカーの大石日出夫選手と四人で飲んだことがある。そのことを話したが、彼は覚えていなかった。まだ拘禁症状が残っているのだろうか。

 二次会は巌さんの姉の秀子さんの家に、ごく親しい人が十人集まり、てんでにコンビニから缶ビールと食べ物を買って来て袴田姉弟を囲み酒盛りをした。宴たけなわになり、唄や手拍子が出る雰囲気になったが巌さんは仲間に溶け込めず、彼だけの世界にいるように見えた。誰かから巌さんはどんなボクサーだったのですか?の質問があった。そこでボクシング経験があるという中年の男性を相手にして、巌さんのボクシングのファイトの真似をすると、もくもくとおにぎりを食べていた巌さんが立ち上がり、「オレはそんなへたくそじゃないよ!」と言って左右のコブシを振り回すが、ぎこちないので、爆笑。彼にはユーモアのセンスがある。

 袴田さんのドキュメント映画『夢の間の世の中』の監督金聖雄氏も同席していたので、その映画を話題にした。「死刑囚や冤罪事件をモチーフにした映画は、とかく暗くなりがちなのに巌さんのひょうきんな行動が明るくユーモラスに描写されている。秀子さんの活発で前向きの言動から明日への力をもらいました」と言うと、監督は満足そうに頷いた。そして、「もしこの映画がドラマだったら秀子さんは、演技賞ものですが、巌さんの役は本人以外に誰も演じられないでしょう!」と強調すると、監督はカウンターパンチを食らったように笑った。

 何時の間にか巌さんが私の横に立っていた。私たちの話を聞いていたのだろうか。その袴田巌がローマ教皇のミサに招待されたのだ。
                                       【山本晁重朗】


                                        

 ブログのコメントが届いた。「安部さんは、私が柳瀬尚紀さんと二月二十二日の〝猫の日〟実行委員をしていた時、ゲストにお招きしたことがありました」と葉書に書いてあった。差出人は、熊井明子さんだ。安部さんの猫好きは知っていたが、明子さんが猫好きだったのは知らなかった。安部譲二さんと熊井明子さんに、そんな接点があったのは奇遇である。明子さんは、二〇〇七年に七十六歳で死去した映画監督、熊井啓さんの未亡人だ。もしかしたら、ベストセラーの作家、安部譲二と映画の巨匠、熊井啓の二人も生前、面識があったのかもしれない。因みに熊井明子さんの著書に『めぐりあい』がある。

 私は、チャンピオンを開業する二年前は、「平沢貞通を救う会」の事務局員だった。ある日、内幸町にある事務局に、日本文化連合会の小見山登氏が、森川事務局長を訪ねて来た。彼は森川哲郎の著書『帝銀事件』を持っていた。その本を森川氏の前に置き、「森川さん、これを映画化しよう」。驚いている森川氏に、「私は戦前、日活映画の俳優だった。その時の同期が柳川武夫と江守樹郎なのだ。今は重役のプロデューサーと専務になっている。私が映画化するように説得する」と言って半信半疑の森川氏を日活の本社に連れて行った。

 数日後、事務局にシナリオライターの熊井啓さんが現われた。森川氏は私を熊井さんに紹介し、「山本君は役に立つと思うので、アシスタントに使って下さい」。それから数ヶ月、熊井さんと行動を共にした。その時、私は二十六歳、熊井さんは三十三歳だった。熊井さんは石原裕次郎のように背が高い、私は堺正章ぐらい。のっぽとちびなので、〝凸凹コンビ〟とあだ名が付けられていた。熊井さんはシナリオを書き上げると、『帝銀事件死刑囚』を監督した。映画は六四年、東京オリンピックの年に全国で上映された。この映画は、熊井監督のデビュー作である。

