テレビの画面に映るローマ教皇の姿を見ながら、朝刊に目を落とすと、〝ローマ教皇のミサ五万人(東京ドーム)〟の大きな見出しがあった。その横に袴田さん拘置所で洗礼、招待受け参列したと続いている。 

 キリスト教徒らがドームを埋め尽した大規模なミサで、袴田さんの席は前列に用意された。かねて弁護団や支援者が面会を求める手紙を教皇宛に送っていたところローマ教皇庁の報道官が今月十五日、袴田さんがミサに招待されていることを公表。日本のカトリック司教協議会が二十日、招待状を届けた。黒のスーツに蝶ネクタイ姿で袴田さんは参列したと「東京新聞」に記してあった。

 袴田巌は昭和三十四年、バンタム級でデビューした。二十三歳だった。フェザー級でもファイトをし、六位にランクされている。ボクシング界の黄金時代だった。〝ダイヤモンドグローブ〟、〝チャンピオンスカウト〟その他二局のテレビ潘組があり、ゴールデンタイムに一日おき、放映されていた。選手の試合数も多かった。月に二回はリングに上がるのが普通だった。袴田と同じ年に海老原博幸がデビュー、翌年原田正彦(ファイティング原田)と新人王戦で対決している。袴田がファイトをしたバンタム級では米倉健司、石橋広次、フェザー級では大川寛、高山一夫、勝又行雄。テクニシャンとハードパンチャーが名を連ね、東洋王者の金子繁治、関光徳は大スターだった。そんな時代のランキングボクサーは存在価値があった。

 年間十九回もリングに上がった袴田は三十五戦してKO勝ちもKO負けもなかった。根性とスタミナ、タフネスを身上とするファイターで、人気ボクサーと激しい打ち合いを演じ、客席をわかせていた。

 その袴田が引退後、事件に巻きこまれ、逮捕された。それが、「袴田事件」である。

 無実を訴えるが、死刑の判決が下り、四十八年間独房に勾留された冤罪事件だ。

 平成二十六年三月二十七日、袴田さんは釈放された。

 その二年後の三月二十七日に、「袴田さんの再審早期開始を求める集会」が静岡県浜松市で開かれた。支援者約八十人の前で、袴田さんは「勝たなければしようがない。幸せに生きることが大切」と挨拶。一緒に暮らしている姉の秀子さんも「会話や笑顔が増えてきた」と述べ、弟の回復ぶりを報告した。

袴田さんと晁さん その後、この集会に東京から掛けつけ、同じ年にプロデビューした私が紹介された。マイクを持ち、「あなたは一年間に十九回も試合をした体力と精神力がある人です。これからもがんばって無罪を勝ち取るまで戦って下さい」と励ました。

 かつて袴田さんとは東洋J・ライト級王者勝又行雄氏の自宅で、ライト級日本ランカーの大石日出夫選手と四人で飲んだことがある。そのことを話したが、彼は覚えていなかった。まだ拘禁症状が残っているのだろうか。

 二次会は巌さんの姉の秀子さんの家に、ごく親しい人が十人集まり、てんでにコンビニから缶ビールと食べ物を買って来て袴田姉弟を囲み酒盛りをした。宴たけなわになり、唄や手拍子が出る雰囲気になったが巌さんは仲間に溶け込めず、彼だけの世界にいるように見えた。誰かから巌さんはどんなボクサーだったのですか?の質問があった。そこでボクシング経験があるという中年の男性を相手にして、巌さんのボクシングのファイトの真似をすると、もくもくとおにぎりを食べていた巌さんが立ち上がり、「オレはそんなへたくそじゃないよ!」と言って左右のコブシを振り回すが、ぎこちないので、爆笑。彼にはユーモアのセンスがある。

 袴田さんのドキュメント映画『夢の間の世の中』の監督金聖雄氏も同席していたので、その映画を話題にした。「死刑囚や冤罪事件をモチーフにした映画は、とかく暗くなりがちなのに巌さんのひょうきんな行動が明るくユーモラスに描写されている。秀子さんの活発で前向きの言動から明日への力をもらいました」と言うと、監督は満足そうに頷いた。そして、「もしこの映画がドラマだったら秀子さんは、演技賞ものですが、巌さんの役は本人以外に誰も演じられないでしょう!」と強調すると、監督はカウンターパンチを食らったように笑った。

 何時の間にか巌さんが私の横に立っていた。私たちの話を聞いていたのだろうか。その袴田巌がローマ教皇のミサに招待されたのだ。
                                       【山本晁重朗】