"チャンピオン"日誌[あの日あの時あの人]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。19年2月より、新たに、「あの日あの時あの人」シリーズを開始。

 早朝、電話のベルで起こされた。

「アーユーOK、ダイジョウブカ!シンパイデス」

それは東日本大震災があった翌日だった。たどたどしい日本語なので、サイモン・リュウだとすぐに分かった。香港からの久々に聞く声だった。

何十年前だったか忘れたが、丸ノ内線霞ヶ関のホームに立っていると、入って来る電車を指さして、「シンジュクステーションイクカ」と声をかけられた。振り向くと私と同年輩の青年が近づいて来た。風貌は日本人だが雰囲気が何となく違うので、英語で応対すると、香港からビジネスで来た中国人だった。車中で新宿に行く目的を聞くと、「サクラカメラ店にキャノンを買いに行く」と英語で答えた。

「そのカメラ店は新宿の何処にあるのか」と聞くと、「知らないが新宿に行けば分かる」と友人に言われたそうだ。私は驚いた。有名店なら誰かに聞けば分かるが、彼はその店の住所も電話番号も知らないのだ。私は乗り掛かった舟だと思い、「よし、私が探してあげる」と言ってしまった。二人で街に出た。駅前の交番で聞くと、店はすぐに見つかったが、店長が不在で、一時間後に来てくれと言われた。仕方なく近くの喫茶店に入った。

中国人はバックからメモ用紙とボールペンを取り出し、漢字で筆談をしようと言うのだ。それは私の英会話力が乏しいからだろう。時々読めない漢字が出てくると、彼は英語で補ってくれた。そしてお互いに自己紹介が出来たのだった。彼の名前はサイモン・リュウ、歳は私と同じだった。メモ用紙にはキャッシー航空の社員、仕事で一週間、東京に滞在と書いてあった。一時間後、カメラ店に行くと店長は帰って来ていたが、サイモン氏との遣り取りが巧くゆかなかったのか、カメラを買うことが出来なかった。落胆している彼が気の毒になり、チャンピオンに連れて行くことにした。

その夜の一番目の客はサイモン氏になった。次々と常連客が来店したので、サイモン氏を紹介した。彼らは英語をしゃべる中国人に興味を持ち、英語で話しかけた。サイモン氏はスイスに二年間留学し、英語を勉強しているだけあって、アクセントがきれい。そして相手のレベルに合せて、スローリ、アンド、クリアリイで応対している。

一週間の滞在中、毎晩七時に食事をしに来てくれた。アルコールはあまり飲まないが、友達になってしまった常連との会話を楽しんでいた。

いつもカウンターの奥の席でいる吉永氏は外資系の会社に勤めている。サイモン氏達の会話がこじれたり、行詰ったりすると何気なく通訳をしてくれた。サイモン氏と対等に話せるのは彼だけだった。私はそんな吉永氏が羨ましかった。

サイモン氏が帰国してから一週間後、吉永氏が「私の部下です」と言って、若いイギリス人を連れて来た。

「デビットは来日したばかりで、日本語が話せないので頼みます。」

彼は近くのアパートに住んでいるので、時々顔を見せた。ある時、デビットに、「英語と日本語の会話の交換勉強をしないか」と提案すると、喜んで応じてくれた。毎週日曜日の午後一時から二時間、私の家ですることにした。数カ月後、その成果を試すチャンスがきた。デビットが、店に何回か連れて来た友人の若いカップルが来週、シンガポールで、ウェディングパーティーを挙行するので、招待すると言うのだ。スピーチも頼まれた。早速英語で原稿を書き、それを読み返し、暗記した。

当日、シンガポールのエアポートにデビットが迎えに来てくれた。英国スタイルの式が終り、パーティーになった。招待客は五十人ぐらい。英国人、米国人、シンガポール人で日本人は私だけ。新郎新婦の親しい友人たちが次々とスピーチをする。欧米人はジョークが大好きだ、笑いと拍手で盛り上がる。

