夕方五時から一時間、雨の日も風の日も、散歩をする。コースも決っている。我が家を出ると、元、〝チャンピオン〟があった店の前を通り、商店街のパールセンターから青梅街道に出て、成田東にある善福寺川公園まで行く。

ある日、元、〝チャンピオン〟があった店の前にさしかかった時、黒のスポーツウェアーを着たスタイルのいい青年が、ウロウロしていた。不審に思い、近づいてみると、見覚えるのある顔だった。「失礼ですが、山中慎介さんでは?」と声をかけると、青年は立ち止まり、「はい、そうです。ここで待ち合わせをしているのです」と、目の前にある新築のビルを指差して、「確か、ここにチャンピオンがありましたね」と言うので、「その店は、十一年前にビルが老朽化してしまったので、止むを得ず閉店しました。四十三年間も営業していたのですが」と説明した。山中氏は、「チャンピオンのこと、詳しいですね。貴方も常連客だったのですか?」と言われたので、「いいえ、私はオーナーだったのです」と答えた。

「えっ、そうなんですか、私は学生時代、阿佐ヶ谷に四年間住んでいたので、何回か店に行きました。」

「そうでしたか。」

二人の会話は続いた。

山中慎介は元WBC世界バンタム級のチャンピオンである。山中のパンチには、〝神の手〟、〝ゴッドハンド〟の代名詞がある。左の一発で相手を倒すパワーがあるのでKOアーティストとも言われていた。当時、日本には十一
人も世界チャンピオンがいたが、その中で、一番人気があった。山中は世界バンタム級のタイトルを、連続十二回防衛(八KO)している。しかし、十三回目の防衛戦はルイス・ネリーに、四ラウンドTKOで敗れてしまった。半年後、同選手と再戦するが、二ラウンドでTKO負け(ネリーは体重超過でタイトル剥奪)。

平成三十年三月二十六日に三十五歳にして引退した。彼と私が、対話しているのは、その一カ月後の四月二十六日である。三十一戦の戦績があるのに傷一つない端正な顔立ちは、ボクサーには見えなかったのか、道路の真ん中で立ち話をしているのに、行き来している人たちは気が付かなかったようだ。私は、「ここで山中さんに会えたのも何かの縁ですね」と言って、石橋ボクシングジム・トレーナーの名刺を渡して別れた。

散歩が終り家に着いた時、携帯が鳴った。橋本昌子さんからだった。

「さっき、元のお店の前で立ち話をしていたでしょう。あの人、山中慎介じゃない?何の話をしていたの。」

彼女は流石、ボクシング関係者だ。気が付いていたのだ。橋本さんは女子ボクシングの世話役をしている。

「再戦一ラウンドに擦ったようなパンチで、山中さんがダウンしたのは、半年前、TKO負けした時のダメージが残っていたから倒れたのではないですか?と率直に聞いたのですが、否定されました。」

私が、そう言うと、彼女は、「そうですか。でも、TKOで負けたあの試合は、まともに強打を浴びていたので、かなりのダメージはあったと思う」と強調し、わたしと同じ見識だった。私がなぜ、山中氏にそんな質問をしたのか、後日、彼女と会って話した。

フレンド会の会計係の咲谷達夫は元プロボクサーだった。十七歳でデビューし、昭和三十二年、第十四回ライト級新人王になり、僅か六戦目に、同級日本チャンピオン小林秀人とノンタイトルで対戦、引き分けて、一躍、四位にランクされた新星だった。

その後、日本ライト級挑戦者決定戦で二位の金田森男(後に、ミドル級チャンピオン)と対戦することが決まり、ハードなトレーニングに入った。咲谷は一階級上のウェルター級の選手とスパーリング中に、右ストレートをまともに顎に受けて、ダウン、そのまま意識を失い、KOされたのと同じ状態になってしまった。JBCでは、試合でKOされたボクサーは、九十日間の出場停止になる。それは選手のダメージの回復をはかるための最小限必要な期間である。咲谷の試合は十日後だ。菊地トレーナーは困惑したが、意識を取り戻し咲谷の強い意志に押され、会長にアクシデントを隠して出場させた。

咲谷は先制攻撃で、金田をコーナーに追い込み、滅多打ち。これで勝負は決まったと、誰もが思った。その時、苦し紛れに振り回した金田の右が、咲谷の顎を擦すった。効いているパンチではない!だが、咲谷はダウン、そのままキャンバスに大の字で寝てしまった。レフリーはカウントをせず、両腕を大きく左右に振った。KO負けである。気を失っている咲谷はセコンドに抱えられ控室のベンチに寝かされた。三十分後、ドクターが再び診察に来た。

「大丈夫です。このまま、しばらく寝かせておいて下さい」と言って控室を出ると、入れ替りに、レフリーの手崎弘行が入って来た。意識不明の咲谷を見て、「私が起します」と言うと、姿勢を正し、かん高い声で、カウントを始めた。

「ワン、ツー、スリー!」

この声に反応して、咲谷の体が少しずつ動き出した。〝エイト〟をカウントした時、咲谷は立ち上がったではないか。そして、パッと目を開きファイティングポーズをとったのだ。それを見た菊地トレーナーは、咲谷の右腕を掴み、力強く上に突き上げた。そして、「チャンピオン!」と叫んだ。その声を耳もとで聞いて、〝キョトン〟としている咲谷に心配して駆け付けた同門の選手たちがいっせいに拍手をした。

話が終わると、橋本さんは山中に、質問した主旨は分かったが、咲谷の後遺症が気掛かりのようだった。咲谷に後遺症は全く無かった。電卓を使わずに暗算で、フレンド会の会計係をしている。聡明な男である。

数日後、月刊誌『ボクシングビート』の〝山中慎介引退特集〟を読んでいると、山中氏が「学生時代、阿佐ヶ谷に四年間住んでいたので、何回か店に行きました」と言っていたので、思い出したことがある。

年輩の常連客が、「オレがいた大学の後輩の、この子がボクシング部のレギュラーだと言っているので連れて来た」と学生服の青年を紹介してくれた。青年は立ち上がり挨拶をしたが、普通の学生でボクサーのイメージはなかった。むしろ演劇部の二枚目のタイプだった。

「卒業したら、プロボクサーになるのですか?」と聞くと、学生は、「はい」と真顔で答えた。私は、「君はハンサムだし、世界チャンピオンになれる顔をしている」と言うと、青年は照れ臭そうに頷いた。一週間後、青年が、「今日は、先輩は来ません、ボクだけです」と言いながらカウンター席に座った。私は、あの時のイケメン学生だとすぐに気が付いた。

「マスターに世界チャンピオンになれる顔だと言われたのが、嬉しくて来ちゃいました。

山中氏とは、過去にそんなエピソードがあったのだ。あれから十数年、時は流れた。

今や、伝説の店になってしまった〝チャンピオン〟が、かつてあった場所に、〝無冠〟の山中慎介が立っていたのは、偶然だったとしても、その光景を忘れることはないだろう。


                                                                              【山本晁重朗】