 熊井さんとは、その後も交流が続き、チャンピオンにも時々、顔を見せてくれた。常連たちと気さくに話をするので、カントクと呼ばれ、人気者だった。

 ある時、『深い河』の映画完成記念パーティが某ホテルで盛大に挙行された。原作者の遠藤周作、監督の熊井啓と出演者たちが集まっていた。往年のスター高峰三枝子、水の江滝子の顔もあったが、なぜか王貞治の姿があった。王さんにカメラを向けると快くポーズを取ってくれた。熊井さんとのツーショットを入れて四枚撮った。プリントすると良く写っているので、王さんに送りたいと思った。住所が分からないので、熊井さんに電話をした。

 「王さんは、人格者で気さくな男だ。写真送ったら喜ぶよ」

 住所を聞くと、「東京都目黒区と書けば届きます」。私は半信半疑で写真をポストに入れた。

 ある朝、トイレで新聞を読んでいる私に、初子が、「ラーメン屋の鳳凰さんから電話よ」とドア越しに大声で知らせた。新聞にラーメン屋の折込広告が挟まっていたが、何だろう?と思いながら受話器を取った。

 「ラーメン屋ではありません!読売ジャイアンツの王貞治です」。
 私は受話器を落としそうになった。

 「写真、ありがとう御座います」

王貞治氏と。 穏やかな声だった。私は妻の無礼を丁重に謝罪すると、王さんは、「勘違い誰にでもあります、気にしないで下さい」。スポーツマンらしい口調だった。

 時は前後するが、あれは、三月十五日の夜だった。店に東京地検特捜部と名乗る二人の男が入って来た。任意出頭で本部まで来てくれと言う。

 時計は午後十時を廻っていた。車で検察庁まで連れて行かれ、取調室に案内された。中年の検事がいて、生年月日から「帝銀事件平沢貞通を救う会」の事務局員になるまでのいきさつを丁重な言葉で、訊き出し、調書を取っていた。

 その途中、机の上の電話が鳴り、検事は席をはずした。数分で戻って来ると、一枚の紙を突き出し、「逮捕状が出た。これから巣鴨の拘置所に連行する」と、今までとは手の平を反す荒々しい態度に豹変した。

 私は驚き、「妻と連絡を取りたい」と言うと、「十二時を過ぎているぞ、電話交換手はもういない!」と怒鳴られた。

 拘置所の一室に入ると、刑務官に衣服を脱がされ、素っ裸にされた。体重と身長を測り、越中褌と囚人服を着せられ独房に放り込まれた。

 中は三畳間ぐらいで薄暗く、肌寒かった。私は逮捕された時から気が動転し、なぜこんな扱いをされるのか分からず、気が狂いそうだった。逮捕容疑は、「偽証罪」だが、まったく身に覚えがない。

 もし、事故を起こしていたり、何らかのトラブルに巻き込まれていたのなら、それに対する悔いと反省がある筈だ。潔白な私には野生動物が捕らわれ、突然、檻に入れられてしまったようにしか思えない。頭の中は更に混乱し、その夜は、一睡も出来なかった。

 翌日から取調べが始まり、夜遅くまで続いた。接見禁止のため、会えるのは弁護士だけで、それも数十分。その他は誰とも会えなかった。そんな状況に置かれたら真犯人でもない人が厳しい検事の取調べで虚偽の自白をしてしまうだろう。事実、平沢は自白し犯人にされた。死刑判決を受けてしまい、冤罪事件になっている。

 四月十五日、保釈になった。拘置期間は一カ月だった。出所して二日目に店をオープンしたが、ドアを開ける客は一人もいなかった。やはり、テレビと新聞の事件の報道が影響してか、客に敬遠されてしまったようだ。困惑する。

 時計が九時をさした時、ドアが静かに開き、東大生の佐方君の顔が見えた。その彼を押すようにして、同級生の宗チャンが入って来た。続いてサラリーマンの眞杉君。三人は声を合わせて、「チョーさん、おかえりなさい」。

