ある時、耳を澄ますと隣のスタジオから、〝カタコト、カタコト〟と金づちで床を叩くような音が壁を通して聞えてきた。その音に気がついたエッチラが「隣のスタジオで大工さんが仕事をしているのかな」と呟いた。私もキャベツを切るのをやめて、耳をかたむけると、たしかにリズミカルな音が聞えてくる。その音が、その日から毎晩、同じ時間に聞えてくるので、常連たちの話題になっていた。そんな夜、中年の女性が入ってきた。背が高くて大きな瞳の映画女優のような人だった。彼女は常連客に「今晩は、私は隣のスタジオでフラメンコの稽古をしている小松原庸子です。よろしく」と挨拶をした。エッチラが立ち上がり「貴方が大工さんだったのですね」と言われた彼女は一瞬、首をかしげたが、エッチラが言わんとしていることに気がつき「あの音は靴を踏みならすサパテアードです」。
 その時、小松原さんに風貌が似ている女性が入って来た。小松原さんは「彼女はフラメンコのギターリストで、私のパートナーの戸田恵子さんです。よろしく」と紹介した。このコンビは稽古が終わると時々店に顔を見せてくれた。赤ワインを飲み、常連客とおしゃべりをする。そんな気さくな人柄の二人は彼らの人気者になってしまった。

 数ヶ月後、小松原さんが一人で来店、「来週の月曜日に新宿の朝日生命ホールでフラメンコを踊ります。見に来てね」と言ってチケットをくれた。それを常連客に話すと是非見に行きたいと言うので人選して四人連れて行った。会場は満席だった。私は映画でフラメンコを見たことはあるが、舞台で見るのは初めてだった。戸田さんのギターのリズムに乗ってダイナミックに踊る小松原さんの情熱的で、セクシーな表情に魅了された。カメラを持ってきていたので舞台に近づき、シャッターを切りまくった。踊りの動きが早いので、撮るのは難しかったが、自分なりに踊りのパターンを捕らえてみた。三十六枚撮りのフィルムを一本撮ったが、出来あがった写真を見ると、まともなショットは一枚もなかった。後日、来店した小松原さんに「チョーさん、写真を撮ったでしょう。見せて」と言われたので、「見せる写真が一枚もありません」と断ると、「私がどんな踊りをしていたのか見たいのです」と言うので、私は仕方なくネガをプリントして全部渡した。すると、「踊りの流れを見たいのでフィルムも貸して下さい」と言うので、ネガをべた焼きにして、事務所に届けた。

 小松原さんの公演の五日後、舞台照明家の刈屋氏が、数日前の日付の新聞を持って来た。

「小松原庸子の記事が載っているぞ

そこには小松原さんが踊っているワンショットが載り、〝フラメンコダンサー小松原庸子、華やかなデビュー〟と絶賛する見出しがあった。小松原は五八年、単身スペインに渡り、エンリケ・エル・コホにフラメンコを学び、スペインのステージに立っている、フラメンコの第一人者である、と記してあった。それを読んだ常連客は、「そんな、有名な人だったのか」と顔を見合せて驚いた。

小松原さんは六九年に、小松原庸子スペイン舞踊団を結成した。一回目の公演の時、「チョーさんの写真を使わせてね」と言うので、どの写真を使うのか気掛りだった。ある夜、晶チャンが「駅前の喫茶店に小松原さんのフラメンコのポスターが張ってあった」と教えてくれた。見に行くと、入口の左側の壁に、新聞紙の半分ぐらいの大きさのカラー刷ポスターが張ってあった。小松原さんが踊っているショットで、確かに私が撮った写真だった。私はポスターを凝視した。そこから、フラメンコを撮るシャッターチャンスのヒントを得た。

小松原さんの照明係の刈屋氏にポスターの話をすると、「チョーさん、写真上手だよ」と誉められた。その気になった私は、フラメンコの公演のホールに足を頻繁に運んだ。そして、自称、舞踊団の専属カメラマンになった。


