金曜日の夜九時は申し合せたように常連客はカウンター席に座る。
 ある夜、正装した中年の男がドアを開けた。店内を見渡し、空席がないので店を出ようとした時、私と視線が合った。見覚えのある顔だ。その男に突然、「何か御用はありませんか」と声を掛けられた。私は反射的に、「今日は間に合っています」と応えてしまった。男は、「では、また来ます」。会釈をすると出て行った。常連たちが呆気にとられ、「今の人何者ですか?」。怪訝な顔で、りきさんが訊ねた。

「葬儀屋さんです」。一同、「えっ!」。

「昨年、お祭りで御輿を担いだ時、隣り合わせになった人です。御輿を担ぐとき、〝ソイヤ!ソイヤ!〟と掛け声を出すのですが、彼の掛け声は、〝ソーギヤ!ソーギヤ!〟って聞こえるのです」

彼らが笑い終るのを待って、「実家の葬儀社を継ぐ前は魚屋に勤めていたそうです。だから、御用聞きをしたんだ」と正義ちゃん。「それじゃ、出来過ぎだよ」と武藤君。「酒を飲むと魚屋に戻っちゃうんだ」と吉永さん。彼らは、しっちゃかめっちゃかになっている。そんな空気に飲まれず、マイペースでビールを飲んでいるのが、自称東大の数学教師、松島さんだ。三十代の独身で、女性には興味がないのか、女性と話をしているのを見たことがない。ところが、マニアックなボクシングファンで、それも数学的なのだ。選手の戦歴や年齢を正確に覚えていて、その話題になると雄弁になる。常連たちに記録屋と呼ばれている。

かつて、〝一番街〟には、バー、スナック、居酒屋が百二十軒もあったが、近年では、三十数軒しかない。そんな寂れた所に、常連客の守谷さんが、洋風居酒屋を開業したのだ。店名は〝バルト〟。カウンターとテーブルがあって、客は四十人近く収容出来る。更に空間があり、テーブルを移動すると、小さなステージになる。そこで、朗読劇や演奏会を催しする。従業員はアルバイトが一人。常連客に学生時代の友人が二、三人いるので、忙しい時には、彼らの手を借りる。なかなかの遣り手のマスターである。

ある時、バルトのマスターが、アイドル歌手の早見優に似た若い女性を連れて来た。その日は金曜日でなかったのでカウンターに座れた。マスターは常連の前に立ち、彼女の肩に手をかけて、「この人はヴァイオリニストです。明日、うちのステージで、演奏をします。みなさん是非、聴きに来て下さい」。紹介された彼女も立ち上がり、「橋口瑞恵です。どうぞいらして下さい」。にっこりと笑い、頭を下げた。エキゾチックな横顔に魅了されたのか、居合わせた常連たちは口々に「聴きに行きます!」とヴァイオリニストに声を掛けた。驚いたのは数学の先生もその中に居たのだ。

橋口瑞恵は、十歳でエクアドル国立音楽院を飛び級卒業。在学中はモスクワのグネシン音楽院の現学長、アンドレイ・ポドゥゴルニ氏による指導を受け、十歳にして年間百回を超えるリサイタルツアーをエクアドル国内で広く行った。日本に帰国の際には、別離を惜しまれ、在エクアドル共和国スペイン大使館によって、〝さよならコンサート〟が催された。帰国後、慶應義塾大学に進学。卒業後は様々な仕事を経験し、〇二年から東京を中心として演奏活動を開始した。プロフィールを見ると、かなりの実力者だ。

店内は満席だった。瑞恵さんは、昨日と同じ普段着で颯爽と現れた。ヴァイオリンを構えると、モーツァルトとベートーヴェンの曲を十分間の休憩を挟んで、約二時間演奏をした。私は、モダンジャズとロカビリーのコンサートに行ったことがあるが、クラシックのコンサートは初めてである。曲が終わるたびに拍手が店内に響いた。クラシックに興味がなかった私にはどの曲も同じように聞こえたが、彼女のダイナミックな演奏スタイルに圧倒された。店内を見わたすと年輩者が目立った。その中に松島さんの姿もあった。

