TVは、バラエティ番組を放映していた。そこに三十代の男が二人、入って来た。行き成り「えっ、野球やっていないの!」。もう一人の男が「早くチャンネルを変えてよ!」と叫んだ。私はすました顔で、「すみません、ウチのTVは野球は映らないんです」。私を睨みつける男に、「どうぞ、野球が映るTVがある店に行って下さい」と突っぱねる。若者は、ぶつぶつ言いながら出て行った。カウンターにいた郡司さんが「見せてやればいいのに、チョーさんは野球が嫌いなんだ」。痛いところを突かれたが、「みんながこの番組を見ているのに変えられないでしょ」とうそぶいた。そんな会話を聞きながら頷いているおじさんがカウンターに居た。日焼けした顔は日雇い労働者のよう。初めて見る客だった。息子らしき少年と座っている。父親が高校生の息子に説教をしているように見えた。ひそひそ話の声が、少しずつ大きくなってきたので、話の内容が、聞き取れた。それは、おじさんの風貌に似付かわないレベルの会話だった。私はこの二人は何者だろうか?興味を持った。
数日後、おじさんはひとりで来店した。カウンターに座り、「私はピストン堀口の試合を見ています」と話しかけてきた。わたしの反応を見て、白井義男は花田陽一郎から日本フライ級タイトルを奪取したとか、ライト級の秋山政司、ミドル級の辰巳八郎等は凄い選手だったとか、私がそのボクサーのファイトを見たことがない選手の名前が並んでいる。私は彼の歯切れのいい話しぷりに吸い込まれてしまった。
店の電話で呼び出された四十代の男が入って来た。「この人は、『大法輪』の編集長の黒神さんです」と紹介された。黒神さんが、「先生、遅くなってすみません」と頭を下げているので、「この人は何の先生ですか?」と聞くと、「作家の石和鷹さんです」。
石和鷹は、一九七六年より八五年まで、文芸雑誌『すばる』の編集長を勤め、その傍ら執筆を行い、「掌の護符」で芥川賞候補、続いて「果つる日」で同候補、八九年、『野分酒場』で泉鏡花文学賞、九五年、『クルー』で芸術選奨文部大臣賞を受賞している。
黒神さんいわく「石和さんは酒豪で、名うてのプレイボーイでもあり、女性との噂は絶えない。業界の無頼派といわれている作家です」。
ある時、石和さんが「ここのママは私の女房に似ている。今度連れて来ます」と言って数日後、奥さんを連れて来た。スタイリストで知的な美人だった。笑った時の横顔が初子に似ていた。
ある日、後楽園ホールに試合を見に行った時、水道橋の駅を出ると小雨が降っていた。傘を持っていなかったので、濡れながら歩いていると、年輩の男性が「入りませんか」と声をかけてくれた。彼は私の顔を見て「行き先は私と同じでしょう」と呟き、後楽園ホールまで一緒だった。私は礼を言い、チャンピオンの名刺を渡した。
ある夜、石和さんが「今日は私の古い友人を連れて来た」。その人はあの時、傘に入れてくれた人だった。「その節はありがとう御座いました」と頭を下げると、石和さんの友人は、にっこりと笑った。それを見て「えっ、知り合いだったの」。
その人は法昌寺の住職であり、歌人の福島泰樹氏だった。そして、マニアックなボクシングファンである。
石和さんが入ってきた時は、カウンター席は、一つしか空いていなった。そこに座ると隣の土屋さんが、カウンターに顔をこすり付け、両肘を広げて寝ている。頭の前に徳利とおちょこが、ころがっていた。石和さんが、当惑しているので、土屋さんを揺り起こした。「オレ帰る、いくら?」と寝惚けまなこ。「三百円です」。土屋さんは立ち上がり私を睨み付けて「三百円はないだろう。オレがボクシングの先輩だからといって安くしたんだろう」。土屋さんは店に入って来た時から、かなり酔っていた。お酒を一本注文しただけで寝てしまったのだ。「お酒を一本注文しただけです」と言うと、「バカヤロー!オレがこんなに酔っているのに一本しか飲んでいないはずがない!」と怒鳴るので、「はい分かりました、千円いただきます」と手を出すと、お金を払い、覚束無い足取りで出て行った。石和さんはそんな土屋さんに興味を持ったようだ。
