パジャマに着替えた時、ケイタイが鳴った。「まだ起きているの?」。次男の寛朗の声だった。新型コロナウイルスの感染拡大の緊急事態宣言が出た。売上げが減少している。それが気掛りのようだ。「でも、皆で頑張っているから心配しないで」。まだ店に居る気配がした。

寛朗は平成十四年からチャンピオンが閉業するまでの五年間、私のもとで料理の修業をしている。その時の常連だった馬場昭次氏に、料理の腕と人格が認められ、チャンピオンが閉業すると、JR中野駅南口、丸井デパートの横丁にある、スペイン料理店「シオノ」の店長に抜擢された。店は繁盛している。そして、チャンピオンの常連だった人たちが寛朗の存在を知ると次々と来店し、今や、「シオノ」の常連客になっている。寛朗の座右の銘は、〝出会いを大切にする〟だという。

あの時は常連客が二人居ただけだった。「今日は暇だから早く帰ろうかな」と時計を見た時、赤電話が鳴った。ほりちゃんからだった。「チョウさん!来て下さい、沼さんがエディさんに絡んでいるのです」。ほりちゃんは後に、チャンピオンの二階にバー「ランボー」を開業する同業者だ。その時点では鍋屋横丁交差点の近くにあるバーの雇われマスターだった。客に絡んでる沼さんは田宮二郎にちょっと似てる中年のキザな男で、シルバーウイスキーのセールスマンだ。素面の時は好人物なのだがアルコールが入ると、がらりと人柄が変り、誰にでも絡んでしまう。

ほりちゃんの電話ではエディさんに絡んでいると言っているが、あのボクシングトレーナーのエディ・タウンゼントだろうか。数日前、ほりちゃんが来店した時に、店の近くに住んでいるので、飲みに来ることがあると言っていたが。

エディ・タウンゼントはハワイ生れの日系人で、プロレスラーの力道山の招きで来日した。ハンマーパンチの藤猛、海老原博幸、ガッツ石松、柴田国明、井岡弘樹ら五人の世界チャンピオンを育てた名伯楽である。

「早く行って上げなよ、新沼はチョウさんの言うことは聞くから」。沼さんと大学が同期だった星野さんが言うので、前掛をはずし、駅前のタクシー乗場に走った。

沼さんは、なんとかなるだろうが、エディさんはTVで見ただけで面識が無い。どうしよう。

店内は薄暗かった。ほりちゃんが沼さんがいる席に案内した。沼さんは立ち上がり、「チョウさん来てくれたか!」。彼の前にいた若者二人も立ち上がり、「この野郎はエディさんをバカにしたのだ!こんなジジイがエディじゃない、偽物だ!と」。私は三人に頭を下げると、「オレたちはエディさんのファンなのだ、この野郎は、こんな店にエディさんは来ない、と絡んでいやがった」。どうやらこの若者たちは、ここに居合わせた客のようだ。私が平に謝ると、「落し前をつけてやる」とわめいている。当のエディさん困惑した目で私を見た。そして、「アナタ、アノトキのヒト!」。

数年前、私が所属していた極東ボクシングジムの会長、小高伊和夫の葬儀の日に会った人だった。葬儀はジムの場内で行われた。弔問客が多かったので、場外に並び焼香の順番を待っていた。朝から降っていた小雨が突然、土砂降りになったので、あわてて、傘をさした。その時、私の前に居た人に、「入りませんか」と声を掛けた。「アリガトウゴザイマス」。たどたどしい日本語だった。あの人はエディさんだったのか。

エディさんは粋がっている若者の前に立ち、私と握手を交わした。驚いている彼らに、「コノヒト、ワタシノトモダチ」。その一言で一件落着した。

あの人の名前はリングネームではない。元世界フライ級チャンピオン花形進は本名である。米国の有名プロモーターのドン・キングが本名であるのならば、二人の名前は彼らのビジネスに相応したネーミングだ。ドン・キングは、プロレス、プロボクシングのプロモートを手掛けた若き日のドナルド・トランプのライバルだったと聞く。まさにキングは王様である。

花形を英語にするとスターだが、名前とは程遠い地味なボクサーだった。昭和三十八年に十五歳でデビュー。四十九年十月十八日、チャチャイ・チオノイ(タイ)をKOで世界フライ級タイトルを、奪取するまで十年の歳月があり、六十二戦目だった。因みにライバルの大場政夫が世界タイトルを奪取したのはデビューから四年、二十八戦目だった。そして、事故死するまでに五度防衛しているが、花形選手は翌年のサラバリアとの初防衛戦に失敗している。その後、黒星を二つ重ねて引退した。

そんな地味なボクサーが、数年後、横浜の池辺町に花形ボクシングジムをオープンしたのだ。

チャンピオンの常連のプロボクサー高橋純が、そのジムに所属している。彼の案内で、花形ジムを見学に行った。ジムは三階建の新築ビルの一階にあった。純君が花形会長を紹介してくれた。気さくな人柄で私を歓迎してくれた。ジムは広いフロアに正規と同じサイズのリングがある。その横に大小のサンドバックが五、六本吊るしてあった。ビデオカメラも設置してあり、設備が整った近代的なジムだった。

オフィスでコーヒーをご馳走になりながら、「世界チャンピオンになると、こんな立派なジムが持てるのですね」と言うと、会長は首を横に振り、「ファイトマネーで、このジムを所有したのではありません」。右手の人差指を立て、「一本の牛乳ビンが縁で、このジムのオーナーになったのです」。

会長は、その経緯を話してくれた。

TVのインタビューが終り、ジムの外に出ると、入門したばかりの練習生が、にっこりと笑い挨拶をしたので、「一緒に帰ろう」と声をかけた。練習生は、「ボクシングマガジン」を読んだのだろう、私が世界チャンピオンになるまでの苦労談をよく知っている。彼はTVのインタビューとは異なった質問をいろいろとするので、私は、それなりに楽しかった。駅前の売店で牛乳を二本買い、「喉が渇いたね」と、言って一本、彼に渡した。

それから数年後、引退して古巣のジムのトレーナーになった私の前に、あの時の練習生が立派な扮装で現れた。彼は、「バブルの波に乗って、事業が大成功しました。近々、三階建のビルを建てるのです。二階、三階はオフィスにして、一階をボクシングジムにします。そこを花形さんに使ってもらいたいのです」。いきなり言われたので、驚いていると、「あの時に頂いた〝牛乳〟のお礼です」。

会長の話を訊いた私は、花形選手との〝出会い〟と練習生のその時の心境を推測した。練習生にとって世界チャンピオンは雲の上の人だ。そんな人から貰った牛乳ビンには、彼の人生に刺激を与える何かがあったのだろう。練習生にとって花形会長は、〝スター〟だったのだ。

花形ボクシングジムをオープンして、半世紀。一本の牛乳ビンは、日本王者六名、世界王者一名を輩出している。

七十二歳で日本ボクシング協会の会長に就任し、努力と根性の人が、今、新型コロナウイルス終焉を目指して頑張っている。
                                       【山本晁重朗】