 翌日、佐方君たちは、手分けして人を集め、銀杏通りにある居酒屋の二階で、出所祝いをしてくれた。七人出席した。顔見知りの人ばかりだった。幹事の佐方君は法律を専攻しているだけあって、帝銀事件と、私が拘置された経緯を分りやすく説明した。彼らは納得したようだ。眞杉君が立ち上がり、「チャンピオンを救う会を設立しよう!オレがリーダーになる」。一同、「オーッ!」。若者たちは、グラスを掲げた。彼らはどんな行動を起こしたのか分からないが、常連だった客が、二人、三人と日毎に来店し、何時の間にか以前の活気を取り戻していた。

 保釈で出所してから、一年が過ぎ、裁判の判決は、〝無罪〟だった。そして、世間から冷やかな目で見られている被告人の私を苦境から救い出してくれた常連客の人情と彼らとの絆を決して忘れない。

                                       【山本晁重朗】

 ビールを飲みながら、TVのニュースを見ていると、行き成り、安部譲二さんの若き日の姿が映し出された。〝もしかしたら〟と思った時、女子アナが、「安部譲二さんがお亡くなりました」。

 翌日の新聞に、〝安部譲二さん死去〟の見出しがあった。服役体験をユーモラスに描いた自伝的小説『塀の中の懲りない面々』などで知られている作家の安部譲二(本名・直也)さんが、九月二日、急性肺炎のため東京都の自宅で死去した。八十二歳。東京都出身。葬儀、告別式は、近親者のみで行った。喪主は妻美智子さん。中学在籍中から暴力団に加わり、高校を何度も変わって、二十二歳で卒業。日本航空の客室乗務員、用心棒、キックボクシングの解説者、競馬評論家などの異色の経歴をたどった。四十代半ばで足を洗い、作家を志す。一九八六年、府中刑務所での実体験を題材にした『塀の中の懲りない面々』で、デビュー、同作はベストセラーとなり、映画化された。テレビ、ラジオなどでも活躍をしたと記してあった。

 あの日は、四十三年間営業したチャンピオンを閉店した年の夏だった。西友で買物をした帰り、私の家の近くにあるコジマ理髪店の前に差し掛かった時、前方から、がっちりとした体格の年輩者が歩いて来た。見覚えのある顔だ。私はその人の前に立ち止まり、「失礼ですが、安部譲二さんではありませんか?」と訊ねると、「そうです」と応えた。私は名刺を出そうとしたが、店はやめてしまったので、名刺を持っていないことに気が付いた。たまたま財布に古い名刺が入っていたので、それを渡した。安部さんは名刺を見て、「レストランチャンピオンのマスターですか」。私は、あわてて「元です!」。安部さんは徐にポケットから名刺を出した。温厚な御隠居さんのイメージだった。名刺の番地を見ると、安部さんの自宅は私の家から百メートルぐらいしか離れていなかった。

 私は夕方五時から一時間、雨の日も風の日も散歩をする。コースは決っている。我家を出ると元チャンピオンあった店の前を通り、商店街パールセンターを通り抜け、町内をひと廻りする。あの日から一週間後、理髪店の先にある十字路で安部さんを見かけたので声をかけた。中年の女性が寄り添っていた。「わたしの妻の美智子です」と紹介された女性は宝塚の男役を彷彿させる知的な美人だった。安部さんは大川ボクシングジムの会長と面識があるのをふと、思い出した。そこで、私は、以前、大川ジムのトレーナーだった体験を話の切っ掛けにした。安部さんは話に乗ってくれて、「大川さんとは因縁があるのです」。それは――。

