ビールを飲みながら、TVのニュースを見ていると、行き成り、安部譲二さんの若き日の姿が映し出された。〝もしかしたら〟と思った時、女子アナが、「安部譲二さんがお亡くなりました」。

 翌日の新聞に、〝安部譲二さん死去〟の見出しがあった。服役体験をユーモラスに描いた自伝的小説『塀の中の懲りない面々』などで知られている作家の安部譲二(本名・直也)さんが、九月二日、急性肺炎のため東京都の自宅で死去した。八十二歳。東京都出身。葬儀、告別式は、近親者のみで行った。喪主は妻美智子さん。中学在籍中から暴力団に加わり、高校を何度も変わって、二十二歳で卒業。日本航空の客室乗務員、用心棒、キックボクシングの解説者、競馬評論家などの異色の経歴をたどった。四十代半ばで足を洗い、作家を志す。一九八六年、府中刑務所での実体験を題材にした『塀の中の懲りない面々』で、デビュー、同作はベストセラーとなり、映画化された。テレビ、ラジオなどでも活躍をしたと記してあった。

 あの日は、四十三年間営業したチャンピオンを閉店した年の夏だった。西友で買物をした帰り、私の家の近くにあるコジマ理髪店の前に差し掛かった時、前方から、がっちりとした体格の年輩者が歩いて来た。見覚えのある顔だ。私はその人の前に立ち止まり、「失礼ですが、安部譲二さんではありませんか?」と訊ねると、「そうです」と応えた。私は名刺を出そうとしたが、店はやめてしまったので、名刺を持っていないことに気が付いた。たまたま財布に古い名刺が入っていたので、それを渡した。安部さんは名刺を見て、「レストランチャンピオンのマスターですか」。私は、あわてて「元です!」。安部さんは徐にポケットから名刺を出した。温厚な御隠居さんのイメージだった。名刺の番地を見ると、安部さんの自宅は私の家から百メートルぐらいしか離れていなかった。

 私は夕方五時から一時間、雨の日も風の日も散歩をする。コースは決っている。我家を出ると元チャンピオンあった店の前を通り、商店街パールセンターを通り抜け、町内をひと廻りする。あの日から一週間後、理髪店の先にある十字路で安部さんを見かけたので声をかけた。中年の女性が寄り添っていた。「わたしの妻の美智子です」と紹介された女性は宝塚の男役を彷彿させる知的な美人だった。安部さんは大川ボクシングジムの会長と面識があるのをふと、思い出した。そこで、私は、以前、大川ジムのトレーナーだった体験を話の切っ掛けにした。安部さんは話に乗ってくれて、「大川さんとは因縁があるのです」。それは――。

 昭和二十九年三月、日本フェザー級タイトルマッチが挙行された。チャンピオン田中昇(京浜ジム)に同級一位の大川寛(極東ジム)が挑戦したのだ。その試合に備えて、田中選手のスパーリングパートナーをグリーンボーイの安部譲二さんが勤めたという。大川選手の身長は、一七三センチ、安部選手は一七五センチと体形が似ているからだった。現在だったら、大川選手の試合のビデオを見れば、挑戦者大川のファイティングスタイルを分析出来るのだが、当時は、そんな便利なものはなかった。安部さんは東中野にある極東ジムに行き、窓の隙間から密かに大川選手のファイティングスタイルを観察したそうだ。そして大川選手のダミーになり田中選手とスパーリングをしたという。

「ところが皮肉にも私がパフォーマンスをした大川選手がKOで勝っちゃったんです」

夫人に杖を預け、パンチを打つ振りをした。

安部さんも毎日、散歩をしている。数年前に体調を崩し、歩行困難になってからは美智子夫人が付き添っている。私の歩くコースと時間帯がほぼ同じなので、時々遭遇する。其処で立話になる。私と安部さんは同年輩なので話の内容は、いつも三〇年代のボクシング最盛期になる。白井義男、矢尾板貞雄、ファイティング原田、海老原博幸などなどになるが、一般には知られていない話が多い。その中でも、興味深いのは日本の初代世界チャンピオン白井義男とカーン博士との出会いのエピソードだ。カーン博士が、白井義男のトレーニングを見て、「ワンダフル!君に素晴しい素質がある。私がコーチをしたい」。毅然として、声をかけたと語り継がれている。ところが、声をかけられたのは、白井義男ではなかったのだ。その人は武藤鏡一だった。だが、武藤はカーン博士の申し出を断ってしまった。次に矢島栄次郎に声をかけたが、彼にも断られてしまう。二人のボクサーに断られ、そのまま帰るわけにはいかなかったのだろう。三人目に声をかけたのが白井義男だった。白井は腰を痛めているボクサーで、引退寸前の選手だった。安部さんは目を輝かせて「そんなポンコツボクサーを指導し、白井の隠れた才能を引き出して、世界の頂点に立たせたのだから、カーン博士は偉大だ!」とガッツポーズ。このエピソードは、かつて大川会長から聞かされていたので、話は盛り上がった。

