我が母校の杉並区立第七小学校の正門の前に、日大相撲部の稽古場がある。その隣に同じような稽古場が出来たので見に行くと、大きな看板に、〝花籠部屋〟と書いてあった。それから数年後、成田東に、〝二子山部屋〟が出来、次に文化学園大学の付属高校の近くに、〝放駒部屋〟が出来て、阿佐谷は、お相撲さんの町になってしまった。〝本場所〟がない時は、昼間からパールセンターを肩を並べて闊歩し、夜は酒場で町内の若者と和気あいあいと飲んでいる姿も見かける。駅の近くにあるオデオン座に行くと、場内の中央にある通路の前列の席が、四席並んで壊れている。お相撲さんが大きな体を無理やり入れて座るからだそうだ。マネージャーは、「直してもすぐに壊されるから、そのままにしてある」とぼやいていた。

 ある夜、そんな話を肴にしてパールセンターの長老、石井明氏と居酒屋で久しぶりに飲んだ。石井氏が言う。

「あれは昭和五十年代だったと思う、輪島が優勝した時はパールセンターをパレードしたし、いい時代だったね。」

わたしたちの話を聞いていたのか、隣で飲んでいた年輩のオジサンが、「懐かしいね」と言いながら椅子の向きを変え、仲間に入った。そして、「オレの話を聞いてくれ」と言うので石井氏と耳をかたむけた。

あの時は夕方だった。駅前のタクシー乗り場に背が高くてスタイルの良いイケメンのお相撲さんが若い衆を二人連れて立っていた。その人の前を行き来している人達は、誰もが気に留めず、存在すら無視していた。その人は当時人気絶頂の横綱千代の富士だったのだ。お相撲さんを見慣れている阿佐谷の住民にとって千代の富士は普通の相撲取りだったのだ。

当時、チャンピオンにも花籠部屋の相撲取りが時々来てくれた。輪島は学生時代にはよく来たが、横綱になってからは一度しか来なかった。ある日、日大相撲部の学生が、「先輩の色紙です」と言って、輪島の手形を持って来てくれた。それを店の目立つところの壁に貼っておいた。ある晩、輪島の学生時代の先輩が来店。輪島の色紙を見て鑑定をしてくれた。

「マスター、この色紙は本物だ。北口の駅前のラーメン屋に立派な額に入れて飾ってあるのは偽物だよ。だってあの色紙のサインの字がうますぎる。」

ひょうきんな気合の入れかたをして人気者になった高見盛は学生時代から来ていた。彼は納豆チャーハンが大好きで、いつもそれしか注文しなかった。チョンマゲを結ってから仲間と来店した時も、納豆チャーハンだった。連れの相撲取りは三五〇gのビッグステーキを食べているのに。

ある夜、長身で筋肉質の相撲取りが入って来た。ちょっと酔っているようだった。「マスターはプロボクサーだったんだってね。相撲とボクシングとどっちが強いかオレと勝負をしよう」と、詰め寄られた。私は、「あなたはヘビー級だし、私はフライ級なので、試合になりません」と断ると、後から来店した関脇の二子岳が、「それじゃあ、ルールを決めよう、オレがレフリーをやるから、マスターやってみなよ」と口をはさんだ。私は、「じゃあ、やってみます」と答えてしまった。

「ルールは、マスターは、ボディをナックルで打っていいが、顔は平手打ちだけ。睦の海は張り手と投げ、〝まいった〟と言うまで、時間は無制限。」

場所は店の隣の駐車場に決まった。零時を過ぎていたので、駐車している車は少なかった。そこはスポーツジムのリングくらいのスペースがあり、適度の明るさがあった。二子岳の「ファイト」で始まった。睦の海は両腕をぶるんぶるんと振り回しながら前進してくる。私はそのスイングをダッキングでかわし、懐に入りボディに右左のパンチを打ち込み、ガードが下がり、空いている顔に平手打ちを連発し、フットワークを使い、相手の攻撃をかわした。その攻撃パターンを繰り返ししていると、睦の海は、鬼のような形相で私を追い回した。調子に乗った私は、サイドステップ、バックステップと足を使い睦の海の攻撃をかわしていたが、この試合場が駐車場であることをつい忘れてしまった。大きくバックステップをした時、後ろにあった車にお尻が当り、はじきとばされて、睦の海の前に飛び出してしまった。睦の海は私を掴み、投げ飛ばすと、私は四、五メートル地面の上を横滑りになり、慌てて起きようとした時、睦の海が馬乗りになった。私は、「まいった!」と叫んだ。そこで二子岳が、「ストップ」と声をかけ、陸の海の右手を上げた。