 昭和二十九年三月、日本フェザー級タイトルマッチが挙行された。チャンピオン田中昇(京浜ジム)に同級一位の大川寛(極東ジム)が挑戦したのだ。その試合に備えて、田中選手のスパーリングパートナーをグリーンボーイの安部譲二さんが勤めたという。大川選手の身長は、一七三センチ、安部選手は一七五センチと体形が似ているからだった。現在だったら、大川選手の試合のビデオを見れば、挑戦者大川のファイティングスタイルを分析出来るのだが、当時は、そんな便利なものはなかった。安部さんは東中野にある極東ジムに行き、窓の隙間から密かに大川選手のファイティングスタイルを観察したそうだ。そして大川選手のダミーになり田中選手とスパーリングをしたという。

「ところが皮肉にも私がパフォーマンスをした大川選手がKOで勝っちゃったんです」

夫人に杖を預け、パンチを打つ振りをした。

安部さんも毎日、散歩をしている。数年前に体調を崩し、歩行困難になってからは美智子夫人が付き添っている。私の歩くコースと時間帯がほぼ同じなので、時々遭遇する。其処で立話になる。私と安部さんは同年輩なので話の内容は、いつも三〇年代のボクシング最盛期になる。白井義男、矢尾板貞雄、ファイティング原田、海老原博幸などなどになるが、一般には知られていない話が多い。その中でも、興味深いのは日本の初代世界チャンピオン白井義男とカーン博士との出会いのエピソードだ。カーン博士が、白井義男のトレーニングを見て、「ワンダフル!君に素晴しい素質がある。私がコーチをしたい」。毅然として、声をかけたと語り継がれている。ところが、声をかけられたのは、白井義男ではなかったのだ。その人は武藤鏡一だった。だが、武藤はカーン博士の申し出を断ってしまった。次に矢島栄次郎に声をかけたが、彼にも断られてしまう。二人のボクサーに断られ、そのまま帰るわけにはいかなかったのだろう。三人目に声をかけたのが白井義男だった。白井は腰を痛めているボクサーで、引退寸前の選手だった。安部さんは目を輝かせて「そんなポンコツボクサーを指導し、白井の隠れた才能を引き出して、世界の頂点に立たせたのだから、カーン博士は偉大だ!」とガッツポーズ。このエピソードは、かつて大川会長から聞かされていたので、話は盛り上がった。

ある時、杉並七小学校の体育館の前で、安部夫妻と、ばったり出会った。私の石橋ジムのトレーニングウェアーを見て、「今は石橋ジムのトレーナーなんですね」。そこで、石橋広次の話題になった。

「日本バンタム級チャンピオンの石橋と東洋フライ級チャンピオン矢尾板のノンタイトル戦は凄かった。パンチとテクニックの応酬で、石橋は判定で負けたが、あれは名勝負だった。ボクシングの教科書に載せたいぐらいだ」

翌日、安部夫妻は石橋ジムを見学に来た。石橋会長のチャンピオンベルトを付けたファイティングポーズの写真を見て、「石橋は山口鉄弥のボディブローでダウンし、KO負けにされ、タイトルを失ったが、あれは山口のバッティング(頭をぶつける)で、ダウンをしたのだ。反則だよ。レフリーは何処を見ていたんだ」と手厳しい。石橋会長と三島由紀夫のツーショットを見て、「三島さんはここの練習生だったんだね」と呟き、サンドバックをさわっただけで、叩かずに帰った。

その後、何回も遭遇して立話をしているが、話の内容は殆ど変わらなかった。亀田三兄弟のスキャンダルも話題になったが、オリンピックのゴールドメダリスト村田諒太がプロボクサーになった時から、村田の話題で何時も盛り上がった。安部さんと私は村田選手の試合内容に疑問を持ち、批判的だった。村田とアッサン・エンダムの空位の世界タイトル決定戦の判定は、私と安部さんの意見が分かれた。私は村田が三回もダウンを奪っているので判定勝ち、と言うと、安部さんはジャッジの判定通り、村田の負けだと言う。そして翌日、家のポストに、安部さんの著書『ファイナル・ラウンド』と手紙が入っていた。

