スポーツ新聞に、〝東洋太平洋(OPBF)ライト級のタイトルマッチ〟の記事(平成四年五月十一日・後楽園ホール)が大きく一面に載っていた。王者大友巌にグッシー・ナザロフが挑むのだ。大友選手は日本ライト級タイトルを九回防衛、平成元年には同級OPBFの王座を獲得し、五回防衛している。挑戦者のナザロフは、ペレストロイカの波に乗って、アントニオ猪木がロシアから連れて来たアマチュア世界選手権銅メダリストの実力者だ。私は大友とナザロフの試合は殆ど観ている。両選手のKO率は八割。大友のパワーとタフネス、ナザロフのハイテクニックが激突する壮絶なファイトになると予想し、常連客にアピールした。店内の目立つ所に両選手のファイティングポーズのポスターも貼った。

観戦希望者の人数が決まると、プロモーターの大川氏に電話をして三千円の自由席のチケットを郵送してもらっている。今回もチケットの枚数を依頼すると、大川氏は「いつも大友の応援をしてくれているので、五千円の指定席を三千円にします」と言ってくれた。その影響もあったのか、ボクシングファンではない一般客の参加者も多かった。ロシア人のボクサーに興味があったのだろうか。

当日五時に後楽園ホールに行った。入口の近くにある売店の横で、大川氏が、招待客に挨拶をしていた。声をかけて、十四万一千円入った封筒を手渡した。「四七人分のお金が入っています」と言うと、大川氏は「そうですか、それでは大友選手に激励賞を出して下さい、幾らでもいいですから」と言うので驚いた。私はチケットを安くしてもらったが、四七枚も買っている。〝ありがとう〟も言わず、激励賞を出せとは、この人は何を考えているのだろうか。そして私の眼の前に祝儀袋を出し、「袋の表には自分の店の名前を書きなさい」と言って、ホールの方に行ってしまった。納得がいかなかったが、袋に千円札(激励賞の相場は一万円から三万円)を入れ、リングサイドの係の人に渡した。

会場は超満員だった。北側の指定席に行くと、咲谷氏が「晁さんここだよ!」と声をかけてくれた。席に着き、周囲を見渡すと、番号が続いている指定席なので、その一角にはチャンピオンの客の顔が並んでいた。売店で売っている紙コップの生ビールを飲んでいる人、持参したワインを隣の席の人と交わしている人も居て、和気あいあいの雰囲気だった。

八時分、ゴングの音が場内に響き渡り、両選手がリングに入場した。リングアナウンサーが、「試合に先立ちまして、大友選手への激励賞があります」と言って、十枚くらいあるある祝儀袋の名前を、次々と読み上げた。「株式会社東芝さま」の後だった。「アサガヤのチャンピオンフレンド会一同さま!」と読み上げた。誰かが叫んだ。

「おい!オレ達のチャンピオンフレンド会がアナウンスされたぞ!

彼等にしてみればサプライズだった。一斉に立ち上がり気勢をあげた。それに気づいたリング上の大友選手が私たちを見て、右のグローブを力強く突き上げた。私はその〝瞬間〟、そのグローブで顎を撃ち貫かれたようなショックを受け、〝激励賞〟の謎が解けた!大川氏はここまで読んでいたか!

二次会の店は、オデオン座の裏にある大衆割烹和田屋の二階に決まっている。座敷なので詰めて座れば三十人は入れる。試合が終わった時点で帰ってしまった人もいる。阿佐ヶ谷まで来た人は四十名ぐらいだった。大友は残念ながら判定で負けてしまったので咲谷氏の音頭は献杯だった。部屋の中に入りきれず階段にいる四人も〝ケンパイ〟と声を上げた。飲みながら大友選手のファイトについてディスカッションで騒いでいる仲間に、ストップをかけたのは咲谷氏だった。

「この機会にフレンド会の役員を決めよう、会計係は私がやります。晁さんは会員名簿を作って下さい。そして会長を選びましょう。」

初代の会長は松田氏が選ばれた。松田氏は建築会社の社長。威張らない、気取らないをモットーとする好人物で、当店の人気者だ。ある時、飲み疲れて寝ている若者に、「今夜はオレのところに泊まっていけ」と言って、揺り起こし、その男の連れの二人にも、「君たちも来い」と三人連れて帰った。数日後、その若者の一人が来店し、「目が覚めたらボクシングジムのリングの中で寝ていたんだ。びっくりした」と頭をかいた。松田氏は石橋ボクシングジムの会長の義兄だった。面倒見が良すぎるのが玉に傷である。