いつの間にか見物人が、五、六人居た。私の両肘と左の頬から血が滲んていた。「マスターが可哀相!」と女性の声が聞こえた。レフリーの二子岳が、慰めるように言ってくれた。

「睦の海は、酒場で知り合った格闘技の経験のある人には必ず、他流試合を申し込んでいるが、空手、日本拳法、柔道の有段者たちには、みんな断られてしまった。ところが、このマスターは挑戦を受けちゃったのだから、凄い!負けましたが立派です。」

見物人は、それを聞いて納得したようだった。

酒を飲み直しながら、二子岳が言った。

「こんな結果になるとは思わなかった。もし、あのアクシデントが無かったら、マスターは、ハワイ出身の高見山を首投げで土を付けた十両の睦の海に勝ったかもしれない。でも勝負は時の運と言うからね。」

睦の海はグラスに手を付けず、私に怪我をさせてしまったのが気まずいのか、黙って下を向いていたが、いきなり立ち上がると、私を見つめた。彼の目のまわりが赤く腫れている。ビールを飲み干すと、私の手を握り、「ありがとう」と言って、二子岳を置いたまま帰ってしまった。その後、睦の海は常連客となり、相撲を引退し高円寺に〝チャンコむつ〟を経営してからも、交流は続いている。

ある日、私が店に向って歩いていると、後ろから乗用車が近づいて来たので横によけると、更に近づいて来る。「マスター」と呼ぶ声がするので、振り向くと、助手席に荒勢が乗っていた。「マスター、睦チャンとやったんだってね、二子岳がみんなの前でしゃべっていたよ」と、いたずらっぽく笑った。「お店まで乗せてあげる」と言うので、中に入ると、相撲部の学生が運転をしていた。「この車は誰のもの?」と尋ねると荒勢は、「五日前に錦糸町で拾ったんです」と言ったが、彼はお国訛りがきつく、聞きとりにくいので、運転手の学生に通訳してもらった。錦糸町に荒勢の先輩がいて、その家に行く途中にこの車が路上に駐車していた。帰りに同じ道を歩いていたら、この車が同じ場所に駐車していたので、あれから三時間も経っている。これは駐車違反だと、ドアに手をかけたら開いたので中を覗くとキーが付けっぱなしだった。それで、一緒にいた学生に運転させて、阿佐谷に帰り、駅前の米屋の駐車場に置いていた。三日たっても持ち主が名乗り出ないので、たまたま乗りまわしている。と、要約してくれた。その二日後、米を注文したので、店主が配達をしてくれた。彼はいきなり、「昨日は、大変な事があったんです」と話しだした。夕方、顔に傷のあるやくざ風の中年男が来て、駐車場に止めてあるベンツは何時からここにあるのか、誰が駐車したのか、ねほりはほり聞かれて恐かった。そこに、のこのこと荒勢がやって来た。やくざは、「お前がオレの車を盗んだのか!オレはあちこち一週間も探したんだ!」と怒鳴り飛ばした。大きな体を小さくして、誤っている相撲取りが、荒勢だったと気がつくと、やくざは、「今日は許してやる、半殺しにしてやろうと思ったが、オレは関取と同郷だし、お前のファンなので許してやる」と言って帰っていった。米屋は、「警察沙汰にならなくてよかった」と、胸をなでおろしていた。

相撲部の学生も常連だった。一人で三人前は食べるので彼らの顔を見ると、すぐにご飯の鍋に火を付けた。一年生が先輩のテイクアウトを取りに来ることがしばしばあった。ある日、小柄の学生が来たので、「君はマネージャー候補ですか」と聞くと、「いいえ、レギュラーです」と答えた。その人が、後の業師、舞の海だった。キャプテンの田中君はいつも一年生を、二、三人連れて来る面倒見のよい男だった。当店の近くにある日本料理店には一人で通い、その店の看板娘と、卒業すると同時に結婚した。ある時、新しいキャプテンが来店したので、「最近、田中君が見かけないけど、どうしている」と尋ねると、キャプテンが言った。

「マスター、田中〝君〟はやめてください。田中先輩は監督なんです。」

「そうか、田中さんは、どうしてプロにならなかったの?」

「それは分かりませんが、監督は二度、全日本相撲選手権で優勝しています。凄いのは、輪島先輩は監督と三度対戦して、一度も勝てなかったのです。」

その学生は、田中監督がプロになれば、絶対に横綱になれる人だと豪語した。そして、先輩にも後輩にも好かれている人で、相撲部出身の力士の四股名は、田中監督が付けていると言う。

田中さんは、社会人になっても、学生を、二、三人連れて、時々来店、奥さんと二人で来る時もあった。その田中さんが、世間を震撼させた日大のドン、田中英寿理事長と同一人物とは思えない。

                                       【山本晁重朗