手紙には、村田は、まだアマチュアで、プロボクサーではないと思います。そして、アマチュアボクシングのルールと、アマボクサーの戦い方と採点法が、詳細に書いてあった。私は手紙を読んで、アマとプロのボクシングの違いを再確認した。

『ファイナル・ラウンド』の「あとがき」に、「ファイナル・ラウンドは最終回、つまりボクシングの試合の最後のラウンドのことです。ファイナルのゴングが鳴れば、泣いても、笑ってもあと三分間で試合が終わってしまいます。試合はファイナル・ラウンドの終了のゴングが鳴ってしまえば、どう口惜しがっても全てが終りです。しかし、ファイナル・ラウンドの終了のゴングが鳴るまでは、どんなに負けていても、チャンスは残っているのです。相手を逆転ノックアウトすればいいのです。これは人生と同じだと思ったのです」と書いている。

その「あとがき」を読んだ時点では、村田選手に対するアドヴァイスかと思っていたのだが、新聞記事の安部さんの経歴を読み直すと、思うがままに生きた安部さんのファイナル・ラウンドは、何だったのだろうか、興味がわく。

今年の年賀状も安部さんが猫を抱いて、にっこりと微笑む写真版だった。ところが、いつものコースを散歩しているのに安部夫妻と出くわさない。春が過ぎ、初夏だったと思う。安部さんの家の近くで美智子夫人に声を掛けられた。

「家の中で転んで足の骨を折ってしまったので、外出は出来ないのです」

そう言われてみれば、今年は一度も、安部さんの姿を見ていなかった。私は「お大事に」と言って、夫人の後ろ姿を見送ったが、足の骨折だけではなく、可なり体調も悪いのではないかと心配した。

七月十二日に世界ミドル級タイトルマッチが挙行された。挑戦者村田はテクニシャンからファイターに変貌し、一ラウンドから打撃戦を仕掛けた。二ラウンドに王者ロブ・ブラントをノックアウトし、昨年の十月に失ったタイトルを取り戻した。私はこの試合の安部さんの見識を知りたかった。

ある日の夕方、理髪店の近くで、美智子夫人を見かけた。いつも横にいる安部さんの姿はなかった。安部さんの容体を訊くと「あまり良くない」とうつむいた。

私は安部さんの顔が見たくなり、近々お見舞に行こうと思っていた。その矢先、TVで訃報を知ったのだ。

翌日、美智子夫人に電話をした。

「安部さんと、もうお話が出来ないのは残念です。これから、〝お顔を見に〟言っていいですか」

咄嗟に出た言葉だった。大陸飯店の前を左に曲ると、両手を高く上げ、豪快なアベスマイルが今でも目に浮かぶ私には、安部さんの〝死〟の実感がわかなかったからだ。夫人も「どうぞ〝顔を見に〟来て下さい」と私の心境を察してくれた。

安部さんの家の前は、時々通っていたが中に入るのは初めてだった。祭壇にある遺影に向かって、何時ものように話しかけると、私の横に立っている美智子さんが、相づちをうってくれるので、安部さんが、笑みを浮かべ、頷いているように見えた。涙を湛え、お別れの挨拶をして部屋を出た時、〝村田諒太はやっとプロボクサーになったね〟と何処ともなく聞こえた。空耳だろうか。振り向くとドアの前に毅然とした未亡人の姿があった。
                                                                            【山本晁重朗】

 金曜日の夜九時は申し合せたように常連客はカウンター席に座る。
 ある夜、正装した中年の男がドアを開けた。店内を見渡し、空席がないので店を出ようとした時、私と視線が合った。見覚えのある顔だ。その男に突然、「何か御用はありませんか」と声を掛けられた。私は反射的に、「今日は間に合っています」と応えてしまった。男は、「では、また来ます」。会釈をすると出て行った。常連たちが呆気にとられ、「今の人何者ですか?」。怪訝な顔で、りきさんが訊ねた。

