"チャンピオン"日誌[あの日あの時あの人]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。19年2月より、新たに、「あの日あの時あの人」シリーズを開始。

カテゴリ: あの日あの時

 ある夜、松田氏が私の前に立ち、店内を見まわした。そして何も言わずに外に出て行った。数十分後に店にもどり、「晁さんこの店も開店してから何年になる?」と聞かれて、「二月の十一日で三年になります」と答えると、松田氏はうなずき「外から、この物件を見ると隣りの劇団アルスノヴァの事務所は使われていないようだね。この店と事務所は壁で仕切られているだけだから壁を取り外せば店は広げられるよ」と言われた。
 「私もそれを考えていたのです」

翌日、家主の承諾を得に行った。事が決れば話は早い。松田氏は建築会社の社長だ。一週間で店は改築された。カウンターはそのまま残して、四人掛けのテーブルを二台置き、今までの倍の十六席になった。〝スナックチャンピンオン〟の看板を外し、〝レストランチャンピオン〟の看板を掲げた。今までは酒のつまみ程度の料理しかメニューになかったが、これからは銀座のスエヒロ、九段会館の洋食部で修業した腕を発揮出来る。料理の種類を増やし、メニューも書いた。新装開店祝いのパーティーは常連客を招待した。店内ははち切れんばかりの熱気があり、「おめでとう」の声で盛り上がった。「テーブル席があるので、家族と来れる」と言う人が多かったが、「前の雰囲気が好きだったのに」と批判的な人も何人かいた。翌日から一週間ぐらいは常連客が、友人や家族を連れて来て食事をしていたが、新規の客は少なかった。私はこのままでは駄目だ、何とかしなくてはと思っているとパートナーの初子が、    「ポークカツとハンバーグの定食を出したら」とアイデアを提供、「よしやってみよう!」と私は早速、外に〝定食あります。ライス、スープ付、五百円〟の張り紙を出した。

 定食を注文する客は何人かいた。ある時、バーのマスターが店のホステスを連れて来店、定食を注文した。出された料理を見て、「定食に付くのはスープじゃない、みそ汁だよ」と言われ、ショックだった。当店は洋食屋なのだ、みそ汁を付けるのには抵抗があった。だが、客がそれを求めているのなら、出そう。そこで、洋食屋らしいみそ汁を作ろうと考え、みそ汁の〝実〟にトマト、キュウリ、生の玉ねぎを小さく切り、沸騰したみそ汁のお椀に浮かした。味噌の味にトマトの酸味が調和し、微妙な旨味を出している。私はこれぞ洋食のみそ汁だと思った。このみそ汁はバーのホステスの口コミでなどで評判になり、みそ汁だけ注文する客もいた。注意しなくてはならないのは、一人分ずつ作るので、ものすごく熱い!

 〝当店のみそ汁は熱いので、一気飲みはお断わり〟と張り紙をした。

 それを無視して粋がって飲んだ中年の男性が、熱さに耐えきれず、口から吐き出し、お椀を膝の上にひっくり返したことがあった。そして男の大事なところを火傷してしまった。

 ある夜、若い女性が定食を食べながら、「このみそ汁のことを記事に書いていいですか」と言うので、「どうぞ」と答えると、名刺をくれた。『週刊女性自身』のライターだった。その女性が一週間後、記事が載っている雑誌を持って来た。〝元プロボクサーのマスターと奥様のふたりで経営するチャンピオンのみそ汁は〟の見出しで、みそ汁にまつわるエピソードの記事であった。その二日後、スポーツ誌の記者が来て、いろいろと取材をしていった。後に、郵送してくれた月刊誌を読むと、みそ汁ではなく、元プロボクサーだった私に興味があったようだ。主役はみそ汁ではない!元プロボクサーの私になっていた。

 ともあれ、週刊誌の記事が宣伝となり、食事の客が増え、九時頃まで満席。その後が常連客の時間となり、深夜はバーのホステスが客と夜食をする店になり、それは正にスポーツライターの藤島大氏がコラムに書く〝洋食兼酒場〟になった。

 みそ汁でマスコミの波に乗ったチャンピオンはTVに出演した。私が半畳ぐらいしかない狭い調理場で仕事をしている動きはスピーディーでシャドウボクシングをしているみたいだと言われ、カメラはその姿を狙っている。ボクシングシューズを履いて下さいと注文をつけたTV局があり、店の外に出て、女子アナにシャドウボクシングを教えるシーンを撮っていたTV局もあった。そこまでくると、私の存在はピエロのようだ。そんなTVを見た若いボクシングファンたちが来店。彼らの要望で、〝青空ボクシングジム〟を始める破目になってしまった。私の住まいの近くに空き地があるので、そこを練習場にして、毎週日曜日の午後三時から二時間、指導をした。練習生になれる条件はチャンピオンの客。入門者は二人から始まり、六人になったところで締め切った。グローブはタイ在住の青島氏に頼んで送ってもらった。一年後、その中の三人が石橋ジム、大川ジム、ヨネクラジムに入門してプロボクサーになっている。後に、〝殴られ屋〟になった高橋君はその中の一人である。

