ある夜、常連客の木村和男君がポスターを持って来た。「これを店に貼ってくれますか」。見ると、〝日本空手道佐藤塾〟と大きな字で書いてあった。その横に、〝塾生募集〟とある。「ボクシングの店に空手はだめですか」と声が控えめだった。私は、「空手も好きですよ」と言って壁を指差した。そこには大川ボクシングジムのポスターが貼ってある。「その横に並べて、そのポスターを貼ります」。其処は一番目立つ場所だ。

数日後、スポーツ刈りで体格のいい中年の男が来店した。男は一礼すると、「空手塾のポスターが貼ってある店があると聞きましたので、見に来ました」。「あそこにあります」。目くばせすると、男はポスターの前に立ち、「ありがとう御座います。このポスターは誰が持って来たのですか?」。「木村和男君です」。男は頷き、「木村は私の道場の塾生です」。私は一歩前に出て、「では、あなたは佐藤勝昭さんですね」。見たことのある顔だと思っていたので、すぐに彼だと分かった。「私はあなたの試合を見ています」。佐藤氏は、「本当ですか」と言いながら席に着いた。

佐藤勝昭は昭和五十年に、〝世界空手道選手権大会で、優勝した初代の世界チャンピオンである。昭和五十二年に極真会を退会して〟日本空手道佐藤塾を設立している。三十一歳だった。道場はJR武蔵境の駅前ビルの地下にある。

佐藤氏は隣に貼ってある大川ジムのポスターを見ているので、「私はこの店を開業する前は大川ジムのトレーナーだったんです」と言うと、佐藤氏は、「ボクシングのテクニックは凄い!空手家が、パンチを二発打つのと同じスピードで五発打てる。そしてパンチ力もある」。今までに何人かの異種格闘家が来店しているが、こんなことを言われたのは初めてであった。私は佐藤氏の横顔を見詰め、世界の頂点を極める人は矢張り、どこか違うと思った。佐藤氏は、「ビールのグラスは大きいものを下さい」と言うので、酎ハイ用の大きいグラスをわたすと、ビールをなみなみとついだ。それを飲み乾すと、「道場に来て、パンチの指導をしてくれませんか」。私はそれに応えず、「今度の店の定休日に見学に行きます」と言いながら、佐藤氏がついでくれたビールグラスを目の前に掲げた。

定休日を木曜日にしたのは、ごく最近だった。道場はJR武蔵境の南口て、ボーリング場があるビルの地下にあった。七時に道場のドアを開けると、佐藤氏が笑顔で迎えてくれた。大川ジムより、ひと回り広い道場に塾生が四十人ぐらい稽古に励んている。片隅で見ていると、佐藤師範は手を叩き、彼らを中央に集めた。そして、私を紹介した。「元プロボクサーの山本晁重朗さんです。毎週木曜日にパンチの指導に来てくれます」と言ったので、私は驚いた。見学に来ただけなのに指導者になってしまっている。稽古が終わると、「一杯やりましょう」。近くの行き付けのバーに誘われた。佐藤氏は可也のビール党で、佐藤氏専用の大ジョッキーが置いてあった。大ビンのビールが一本入る。私にも同じジョッキーを持たせて、一本ついでくれた。「押忍!」で乾杯。「これで山本さんは佐藤塾の同志です」。一杯飲み乾した佐藤氏は、「やっぱりパンチだけだったらボクシングの方が強いです」。それは、私のパンチの指導を見た感想だろうか。私はふとある空手家を思い出した。「大山倍達さんが、若い頃、日本ミドル級チャンピオンのピストン堀口とスパーリングを二ラウンドやったけど、私のパンチは一発も当たらなかったと言っていました」。佐藤氏は立ち上がり、「それは誰から聞いたのですか?」。私は怪訝な顔で、「大山さんからですが」。「大山館長と面識があるのですか?」。「えゝあります」。

