閑静な住宅街の一角に古ぼけた小さな店があった。八人座ると満席になるバーだった。そこを居抜きで借り、深夜飲食店にした。  
 オープンしたのは二七歳の誕生日だった。白いプラスティックの置き看板に“チャンピオン”と赤字で大きく、その右側に黒字で小さく“野郎の店”そして、左側に“女性歓迎”と書いた。 薄暗かった店内を明るくして、正面にある食器棚の上に来客が目を惹くように奇妙な物を置いてみた。古びた片方のハイヒール、板に刺した錆びたナイフ、歯の磨り減った片方の下駄などである。それらはゴミ捨場から拾ってきたものだ。初めての客は、「あれは何ですか?」と聞くだろう。それを待っていて答えるのが狙いだ。
 「あのハイヒールは越路吹雪がラストダンスの時に履いた靴、ナイフは裕次郎が砂山で見つけたジャックナイフ、そして、NHKの天気予報士が使っていた下駄」と。そんなギャグが気に入ってくれた人が常連客になった。
 次に何か良いアイディアはないものだろうかと考えていると、中年のサラリーマンが二人、入ってきた。彼らはハイボールを飲みながら、「この店は場所が悪いので長続きしないんだよね」と、顔を見合わせ、「この前の経営者は若いママだったけど、三ヶ月で、その前の色っぽいおばさんも頑張っていたけど四ヶ月でギブアップしたよ」と、空席をチラッと見て、「この店は何ヶ月持つだろうか」と二人は私に聞こえるように話している。それはこのところ若い女性や、カップルが来るようになり、ちょっと気をよくしている私への戒めだろうか。champion[1] 
 翌日、店の近くにある銭湯にポスターを貼りに行った。キャッチフレーズは、“湯上りにぐっと飲みたやビールかな”だった。数日後、「マスターの川柳につられて飲みに来ちゃった」と、セールスマン風のキザな男が入って来た。ビールを注文して「このビールは良く冷えていてうまい!如何ですか」と、三人で飲んでいる常連に声をかけ、ビールを振る舞い、かれこれ二、三時間談笑していた。「おあいそ」と言われたので、飲食代を請求すると、財布の中を覗いて「あっ、お金が無い、ここに来る前の店で全部使っちゃたんだ、まだあると思っていた、ごめん!つけといてくれ、明日持って来るから。オレは通称ヌマさんだ」と言われ困惑した。初めて来たこの酔っぱらいを信用出来るだろうか。そこで、彼が盛んに自慢をしていたイタリア製の靴を片方脱がして、「これを明日まで預かります」と言い、嫌がるヌマさんに、“天気予報士”の下駄を履かせ、帰ってもらった。 
 次の日、ヌマさんが顔を見せたのは、深夜一時を過ぎていた。「ジャンのママを連れて来たよ」と、中年の女性を紹介してくれた。八千草薫を彷彿とさせる美人だった。ジャンは、そのママと可愛いホステスが二人いるバーで、この界隈では一番繁盛している。カウンターとテーブル、小さなフロアがあって、チークダンスが踊れる。ツイストが流行っていたので、若い客も多かった。ママがいきなり「マスターはボクサーだったの?」と目を輝かせた。流石プロだ、目の付け所が違う。薄暗い片隅にそっと吊るしてある六オンスのグローブを見付けたのだ。 「時々、酔っ払った客同士がケンカをするので困っているのです」と言われ、「そんな時は電話を下さい、すぐお店に飛んで行きますから」とつい、言ってしまった。
 数日後、ジャンのママから電話があった。
 「今、背中に入れ墨をした男が暴れているのです、すぐ来て下さい!」
 社交辞令で言ったのに本気にされてしまった。どうしよう、やくざは恐い。そっと覗きに行って、その状況を駅前の交番に知らせれば良いのだと思い、店に入ってみた。中は騒然としていて、慎太郎刈りの若い男が、カウンターの上で仁王立ちになり、ビール瓶を振り回し、大声でわめいている。片肌脱いだ背中の唐獅子牡丹が艶やかで、まるで東映映画のヒーローだ。ほぼ満席の客たちも立ち上がって野次馬となり、一緒に騒いでいる。これは営業妨害だ。近づいて若者の顔を見て驚いた。その男は私がガキ大将だった時のライバルのコーチャンではないか。浩二は子供の頃からやくざに憧れていた。まさか、ここで会うとは。私は咄嗟に怒鳴った。
 「お前、そこで何をしているんだ、やめろ!」
 浩二は私をじっと見て、「やばい!チャンピオンのマスターだ!相手が悪いや、マスターの顔を立てて、ここから降りる」と言って、人を掻き分けて外に出ていった。外にはパトカーが止っている。誰かが通報したのだろう。私と浩二が幼馴染だったのを知らない客たちは、「チャンピオンのマスターは凄い!」「カッコウイイ!」と、私を取り囲んだ。それが風評になり界隈に流れた。
 一週間後、店を開けると同時に浩二が入って来た。「こないだは声を掛けてくれて、ありがとう。酔った勢いでカウンターに上がったのだが、あんな騒ぎになってしまったので引っ込みがつかなくなっていた」と、頭を下げカウンターの上に何か置いて素早く出て行った。それは新聞紙に包んだ赤ワインのボトルだった。新聞紙を広げると紙面にバレーボールの試合の写真と東洋の魔女の活字が大きく載っていた。         [山本晁重朗]