"チャンピオン"日誌・あの日あの時

63年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。

スポーツ新聞に、〝東洋太平洋(OPBF)ライト級のタイトルマッチ〟の記事(平成四年五月十一日・後楽園ホール)が大きく一面に載っていた。王者大友巌にグッシー・ナザロフが挑むのだ。大友選手は日本ライト級タイトルを九回防衛、平成元年には同級OPBFの王座を獲得し、五回防衛している。挑戦者のナザロフは、ペレストロイカの波に乗って、アントニオ猪木がロシアから連れて来たアマチュア世界選手権銅メダリストの実力者だ。私は大友とナザロフの試合は殆ど観ている。両選手のKO率は八割。大友のパワーとタフネス、ナザロフのハイテクニックが激突する壮絶なファイトになると予想し、常連客にアピールした。店内の目立つ所に両選手のファイティングポーズのポスターも貼った。

観戦希望者の人数が決まると、プロモーターの大川氏に電話をして三千円の自由席のチケットを郵送してもらっている。今回もチケットの枚数を依頼すると、大川氏は「いつも大友の応援をしてくれているので、五千円の指定席を三千円にします」と言ってくれた。その影響もあったのか、ボクシングファンではない一般客の参加者も多かった。ロシア人のボクサーに興味があったのだろうか。

当日五時に後楽園ホールに行った。入口の近くにある売店の横で、大川氏が、招待客に挨拶をしていた。声をかけて、十四万一千円入った封筒を手渡した。「四七人分のお金が入っています」と言うと、大川氏は「そうですか、それでは大友選手に激励賞を出して下さい、幾らでもいいですから」と言うので驚いた。私はチケットを安くしてもらったが、四七枚も買っている。〝ありがとう〟も言わず、激励賞を出せとは、この人は何を考えているのだろうか。そして私の眼の前に祝儀袋を出し、「袋の表には自分の店の名前を書きなさい」と言って、ホールの方に行ってしまった。納得がいかなかったが、袋に千円札(激励賞の相場は一万円から三万円)を入れ、リングサイドの係の人に渡した。

会場は超満員だった。北側の指定席に行くと、咲谷氏が「晁さんここだよ!」と声をかけてくれた。席に着き、周囲を見渡すと、番号が続いている指定席なので、その一角にはチャンピオンの客の顔が並んでいた。売店で売っている紙コップの生ビールを飲んでいる人、持参したワインを隣の席の人と交わしている人も居て、和気あいあいの雰囲気だった。

八時分、ゴングの音が場内に響き渡り、両選手がリングに入場した。リングアナウンサーが、「試合に先立ちまして、大友選手への激励賞があります」と言って、十枚くらいあるある祝儀袋の名前を、次々と読み上げた。「株式会社東芝さま」の後だった。「アサガヤのチャンピオンフレンド会一同さま!」と読み上げた。誰かが叫んだ。

「おい!オレ達のチャンピオンフレンド会がアナウンスされたぞ!

彼等にしてみればサプライズだった。一斉に立ち上がり気勢をあげた。それに気づいたリング上の大友選手が私たちを見て、右のグローブを力強く突き上げた。私はその〝瞬間〟、そのグローブで顎を撃ち貫かれたようなショックを受け、〝激励賞〟の謎が解けた!大川氏はここまで読んでいたか!

二次会の店は、オデオン座の裏にある大衆割烹和田屋の二階に決まっている。座敷なので詰めて座れば三十人は入れる。試合が終わった時点で帰ってしまった人もいる。阿佐ヶ谷まで来た人は四十名ぐらいだった。大友は残念ながら判定で負けてしまったので咲谷氏の音頭は献杯だった。部屋の中に入りきれず階段にいる四人も〝ケンパイ〟と声を上げた。飲みながら大友選手のファイトについてディスカッションで騒いでいる仲間に、ストップをかけたのは咲谷氏だった。

「この機会にフレンド会の役員を決めよう、会計係は私がやります。晁さんは会員名簿を作って下さい。そして会長を選びましょう。」

初代の会長は松田氏が選ばれた。松田氏は建築会社の社長。威張らない、気取らないをモットーとする好人物で、当店の人気者だ。ある時、飲み疲れて寝ている若者に、「今夜はオレのところに泊まっていけ」と言って、揺り起こし、その男の連れの二人にも、「君たちも来い」と三人連れて帰った。数日後、その若者の一人が来店し、「目が覚めたらボクシングジムのリングの中で寝ていたんだ。びっくりした」と頭をかいた。松田氏は石橋ボクシングジムの会長の義兄だった。面倒見が良すぎるのが玉に傷である。