ある日、平沢貞通を救う会の事務局員だった私は、事務局長の森川哲郎氏の自宅兼事務所に出勤すると、大柄でがっちりとした体格の客人がいた。森川氏が、「この人は空手家の大山倍達さんです」と紹介してくれた。

大山倍達は戦後、初の全日本空手道選手権大会で優勝。以後、〝昭和の武蔵〟をめざして精進を重大山倍達さんね、猛牛と格闘し角を叩き折り、〝ウシ殺しの大山〟の異名をとる。国内にはなく、昭和二十七年、渡米、空手代表としてプロボクサー、プロレスラーと対戦して、連戦連勝している空手家である。その偉業をマスコミに載せたのが森川氏であった。実録小説を書いている。その森川哲郎を大山氏は尊敬しているという。

大山氏の血気盛んなエピソードを頷きながら聞いていた佐藤氏は、空になったジョッキに気付きビールを注文した。

私が救う会の事務局員になった時は、二十五歳だった。森川事務局長と何時も行動を共にしているので、大山氏と会う機会が多かった。極真会館の道場開きのパーティにも出席した。初代の極真会会長に選ばれた佐藤栄作氏(のちに総理大臣になる)と大山氏のツーショットを写している。因みにその写真が大きな額に納まって館長室の正面の壁に掛けてある。大山氏はチャンピオンに来店したことはないが、新装開店の時に、〝極真会館空手道場、大山倍達〟の大きな花輪をお祝に下さった。

佐藤塾へ指導に行く度に新しい塾生の顔がある。名前を覚えるのが大変だった。三度目の木曜日に行った時、佐藤師範は私のトレーニングウエアにクレームをつけた。「ここは空手の道場なのです。ボクシングシューズも脱いで空手の道着を着て下さい」と忠告された。私は早速、青梅街道にある井上武道具店に行った。店員が私の顔を見て、「帯は黒ですね」と言ったが、私は初心者の白帯を選んだ。

私の空手着姿を見た佐藤師範は、「似合いますよ」と言って笑ったが、師範代の高橋さんは、「指導者が白帯とはね?」と首をかしげている。塾生たちは、「親しみがあっていい」と言って積極的に指導を受ける若者が増えた。

マンガ「空手バカ一代」がヒットし、世間は空手ブームになっていた。佐藤塾にもTVが取材に来た。その時、師範は、私に黒帯をそっと貸してくれた。それを締めてカメラの前に並んだ。

土曜日の十時頃、塾生が二人来店。「オス!」と言って一礼し、カウンターに座ると、「先生!自分にビールを下さい」。立ち上がって「ボクはハンバーグをいただきます」と大声で注文するので常連たちはびっくりしている。「君たち、ここは道場じゃないのだから先生はやめて下さい」と注意すると、「どこに居ても、先生は先生です!」。肉屋のコーちゃんが、「ちょうさんは何の先生なの?」。

そこに月刊誌「ボクシングワールド」の編集長の前田さんが、元世界Jライト級チャンピオンの小林弘さんを連れて来た。常連たちは、「雑草の男!」、「クロスカウンターの名手!」と声を掛けると、小林さんは両手を上げてガッツポーズ。如才ない人で、気さくにファンの質問に答えている。彼の芸術的に曲がり、潰れている鼻は、世界タイトルを通算六回防衛している歴戦のたまものである。前田さんは今までに、Jミドル級の輪島功一、Jバンタム級の飯田覚士ら、元世界チャンピオンを連れて来ている。小林さんは帰り際に、「ジムに遊びに来て下さい」と言ったので、前田さんに紹介された時に交換した名刺を見た。ジムの所在地は武蔵境だった。もしかすると佐藤塾の近くかもしれない。木曜日は少し早めに家を出て、小林ジムを訪ねると、佐藤塾道場のすぐ近くだった。ジムは大川ジムより少し狭かったが、設備が近代的だった。小林会長に、「空手の道場が、この近くにあるので、佐藤塾長を紹介したい」と進言すると、小林会長は、「是非」の一声だった。道場を案内し、佐藤塾長を紹介すると、意気投合し、二人の交流が始まった。