木曜日はチャンピオンの定休日である。毎週、その日だけ大川ボクシングジムのトレーナーになる。先輩に頼まれると断れないのだ。ジムは明大前にある。東京行四時二十五分の電車に乗るとジムに五時に着く。

ある日、その時間に瑞恵さんが、プラットフォームに立っていた。新宿まで一緒だった。彼女も毎週木曜日に新宿の某所にヴァイオリンを教えに行くという。

瑞恵さんは次の木曜日から私が乗る電車の時間に合せてくれた。週に一回だが、車中で二人の雑談が続くと、私はヴァイオリンに、瑞恵さんはボクシングにいつしか興味を持つようになった。そして瑞恵さんが教えている生徒と、私が教えている練習生の話題の中には指導者にとって貴重なものがあった。

ある時、ヴァイオリンの次に好きなものは何?と聞くと、自転車だという。「学生時代は休暇の度に野宿をしながらサイクリングをし、日本のあちこちを放浪した」と御転婆ぶりを話してくれた。そのエピソードを聞いて、無地のブラウスとジーパン姿で演奏するスタイルに納得がいった。まさにボヘミアンなヴァイオリニストである。

ある日、何時ものプラットフォームの場所に、瑞恵さんが背の高いイケメンの青年と並んで立っていた。「大久保さんです」と紹介され、三人は新宿まで一緒だった。

 次の木曜日には瑞恵さんの姿はなかった。阿佐谷から新宿までの十一分間のデート?は、三カ月余りで、あえなく終了した。それから数ヶ月後、瑞恵さんの名字が、橋口から大久保に変わった。

 瑞恵さんは十三年に府中市分倍河原駅の駅前に、本格的な音響の貸し音楽ホール〝ミエザホール〟をオープン。オーナーとして、このホールを拠点としながら、様々なアーティスト演奏活動を行っている。

 ミエザホールは駅から〇分。四階建てのビルで二階がホールになっている。正面が舞台で、ピアノが左側に置いてある。収容客数は五十人ぐらいだ。少し遅れて行ったので、会場は、ほぼ満席だった。

 「チョーさん、席、取ってあるよ」

 前方の席から聞えた。そこに松島さんが居た。彼は数年前に郷里の金沢に引越しているのだ。新幹線で、東京まで来て、このホール直行、その後は、阿佐谷のホテルで一泊して翌日、帰るスケジュールだという。〝追っ掛け〟も、ここまでくると凄い!以前、瑞恵さんに松島さんの存在を聞いたことがある。彼女は、「何処の会場でも来て下さるので嬉しい、松島さんの顔を見るとほっとします」と言っていた。

十五分間の休憩の時間に、私は瑞恵さんが、坂本龍一のプロデュースによるオーチャードホールと彩の国さいたま芸術劇場でソロ演奏をしたエピソードを松島さんに話した。彼は、「坂本龍一は、英中伊合作映画『ラストエンペラー』や日英豪他合作映画『戦場のメリークリスマス』の音楽を担当した世界的に有名な作曲家じゃない!」。

 「そうです、『戦場のメリークリスマス』の監督は、あの大島渚でしたね」

後ろの席にいる年輩の男性に声を掛けられた。「今、大島渚て言ったでしょう。私は熊井啓監督の友人です。家も近くなのです」と話に割り込んできた。私は戸惑いながら、「偶然ですね、私も熊井さんと親しくしていました」と言うと、その男性は、米沢純夫と名乗った。

 「それでは、調布から来たのですか、私は阿佐谷からです」

 すると隣の席にいた米沢さんの連れの女性が、「私も阿佐谷です。病院を経営しております。山住美津子です、熊井さんの奥さんの明子さんと同級生でした」。

 「では、久保田喜正さんを知ってますか?」

 山住さんは、「その人は絵描きさんでしょ」。久保田さんはチャンピオンの常連客だった。ステージを指差して、「橋口瑞恵さんとのご関係は?」の問いに院長は、「橋口さんは私の患者よ」と誇らしげに答えた。そして、「あなたがたと橋口さんは、どんな関係?」。私は思わず松島さんの顔を見た。話がややこしくなってきた。こんな局面に遭遇した時、テレビドラマの脚本家・向田邦子女史だったら、どのような描写をしただろうか。
                                           【山本晁重朗】