ある夜、松田氏が私の前に立ち、店内を見まわした。そして何も言わずに外に出て行った。数十分後に店にもどり、「晁さんこの店も開店してから何年になる?」と聞かれて、「二月の十一日で三年になります」と答えると、松田氏はうなずき「外から、この物件を見ると隣りの劇団アルスノヴァの事務所は使われていないようだね。この店と事務所は壁で仕切られているだけだから壁を取り外せば店は広げられるよ」と言われた。
 「私もそれを考えていたのです」

翌日、家主の承諾を得に行った。事が決れば話は早い。松田氏は建築会社の社長だ。一週間で店は改築された。カウンターはそのまま残して、四人掛けのテーブルを二台置き、今までの倍の十六席になった。〝スナックチャンピンオン〟の看板を外し、〝レストランチャンピオン〟の看板を掲げた。今までは酒のつまみ程度の料理しかメニューになかったが、これからは銀座のスエヒロ、九段会館の洋食部で修業した腕を発揮出来る。料理の種類を増やし、メニューも書いた。新装開店祝いのパーティーは常連客を招待した。店内ははち切れんばかりの熱気があり、「おめでとう」の声で盛り上がった。「テーブル席があるので、家族と来れる」と言う人が多かったが、「前の雰囲気が好きだったのに」と批判的な人も何人かいた。翌日から一週間ぐらいは常連客が、友人や家族を連れて来て食事をしていたが、新規の客は少なかった。私はこのままでは駄目だ、何とかしなくてはと思っているとパートナーの初子が、    「ポークカツとハンバーグの定食を出したら」とアイデアを提供、「よしやってみよう!」と私は早速、外に〝定食あります。ライス、スープ付、五百円〟の張り紙を出した。

 定食を注文する客は何人かいた。ある時、バーのマスターが店のホステスを連れて来店、定食を注文した。出された料理を見て、「定食に付くのはスープじゃない、みそ汁だよ」と言われ、ショックだった。当店は洋食屋なのだ、みそ汁を付けるのには抵抗があった。だが、客がそれを求めているのなら、出そう。そこで、洋食屋らしいみそ汁を作ろうと考え、みそ汁の〝実〟にトマト、キュウリ、生の玉ねぎを小さく切り、沸騰したみそ汁のお椀に浮かした。味噌の味にトマトの酸味が調和し、微妙な旨味を出している。私はこれぞ洋食のみそ汁だと思った。このみそ汁はバーのホステスの口コミでなどで評判になり、みそ汁だけ注文する客もいた。注意しなくてはならないのは、一人分ずつ作るので、ものすごく熱い!

 〝当店のみそ汁は熱いので、一気飲みはお断わり〟と張り紙をした。

 それを無視して粋がって飲んだ中年の男性が、熱さに耐えきれず、口から吐き出し、お椀を膝の上にひっくり返したことがあった。そして男の大事なところを火傷してしまった。

 ある夜、若い女性が定食を食べながら、「このみそ汁のことを記事に書いていいですか」と言うので、「どうぞ」と答えると、名刺をくれた。『週刊女性自身』のライターだった。その女性が一週間後、記事が載っている雑誌を持って来た。〝元プロボクサーのマスターと奥様のふたりで経営するチャンピオンのみそ汁は〟の見出しで、みそ汁にまつわるエピソードの記事であった。その二日後、スポーツ誌の記者が来て、いろいろと取材をしていった。後に、郵送してくれた月刊誌を読むと、みそ汁ではなく、元プロボクサーだった私に興味があったようだ。主役はみそ汁ではない!元プロボクサーの私になっていた。

 ともあれ、週刊誌の記事が宣伝となり、食事の客が増え、九時頃まで満席。その後が常連客の時間となり、深夜はバーのホステスが客と夜食をする店になり、それは正にスポーツライターの藤島大氏がコラムに書く〝洋食兼酒場〟になった。

 みそ汁でマスコミの波に乗ったチャンピオンはTVに出演した。私が半畳ぐらいしかない狭い調理場で仕事をしている動きはスピーディーでシャドウボクシングをしているみたいだと言われ、カメラはその姿を狙っている。ボクシングシューズを履いて下さいと注文をつけたTV局があり、店の外に出て、女子アナにシャドウボクシングを教えるシーンを撮っていたTV局もあった。そこまでくると、私の存在はピエロのようだ。そんなTVを見た若いボクシングファンたちが来店。彼らの要望で、〝青空ボクシングジム〟を始める破目になってしまった。私の住まいの近くに空き地があるので、そこを練習場にして、毎週日曜日の午後三時から二時間、指導をした。練習生になれる条件はチャンピオンの客。入門者は二人から始まり、六人になったところで締め切った。グローブはタイ在住の青島氏に頼んで送ってもらった。一年後、その中の三人が石橋ジム、大川ジム、ヨネクラジムに入門してプロボクサーになっている。後に、〝殴られ屋〟になった高橋君はその中の一人である。