佐藤勝昭は、昭和六十一年から新ルールによる全日本空手道選手権大会を、主催している。会場は代々木体育館だった。その来賓席の中央には小林弘の姿があった。そして、後楽園ホールのリングサイドには佐藤氏が座していた。数年後、佐藤氏の結婚披露パーティには小林夫妻は招待され、私もカップルで出席している。

道場には足掛三年と三ヶ月、指導に行っていた。山中湖の夏の合宿にも二度参加している。私は腰の回転で打つパンチの打ち方、キックに対してパンチを打つ間合い、空手の型にはないフックとアッパー、サイドステップなどを指導した。佐藤師範は空手を通して、礼節、義理、人情、そして武道の精神を指導していた。彼の思想に共鳴し、佐藤塾での三年と三ヶ月は、私にとって貴重な体験であった。佐藤勝昭は、九歳年下であるが、私の人生の師でもある。

ある夏の夜、神博行君が格闘技の専門誌を持って来店した。彼は札幌出身で二年前に来店し、常連客になっている。雑誌には、〝空手バカ一代〟のヒーローである極真会館長の大山倍達が、主催する〝夏の合宿五日間募集〟の記事が載っていた。神君は札幌の空手道場に通った経験があるので、この合宿に応募したいという。私が佐藤塾でパンチの指導をしていたのを知っているので、報告に来たのだ。私は老婆心で、自分の名刺に、〝大山先生、神博行君は私の友人です、よろしくお願いします〟と書いて渡したのだ。

一週間後、神君が意気揚揚と店に入って来た。「合宿はどうだった」と聞くと待ってましたとばかりに話し出した。

合宿最後の日に大山先生が、指導員二人と歩いていたので、大山先生の前に立ち、ちょうさんの名刺を渡しました。怪訝な表情で見ていましたが、「君は私に何をしてもらいたいのですか」と聞かれたので、「館長と一緒に写真を撮ってもらいたいのです」と言ったのです。

神君は葉書サイズの写真を、私の前に出した。それは神君と大山館長のツーショットだった。神君は自慢げに常連たちにも見せていた。

数日後、家に神君から残暑見舞いが届いた。

その葉書は大山館長とのツーショットの写真版だった。神君に電話をすると、その葉書は友人、知人に三十枚ぐらい出したという。木村君が来店したので、それを見せると、「これチョッとヤバイんじゃないですか、極真会の関係者が見たら、何か言ってくるかもしれない」。

午後三時、外出しようとした時、電話のベルが鳴った。「山本君、大山です」。館長からの電話だった。私は怒られるのを覚悟した。「夏の合宿に道場生を紹介してくれてありがとう」。私はあわてて、「写真を撮らせて頂き、ありがとう御座いました」。受話器を持つ手が震えている。大山氏は、「神君は素敵な青年です、私に直訴したのですから、気に入りました」。意外な言葉に驚いていると、「池袋の駅の近くにうまい焼肉屋があるのです。今晩、奥さんと来ませんか」。私は行き成り言われたので、気が転倒してしまった。〝はい〟と即答しそうになったが、今日は金曜日、常連たちが集まる日だ。今までに休んだことのない大事な日なのだ。躊躇したが、「今夜はお店があるので」と無意識に言ってしまった。大山氏は、「では、次の機会にしましょう」と言って電話は切れた。

それから数年後、佐藤塾の木村君が店に来て、「大山館長が肺癌で、入院しています」と教えてくれた。初子とお見舞いに行きたいので、入院先を尋ねたが、それは誰にも知らせていないという。

ある朝、初子から無言で渡された新聞に目を通すと、〝ゴッドハンド(神の手)の大山倍達さん死去〟と大きな見出しがあった。死因は肺癌だった。平成六年四月二十六日、七十歳。

私は茫然とした。「焼肉屋へ行こう」と誘われた時、〝はい〟と言えなかったことを今でも悔やんでいる。