「葬儀屋さんです」。一同、「えっ!」。

「昨年、お祭りで御輿を担いだ時、隣り合わせになった人です。御輿を担ぐとき、〝ソイヤ!ソイヤ!〟と掛け声を出すのですが、彼の掛け声は、〝ソーギヤ!ソーギヤ!〟って聞こえるのです」

彼らが笑い終るのを待って、「実家の葬儀社を継ぐ前は魚屋に勤めていたそうです。だから、御用聞きをしたんだ」と正義ちゃん。「それじゃ、出来過ぎだよ」と武藤君。「酒を飲むと魚屋に戻っちゃうんだ」と吉永さん。彼らは、しっちゃかめっちゃかになっている。そんな空気に飲まれず、マイペースでビールを飲んでいるのが、自称東大の数学教師、松島さんだ。三十代の独身で、女性には興味がないのか、女性と話をしているのを見たことがない。ところが、マニアックなボクシングファンで、それも数学的なのだ。選手の戦歴や年齢を正確に覚えていて、その話題になると雄弁になる。常連たちに記録屋と呼ばれている。

かつて、〝一番街〟には、バー、スナック、居酒屋が百二十軒もあったが、近年では、三十数軒しかない。そんな寂れた所に、常連客の守谷さんが、洋風居酒屋を開業したのだ。店名は〝バルト〟。カウンターとテーブルがあって、客は四十人近く収容出来る。更に空間があり、テーブルを移動すると、小さなステージになる。そこで、朗読劇や演奏会を催しする。従業員はアルバイトが一人。常連客に学生時代の友人が二、三人いるので、忙しい時には、彼らの手を借りる。なかなかの遣り手のマスターである。

ある時、バルトのマスターが、アイドル歌手の早見優に似た若い女性を連れて来た。その日は金曜日でなかったのでカウンターに座れた。マスターは常連の前に立ち、彼女の肩に手をかけて、「この人はヴァイオリニストです。明日、うちのステージで、演奏をします。みなさん是非、聴きに来て下さい」。紹介された彼女も立ち上がり、「橋口瑞恵です。どうぞいらして下さい」。にっこりと笑い、頭を下げた。エキゾチックな横顔に魅了されたのか、居合わせた常連たちは口々に「聴きに行きます!」とヴァイオリニストに声を掛けた。驚いたのは数学の先生もその中に居たのだ。

橋口瑞恵は、十歳でエクアドル国立音楽院を飛び級卒業。在学中はモスクワのグネシン音楽院の現学長、アンドレイ・ポドゥゴルニ氏による指導を受け、十歳にして年間百回を超えるリサイタルツアーをエクアドル国内で広く行った。日本に帰国の際には、別離を惜しまれ、在エクアドル共和国スペイン大使館によって、〝さよならコンサート〟が催された。帰国後、慶應義塾大学に進学。卒業後は様々な仕事を経験し、〇二年から東京を中心として演奏活動を開始した。プロフィールを見ると、かなりの実力者だ。

店内は満席だった。瑞恵さんは、昨日と同じ普段着で颯爽と現れた。ヴァイオリンを構えると、モーツァルトとベートーヴェンの曲を十分間の休憩を挟んで、約二時間演奏をした。私は、モダンジャズとロカビリーのコンサートに行ったことがあるが、クラシックのコンサートは初めてである。曲が終わるたびに拍手が店内に響いた。クラシックに興味がなかった私にはどの曲も同じように聞こえたが、彼女のダイナミックな演奏スタイルに圧倒された。店内を見わたすと年輩者が目立った。その中に松島さんの姿もあった。

木曜日はチャンピオンの定休日である。毎週、その日だけ大川ボクシングジムのトレーナーになる。先輩に頼まれると断れないのだ。ジムは明大前にある。東京行四時二十五分の電車に乗るとジムに五時に着く。