「今の人、ボクサーだったの?」
「ボクの先輩です。東日本新人王戦でバンタム級の山口鉄弥と対戦しています」
石和さんは、「あのハードパンチャーの日本バンタム級チャンピオンとグリーンボーイの時代に対戦しているのか」。さすが、ボクシング通の石和さんだ。三十年も前の選手の名前がスムーズに出てくる。
「土屋さんは打たれ強いタフなファイターだったので、酒を飲むとパンチドランカーの後遺症が、今でも出るみたいです」
二日前、ガード下にある松の寿司のマスターが店に飛び込んできて、「土屋さんが客ともめています、何とかして下さい」と助けを、求めてきた。土屋さんは松の寿司の常連客で、その夜は貸し切りだったのを知らずに店に入り、飲み会をやっている若者たちに、入店を阻止されたが、「一パイ飲ませろ」とごねていた。酔っぱらっている土屋さんを連れて帰ろうとすると、茶髪の若者が、「オレはこのおやじを許せない!一発殴らせろ!」とからんできた。私は二人の間に入り、「よし、そんなに殴りたいのなら、そこの駐車場でおじさんと勝負をしろよ、オレがレフリーをやる。ただ、一つだけ条件がある。どんな事があっても警察沙汰にしないでくれ、この男は元ボクサーだ。ケンカをして、相手を半殺しにしてしまい、傷害罪で、三年、ムショに入っていたのだ、昨日、出て来たばかりだが」、そこまで言うと、若者の表情が変わり、「やめとく」と言って、心配そうに成り行きを見ていた仲間の中に隠れてしまった。ふらふらで、やっと立っている土屋さんの肩を支えてタクシー乗り場まで送って行った。
私の話が終ると、石和さんは、「チョーさんのハッタリは凄いね、今の話をもとにして小説を書きたくなった」。
毎週三時から二時間、我家の前にある空き地で〝日曜ボクシング〟の練習がある。あの日はジュン君と次男の寛朗の二人だった。シャドウボクシングをしているところに、石和さんが見学に来た。スパーリングを始めた時、「オレも仲間に入れてくれや」と背後から声がかかった。振り向くと、土屋さんがトレーニングウエアーで立っている。石和さんは目を見張った。私は攻防一体のボクシングを教えているので、二人のスパーリングは互に打ち合っていても、殆ど相手に当らない。それを見て土屋さんが、「そんなのボクシングじゃない!オレが相手をするから遠慮なく打ってこい」と怒鳴った。ジュン君と寛朗は土屋さんと対戦した。二人が打ったパンチの殆んどが顔面にヒットしたが、土屋さんは怯まず前進する。「これが土屋さんのファイテングスタイルか」、石和さんは呟きながら手帳にメモをしていた。帰り際に、「今日はラッキーだった、面白いものを見せてもらった。チョーさんと土屋さんをモデルにして小説を書いてもいいかな」。
数日後、石和さんは生原稿を持って来た。
「これを読んで、書かれては困ること、ボクシングのテクニックの表現の間違いがあったら言ってください」
原稿を茶封筒に入れて置いていった。
平成三年十月二十日、石和さんが意気揚揚と店に入って来た。何かを抱えている。
「本が出来ました。タイトルは『レストラン喝采亭』です。チョーさんに一冊、土屋さんにも、これを渡して下さい」
家に帰ると早速読んだ。「いくらJRの駅に近いとはいえ、繁華街とは反対側の裏通りにある雑居ビル一階の小さな洋食屋〝レストラン喝采亭〟は」から始まり、元ボクサーのマスター佐分利とバッファロー矢上の新人王戦のエピソードを中心にした物語であった。
ある日、日大相撲部のキャプテンが来店、「駅前の本屋で、立ち読みをしていたら、〝JRの駅の近くの洋食屋〟が出て来たので、気になって読みつづけたら、そこに出てくる洋食屋はチャンピオンがモデルになっているのではないか、と思い、その本を買いました。佐分利はマスターで、バッファロー矢上は酔っぱらいの土屋さんでしょ」、キャプテンは続けた。「面白いから、合宿所で回し読みをしています」と。