名簿を作るのに常連客の名刺と住所を書いたメモ紙などを整理していると、銀行の名刺が四枚も出て来た。銀行名は異なるが彼らに共通しているものがあった。彼らには格闘技のキャリアがあったのだ。空手、柔道、合気道、剣道の有段者だった。その中で一番若い岡崎君に、「もし強盗が店に入って来たらどうする」と聞くと、「その時は私の得意の右の廻し蹴りでKOですよ」と言ってから、声を小さくして話してくれた。

「実は、三カ月前に私が営業で外出している時に、仮面のピストル強盗が店に入ったのです。五百万を盗られました。私が居合わせなかったのが残念です。ところが犯人は防犯カメラに写っていたので、一週間後に逮捕されました。警察が犯人の部屋を家宅捜査をしましたらウチの銀行の預金通帳が出てきたのです。それを見ると犯人は犯行の次の日から五百万円を五回に分けて預金をしているのが記帳されていたのです。びっくりしました。」

そして、「取調べには黙秘しているので、犯行の動機と目的が分からないのです」と、岡崎君は首をかしげていた。

ある夜、吉永氏が、「こないだ行った秋川渓谷のアルバムを見せて」と言うので、フレンド会の企画で秋川渓谷に水遊びに行ったアルバムを見せた。吉永氏はビールを飲みながら楽しそうにページをめくっていたが、ふと、その手が止った。「晁さん、この集合写真を見て」と言われたので覗いてみると、水辺に水着姿の老若男女と子供たちの楽しそうな笑顔が写っている。吉永氏は四十人くらい居るその中から一人の男に指を差した。見ると、その人はR銀行融資課課長の矢吹氏だった。

「この男は、いやな奴だ!みんながバーベキューに使う道具や、ござなどを水辺に運んでいるのに、ジャケットを着たまま見ているだけ、何も手伝わない、いい年をしていて何様だと思っているんだ!」

吉永氏は言いながら怒っていた。

その時より、二年前の夏 ―――

矢吹氏は一週間ぐらい姿を見せていなかった。R銀行に電話をすると、「矢吹は、四日前に交通事故に遭い河北病院に入院しています」と事務的に言われた。河北病院は店から徒歩十分。見舞いに行くと、矢吹氏は一人部屋に居た。浴衣を着て、ベッドに腰かけている。笑顔で迎えてくれたので、「心配しました。腕の一本や二本折れたのかと思ったのに、元気そうですね」と言うと、「その腕が一本無くなったのだよ」と言って、左側の袖をまくった。そこには腕が無かったのだ。

「えっ!どうしたのですか?」と、顔を見ると矢吹氏は、「気が付いたら病院のベッドに寝ていたんだ」と言って、新聞を見せて、「これを兄が持って来てくれたんだ」と手渡された。読んでみると、二十時十分中野駅に入って来た電車の前にホームから男が飛び降り、十メートル引きずられ電車は停車位置に止まった。〝自殺か?〟

「人身事故になっていますが、真相はどうなんですか?」と聞くと、「あの夜は、銀行の顧客と駅前の居酒屋でちょっと飲んで、九時にその店を出たんだ。酔っぱらってはいなかったし、どうしてホームから飛び降りたのか分からないんだ」と深刻な表情になった。「誰かに押されたのでは」と言うと、「そうかな?」と言って目を閉じ、首をひねった。私の帰り際に「義手を付けることになるよ」と言って左腕があったところを指差した。

この事故を吉永氏は知らなかったのだ。「そうだったのか、オレは矢吹さんに悪いことをしてしまった。すぐにでも謝りたい」と言うので、私は「電話をしましょうか、謝るのなら早い方がいい」と言って、十時は過ぎていたが矢吹氏に電話をした。すると矢吹氏は、「これから店に行く」と言って電話を切った。二十分後に矢吹氏は店に現われた。吉永氏は立ち上がり、「知らなかったとはいえ、私の無礼をお許しください」と頭を下げると、矢吹氏は、「とんでもない、私の方が〝ありがとう〟と言いたいのです」と答え、亞然とする吉永氏に、「私は病院の帰りに電車に乗った時、五歳くらいの男の子に、『お母さん、あの人の手が変だよ、ロボットみたい!』と言われ、ショックだった。そばにいた人たちも私の義手を見ていた。あんな恥ずかしい思いは二度としたくない、あれ以来、義手を隠すようになったのです。あの秋川でも隠していたのですが、何人かに気付かれました。ところが、吉永さんは私を五体満足の人間として見てくださいました。だから何も手伝わない私を厳しい目で見ていましたね、それが私は嬉しいのです」と言って、右手を差し出した。吉永氏は小さく頷き、一礼して、その手をしっかりと両手で握った。

