"チャンピオン"日誌[あの日あの時あの人]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。19年2月より、新たに、「あの日あの時あの人」シリーズを開始。

2018年03月

  ある夜のあの時は、珍しく客は一人も居なかった。パートナーの初子とテレビを観ていると、細身の中年女性が颯爽と入って来た。昔テレビで観たことのある顔だった。

「いらっしゃいませ」と言って、彼女と視線があった時に誰だか思い出した。
 
失礼ですが、ヨネヤマ・ママコさんではありませんか?」

すると、彼女は「良く分かったわね」と言いながら店の中を見わたしている。「この場所は私の寝室だったの、そしてこの裏のスタジオは私の稽古場だったのよ。結婚するのでここを出て行ったら、あの先生はここを改造してレストランにしたのね。このへんに事務所があったのだけど、今はお店の一部になってしまっている。もうあの頃の面影は何もないけど懐かしいわ」と、立ったまましゃべり続ける。

ヨネヤマ・ママコは、パントマイムの俳優だった。パントマイムは役者が身ぶりと表情だけで演じる無言劇で、フランス映画〝天井桟敷の人々〟のパントマイムが有名である。

ヨネヤマ・ママコはクレージーキャッツのテレビ番組のレギュラーで、植木等とからんで踊ったり、コントを演じたりしていた人気者であった。もちろん台詞は一言も無い。そんな彼女が、私の前で身ぶり手ぶりで、おしゃべりをしている!それは奇妙な光景であった。

そのことを、親しくしている有線放送の社長に話すと、「彼女はきっと自分を世に出して下さった恩師にお礼の挨拶に来たのでしょう。その帰りに、この店を覗いたのだと思う」と言って、社長はビールを飲み乾してから、続けて話してくれた。

「数カ月前にジーパン姿の若者がオフィスにデビュー曲を売り込みに来たのだが、この歌がヒットしたら必ずお礼の挨拶に来ますと言って、地酒の一升瓶を置いていった。その歌を毎晩有線に流してやったら、ヒットしちゃったよ。」

その歌は、〝星影のワルツ〟だった。

「あの若者は、今やテレビで歌っているけど、それっきりだ。有名になると、そんなことは忘れちゃうんだね。」

ある晩、店を開けるのを待っていたように、体格のよい青年が入って来た。常連客の誰かに紹介されたのだろう。青年は「私は歌手です。私の歌を聞いてください」と言ってカウンターに小型のテープレコーダーを置いた。「歌うならお客さんが大勢いる時の方が、いいんじゃない?」と言うと、青年は「マスターに聞いてもらいたいのです」と答え一礼して、「私の名前は日高正人です。デビュー曲の〝鹿児島の雨に濡れて〟を歌います」と言って、テープの伴奏を流し歌い始めた。ところが彼の声はマイクを通していないのに、レコードを聞いているような響きと雰囲気があった。私は即座に有線放送の社長を店に呼んだ。社長も日高を気に入り、「有線に流そう!リクエストが来るぞ」とエキサイト。

当時、日本テレビが全日本歌謡選手権という人気番組を放送していた。無名の歌手が出場し、厳しい審査を通過して十週勝ち抜くとチャンピオンになるシステムだった。この番組から五木ひろし、八代亜紀らが優勝してスターの座に就いている。日高は、この番組にチャレンジしたいと言うのだが、彼は鹿児島県から上京して建築会社に就職、自主制作でレコードを一曲出しただけなのだ。私はこの番組への挑戦は無謀に思えた。そこで、「君が優勝したら世界チャンピオンの輪島功一とステージで歌わせてやる」とハッパをかけた。輪島は二十八歳で世界王者になり、三度も同級王座に就いた努力の男、根性の男と称えられたボクサーである。試合後リングで、自分でレコーディングした〝炎の男〟を熱唱した人気者である。

奇跡か実力か、日高は優勝した。困った!私は輪島と面識がないのだ。考えた末、大先輩の元日本バンタム級チャンピオン石橋広次氏のジムに相談に行った。会長は快く引き受けてくれ、輪島のマネージャーに掛け合ってくれた。だが輪島は多忙と断られてしまった。がっくりして帰ろうとしていた時、電話が鳴った。輪島からだった。

「日高君との約束の話を聞きました。明日会いましょう。」

石橋会長は無言で親指を立てた。

一週間後、日高は週刊誌を抱えて来店した。頁をめくるとステージで歌う日高と輪島のツーショットが載っていた。
                                                 【山本晁重朗】

 〝大杉漣さん急死〟の新聞記事を見た。テレビでも放映された。六十六歳の死は、あまりにも早すぎる。新聞によれば、一九九〇年代に、北野武監督の映画『ソナチネ』、『キッズ・リターン』、『HANA- BI』などに出演していたとある。その頃、北野映画の助監督をしていた大崎章氏が、ある晩、「一緒に仕事をしている仲間です」と言って、三十代の役者を三人連れて来たことがあった。その中に大杉漣がいたと思ったのだ。ところが、妻の初子は、店に来たのは大杉漣ではなくて、石橋凌だと言うのだ。私の思い違いであろうか。
 私は東京オリンピック開催の年にこの店を開業してから、その日の出来事と来店した気になる人物の名前を日記帳に書き続けている。押入れの奥に年号順に重ねてある日記帳を取り出し、九〇年代のを、片っ端から読んでみると、確かに、その日に来たのは石橋凌であって、大杉漣ではなかった。
 古い日記を読むのも面白いことに気がつき、頁をめくると、現在一線で活躍している人の名前が次々と出て来た。スポーツライターの藤島大氏、二宮清純氏、評論家の川本三郎氏、映画監督の小林政広氏等である。そして十数年前のある事件を思い出した。
 暑い日だった。家に市川市所轄の刑事が二人来た。常連客の奏三郎の息子桂吾のアリバイの確認に来たのだ。去る四月二二日の夜、二十五歳の男性が殺害されたそうだ。被害者は札幌生まれで北大を卒業。東京都内の某会社に勤務、市川のアパートで一人暮らしをしていた。警察が被害者の経歴を調べていると容疑者に秦桂吾が浮かんだのだ。桂吾は神田生まれのチャキチャキの江戸っ子。なぜか北海道に行き北大に入学している。卒業すると東京に戻り出版社に就職して、市川駅の近くのアパートに一人で住んでいる。そのアパートの隣の部屋の住人が何者かに殺されたのである。被害者と桂吾は同年配であり、北大を卒業して上京したのも同時期だった。驚いたことに二人は札幌でも同じアパートに住んでいたのだった。そればかりかアパートの近くにある貸本屋の会員でもあった。ここまで二人の接点があるのに桂吾は、その男の顔を知らないし、話したこともないと供述している、と刑事は言う。
 それが事実ならば、あまりにも偶然過ぎないか、警察が桂吾を疑うのは当然である。
 「桂吾は四月二二日の夜、父とあなたの店に飲みに行ったと言っているのですが」と尋ねられ、私は「その日はボクシングを観に行ったので店は休みました」と即答した。
 刑事は「なぜその日を覚えているのですか」と聞くので、「私が教えた選手の応援に行ったからです」と答えた。刑事二人は顔を見合わせ頷き、立ち上がりかけた時、「一応、日記を確かめてみます」と言って日記帳を持って来た。そして、その日の頁を読んだ。
 「試合は昼間だったので、夜、店を開けた。秦親子が最初の客だった」と記してあった。刑事は愕然として日記帳を凝視していた。
 翌日、秦桂吾から電話があった。
 「ありがとう!」
 声が弾んでいた。
                                       【山本晁重朗】

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