ある時、杉並七小学校の体育館の前で、安部夫妻と、ばったり出会った。私の石橋ジムのトレーニングウェアーを見て、「今は石橋ジムのトレーナーなんですね」。そこで、石橋広次の話題になった。

「日本バンタム級チャンピオンの石橋と東洋フライ級チャンピオン矢尾板のノンタイトル戦は凄かった。パンチとテクニックの応酬で、石橋は判定で負けたが、あれは名勝負だった。ボクシングの教科書に載せたいぐらいだ」

翌日、安部夫妻は石橋ジムを見学に来た。石橋会長のチャンピオンベルトを付けたファイティングポーズの写真を見て、「石橋は山口鉄弥のボディブローでダウンし、KO負けにされ、タイトルを失ったが、あれは山口のバッティング(頭をぶつける)で、ダウンをしたのだ。反則だよ。レフリーは何処を見ていたんだ」と手厳しい。石橋会長と三島由紀夫のツーショットを見て、「三島さんはここの練習生だったんだね」と呟き、サンドバックをさわっただけで、叩かずに帰った。

その後、何回も遭遇して立話をしているが、話の内容は殆ど変わらなかった。亀田三兄弟のスキャンダルも話題になったが、オリンピックのゴールドメダリスト村田諒太がプロボクサーになった時から、村田の話題で何時も盛り上がった。安部さんと私は村田選手の試合内容に疑問を持ち、批判的だった。村田とアッサン・エンダムの空位の世界タイトル決定戦の判定は、私と安部さんの意見が分かれた。私は村田が三回もダウンを奪っているので判定勝ち、と言うと、安部さんはジャッジの判定通り、村田の負けだと言う。そして翌日、家のポストに、安部さんの著書『ファイナル・ラウンド』と手紙が入っていた。

手紙には、村田は、まだアマチュアで、プロボクサーではないと思います。そして、アマチュアボクシングのルールと、アマボクサーの戦い方と採点法が、詳細に書いてあった。私は手紙を読んで、アマとプロのボクシングの違いを再確認した。

『ファイナル・ラウンド』の「あとがき」に、「ファイナル・ラウンドは最終回、つまりボクシングの試合の最後のラウンドのことです。ファイナルのゴングが鳴れば、泣いても、笑ってもあと三分間で試合が終わってしまいます。試合はファイナル・ラウンドの終了のゴングが鳴ってしまえば、どう口惜しがっても全てが終りです。しかし、ファイナル・ラウンドの終了のゴングが鳴るまでは、どんなに負けていても、チャンスは残っているのです。相手を逆転ノックアウトすればいいのです。これは人生と同じだと思ったのです」と書いている。

その「あとがき」を読んだ時点では、村田選手に対するアドヴァイスかと思っていたのだが、新聞記事の安部さんの経歴を読み直すと、思うがままに生きた安部さんのファイナル・ラウンドは、何だったのだろうか、興味がわく。

今年の年賀状も安部さんが猫を抱いて、にっこりと微笑む写真版だった。ところが、いつものコースを散歩しているのに安部夫妻と出くわさない。春が過ぎ、初夏だったと思う。安部さんの家の近くで美智子夫人に声を掛けられた。

「家の中で転んで足の骨を折ってしまったので、外出は出来ないのです」

そう言われてみれば、今年は一度も、安部さんの姿を見ていなかった。私は「お大事に」と言って、夫人の後ろ姿を見送ったが、足の骨折だけではなく、可なり体調も悪いのではないかと心配した。

七月十二日に世界ミドル級タイトルマッチが挙行された。挑戦者村田はテクニシャンからファイターに変貌し、一ラウンドから打撃戦を仕掛けた。二ラウンドに王者ロブ・ブラントをノックアウトし、昨年の十月に失ったタイトルを取り戻した。私はこの試合の安部さんの見識を知りたかった。

ある日の夕方、理髪店の近くで、美智子夫人を見かけた。いつも横にいる安部さんの姿はなかった。安部さんの容体を訊くと「あまり良くない」とうつむいた。

私は安部さんの顔が見たくなり、近々お見舞に行こうと思っていた。その矢先、TVで訃報を知ったのだ。

翌日、美智子夫人に電話をした。

「安部さんと、もうお話が出来ないのは残念です。これから、〝お顔を見に〟言っていいですか」

咄嗟に出た言葉だった。大陸飯店の前を左に曲ると、両手を高く上げ、豪快なアベスマイルが今でも目に浮かぶ私には、安部さんの〝死〟の実感がわかなかったからだ。夫人も「どうぞ〝顔を見に〟来て下さい」と私の心境を察してくれた。

安部さんの家の前は、時々通っていたが中に入るのは初めてだった。祭壇にある遺影に向かって、何時ものように話しかけると、私の横に立っている美智子さんが、相づちをうってくれるので、安部さんが、笑みを浮かべ、頷いているように見えた。涙を湛え、お別れの挨拶をして部屋を出た時、〝村田諒太はやっとプロボクサーになったね〟と何処ともなく聞こえた。空耳だろうか。振り向くとドアの前に毅然とした未亡人の姿があった。
                                                                            【山本晁重朗】