暑い夜だった。
                                       【山本晁重朗】

 ある時、ジョナサンに「新しいアイデア料理がありませんね」とメニューを見ながら言われた。

私は、海外旅行をすると、その国の料理を食べ歩き、美味しいと思った料理からヒントを得ると研究し、試食し、チャンピオン風にアレンジする。そしてパートナーの初子に試食をしてもらう。彼女のOKが出ると、メニューに載せている。

タイは、バンコクに在住の友人がいるので馴染のある国だ。最初に出来上がったのが、タイ料理で有名なトムヤムの香辛料を使った豚肉料理だった。それを、〝バンコクポーク〟と命名した。思ったより好評なので、牛肉を使い、〝タイランドビーフ〟に。スパゲッティもトムヤムの味で、ラーメン風にして、〝タイ風メン〟に。バターでソティして、〝スパゲテイド・タイフーン〟などもメニューに載せると、大好評だった。店の近くにあるタイ料理店のシェフが、試食に来て、「こんな美味しい料理はタイにはない!」と驚いていた。

その次は、ケニヤに行った時、ナイロビのレストランで食べた牛肉料理にヒントを得て作った、〝ケニヤビーフ〟も人気があった。「これは、ライオンの肉ですか?」とジョークを言う客もいた。

このようにして、新作料理を創作するのを、よく知っているジョナサンは、私をロンドンに招いてくれた。彼のホームタウンに二日間滞在、ジョナサンの両親と車に乗り、家族ぐるみで名所を観光させてもらった。そして、一流のレストランにも連れて行ってくれた。どの店の料理も美味しいのだが、チャンピオンのメニューに載せるには高級すぎた。ジョナサンは、役に立たなかったと残念がっていたが、彼の好意には感謝している。

ある夜、海外旅行会社に勤めている山田氏が、〝歴史散歩友の会〟のパンフレットを持って来た。その中に、〝キューバ・メキシコ七日間のツアー〟があった。山田氏に「参加しませんか」と誘われた。

〝キューバ・その光と影〟のツアーは十一月十六日十七時四十五分、日本航空で成田空港から出発した。当時、アメリカと国交がないので、バンクーバー経由でメキシコへ行き、一泊して、キューバの首都ハバナに着いた。参加者はリーダーの山田氏を入れて七人。カストロの革命広場、ホセマルティ記念博物館、ヘミングウェイゆかりの地、その他を観光した。因みに、キューバは社会主義国家だが、ハバナの最大の国営キャバレー〝トロピカーナ〟のショーで、セクシャルに踊るストリッパーたちも公務員なのだろうか。

ハバナの最後の夜、山田氏と二人で市街に出た。活気が溢れている大衆酒場があったので入ると、観光客で、ほぼ満席。欧米人の三十代のカップルと相席になった。英語で挨拶をして席に着くと、男性が私の顔を見て、笑いながら、バックからカメラを取り出した。〝キャノン〟だった。それを見て女性が話しかけてきた。「あなたたちは日本人ですね、私たちはドイツから来ました」と言って目礼をした。私も小型のキャノンを携帯していたので、それを見せて話は弾んだ。彼女はビリギットと名乗り、「夫は英語が苦手ですが、ドイツ語は上手です、私よりも」と言って、肩をすぼめた。その夫が、「カメラは一年前に日本を旅行した時に買いました」と言いながら、私たちにレンズを向けて、数回、シャッターを押した。気が付くと、私もシャッターに指が触れ、カメラマンになっていた。四人は意気投合して、深夜まで飲んだ。別れ際に名刺を交換して、「グッドラック」と握手。キューバは治安が良いのでホテルまで歩いて帰った。

翌日、メキシコに直行した。市内車窓観光だった。滞在時間が少なかったので印象に残る出来事はなかったが、キューバでは得られなかった料理のヒントがあった。それはホテルの朝食で食べた玉子料理だった。帰国して早速メニューに載せた。〝オムレッド・メヒコ〟である。これもヒット料理になった。

キューバとメキシコで撮った百四枚の写真を整理していると、一枚の写真に目が止った。ビリギットが笑顔でポーズをとっているショットだ。ムービースターのブロマイドのよう。その写真をA4に伸ばし、手紙を添えて、ビリギットに送った。一カ月もたたない内に礼状と自家製のマーマレードが送られて来た。今までに英国人、米国人、カナダ人と文通をしていたが、物が送られてきたのは初めてだった。この人だったら良きペンパルになると思い、私も手作りの特製ドレッシングを送った。その礼状はすぐに来た。手紙には西ドイツの南の町バックナグの郊外に住み、リンゴ園を所有、冬は道路が凍るほど寒いと書いてあった。私は、〝寒い〟にヒントを得て、ホカロンを送ってみた。ホカロンには驚いたらしい。日本の文化に触れたと次の手紙に書いてあった。年末にはカレンダーが送られて来た。美しい風景の写真が十二枚、大きく印刷されてあり、それらは彼女たちが住む地方の名所だと説明があった。私はこんな素敵な所に妻と行ってみたいと社交辞令で書いた。すると、是非いらっしゃい、私たちが案内しますと誘われた。その時は躊躇したが、その後の文通で、行くことが具体的になった。秋がベストだと記してあったので、ドイツに行くのは十月に決めた。

