常連客たちは、親しくなるとニックネームで呼びあっている。彼らのニックネームを付ける発想がユニークである。下ネタ好きの職業訓練所の先生は、〝エッチラ〟、何時もしょぼくれている東大生は、〝ショボン〟、苗字が坂田なので、「王将」の坂田三吉から命名して、〝さんちゃん〟、フガっと鼻をならして笑うので、〝フガちゃん〟、おごられ上手のオールドミスは、〝パラサイト〟、馬ずらの居酒屋のママは、〝ハイセイコー〟、森を逆さにして、〝リーモ〟、刈屋を逆さにして、〝リヤカー〟、エトセトラ。

 バーのホステスなのに、何時もスッピンの紀子さんは、「私がお化粧すると、〝おばけ〟になっちゃうわよ」と謙遜したのが仇になり、〝ゾンビ〟とニックネームを付けられてしまった。中年のサラリーマンの有田恵二氏は名前が恵二なので、〝デカ長〟、本人は頗る気に入っている。

 ニックネームで呼ばれて怒ったのは、ソンビちゃんだけだった。困った私は彼女に、そっとメモ紙を渡した。それからはニックネームで呼ばれると、笑顔で返事をするようになった。メモ紙には、〝存美〟と書いたのだ。そんなことを知らないイギリス人のエロイズとカナダ人のローリイはゾンビちゃんと呼ぶのを躊躇している。それはホラー映画のゾンビを連想するからだと、言って肩をすぼめた。

 ある時、駅前広場で、有田氏を見かけた。「デカ長!」と声をかけると、立ち止まり、「おう」と返事をした。そこに通りかかった若い警察官二人が直立不動になり、有田氏に向かって敬礼をした。気が付いた有田氏は、あわてて、返礼をしている。私は笑いを堪えていた。

 あの時代は有線放送が、ブームだった。オフィスが店の近くにあった。そこの社長の三井氏は当店の常連である。新曲を売り込みに来た歌手を時々店に連れて来る。これまでに、ロミ・山田、じゅん&ネネ、千昌夫、田中健、TVで見かける歌手たちだった。ある夜、三井氏が二十歳ぐらいの若者を連れて来た。「今度、放送係になった片桐です。よろしく」と常連客に紹介した。

 カウンターの奥で酔いつぶれていた肉屋のタブさんが目を覚まし、片桐君を見て、「社長、今日はピーターを連れて来たのか?」とおやじギャグ。それを耳にした常連客はピーターをそのまま片桐君のニックネームにしてしまった。そこまでは良かったのだが、「社長、こんなガキを連れて来ないで、美空ひばりか越路吹雪を連れて来いよ」と絡んできた。私は見兼ねて、「タブさん、今日は帰って下さい」と言って、嫌がるタブさんを外に出した。そして、店に戻ろうとした時、背後に殺気を感じた。振り向くとタブさんは両手で、私の肩を掴もうとしている。彼の背丈は一八〇センチ、体重は一〇〇キロある。学生時代、アマチュア相撲のチャンピオンだったとうそぶいている。捕まったら投げ飛ばされる!私は咄嗟に彼の両腕を払い、その手で胸を突っぱねた。するとタブさんは、バランスを崩し、後ろにばったりと倒れ、後頭部をしこたま打ってしまった。その音を聞いた常連たちが店から飛び出して来た。誰かが叫んだ。「晁さん凄い!ヘビー級の男をノックアウトしてしまった。決めたパンチは右ストレートですか、左フックですか?」と大騒ぎ。私が「胸を押しただけ」と言っても、誰も信用してくれない。当のタブさんは白目をむいて倒れたまま、びくともしない。私は狼狽した。もし、死んでしまったら、目撃者は誰もいない。この状況では殺人容疑で逮捕されてしまう。その時、「晁さんゴメン」と小さな声がかすかに聞こえた。タブさんは生きていたのだ。静かに起きあがり、野次馬にも一礼すると、覚束無い足取りで歩き出した。私は胸をなでおろし、タブさんが釣り堀の角を曲るまで見送っていた。

 ある夜、中学生時代に同級生だった篠原君が初老の紳士を連れて来た。「ヤマチョーさん、中村先生です」と紹介された。私は先生が店に入って来た時に気が付いていた。精悍な眼光は変っていなかった。先生は、「ヤマチョー君、久しぶり」と言って会釈した。