 ある時、私が何時もステージの写真を撮る時に座る椅子に、年輩のカメラマンがいた。三脚を立てて、望遠レンズを付けたニコンを操作している。目が〝ギョロッ〟として大きい、どこかで見たことのある人物だった。ホールのマネージャーに聞くと、「秋山庄太郎さんです
」と教えてくれた。秋山氏は写真界の大御所だ。私は彼の邪魔にならない場所で、その日は撮影した。

小松原舞踊団の事務所にネガとべた焼きを届けに行った。テーブルの上に葉書サイズの写真が四枚あった。小松原さんが「秋山先生が撮った写真です」と言うので、見せてもらった。一枚ずつ見ながら「この情熱的な表情はいいですね。このカメラアングルも凄い」と感想を述べると、小松原さんは「ここに写っているフラメンコダンサーは秋山先生のオリジナルで、私はその被写体にすぎません」と写真を指さして「こんな恐い顔を撮るなんて」と素っ気ない。

私が持って行った写真を見て、「チョーさんは何時も私の好きなポーズを写してくれている、だからチョーさんの写真を使うのです」と言われて、返答に困惑した。そのことを作曲家の今井先生に話すと「チョーさんは小松原に惚れているな、それが写真に出ているのだ」と言われた。

小松原さんの兄貴は大映の男優、菅原謙次である。兄貴には六歳の息子がいる。ある夜、小松原さんから電話があった。兄貴の息子は日本舞踊を習っている。明日、歌舞伎座で発表会がある。その写真を撮って欲しい、とのことだった。私は小松原さんに言われた時間に、歌舞伎座の裏口から中に入った。楽屋には小松原と書いた札が掛かっていると聞いている。その部屋を探そうとしていると、細身の若い男がいたので、「小松原の楽屋に行きたいのですが」と声をかけた。「私が案内します」と言って、楽屋まで連れて行ってくれた。その人は「ここです」と言いながら部屋の中まで一緒に入った。そして小松原さんに挨拶をすると、二人は親しく話をしている。その人が帰ってから、小松原さんは「チョーさん、素敵な人に案内してもらったのね」と言うので、「あの人は誰ですか?」と尋ねた。

「知らなかったの、玉三郎さんですよ」

「えっ、あの女形のですか?

菅原氏の息子の舞台写真を三十六枚撮りのフィルムで一本撮った。翌日、写真を届けると「玉三郎さんのは無いの?」と言われ、「息子さんの写真を撮って、すぐに帰りました」と答えると、小松原さんは口に手を当てて、「あの後、玉三郎さんが踊ったのに、バカネッ!」。

私の息子の将光が六歳になった時、フラメンコの公演に連れて行った。私は撮影をしていたので。息子は開演中に何をしていたのか分からなかったが、家に帰ると小さな板の上に乗りサパテアードのまねをしている。フラメンコに興味を持ったのかと思い、そのことを小松原さんに話した。彼女は「本人にフラメンコをやりたいか?と聞いて、〝やりたい〟と言ったら、明日からスタジオに連れていらっしゃい」と言ってくれた。そこで、将光に「フラメンコをやるか?」と聞くと、「ウン」と答えた。


 ある日、開店と同じに小松原さんが入って来た。

「高円寺に新しいスタジオが出来たの。そこに引越すので、誰か車の運転ができる人を紹介して下さい

その話を常連客にすると、晶チャンが手を上げた。小宮山晶治は学生時代、東洋大学日本拳法部のキャプテンだった。先輩の伝手で食品会社に就職。営業部に勤務している。

引越は二日かかった。晶チャンは小松原さんに接して、彼女の温厚な人柄に触れ、すっかり惚れ込んでしまったようだ。常連に、「オレ、小松原さんのところで働きたい」と呟いた。誰かが言った。

「あそこは女の園だよ、晶チャンじゃ無理!