シュツッガルトの空港に到着すると夫妻が迎えに来てくれていて、ベンツで彼女たちの家に直行した。二人は私たちが持参した土産の甚平と浴衣に袖を通し、「ワンダフル!」と喜んでくれ、ビールで再会の乾杯をした。そして、三階に案内してくれた。そこはホテルの小部屋のようだった。「ここを使って下さい」と言われ、リラックスした。翌日からビリギットが運転する自家用車のベンツで四日間の観光が始まった。

最後の夜は日本から持参したマヨネイズと醤油を使い現地で買ってもらった鳥のもも肉で、チャンピオンの人気料理のチキンソテーを作った。初子は醤油を使い、お清汁を作り、ビリギットはドイツの家庭料理を作り、日独合作パーティーになった。ビールを飲み、イギリスの民謡〝埴生の宿(ホームスイートホーム)〟を日本語とドイツ語で合唱した。

翌朝、ビリギットに「すっかりお世話になりました、滞在費を払います」と言うと、彼女は毅然とした表情で「あなたたちを私が招待したのです。ゲストからお金を頂けません」と、きっぱり言われた。彼女の隣に居るラウスコルブス氏は、笑顔で頷いている。その言葉にドイツ人の気質を感じ、好意に甘えた。

交流は今でも続いている。                          【山本晁重朗】

ある夜、春原氏が店に威勢よく入って来た。「カオサイが日本に来るぞ!」と言いながら、サウスポースタイルで、パンチを打つ真似をした。誰かが、「カオサイは引退したのに何をしに来るの?」と言うと、それを待っていたとばかりに、「渡辺二郎と試合をするのだ!」と答えた。

渡辺二郎は日本拳法四段、大阪の追手門学院大学のキャプテンだった。卒業すると大阪帝拳ジムに入門した。プロテストを難なくパスした拳法家はボクシング界に殴り込みをかけたのだ。その成果はすぐに出た。デビュー戦から連続KO勝ち、十六戦目でWBA世界Jバンタム(現・スーパーフライ)級タイトルをKOで獲得した。そのタイトル(WBA・WBC)を十回防衛し、八六年に引退している。片やカオサイは九三年に引退しているが世界Jバンタム級の王座を十九回も防衛している。

この二人を現役時代に対決させるのがファンの夢だった。その夢がエキシビジョンマッチで実現することになったのだ。

それを伝えに来た春原氏は喫茶店〝ポエム〟の店長だった。〝ポエム〟は、永島慎二の人気漫画「若者たち」の舞台になっている有名店である。春原氏はマニアックなボクシングファンだ。酒は飲めないので、普段は口数は少ないが、ボクシングの話題になると雄弁になる。ある時、『ワールドボクシング』誌の編集長が、「私の助手が欲しいのですが、誰か、いい人いませんか」と言うので、春原氏を紹介した。二人は意気投合し、春原氏は〝ポエム〟を辞めて、ボクシング出版社の社員になってしまった。

カオサイの何回目かの防衛戦だったか忘れたが、バンコクの郊外にあるギャラクシージムでカオサイの公開練習があった。私が取材に行くと、春原氏がリングサイドでカメラを構えているではないか。そっと近づき、背後から肩を叩こうとした時、「晁さん!春原さん!」と声がかかった。振り向くと、そこにテレビカメラを担いでいる横に、友田君が居たのだ。友田君は学生時代にボクシング部に所属していて、当店の常連客だった。その友田君はテレビ東京に就職して、ボクシングの担当者になり、初仕事でバンコクに派遣されていたのだった。この異国で三人が同じ目的で、出会ったのは、まさに〝サプライズ〟である。そんなエピソードもあった。

数日後、春原氏は招待券を二枚持ってきた。チケットには渡辺二郎とカオサイの顔写真が印刷されていて、〝夢の対決〟エキシビジョンマッチと書いてあった。

後楽園ホールは満員だった。選手の控室に行くと、関係者でごった返していた。カオサイはバンテージを巻き、中央でインタビューを受けていたが、何時も彼の隣に居るワイフの由美子さんの姿がなかった。あたりを見わたすと、ひとりポツンと片隅に立っていた。私は、「今日は、お久しぶりです」と声をかけると、由美子さんは私の顔をチラッと見て、「ごめんなさい!私はあなたを知りません」と言って下を向いてしまった。

