ブログのコメントが届いた。「安部さんは、私が柳瀬尚紀さんと二月二十二日の〝猫の日〟実行委員をしていた時、ゲストにお招きしたことがありました」と葉書に書いてあった。差出人は、熊井明子さんだ。安部さんの猫好きは知っていたが、明子さんが猫好きだったのは知らなかった。安部譲二さんと熊井明子さんに、そんな接点があったのは奇遇である。明子さんは、二〇〇七年に七十六歳で死去した映画監督、熊井啓さんの未亡人だ。もしかしたら、ベストセラーの作家、安部譲二と映画の巨匠、熊井啓の二人も生前、面識があったのかもしれない。因みに熊井明子さんの著書に『めぐりあい』がある。

 私は、チャンピオンを開業する二年前は、「平沢貞通を救う会」の事務局員だった。ある日、内幸町にある事務局に、日本文化連合会の小見山登氏が、森川事務局長を訪ねて来た。彼は森川哲郎の著書『帝銀事件』を持っていた。その本を森川氏の前に置き、「森川さん、これを映画化しよう」。驚いている森川氏に、「私は戦前、日活映画の俳優だった。その時の同期が柳川武夫と江守樹郎なのだ。今は重役のプロデューサーと専務になっている。私が映画化するように説得する」と言って半信半疑の森川氏を日活の本社に連れて行った。

 数日後、事務局にシナリオライターの熊井啓さんが現われた。森川氏は私を熊井さんに紹介し、「山本君は役に立つと思うので、アシスタントに使って下さい」。それから数ヶ月、熊井さんと行動を共にした。その時、私は二十六歳、熊井さんは三十三歳だった。熊井さんは石原裕次郎のように背が高い、私は堺正章ぐらい。のっぽとちびなので、〝凸凹コンビ〟とあだ名が付けられていた。熊井さんはシナリオを書き上げると、『帝銀事件死刑囚』を監督した。映画は六四年、東京オリンピックの年に全国で上映された。この映画は、熊井監督のデビュー作である。

 熊井さんとは、その後も交流が続き、チャンピオンにも時々、顔を見せてくれた。常連たちと気さくに話をするので、カントクと呼ばれ、人気者だった。

 ある時、『深い河』の映画完成記念パーティが某ホテルで盛大に挙行された。原作者の遠藤周作、監督の熊井啓と出演者たちが集まっていた。往年のスター高峰三枝子、水の江滝子の顔もあったが、なぜか王貞治の姿があった。王さんにカメラを向けると快くポーズを取ってくれた。熊井さんとのツーショットを入れて四枚撮った。プリントすると良く写っているので、王さんに送りたいと思った。住所が分からないので、熊井さんに電話をした。

 「王さんは、人格者で気さくな男だ。写真送ったら喜ぶよ」

 住所を聞くと、「東京都目黒区と書けば届きます」。私は半信半疑で写真をポストに入れた。

 ある朝、トイレで新聞を読んでいる私に、初子が、「ラーメン屋の鳳凰さんから電話よ」とドア越しに大声で知らせた。新聞にラーメン屋の折込広告が挟まっていたが、何だろう?と思いながら受話器を取った。

 「ラーメン屋ではありません!読売ジャイアンツの王貞治です」。
 私は受話器を落としそうになった。

 「写真、ありがとう御座います」

王貞治氏と。 穏やかな声だった。私は妻の無礼を丁重に謝罪すると、王さんは、「勘違い誰にでもあります、気にしないで下さい」。スポーツマンらしい口調だった。

 時は前後するが、あれは、三月十五日の夜だった。店に東京地検特捜部と名乗る二人の男が入って来た。任意出頭で本部まで来てくれと言う。

 時計は午後十時を廻っていた。車で検察庁まで連れて行かれ、取調室に案内された。中年の検事がいて、生年月日から「帝銀事件平沢貞通を救う会」の事務局員になるまでのいきさつを丁重な言葉で、訊き出し、調書を取っていた。

 その途中、机の上の電話が鳴り、検事は席をはずした。数分で戻って来ると、一枚の紙を突き出し、「逮捕状が出た。これから巣鴨の拘置所に連行する」と、今までとは手の平を反す荒々しい態度に豹変した。

 私は驚き、「妻と連絡を取りたい」と言うと、「十二時を過ぎているぞ、電話交換手はもういない!」と怒鳴られた。

 拘置所の一室に入ると、刑務官に衣服を脱がされ、素っ裸にされた。体重と身長を測り、越中褌と囚人服を着せられ独房に放り込まれた。

 中は三畳間ぐらいで薄暗く、肌寒かった。私は逮捕された時から気が動転し、なぜこんな扱いをされるのか分からず、気が狂いそうだった。逮捕容疑は、「偽証罪」だが、まったく身に覚えがない。

 もし、事故を起こしていたり、何らかのトラブルに巻き込まれていたのなら、それに対する悔いと反省がある筈だ。潔白な私には野生動物が捕らわれ、突然、檻に入れられてしまったようにしか思えない。頭の中は更に混乱し、その夜は、一睡も出来なかった。

 翌日から取調べが始まり、夜遅くまで続いた。接見禁止のため、会えるのは弁護士だけで、それも数十分。その他は誰とも会えなかった。そんな状況に置かれたら真犯人でもない人が厳しい検事の取調べで虚偽の自白をしてしまうだろう。事実、平沢は自白し犯人にされた。死刑判決を受けてしまい、冤罪事件になっている。

 四月十五日、保釈になった。拘置期間は一カ月だった。出所して二日目に店をオープンしたが、ドアを開ける客は一人もいなかった。やはり、テレビと新聞の事件の報道が影響してか、客に敬遠されてしまったようだ。困惑する。

 時計が九時をさした時、ドアが静かに開き、東大生の佐方君の顔が見えた。その彼を押すようにして、同級生の宗チャンが入って来た。続いてサラリーマンの眞杉君。三人は声を合わせて、「チョーさん、おかえりなさい」。

 翌日、佐方君たちは、手分けして人を集め、銀杏通りにある居酒屋の二階で、出所祝いをしてくれた。七人出席した。顔見知りの人ばかりだった。幹事の佐方君は法律を専攻しているだけあって、帝銀事件と、私が拘置された経緯を分りやすく説明した。彼らは納得したようだ。眞杉君が立ち上がり、「チャンピオンを救う会を設立しよう!オレがリーダーになる」。一同、「オーッ!」。若者たちは、グラスを掲げた。彼らはどんな行動を起こしたのか分からないが、常連だった客が、二人、三人と日毎に来店し、何時の間にか以前の活気を取り戻していた。

 保釈で出所してから、一年が過ぎ、裁判の判決は、〝無罪〟だった。そして、世間から冷やかな目で見られている被告人の私を苦境から救い出してくれた常連客の人情と彼らとの絆を決して忘れない。

                                       【山本晁重朗】