ある日、その時間に瑞恵さんが、プラットフォームに立っていた。新宿まで一緒だった。彼女も毎週木曜日に新宿の某所にヴァイオリンを教えに行くという。

瑞恵さんは次の木曜日から私が乗る電車の時間に合せてくれた。週に一回だが、車中で二人の雑談が続くと、私はヴァイオリンに、瑞恵さんはボクシングにいつしか興味を持つようになった。そして瑞恵さんが教えている生徒と、私が教えている練習生の話題の中には指導者にとって貴重なものがあった。

ある時、ヴァイオリンの次に好きなものは何?と聞くと、自転車だという。「学生時代は休暇の度に野宿をしながらサイクリングをし、日本のあちこちを放浪した」と御転婆ぶりを話してくれた。そのエピソードを聞いて、無地のブラウスとジーパン姿で演奏するスタイルに納得がいった。まさにボヘミアンなヴァイオリニストである。

ある日、何時ものプラットフォームの場所に、瑞恵さんが背の高いイケメンの青年と並んで立っていた。「大久保さんです」と紹介され、三人は新宿まで一緒だった。

 次の木曜日には瑞恵さんの姿はなかった。阿佐谷から新宿までの十一分間のデート?は、三カ月余りで、あえなく終了した。それから数ヶ月後、瑞恵さんの名字が、橋口から大久保に変わった。

 瑞恵さんは十三年に府中市分倍河原駅の駅前に、本格的な音響の貸し音楽ホール〝ミエザホール〟をオープン。オーナーとして、このホールを拠点としながら、様々なアーティスト演奏活動を行っている。

Mizue・18.2.4 ミエザホールは駅から〇分。四階建てのビルで二階がホールになっている。正面が舞台で、ピアノが左側に置いてある。収容客数は五十人ぐらいだ。少し遅れて行ったので、会場は、ほぼ満席だった。

 「チョーさん、席、取ってあるよ」

 前方の席から聞えた。そこに松島さんが居た。彼は数年前に郷里の金沢に引越しているのだ。新幹線で、東京まで来て、このホール直行、その後は、阿佐谷のホテルで一泊して翌日、帰るスケジュールだという。〝追っ掛け〟も、ここまでくると凄い!以前、瑞恵さんに松島さんの存在を聞いたことがある。彼女は、「何処の会場でも来て下さるので嬉しい、松島さんの顔を見るとほっとします」と言っていた。

十五分間の休憩の時間に、私は瑞恵さんが、坂本龍一のプロデュースによるオーチャードホールと彩の国さいたま芸術劇場でソロ演奏をしたエピソードを松島さんに話した。彼は、「坂本龍一は、英中伊合作映画『ラストエンペラー』や日英豪他合作映画『戦場のメリークリスマス』の音楽を担当した世界的に有名な作曲家じゃない!」。

 「そうです、『戦場のメリークリスマス』の監督は、あの大島渚でしたね」

後ろの席にいる年輩の男性に声を掛けられた。「今、大島渚て言ったでしょう。私は熊井啓監督の友人です。家も近くなのです」と話に割り込んできた。私は戸惑いながら、「偶然ですね、私も熊井さんと親しくしていました」と言うと、その男性は、米沢純夫と名乗った。

 「それでは、調布から来たのですか、私は阿佐谷からです」

 すると隣の席にいた米沢さんの連れの女性が、「私も阿佐谷です。病院を経営しております。山住美津子です、熊井さんの奥さんの明子さんと同級生でした」。

 「では、久保田喜正さんを知ってますか?」

 山住さんは、「その人は絵描きさんでしょ」。久保田さんはチャンピオンの常連客だった。ステージを指差して、「橋口瑞恵さんとのご関係は?」の問いに院長は、「橋口さんは私の患者よ」と誇らしげに答えた。そして、「あなたがたと橋口さんは、どんな関係?」。私は思わず松島さんの顔を見た。話がややこしくなってきた。こんな局面に遭遇した時、テレビドラマの脚本家・向田邦子女史だったら、どのような描写をしただろうか。
                                           【山本晁重朗】

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