「バンコクで何回もお会いしている山本です!」

由美子さんは、「でも知らない人です」と言うと、後ろを向いてしまった。

試合は時間通りに始まった。その前に赤コーナーに居るカオサイに由美子さんは大きな花束を贈呈していたが、気のせいか、ぎこちなく見えた。試合は四ラウンドで、三ラウンドはヘッドギアを付け、ラストラウンドはヘッドギアをはずし、素顔を見せてファイトをしている。観衆の声援で期待通りの好ファイトをしているのは分かるが、私には雑音にしか聞こえなかった。それは由美子さんが、〝あなたを知りません〟と言ったのは何故なのだろうか、理解できないからだ。カオサイが経営しているビリヤードに招待された時も、カオサイの運転で弟分のチャナのジムに案内してもらった時も、何時もカオサイの隣に居て、通訳をしてくれていた。そして、〝今度はあなたの店チャンピオンで会いましょう〟と言ってくれた由美子さんが、なぜ、あのような態度をとったのか、カオサイとの間に何かがあったのだろうか。カオサイはリングに上がると〝鬼〟になるが、普段は温厚な人柄で、引退してからも、二人仲良くテレビに出演している人気者であった。そして、私をミスター・ヤマモトと呼び、親しくしてくれた。

翌日、バンコク在住の青島氏に電話をした。由美子さんの昨日の言動を伝えると、「ボクが親しくしている新聞記者に聞いてみます」と言ってくれた。二日後、青島氏から電話があった。

「離婚していました。原因はわかりませんが、由美子さんは数カ月前に大阪の実家に帰ってしまったそうです。由美子さんが東京の試合場に居たのは、カオサイに呼び出されたのではないでしょうか。」

「やはり、国際結婚は難しいですか?」と尋ねると、青島氏は、「難しいと思いますよ。ボクの妻はタイ人なので、それは良く分かります。ボクも東京に帰りたくなった時が何回かありましたから」と答えるので、私は、「由美子さんはしっかり者で、意志の強い人だと思っていたのに、離婚するなんて考えられない」と言うと、青島氏は、「ボクは結婚して十二年になるけど、ボクなりに頑張っています」と話してくれた。

「ところで、昨夜、私の店に電話をしましたか?もしもしと何度も言ったのですが、相手は何も言わないのが気がかりなのです。」

青島氏は、「ボクではありません。それは、もしかすると、〝私はあなたを知りません〟と言った人では?きっとそうですよ!」と言って、青島氏の声は大きくなり、しゃべり続けているのに、私はそっと受話器を置いた。
                                       【山本晁重朗】

 小雨が降る夜だった。ソー君が久々に顔を見せた。ソー・ウィリアムスはシンガポールの留学生で、定食屋の「王将」でアルバイトをしている。日本語、英語、中国語を話せるが、中国語以外は、あまり巧くない。英語はTHの発音が出来ないので、「タンキュー」になる。ブルー・スリーのマニアックなファンで、ブルー・スリーの映画は全部見ていると自慢する。ソー君もカンフーの経験があるので、私にボクシングとカンフーはどっちが強いか!と何回もチャレンジしていたが、実現しなかった。

ソー君は突然言い出した。

「私は阿佐ヶ谷に二年近く住んでいましたが、来週、国に帰ります。タンキューでした。」

居合わせた常連客が、「送別会をやろう」と言うと、「タンキュー、でも時間がありません」と言い、私にシンガポールの住所と電話番号を書いたメモ用紙を手渡し、「晁さん、必ず来て下さい、紹介したい人がいます」と言い、ビールを一本飲んだだけで帰ってしまった。そこに、たまたま海外旅行会社に勤めている小川氏がいて、「バンコク、シンガポールの四泊五日の観光ツアーがあるよ、行ってみたら」と言うのを聞いていた初子が、「バンコクには常連客だった青島さんがタイの女性と結婚して、現地にいるでしょう、会いに行けるじゃない」と言うので、そのトラベルがすぐに決まってしまった。

数日後、来店した、『ワールドボクシング』誌の編集長の前田氏に、「バンコクに行くなら、世界Jバンタム級チャンピオンのカオサイ・ギャラクシーを取材してくれないか」と頼まれた。私は早速、青島氏に手紙を書いた。

バンコクに着くと青島氏に電話を入れた。添乗員に二日間の合間に自由時間をもらい、青島氏にカオサイが所属するギャラクシージムに案内してもらった。カオサイに英語で挨拶をし、名刺を出すと、私の顔を見て、たどたどしい日本語で、「アナタ日本人?私のフィアンセも日本人です」と聞くので、「そうです」と答えると、強持てのボクサーは笑顔になり、私の注文通りのファィティングポーズを撮らせてくれた。取材が終わった時、彼は、「今度私の家に来て、フィアンセを取材して下さい。フィアンセの由美子は日本人に会いたいと言っています」と英語で話し、住所と電話番号を書いた紙をくれた。