司会者から、「本日のスペシャルゲスト、ヒーイズ、フロムジャパン!」と紹介され、マイクを持たされた。

「私は日本の代表で来ました。まず総理大臣からのメッセージがあります。総理はひと言『アーユーゲンキ?』」とジョークを言うと、それが受けたので、笑い声がもれる。日本での彼らとの出会いと月並みのお祝いの言葉を述べてから、新婦にボクシングのグローブを差し出した。そして、「これは貴女がダーリンとケンカをする時に使って下さい。パンチの打ち方は、このパーティーの後に教えます」と言った。しばし大爆笑と拍手が続いた。それが終わるのを待って、新郎にボクシング雑誌を渡した。表紙には〝ワールドボクシング〟と英語で書いてある。「そこにパンチのよけ方が書いてあるので、ベッドに入る前に読んで下さい」と言うと、再び笑いと拍手。新郎が雑誌を受け取り、ページをめくり叫んだ。

オーノー私は日本語が読めない!」                   _AC_US160_[1]

その時、デビットの声が聞こえた。

「ちょうさん!やったね」

日本語だった。

【山本晁重朗】


 あるテレビ局の番組で、池上彰が1990年2月11日に東京ドームで挙行された世界ヘビー級タイトルマッチにまつわるエピソードを披露した。2月11日は私の誕生日なので、その日のことは良く覚えている。

 常連客にスポーツライターの藤島大氏がいる。彼が書くコラムに“いつもの酒場”が時々登場する。そこは、洋食店兼酒場の“チャンピオン”であると。その藤島氏が世界ヘビー級のタイトルマッチのチケットをくれた。マイク・タイソンにジェームス・ダグラスが挑む試合だった。

 チケットは二枚ある。カウンターの席で飲んでいる六人の中から誰を誘おうかと迷っていた。ドアが開き、「ごぶさたしました」と言いながら、ジョナサンが入って来た。彼は日本に二十年も住んでいるので、日本語はペラペラ。

「昨日までロンドンの実家に居たのです。」

それを聞いた世界情勢の話が好きな咲谷氏が、「ロンドンに居たのですか、それではロンドンから見た東京はどうですか?」と質問した。ジョナサンは両手で目を隠しながら、「私は目が悪いのでパリまでしか見えませんでした」と答えた。爆笑!質問した咲谷氏だけがキョトンとしていた。私はその時、ジョナサンを誘うことに決めた。

当日、東京ドームの入口でジョナサンと待ち合せた。ドームの中に入るのは初めて、五万人収容出来る会場だけあって広い。中央にあるリングが小さく見えた。貰ったチケットは六万円の席なので、かなり前の方かと思っていたら、リングから20メートルぐらい後方の席だった。

「ここからではよく見えない、今からジプシーウォッチャーをするぞ」と言うと、ジョナサンは怪訝な顔をしている。

「フォロー ミー」

まだ、前座試合が始まっていないので空席が目立つ。手始めにリングから後方10メートルぐらいの所にある空席を選んだ。二人で座っていると、間もなく中年の男性が二人、チケットを見ながら近づいてきた。私は、すくっと立ち上がり、「何番を、お探しですか?」と聞いた。

Hの21と22番です。

「その席ならここです」と指をさすと、座りながら「ありがとう」と礼を言われた。広い会場で自分の席を探すのは容易ではないのだ。

「次はあそこだ、前から七番目」

そこでも同じことをして次の席を探した。「これが、ジプシーウォッチャーだ」と言うと、「サンキューと言って握手する人もいました。これはジプシーガイドですよ」と、ジョナサンは楽しそう。

