ある夜、春原氏が店に威勢よく入って来た。「カオサイが日本に来るぞ!」と言いながら、サウスポースタイルで、パンチを打つ真似をした。誰かが、「カオサイは引退したのに何をしに来るの?」と言うと、それを待っていたとばかりに、「渡辺二郎と試合をするのだ!」と答えた。

渡辺二郎は日本拳法四段、大阪の追手門学院大学のキャプテンだった。卒業すると大阪帝拳ジムに入門した。プロテストを難なくパスした拳法家はボクシング界に殴り込みをかけたのだ。その成果はすぐに出た。デビュー戦から連続KO勝ち、十六戦目でWBA世界Jバンタム(現・スーパーフライ)級タイトルをKOで獲得した。そのタイトル(WBA・WBC)を十回防衛し、八六年に引退している。片やカオサイは九三年に引退しているが世界Jバンタム級の王座を十九回も防衛している。

この二人を現役時代に対決させるのがファンの夢だった。その夢がエキシビジョンマッチで実現することになったのだ。

それを伝えに来た春原氏は喫茶店〝ポエム〟の店長だった。〝ポエム〟は、永島慎二の人気漫画「若者たち」の舞台になっている有名店である。春原氏はマニアックなボクシングファンだ。酒は飲めないので、普段は口数は少ないが、ボクシングの話題になると雄弁になる。ある時、『ワールドボクシング』誌の編集長が、「私の助手が欲しいのですが、誰か、いい人いませんか」と言うので、春原氏を紹介した。二人は意気投合し、春原氏は〝ポエム〟を辞めて、ボクシング出版社の社員になってしまった。

カオサイの何回目かの防衛戦だったか忘れたが、バンコクの郊外にあるギャラクシージムでカオサイの公開練習があった。私が取材に行くと、春原氏がリングサイドでカメラを構えているではないか。そっと近づき、背後から肩を叩こうとした時、「晁さん!春原さん!」と声がかかった。振り向くと、そこにテレビカメラを担いでいる横に、友田君が居たのだ。友田君は学生時代にボクシング部に所属していて、当店の常連客だった。その友田君はテレビ東京に就職して、ボクシングの担当者になり、初仕事でバンコクに派遣されていたのだった。この異国で三人が同じ目的で、出会ったのは、まさに〝サプライズ〟である。そんなエピソードもあった。

数日後、春原氏は招待券を二枚持ってきた。チケットには渡辺二郎とカオサイの顔写真が印刷されていて、〝夢の対決〟エキシビジョンマッチと書いてあった。

後楽園ホールは満員だった。選手の控室に行くと、関係者でごった返していた。カオサイはバンテージを巻き、中央でインタビューを受けていたが、何時も彼の隣に居るワイフの由美子さんの姿がなかった。あたりを見わたすと、ひとりポツンと片隅に立っていた。私は、「今日は、お久しぶりです」と声をかけると、由美子さんは私の顔をチラッと見て、「ごめんなさい!私はあなたを知りません」と言って下を向いてしまった。

「バンコクで何回もお会いしている山本です!」

由美子さんは、「でも知らない人です」と言うと、後ろを向いてしまった。

試合は時間通りに始まった。その前に赤コーナーに居るカオサイに由美子さんは大きな花束を贈呈していたが、気のせいか、ぎこちなく見えた。試合は四ラウンドで、三ラウンドはヘッドギアを付け、ラストラウンドはヘッドギアをはずし、素顔を見せてファイトをしている。観衆の声援で期待通りの好ファイトをしているのは分かるが、私には雑音にしか聞こえなかった。それは由美子さんが、〝あなたを知りません〟と言ったのは何故なのだろうか、理解できないからだ。カオサイが経営しているビリヤードに招待された時も、カオサイの運転で弟分のチャナのジムに案内してもらった時も、何時もカオサイの隣に居て、通訳をしてくれていた。そして、〝今度はあなたの店チャンピオンで会いましょう〟と言ってくれた由美子さんが、なぜ、あのような態度をとったのか、カオサイとの間に何かがあったのだろうか。カオサイはリングに上がると〝鬼〟になるが、普段は温厚な人柄で、引退してからも、二人仲良くテレビに出演している人気者であった。そして、私をミスター・ヤマモトと呼び、親しくしてくれた。

翌日、バンコク在住の青島氏に電話をした。由美子さんの昨日の言動を伝えると、「ボクが親しくしている新聞記者に聞いてみます」と言ってくれた。二日後、青島氏から電話があった。

「離婚していました。原因はわかりませんが、由美子さんは数カ月前に大阪の実家に帰ってしまったそうです。由美子さんが東京の試合場に居たのは、カオサイに呼び出されたのではないでしょうか。」

「やはり、国際結婚は難しいですか?」と尋ねると、青島氏は、「難しいと思いますよ。ボクの妻はタイ人なので、それは良く分かります。ボクも東京に帰りたくなった時が何回かありましたから」と答えるので、私は、「由美子さんはしっかり者で、意志の強い人だと思っていたのに、離婚するなんて考えられない」と言うと、青島氏は、「ボクは結婚して十二年になるけど、ボクなりに頑張っています」と話してくれた。

「ところで、昨夜、私の店に電話をしましたか?もしもしと何度も言ったのですが、相手は何も言わないのが気がかりなのです。」

青島氏は、「ボクではありません。それは、もしかすると、〝私はあなたを知りません〟と言った人では?きっとそうですよ!」と言って、青島氏の声は大きくなり、しゃべり続けているのに、私はそっと受話器を置いた。
                                       【山本晁重朗】