次の日、シンガポールの空港に着くと、ソー君が出迎えてくれた。彼の隣に見覚えのある女性がいた。ソー君は、「私の奥さんです」と紹介した。その人は台湾の留学生だったマーさんではないか!マーさんは、ジョナサンが二年前に店に連れて来た女性だ。ジョナサンは、『ジャパンタイムズ』の記者で、都内に住んでいる外国人に会うと店に連れて来る。今までにアメリカ人、ロシア人、アフガニスタン人、カナダ人らを私に紹介してくれたイギリス人である。マーさんは気さくな人で、日本語の発音がセクシーだと言う人もいて、当店のマドンナだった。その彼女が二カ月前に突然、姿を消してしまったのだ。私は思わず、「そうか、ソー君がマーさんを拉致したのか、君は凄い!スーパーマンだ」と言うと、ソー君は、「いいえ、ドラゴンです」と答える。ドラゴンはブルー・スリーの役名である。

数年後の深夜、青島氏とバンコクの野外レストンで飲んでいると、警官に職務質問された。腰につけたピストルを物珍しそうに見ていたからだろう。私が、「カオサイに会いに来たのです」と答えると、怪訝な顔になった。そこで、カオサイと私のツー・ショットの写真を見せた。警官の態度がとたんに変カオサイ&晁さんり、ビールを一本ご馳走してくれて、「何か困ったことが起きたら、ここに連絡しなさい」と、カードまでくれた。カオサイの写真は水戸黄門の印籠のような威力があるのに驚いた。引退してもカオサイの人気は衰えていない。世界Jバンタム級タイトルを十九回の防衛記録を残して引退、皇太子(現国王)の媒酌で日本女性の由美子さんと結婚した。

翌日、バンコクの郊外にあるカオサイの邸宅に電話を入れた。約束の時間より、三十分早く着いてしまった。カオサイは笑顔で迎えてくれて、「私のワイフです」と由美子さんを紹介し、応接間に通された。正面にある飾り棚の中央にチャンピオンベルトが置かれ、そのまわりには数え切れないほどのトロフィーが無造作に置いてあった。カオサイの隣に座り、通訳をしてくれている由美子さんとはこの日が初対面である。写真で見るより遥かに美人だ。眼が大きくて、肌の色は南国の直射日光を拒むかのように白い。スンナリとした脚、背はカオサイより少し高そう。豊かな表情と声優が台本を読むような口調に知性を感じ、とても魅力的だ。そして、流暢なタイ語を話す彼女が、「この一年ぐらい日本語でお話をしていないのです。今日はたくさんおしゃべりをしましょう」と身を乗りだした。

「それでは、カオサイさんとの馴初めを聞かせて下さい。

平成元年四月八日、カオサイは横浜文化体育館で松村謙二の挑戦を受けるために来日した。たまたま、その試合の招待券を手にした由美子さんが、女友達と大阪から観戦に来ていた。試合後、ホテルのティールームで友人とおしゃべりをしていると、突然背後から誰かが話してかけてきた。ナマリのある英語だ。振り返ると、小一時間前、リング上で日本の選手を殴り続けていたタイ人だった。これが、カオサイとの出会いである。由美子さんは、社交辞令でサインを求めたりしているうちに祝勝会に出席するはめになってしまう。会場は、新宿のタイ料理店。そこまで行くマイクロバスの車中で、カオサイは由美子さんの自宅の住所と電話番号を聞き出している。カオサイは帰国すると、ラブコールとラブレターの猛攻撃。その熱意にうたれ、バンコクに行くことにした。一週間の滞在中にカオサイの素朴でやさしい人柄に触れ、生涯を共にする決心をした。

カオサイのプロポーズの言葉は、「ボクには、お金も土地も車もある。無いものは一つだけ、それはワイフです。ボクのワイフになる人は、あなたしかいないのです」だったと。言い終わると、由美子さんはカオサイと目を合わせて笑った。帰り際にご馳走になった手料理を誉めると、由美子さんは、「今度お会いするのは、あなたのお店〝チャンピオン〟にしましょう」と言ってくれた。

その言葉に、〝期待〟して豪邸を後にした。
                                       【山本晁重朗】

 かつて、阿佐ヶ谷に映画館が三軒あった。七〇年代に入ると駅の近くにあるオデオン座だけになってしまった。そこの支配人の県氏も常連客であった。いつも月初めに来店、「今月分だよ」と言って、帰り際に招待券を十枚置いていく。それを映画好きの常連客に配っていた。県氏は独身で、「高倉健と同じ歳だ」が口癖だ。「若い時は映画俳優になりたかったが気がついたら、映画を見せる方の仕事をしている」と、酔っ払うとひとり言のように呟く。ある夜、県氏はめずらしく同年配のステキな女性を連れて来た。焼酎の水割を飲みながら、女性と青春時代に見た懐かしい映画の話で盛り上がっている。それを興味深く聞いていると、私はヤンチャな少年時代を思い出した。