そうこうしているうちに、前座試合が始った。

「さあ、これから我々の席を決めなくては」と言って、リングサイドの最前列の中央に目を付けた。試合が始まっているのに空席が二つあったからだ。

「あそこが穴場だ、行こう。」

前座試合が終わっても、そこには誰も来なかった。ジョナサンは親指を立て「ラッキー」。

私の右側に、三、四人の外国人が居た。彼らは、ファイトしている選手に野次を飛ばしたり、ビールを飲みながら大声ではしゃいでいる。ここが空席だった原因は彼らの存在かも知れない。ジョナサンの耳元で、「あの人たちは、どこの国の人?」と聞くと、「あのマナーの悪い連中は、アメリカ人です」と、イギリス人は冷ややかにつぶやいた。メインイベントのゴングが鳴ると彼らの声は更に大きくなり、タイソンがダウンした時は、中央に居た男が立ち上がり、腕を振り回して怒鳴っていた。11bこのシーンをあのテレビ番組で、池上彰が思い出させてくれたのだ。それは、池上彰がエピソードの中で、「四十三歳のトランプがタイソンの試合をリングサイドで観戦していたのです」と言ったからである。

私は即座、ジョナサンのケイタイに「あの時、金髪の大男がいたでしょう。大声で怒鳴っていた」と言うと、「そう言われてみれば、あの男がトランプだ!私たちはトランプと同じリングサイドに居たんだ。明日、会社で話題にします、今夜は眠れない!」と興奮していた。

その指で、すぐに『ボクシングビート』誌の元編集長のナンバーをプッシュした。前田氏に話すと、驚くと思ったが、素っ気なかった。

「トランプはボクシングのプロモートもしていたんだ。そんなことはボクシング関係者なら誰でも知っているよ。エッ、知らなかったの。」

ショック、私も今夜は眠れない!

                                      【山本晁重朗】

 閑静な住宅街の一角に古ぼけた小さな店があった。八人座ると満席になるバーだった。そこを居抜きで借り、深夜飲食店にした。  
 オープンしたのは二七歳の誕生日だった。白いプラスティックの置き看板に“チャンピオン”と赤字で大きく、その右側に黒字で小さく“野郎の店”そして、左側に“女性歓迎”と書いた。 薄暗かった店内を明るくして、正面にある食器棚の上に来客が目を惹くように奇妙な物を置いてみた。古びた片方のハイヒール、板に刺した錆びたナイフ、歯の磨り減った片方の下駄などである。それらはゴミ捨場から拾ってきたものだ。初めての客は、「あれは何ですか?」と聞くだろう。それを待っていて答えるのが狙いだ。
 「あのハイヒールは越路吹雪がラストダンスの時に履いた靴、ナイフは裕次郎が砂山で見つけたジャックナイフ、そして、NHKの天気予報士が使っていた下駄」と。そんなギャグが気に入ってくれた人が常連客になった。
 次に何か良いアイディアはないものだろうかと考えていると、中年のサラリーマンが二人、入ってきた。彼らはハイボールを飲みながら、「この店は場所が悪いので長続きしないんだよね」と、顔を見合わせ、「この前の経営者は若いママだったけど、三ヶ月で、その前の色っぽいおばさんも頑張っていたけど四ヶ月でギブアップしたよ」と、空席をチラッと見て、「この店は何ヶ月持つだろうか」と二人は私に聞こえるように話している。それはこのところ若い女性や、カップルが来るようになり、ちょっと気をよくしている私への戒めだろうか。champion[1] 
 翌日、店の近くにある銭湯にポスターを貼りに行った。キャッチフレーズは、“湯上りにぐっと飲みたやビールかな”だった。数日後、「マスターの川柳につられて飲みに来ちゃった」と、セールスマン風のキザな男が入って来た。ビールを注文して「このビールは良く冷えていてうまい!如何ですか」と、三人で飲んでいる常連に声をかけ、ビールを振る舞い、かれこれ二、三時間談笑していた。「おあいそ」と言われたので、飲食代を請求すると、財布の中を覗いて「あっ、お金が無い、ここに来る前の店で全部使っちゃたんだ、まだあると思っていた、ごめん!つけといてくれ、明日持って来るから。オレは通称ヌマさんだ」と言われ困惑した。初めて来たこの酔っぱらいを信用出来るだろうか。そこで、彼が盛んに自慢をしていたイタリア製の靴を片方脱がして、「これを明日まで預かります」と言い、嫌がるヌマさんに、“天気予報士”の下駄を履かせ、帰ってもらった。 
 次の日、ヌマさんが顔を見せたのは、深夜一時を過ぎていた。「ジャンのママを連れて来たよ」と、中年の女性を紹介してくれた。八千草薫を彷彿とさせる美人だった。ジャンは、そのママと可愛いホステスが二人いるバーで、この界隈では一番繁盛している。カウンターとテーブル、小さなフロアがあって、チークダンスが踊れる。ツイストが流行っていたので、若い客も多かった。ママがいきなり「マスターはボクサーだったの?」と目を輝かせた。流石プロだ、目の付け所が違う。薄暗い片隅にそっと吊るしてある六オンスのグローブを見付けたのだ。 「時々、酔っ払った客同士がケンカをするので困っているのです」と言われ、「そんな時は電話を下さい、すぐお店に飛んで行きますから」とつい、言ってしまった。
 数日後、ジャンのママから電話があった。
 「今、背中に入れ墨をした男が暴れているのです、すぐ来て下さい!」
 社交辞令で言ったのに本気にされてしまった。どうしよう、やくざは恐い。そっと覗きに行って、その状況を駅前の交番に知らせれば良いのだと思い、店に入ってみた。中は騒然としていて、慎太郎刈りの若い男が、カウンターの上で仁王立ちになり、ビール瓶を振り回し、大声でわめいている。片肌脱いだ背中の唐獅子牡丹が艶やかで、まるで東映映画のヒーローだ。ほぼ満席の客たちも立ち上がって野次馬となり、一緒に騒いでいる。これは営業妨害だ。近づいて若者の顔を見て驚いた。その男は私がガキ大将だった時のライバルのコーチャンではないか。浩二は子供の頃からやくざに憧れていた。まさか、ここで会うとは。私は咄嗟に怒鳴った。
 「お前、そこで何をしているんだ、やめろ!」
 浩二は私をじっと見て、「やばい!チャンピオンのマスターだ!相手が悪いや、マスターの顔を立てて、ここから降りる」と言って、人を掻き分けて外に出ていった。外にはパトカーが止っている。誰かが通報したのだろう。私と浩二が幼馴染だったのを知らない客たちは、「チャンピオンのマスターは凄い!」「カッコウイイ!」と、私を取り囲んだ。それが風評になり界隈に流れた。
 一週間後、店を開けると同時に浩二が入って来た。「こないだは声を掛けてくれて、ありがとう。酔った勢いでカウンターに上がったのだが、あんな騒ぎになってしまったので引っ込みがつかなくなっていた」と、頭を下げカウンターの上に何か置いて素早く出て行った。それは新聞紙に包んだ赤ワインのボトルだった。新聞紙を広げると紙面にバレーボールの試合の写真と東洋の魔女の活字が大きく載っていた。         [山本晁重朗]