 中村一氏は、阿佐谷中学の数学の教師だった。厳格な人で、「今の若者は覇気がない。私が叩き直してやる」が口癖だった。体罰の奨励者で、戦争映画に出てくる鬼軍曹を彷彿させた。私は授業中に漫画をノートに描いていたのを見つかり、ゲンコツを頭にもらったことがある。先生は学生を問わず、一番恐れられている存在だった。

 あの日あの時あの昼休み、クラスメイトに、漫画を黒板に描いてくれとせがまれた。彼らの注文通り手塚治虫のキャラクターをボードに描きまくった。そこに中村先生が入って来た。みんなは慌てて席に着いたが、私は黒板の前に立ちすくんでしまった。「誰だ、これを描いたのは!」と言って絵をじっと見つめている。消そうとすると、「このままでいい、今日は黒板を使わずに授業をする」。観念して下を向いている私をチラッと見ただけでお咎めは無かった。このエピソードは学年中に伝わった。その話を篠原君がすると、先生は、「今でもあの時のことは覚えています。上手な絵だった。あの漫画を見てヤマチョー君の将来が見えたと思った。だけど、漫画家にならなかったのですね」と言って絵を描くジェスチャーをした。そこに篠原君が口をはさんだ。

「あの事件は山本君よりも、あの情況で先生が取った言動が絶賛され、話題になったのです。そして生徒たちの先生を見る目が変わったのです。」

先生は、「そんなことがあったのですか」と、笑みを浮かべて、「今だから言えますが、山本君のニックネームは私が付けたのです。ヤマモトチョウジュウロウは、長すぎるので短くしてヤマチョーに」。

三人は、顔を見合せて笑った。

あの日は雨だった。コーヒーを飲みながらTVを見ていると、初子が、「晁さん、これを見て」と朝刊の見出しを指差した。記事には、東日本大震災による天井崩落事故で多数の死傷者を出し、閉館を余儀なくされた九段会館は、昭和九年に軍人会館として建設され、昭和十一年の二・二六事件では、戒厳令司令部が置かれたという歴史をもつ会館だ。戦後はGHQに接収され、昭和三十二年に日本政府に返還された。同年、政府は日本遺族会に無償で貸し付け、九段会館と命名して九月一日に再出発した。

従業員は特別な技術職を除き、戦没者遺族を採用した。営業部長、総務部長、経理部長等の重役は陸軍、海軍の元将校が勤め、平の従業員は復員兵、未亡人、遺児等であった。因みに激戦地硫黄島の生還者もいた。と、記載されている。

その会館に、私は先輩の紹介で洋食部の料理人として、採用されたのだった。初子は、それを思い出して、私に記事を見せたのだ。

開館初期は、全国にある遺族会の高齢者の方々が送迎バスで来館、靖国神社を参拝し、宿泊するホテルであった。宿泊者が使用する風呂場があり、午後八時を過ぎると従業員も入浴が出来た。ある晩、私が湯船につかっていると、五十代の男性が入ってきた。私に笑顔で接し、「どんな仕事をしているのですか?待遇はどう?」などと世間話をするように聞いてくる。洗い場に並んで坐したので、「おじさん、背中を流しましょう」と言うと、年齢を聞かれ、「二十歳です」と答えた。すると男性は、「その年なら戦争中は最前線で戦っている若者だ、そんな人に背中を流してもらえない」と断るので、「僕は毎日、調理場で俎板を洗っています。おじさんの背中も同じようなものです」と言い、手拭いで背中をこすった。

十月一日から結婚式場、劇場、宿泊施設など全館が営業を開始する。

その当日の早朝、大ホールに従業員三百二十人を集め、事務局長徳永正利の挨拶があった。その人は、あのおじさんではないか!翌日、局長室に風呂での無礼を謝罪に行った。局長は、「君は戦死した息子と同じ年なのです。裸の付き合いをした君を忘れない」と力強く手を握ってくれた。

それから二年後、徳永氏は遺族会の推薦で参院選に出馬した。私は五年間勤めた会館を退職し、数年後、結婚披露宴を、古巣の会館で催した。その時、大きな花束が届いた。贈り主は、国交大臣徳永正利であった。
                                       【山本晁重朗】