名簿を作るのに常連客の名刺と住所を書いたメモ紙などを整理していると、銀行の名刺が四枚も出て来た。銀行名は異なるが彼らに共通しているものがあった。彼らには格闘技のキャリアがあったのだ。空手、柔道、合気道、剣道の有段者だった。その中で一番若い岡崎君に、「もし強盗が店に入って来たらどうする」と聞くと、「その時は私の得意の右の廻し蹴りでKOですよ」と言ってから、声を小さくして話してくれた。

「実は、三カ月前に私が営業で外出している時に、仮面のピストル強盗が店に入ったのです。五百万を盗られました。私が居合わせなかったのが残念です。ところが犯人は防犯カメラに写っていたので、一週間後に逮捕されました。警察が犯人の部屋を家宅捜査をしましたらウチの銀行の預金通帳が出てきたのです。それを見ると犯人は犯行の次の日から五百万円を五回に分けて預金をしているのが記帳されていたのです。びっくりしました。」

そして、「取調べには黙秘しているので、犯行の動機と目的が分からないのです」と、岡崎君は首をかしげていた。

ある夜、吉永氏が、「こないだ行った秋川渓谷のアルバムを見せて」と言うので、フレンド会の企画で秋川渓谷に水遊びに行ったアルバムを見せた。吉永氏はビールを飲みながら楽しそうにページをめくっていたが、ふと、その手が止った。「晁さん、この集合写真を見て」と言われたので覗いてみると、水辺に水着姿の老若男女と子供たちの楽しそうな笑顔が写っている。吉永氏は四十人くらい居るその中から一人の男に指を差した。見ると、その人はR銀行融資課課長の矢吹氏だった。

「この男は、いやな奴だ!みんながバーベキューに使う道具や、ござなどを水辺に運んでいるのに、ジャケットを着たまま見ているだけ、何も手伝わない、いい年をしていて何様だと思っているんだ!」

吉永氏は言いながら怒っていた。

その時より、二年前の夏 ―――

矢吹氏は一週間ぐらい姿を見せていなかった。R銀行に電話をすると、「矢吹は、四日前に交通事故に遭い河北病院に入院しています」と事務的に言われた。河北病院は店から徒歩十分。見舞いに行くと、矢吹氏は一人部屋に居た。浴衣を着て、ベッドに腰かけている。笑顔で迎えてくれたので、「心配しました。腕の一本や二本折れたのかと思ったのに、元気そうですね」と言うと、「その腕が一本無くなったのだよ」と言って、左側の袖をまくった。そこには腕が無かったのだ。

「えっ!どうしたのですか?」と、顔を見ると矢吹氏は、「気が付いたら病院のベッドに寝ていたんだ」と言って、新聞を見せて、「これを兄が持って来てくれたんだ」と手渡された。読んでみると、二十時十分中野駅に入って来た電車の前にホームから男が飛び降り、十メートル引きずられ電車は停車位置に止まった。〝自殺か?〟

「人身事故になっていますが、真相はどうなんですか?」と聞くと、「あの夜は、銀行の顧客と駅前の居酒屋でちょっと飲んで、九時にその店を出たんだ。酔っぱらってはいなかったし、どうしてホームから飛び降りたのか分からないんだ」と深刻な表情になった。「誰かに押されたのでは」と言うと、「そうかな?」と言って目を閉じ、首をひねった。私の帰り際に「義手を付けることになるよ」と言って左腕があったところを指差した。

この事故を吉永氏は知らなかったのだ。「そうだったのか、オレは矢吹さんに悪いことをしてしまった。すぐにでも謝りたい」と言うので、私は「電話をしましょうか、謝るのなら早い方がいい」と言って、十時は過ぎていたが矢吹氏に電話をした。すると矢吹氏は、「これから店に行く」と言って電話を切った。二十分後に矢吹氏は店に現われた。吉永氏は立ち上がり、「知らなかったとはいえ、私の無礼をお許しください」と頭を下げると、矢吹氏は、「とんでもない、私の方が〝ありがとう〟と言いたいのです」と答え、亞然とする吉永氏に、「私は病院の帰りに電車に乗った時、五歳くらいの男の子に、『お母さん、あの人の手が変だよ、ロボットみたい!』と言われ、ショックだった。そばにいた人たちも私の義手を見ていた。あんな恥ずかしい思いは二度としたくない、あれ以来、義手を隠すようになったのです。あの秋川でも隠していたのですが、何人かに気付かれました。ところが、吉永さんは私を五体満足の人間として見てくださいました。だから何も手伝わない私を厳しい目で見ていましたね、それが私は嬉しいのです」と言って、右手を差し出した。吉永氏は小さく頷き、一礼して、その手をしっかりと両手で握った。

暑い夜だった。
                                       【山本晁重朗】