 WBA世界ミドル級タイトルマッチの微妙な判定と、試合後に村田諒太が「結果は結果、試合の内容は第三者が判断すること、僕自身、勝っていたとか、負けていたとか言いたくない」と、スピーチしたのが気にかかり、親しくしていただいている作家・安部譲二氏の見識を伺ってみた。安倍氏から手紙と彼の著書『ファイナル・ラウンド』が贈られてきた。
 手紙には、「村田はまだアマチュアで、プロボクサーではないと思います」と。その後に、アマチュアボクシングのルールと、アマのボクサーの戦い方が詳細に書いてあった。読んで、アマとプロのボクシングの違いを再確認した。
 深夜、TVで偶然、村田のインタビュー番組を見た。対談を聞いていると、村田のボクシングに対する心境が、筆者なりに解かった。村田の目標はアマチュアの頂点のゴールドメダリストだった。プロボクサーにはなりたくなかったと思える。ところが、高額の契約金で、説得されてしまったのだろうか。
 プロのデビュー戦は、東洋太平洋ミドル級王者・柴田明雄だった。柴田を2R右ストレート一発でKO!これはいけると期待した。その後、十一戦して全勝、八度のKO勝ちがあったが、なぜかレフリーに右手を上げられた時の村田の表情が、あまり嬉しそうに見えなかった。
 それは顔面にパンチが当った時と当てられた時の衝撃、ボディを打たれた時の苦痛を知りつくしている村田にしてみれば、対戦者があまりにも呆気なく倒れてしまうからだろうか。『ボクシング・ビート 7月号』の“KOトーク”で尾崎恵一氏は、微妙な判定で亀田興毅がランダエタに勝ってチャンピンオンになったことに触れていたが、村田は亀田のようなかたちで造られたチャンピオンにはなりたくなかったのだろう。
 そのように思うと、スホーツマンシップと村田の真面目な性格が、世界戦で、中途半端なファイトをしてしまったのは頷ける。
 インタビュー番組で、「再戦するでしょう?今度はKOで勝ちますね?」と突っ込まれ、村田は「その質問に答えるのが一番〝苦手〟なのです」と消極的であった。
 安倍氏の小説『ファイナル・ラウンド』は、学生時代にアマのボクサーだった男達が社会人になってからの人生と彼らのファイナル・ラウンドを描いている。村田のファイナル・ラウンドが気掛かりだ。