映画をただで見まくっていたのである。映画が終り、観客がどっと出て来たところに、まぎれ込んで入ったり、友人五人から一人分の入場料金を集めて、チケットを一枚買い、入場するすきを見て、非常口を開け、外で待っているみんなを入れたこともある。夕方、雨が降るとチャンスだった。傘を持って映画館に行き、「お父さんが見に来ているので、これを届けに来ました」と言って中に入る。もちろん、父など場内にはいない。そんなことをやっていたのは、映画を見るのが目的だけではなく、スリルも楽しんでいた。さらにエスカレートして映画館の裏側にあるトイレの窓から入るのを思いついた。ある夜、トイレの窓から入ろうとして足を入れるとギュッと掴まれた。「しまった」、どうしようと思っていると、中から女性の声が、「だめこんなことしちゃ、そんなに映画が見たいのなら入口にいらっしゃい。今日は勘弁してあげるから、二度とこんなことをしちゃだめよ」と怒られた。入口に行くと若い女性が立っていた。

「君なのね」

私がうなずくと中に入れてくれた。その女性は映画のヒロインの〝天使〟のように見えた。以後、映画のただ見はやめた。

そんな悪だった少年時代を思い出した切っ掛けは、県氏の連れの女性が、かつて阿佐ヶ谷の映画館に勤めていた話をしていたからだ。この女性に〝天使〟のことを聞けば、彼女の近況が分かるかも知れないと思った。二人の会話がとぎれた時、それとなく彼女に尋ねた。

「パールセンターにあった松竹座を知っていますか?

彼女は、「若い頃、あそこにいました」と言い、怪訝な顔をしたので、まさかと思ったが、トイレの話をすると、彼女は立ち上がり、私をじっと見詰める。

「あなたがあの時の少年なの?目の前に足が出てきたので、びっくりしたわ!」

カウンターがなかったら抱きつかれそうだった。

この奇遇な再会のエピソードは、パートナーの初子が音頭を取って結成した〝映画フレンド会〟でも話題になり、ゲストに彼女を呼ぼうという声もあったが、さすがにそれはやめることにした。

映画フレンド会は毎日第三水曜日の七時から会合があり、十数人が集まる。テーブルを囲み飲食をしながら、三時間ぐらい洋画、邦画を問わず、古今の映画のディスカッションをする。

ある晩、「デビュー戦が決まったぞ」と、金子正義がドアを開けながら叫んだ。カウンターの客が一斉に振り向いた。正義は二十六歳。本業はペンキ屋。二十五歳から近くにある石橋ボクシングジムでトレーニング。ジムの帰りに来店し、ビールで乾いた喉を潤している常連客だ。

「よし!みんなで応援に行こう」と立ち上がったのは学生時代に日本拳法のキャプテンだった小宮山晶治だ。

正義の試合は、トーナメントの新人王戦だ。初めて見に行ったのは、たったの二人だったが、彼らがボクシングの面白さを得意げに話すので、正義の試合がある度にファンは増え、準決勝戦までに勝ち進んだ時には、〝正義の後援会〟ができてしまった。会長に元ライト級新人王の咲谷達夫がなった。

映画フレンドの会と正義の後援会は対立はしなかったが、なんとか、この二つの会を統一しようと思い、映画界とボクシング界に共通している著名人のサインを一枚の色紙に書いてもらうことにした。〝四角に賭ける青春〟のタイトルで対談したことがある仮名で書くと同姓同名になる二人を選んだ。日本人として初めての世界王者世界フライ級チャンピオン)の白井義男氏と映画評論家で、『キネマ旬報』編集長(一九六八年から七六年)だった白井佳夫氏である。

まず阿佐ヶ谷在住の白井佳夫氏を訪ねて、「リングとスクリーンは四角です。この四角の色紙に、お二人のサインをいただきたいのです」と、お願いすると快く受けてくれた。ところが、佳夫氏は、「白井義男さんに先に書いてもらいなさい」と言い、「その時、この本を渡してね」と、著書『監督の椅子』を持たされた。

後日、後楽園ホールの解説者席に居る白井義男氏に本を渡し、サインの趣旨を述べると、「分かりました。でも此処では書きません。仕事場ですから、私の家へ来て下さい」と言って、住所と地図を書いてくれた。家は川崎だった。翌日、指定された時刻に訪問をした。奥さんが笑顔で迎えてくれ、応接閒に通された。義男氏は色紙の左半分に、さらりとサインをした後、「この本を白井さんに」と言って、『カーン博士の肖像』を手渡された。その本と色紙を持って再び佳夫氏宅へ。佳夫氏は、義男氏のサインをしばらく見てから、ペンを手にした。サインは表札に書くような端正な文字だった。それはグローブをイメージしたスマートなサインと対照的である。その色紙を見ていると、二人のサイン、それぞれの人生と、ボクサーとライターとしてのプライドが表現されているような気がした。