数日後、小松原さんから電話があった。

「引越を手伝ってくれた小宮山さんは、学生時代、日本拳法のキャプテンだったんでしょう。武道家と舞踊家は共通するものがあるみたい。女の子たちにも人気があるし、ウチで働いてくれないかしら」

早速、小宮山晶治に意向を打診すると、〝オッス〟の一声だった。

晶チャンからマネージャーの肩書の入っている名刺をもらったエッチラは、「今度、オレを使ってよ」と名刺を見ながら言った。

あれは小松原さんが高円寺のスタジオに引越す二年前のことだった。職業訓練所の先生のエッチラが新年会の余興にフラメンコを踊りたいと言うので、小松原さんに相談した。「面白そうね」と言って、フラメンコの衣装とカセットテープを貸してくれた。メイクは化粧品店のトコチャンが担当した。タイトルを〝エッチラメンコ〟と付けた。女装したエッチラはフラメンコのテープの曲に合せて、見よう見真似で踊った。会場は大はしゃぎ。そのムードに誘われたのか、小松原さんが二階から降りてきて、エッチラと一緒に踊ったのだ。これはハプニングだった。会場に居た六十二人の出席者は感動して、手拍子。「オーレイ!ブラボー!」と叫んだ。そして、小松原さんを囲んで乾杯!

「真夏の夜のフラメンコ」小松原スペイン舞踊団は、七一年から毎年、七月の末から八月の初めの土曜日、日曜日の二日間、日比谷野外音楽堂で〝真夏の夜のフラメンコ〟の公演をしている。主催ソル・デ・エスパーニャ、後援スペイン大使館、協力アサヒビール株式会社だった。晶チャンがマネージャーになった年の〝真夏の夜のフラメンコ〟は、何回目だったか忘れたが、十三人のツアーを組んで野外音楽堂に向かった。満席だったが、晶治マネージャーが、ちゃんと席を取ってくれていた。中央からちょっと外れるが、見やすい場所だった。スポンサーのアサヒビールが観客に紙コップの生ビールを振る舞っていた。会場の入口の左側に売店がある。チケットの半券をアサヒビールの係員に渡すと生ビールを手渡される。招待客と関係者はチケットがないので、その人たちの為に晶チャンはビールの引換券を作っていた。そのカードを私に、二十枚くれた。リーダーのエッチラに渡すと、仲間に配っていた。私は写真を撮るので一杯も飲まなかったが、彼らはチケットの半券とカードで生ビールを飲みまくっていた。

司会の菅原謙次の「オーレイ!」の掛け声の合図で、ギターのリズムに乗り、小松原さんを中心に若い女性のダンサーが十数人、舞台に踊り出た。その情熱的なムードは観客の心に力強く響き、舞台と客席が一体となった。生ビールをしこたま飲んでいるエッチラたちは、上機嫌。フラメンコのリズムに合せて手拍子とサパテアード。その一角は異様に盛り上がっている。それを見た小宮山晶治は、「オーレイ!」と叫び、日比谷公園の夜空に右の拳を突き上げた。

ちなみに息子、将光もこの舞台にその他一同で出演している。将光は六歳から小松原さんの指導を受け、そのまま舞踊団員になっている。三十五歳で独立し、〝ジャマキート舞踊団〟を結成した。


 ある日、机の引き出しの中から、新聞の切り抜きが見つかった。それは、「東京新聞」の夕刊で、小松原さんの記事が載っていた。

「日本のフラメンコ界のパイオニア小松原庸子(84)が、二年前、両足の膝頭手術を受け人工関節を埋め込んだ。手術の際は、『もう二度と舞台に立てないかもしれない』と覚悟を決めたが、奇跡的な回復を遂げた

私は、この記事を読んで、数年前の夏、久し振りに野外音楽堂に行ったのを思い出した。〝真夏の夜のフラメンコ〟は盛況だった。ショーが終り、舞台挨拶をする小松原さんは昔と変わらぬ艶やかな姿だった。だが小松原さんの踊りは出番がなかったのが気掛かりになり、楽屋を訪ねた。スペイン人のダンサーと話をしている小松原さんに「ご無沙汰しております」と声をかけると。「あら、お久しぶり」と言って近づき、私の手を両手で握ってくれた。そして耳元でささやいた。

「どちらさまでしたっけ?

私は一歩、後ろに下がって、「庸子先生!ボクの顔をよく見て下さい!」。

彼女は目を見開き、「なんだ!チョーさんじゃない!」。

厚化粧の笑顔から付け睫毛がひらりと落ちた。
                                       【山本晁重朗】