ある夜、咲谷さんとリングサイドで観戦したJフェザー級タイトルマッチ、マーク堀越対高橋ナオトの感動したファイトの話をしていると、石和さんが口をはさんだ。「私はその試合を見ていない」。
その試合は、平成元年一月二十二日に挙行された日本Jフェザー級タイトルマッチで、王者マークにナオトが挑んだ試合だ。初回から激しい打撃戦となり、三回、四回、八回とダウンの応酬。九回、マークがダウン、起き上がり宇宙遊泳をするような動きで、レフリーにファイト続行のアピールをしたが、マークの祈願はかなえられなかった。島川レフリーは、夢遊病者のように立っているナオトの右腕を高だかと上げた。正に死闘だった。この試合は年間最高試合に選ばれた。
私は、その試合のビデオカセットを持っていたので、石和さんの家に届けた。翌日、石和さんが来店すると行き成り、「島川レフリーは凄い!人間の体力、精神力のぎりぎりの限界を見極めて戦わせた判断力はたいしたものだ。ボクシングは危険なスポーツだ、一つ間違えれば、〝死〟がある。この試合が、〝年間最高試合〟に選ばれたのは島川威のレフリングだ!他のレフリーだったら八ラウンドの高橋の強烈なダウンシーンを見て、これ以上、戦わせるのは危険と見なし、ストップをかけたであろう」。石和さんの熱弁に常連は呆気にとられている。「オレ島川さんに会いたい!」。
島川さんは親しい友人なので、二人の対話のセッティングはスムーズに行った。島川威が指定した場所は三鷹駅の近くにあるスナックだった。二人は昭和八年生まれの同世代。話は盛り上がっていた。石和さんは、それを対談形式にして、週刊誌に載せた。
ニックネームが、〝デスク〟の木崎さんが、「このところ石和さんを見かけないけど、飲みに来ている?」と常連に問い掛けると、彼らは首を横に振った。初子が、「方南町のアパートで執筆中じゃないかな、書き上げるまで阿佐谷に来ないよ、きっと」。私は石和さんが自宅では原稿を書かない、と言っていたのを思い出した。石和さんは方南町にアパートを借りている。
数ヶ月後、石和さんは大学ノートより少し小さな白板にひもを付け、首に掛けて現れた。〝下咽頭ガンの手術で声帯を取ってしまったのです。声が出ないので筆談をします〟と黒のマジックペンで白板に書いた。それは国語の先生が、黒板に書くような端正な字だった。そして早い。
赤ワインを注文したので、常連は驚いた。木崎さんが、「そんな状態なのに飲みに来るなんて」と言うと、石和さんは、〝そんな目で私を見るな、声が出ないだけだ〟と白板に書くと、ワインをひと口飲み、グラスを目の前に掲げて、虚勢を張った。
数週間後、来店した時は白板をぶらさげていなかった。痩せた体から絞り出すようにして、「コエを出すクンレンをしているんだ」と、たどたどしくしゃべった。そんな石和さんを常連は作り笑いで迎えた。
ある夜、石和さんの息子から電話があった。
「父は下咽頭ガンを宣告され何度か手術をしましたが、肺に転移し、それを切除したのですが、末期症状になりました。数日前から河北病院に入院しています」
そのことを常連に話すと、「河北病院なら近いのでみんなで見舞いに行こう!何時行く!」ということになった。
「まずボクが一人で行って病状を見てくる」
翌日、初子と病院の個室に向かった。ベッドで寝ていた石和さんは、私たちを見て起き上がった。痩せこけている。はだけたパジャマからあばら骨が見え、どす黒くなった顔は小さくなり、ミイラのよう。私たちは声を失った。石和さんは虚ろな目で私たちを見た。「オレは壊れものだ、もうこの世のものではない」と呟き、ベッドにしゃがみ込んでしまった。枕が音もなく床に落ち、沈黙は続く。閉めた窓のカーテンが外からの明りを遮り、殺風景の個室は死刑囚の独房のような空気が漂っていた。
早朝、電話のベルで起こされた。「石和です」、奥さんの声だった。
【山本晁重朗】