 ある日、青空ジムを、格闘技専門誌〝Kマガジン〟が取材に来た。トレーニングシーンを写真入りで載せてくれた。その雑誌を読んだのか、フジTVが店に取材に来た。青空ジムの練習生の話を聞きたいと言うので、高橋君に来てもらった。彼は、奥さんと三歳の娘を連れて来た。女子アナの質問に、高橋君は、「青空ジムの練習が終わった後、ここで食べる料理が楽しみなのです。何を食べてもおいしいから」と言ったら、隣にいる奥さんが、「この店の料理はオリジナルで、よその店では食べられません、私はいつもチキンソテーです」と言った。近くにいた客がつぎつぎに「ボクはタイランドビーフ」、「私はバンコックポーク」、「スパゲッティのラーメン風のチャンピオンメンもうまい」と言って、料理談義になってしまった。これがきっかけとなり、TV局のスタジオで、私は料理を作ることになった。

 それは、五日後の日曜日、午前十時放映の料理番組であった。タイトルは、〝街のシェフが作る料理〟だったと思う。当日の朝七時にTV局の車が迎えに来ることになった。当店は深夜営業なので、三時に閉店して、後片付けをすると四時になる。TV局に行く準備をすると、すぐに七時になってしまう。そのままTV局に行けば、本番まで、二十時間以上も起きていることになるが「大丈夫なの」と、その時、初子が心配してくれて、「私があなたの助手としてついて行きます!」と気合を入れてくれた。

 私は、「よし頑張るぞ!」と言って、ファイティングポーズをとった。

 TV局から電話があり、調理の道具は一式揃っているので、料理をする材料だけ持って来て下さい、と指示された。だが、私はいつもの使い慣れたフライパンと包丁と菜箸を持って行くことにした。

 七時に迎えの車が店の前に止った。道具を持って、初子と車に乗ろうとすると、「助手はいりません」と断られてしまった。

 TV局に着くとスタジオに通された。そこには調理台とガス台があるこじんまりしたキッチンのセットがあった。ディレクターが「あなたの助手を務める永さんです」と若い女性を紹介してくれた。永六輔さんの娘さんだった。永さんに、「この番組は、ぶっつけ本番の生放映なので撮り直しはありません。よろしくお願いします。先週出演したシェフは緊張しすぎて、放映中に指を包丁で切ってしまいました。俎板が血だらけになり、スタッフが慌ててコマーシャルを流しました。山本さんは場慣れしているので心配はないと思いますが」と言われた。

その時、睡眠不足の私は、〝ドキッ〟とした。

TV局の料理番組を見ると、あらかじめ準備が出来ていて、スムーズに料理が仕上がっている。私の場合は異なっていた。永さんが「今日のシェフはチキンソテーとタイランドビーフの二品を作ります」と私を紹介すると、ゴングが鳴った。ガスに火を付けるところから始まり、フライパンを乗せ、鶏肉の骨を取り、肉を切り、塩胡椒をする、それをフライパンにのせる。私の横に立っている永さんが、いろいろと質問をしてくる。それに答えながら手を進めていく。出来上がった料理を調理台にある銀ぼんにのせ、「出来ました」と言うとゴングが鳴った。そこでコマーシャル。ディレクターが「すごい、ジャスト三分です。この調子で次の料理を作って下さい」と言った。

次の料理のタイランドビーフは、タイの香辛料トムヤムを使ったオリジナルである。これもゴングで終了した。

スタジオの中央にカウンターのセットがある。そこに料理通の知名人が三人いた。出来上がった料理が運ばれ、彼らは試食した。そして異口同音で「美味い」と誉めてくれた。その中の一人が「手さばきが良くて、動きにスピードがあるのには驚きました。それはボクサーだったからですか?」と質問されたので、「そうかもしれません。料理とボクシングが共通しているのは、センスとスピードです。従って、〝料理は瞬間芸術〟だと私は思っています」と答えた。

すると、永さんから「山本さんにとってボクシングとは何ですか?」と聞かれた。

「ボクシングは私の人生です」

スタッフに「おつかれさん」と肩をたたかれ、私の仕事は無事に終った。地下の駐車場で待っていた車に乗ると、行き成り睡魔に襲われた。

 

「チャンピオンです」と運転手に声をかけられ目を覚ますと店の前だった。  

                                      【山本晁重朗】