二〇一七年七月三〇日・記

※八月三日、再戦は一〇月二二日に決まったと発表されたが。            [ 山本晁重朗]

 会場は騒然としている。リング上で敗者が、マイクを持った。
 『結果は結果。試合内容は第三者が判断すること。僕自身、勝っていたとか、負けていたとか言いたくない』
この言葉は、ボクサー・村田諒太のポリシーだと思った。ミドル級のウエイトは平均的日本人の体型にむいていない。現在、日本に十一人の世界チャンピオンがいるが、軽量級の選手ばかりだ。二十二年前に竹原慎二がWBA世界ミドル級チャンピオンのホルヘ・カストロを判定で下す快挙があったが、一度も防衛は出来なかった。
 アメリカにフォアマン方式というのがある。ジョージ・フォアマンのマネージャーが考案したシステムで、まずは必ず倒せる相手を選び、徐々に上位のボクサーとグローブを交え、無敗で頂点に立たせ、世界チャンピオンに挑む方式である。タイソンは、その方式だったという。村田はデビュー戦に東洋チャンピオンの柴田明雄を選び、KOで下し、フォアマン方式で次々と対戦者をKOで葬り、世界に挑んだ。同門の浜田剛史(現・帝拳プロモーション代表)も、このシステムで世界のベルトを手にしたのではないか。
 村田はデビューしてから四年になる。プロモーターは、強豪ひしめくチャンピオン達の中から、やっと村田と噛み合う相手を見つけ、世界戦が決った。空位のタイトル決定戦の相手は一位のアッサン・エンダムだ。エンダムの戦績とプロフィルを見ると、二位の村田に勝機ありと予想はできた。
 五月二十日、ゴングが鳴った。エンダムはフットワークに乗ってパンチを打つスピーディな選手だった。村田はガードをしっかりと固めて応戦。四回に右ストレートで強烈なダウンを奪い、五回、六回、七回とエンダムをぐらつかせ、主導権を握り、これで勝負は決まったかに見えた。だがその後の村田はジャブを打たず、右ストレートに頼る消極的なファイトになってしまった。エンダムは依然と手数は多いが、村田のガードの上を打っているだけで、クリーンヒットはなかった。終了のゴングが鳴った時、ふと四十九年前の桜井孝雄が、ライオネル・ローズに挑戦した世界バンタム級タイトルマッチを思い出した。桜井は前半にダウンを奪い、ポイントを取っているので勝利を確信し、後半は、そのポイントを守る逃げのファイトをした。ところが、その作戦が裏目に出て判定負けをしている。まさか?村田も同じようなファイトをしたのではないかと、かんぐる。皮肉にもそれが金メダリストのジングスなのかとも。
 後日、WBAのメンドーサ会長は試合を検証し、判定のあやまちを認め、エンダムとの再戦を決めた。
村田は、『試合の内容は第三者が判断すること』ときれいごとを言っているが、勝敗を決めるのは第三者でも、ジャッジでもない!
 己の二つのこぶしとファイティングスピリッツである。

二〇一七年五月二十五日・記                                [ 山本晁重朗]

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