貴重な一枚である。
                                       【山本晁重朗】

  ある夜のあの時は、珍しく客は一人も居なかった。パートナーの初子とテレビを観ていると、細身の中年女性が颯爽と入って来た。昔テレビで観たことのある顔だった。

「いらっしゃいませ」と言って、彼女と視線があった時に誰だか思い出した。
 
失礼ですが、ヨネヤマ・ママコさんではありませんか?」

すると、彼女は「良く分かったわね」と言いながら店の中を見わたしている。「この場所は私の寝室だったの、そしてこの裏のスタジオは私の稽古場だったのよ。結婚するのでここを出て行ったら、あの先生はここを改造してレストランにしたのね。このへんに事務所があったのだけど、今はお店の一部になってしまっている。もうあの頃の面影は何もないけど懐かしいわ」と、立ったまましゃべり続ける。

ヨネヤマ・ママコは、パントマイムの俳優だった。パントマイムは役者が身ぶりと表情だけで演じる無言劇で、フランス映画〝天井桟敷の人々〟のパントマイムが有名である。

ヨネヤマ・ママコはクレージーキャッツのテレビ番組のレギュラーで、植木等とからんで踊ったり、コントを演じたりしていた人気者であった。もちろん台詞は一言も無い。そんな彼女が、私の前で身ぶり手ぶりで、おしゃべりをしている!それは奇妙な光景であった。

そのことを、親しくしている有線放送の社長に話すと、「彼女はきっと自分を世に出して下さった恩師にお礼の挨拶に来たのでしょう。その帰りに、この店を覗いたのだと思う」と言って、社長はビールを飲み乾してから、続けて話してくれた。

「数カ月前にジーパン姿の若者がオフィスにデビュー曲を売り込みに来たのだが、この歌がヒットしたら必ずお礼の挨拶に来ますと言って、地酒の一升瓶を置いていった。その歌を毎晩有線に流してやったら、ヒットしちゃったよ。」

その歌は、〝星影のワルツ〟だった。

「あの若者は、今やテレビで歌っているけど、それっきりだ。有名になると、そんなことは忘れちゃうんだね。」

ある晩、店を開けるのを待っていたように、体格のよい青年が入って来た。常連客の誰かに紹介されたのだろう。青年は「私は歌手です。私の歌を聞いてください」と言ってカウンターに小型のテープレコーダーを置いた。「歌うならお客さんが大勢いる時の方が、いいんじゃない?」と言うと、青年は「マスターに聞いてもらいたいのです」と答え一礼して、「私の名前は日高正人です。デビュー曲の〝鹿児島の雨に濡れて〟を歌います」と言って、テープの伴奏を流し歌い始めた。ところが彼の声はマイクを通していないのに、レコードを聞いているような響きと雰囲気があった。私は即座に有線放送の社長を店に呼んだ。社長も日高を気に入り、「有線に流そう!リクエストが来るぞ」とエキサイト。

当時、日本テレビが全日本歌謡選手権という人気番組を放送していた。無名の歌手が出場し、厳しい審査を通過して十週勝ち抜くとチャンピオンになるシステムだった。この番組から五木ひろし、八代亜紀らが優勝してスターの座に就いている。日高は、この番組にチャレンジしたいと言うのだが、彼は鹿児島県から上京して建築会社に就職、自主制作でレコードを一曲出しただけなのだ。私はこの番組への挑戦は無謀に思えた。そこで、「君が優勝したら世界チャンピオンの輪島功一とステージで歌わせてやる」とハッパをかけた。輪島は二十八歳で世界王者になり、三度も同級王座に就いた努力の男、根性の男と称えられたボクサーである。試合後リングで、自分でレコーディングした〝炎の男〟を熱唱した人気者である。

奇跡か実力か、日高は優勝した。困った!私は輪島と面識がないのだ。考えた末、大先輩の元日本バンタム級チャンピオン石橋広次氏のジムに相談に行った。会長は快く引き受けてくれ、輪島のマネージャーに掛け合ってくれた。だが輪島は多忙と断られてしまった。がっくりして帰ろうとしていた時、電話が鳴った。輪島からだった。

「日高君との約束の話を聞きました。明日会いましょう。」

石橋会長は無言で親指を立てた。

一週間後、日高は週刊誌を抱えて来店した。頁をめくるとステージで歌う日高と輪島のツーショットが載っていた。
                                                 【山本晁重朗】

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