 ある日、青空ジムを、格闘技専門誌〝Kマガジン〟が取材に来た。トレーニングシーンを写真入りで載せてくれた。その雑誌を読んだのか、フジTVが店に取材に来た。青空ジムの練習生の話を聞きたいと言うので、高橋君に来てもらった。彼は、奥さんと三歳の娘を連れて来た。女子アナの質問に、高橋君は、「青空ジムの練習が終わった後、ここで食べる料理が楽しみなのです。何を食べてもおいしいから」と言ったら、隣にいる奥さんが、「この店の料理はオリジナルで、よその店では食べられません、私はいつもチキンソテーです」と言った。近くにいた客がつぎつぎに「ボクはタイランドビーフ」、「私はバンコックポーク」、「スパゲッティのラーメン風のチャンピオンメンもうまい」と言って、料理談義になってしまった。これがきっかけとなり、TV局のスタジオで、私は料理を作ることになった。

 それは、五日後の日曜日、午前十時放映の料理番組であった。タイトルは、〝街のシェフが作る料理〟だったと思う。当日の朝七時にTV局の車が迎えに来ることになった。当店は深夜営業なので、三時に閉店して、後片付けをすると四時になる。TV局に行く準備をすると、すぐに七時になってしまう。そのままTV局に行けば、本番まで、二十時間以上も起きていることになるが「大丈夫なの」と、その時、初子が心配してくれて、「私があなたの助手としてついて行きます!」と気合を入れてくれた。

 私は、「よし頑張るぞ!」と言って、ファイティングポーズをとった。

 TV局から電話があり、調理の道具は一式揃っているので、料理をする材料だけ持って来て下さい、と指示された。だが、私はいつもの使い慣れたフライパンと包丁と菜箸を持って行くことにした。

 七時に迎えの車が店の前に止った。道具を持って、初子と車に乗ろうとすると、「助手はいりません」と断られてしまった。

 TV局に着くとスタジオに通された。そこには調理台とガス台があるこじんまりしたキッチンのセットがあった。ディレクターが「あなたの助手を務める永さんです」と若い女性を紹介してくれた。永六輔さんの娘さんだった。永さんに、「この番組は、ぶっつけ本番の生放映なので撮り直しはありません。よろしくお願いします。先週出演したシェフは緊張しすぎて、放映中に指を包丁で切ってしまいました。俎板が血だらけになり、スタッフが慌ててコマーシャルを流しました。山本さんは場慣れしているので心配はないと思いますが」と言われた。

その時、睡眠不足の私は、〝ドキッ〟とした。

TV局の料理番組を見ると、あらかじめ準備が出来ていて、スムーズに料理が仕上がっている。私の場合は異なっていた。永さんが「今日のシェフはチキンソテーとタイランドビーフの二品を作ります」と私を紹介すると、ゴングが鳴った。ガスに火を付けるところから始まり、フライパンを乗せ、鶏肉の骨を取り、肉を切り、塩胡椒をする、それをフライパンにのせる。私の横に立っている永さんが、いろいろと質問をしてくる。それに答えながら手を進めていく。出来上がった料理を調理台にある銀ぼんにのせ、「出来ました」と言うとゴングが鳴った。そこでコマーシャル。ディレクターが「すごい、ジャスト三分です。この調子で次の料理を作って下さい」と言った。

次の料理のタイランドビーフは、タイの香辛料トムヤムを使ったオリジナルである。これもゴングで終了した。

スタジオの中央にカウンターのセットがある。そこに料理通の知名人が三人いた。出来上がった料理が運ばれ、彼らは試食した。そして異口同音で「美味い」と誉めてくれた。その中の一人が「手さばきが良くて、動きにスピードがあるのには驚きました。それはボクサーだったからですか?」と質問されたので、「そうかもしれません。料理とボクシングが共通しているのは、センスとスピードです。従って、〝料理は瞬間芸術〟だと私は思っています」と答えた。

すると、永さんから「山本さんにとってボクシングとは何ですか?」と聞かれた。

「ボクシングは私の人生です」

スタッフに「おつかれさん」と肩をたたかれ、私の仕事は無事に終った。地下の駐車場で待っていた車に乗ると、行き成り睡魔に襲われた。

 

「チャンピオンです」と運転手に声をかけられ目を覚ますと店の前だった。  

                                      【山本晁重朗】

 ある月曜日の夜、店を開けると同時に白い杖を持った青年が入って来た。

 「太福のマスターに紹介されました。」

 青年はカウンターの椅子に座る前に、「私の名前は尾崎紀美彦です。歌手の尾崎紀世彦さんと美と世の字が違うだけです」といった。

 太福は定食屋で、当店のライバル店である。数日前にマスターから電話があった。

「尾崎さんは毎晩、定食を食べに来る常連客です。尾崎さんに『定休日の月曜日は食べに行くところがない、コンビニの弁当を買い、家で食べている』、そんな愚痴をこぼされて、その日は“チャンピオン”に行きなさいと紹介しました。尾崎さんは目がパッチリと開いていますが、“盲人”です。」

尾崎さんはビールを注文した。気になるので見ていると、グラスが置いてある位置をたしかめてからビールをゆっくりと注いだ。それは健常者と変わらなかった。だが彼の視線の先は別のところにあった。尾崎さんはその日から毎週月曜日に来店する常連客になった。

尾崎さんは八王子生まれの三十一歳。中学生の時は卓球部のキャプテン、高校生では野球部のレギュラー、スポーツマンである。ある時、試合中にボールが顔面を直撃し、それが原因で失明してしまった。高校を特例で卒業すると、アメリカに留学、カイロプラクティックを学び、マッサージ師になった。

二十三歳になった時、親の援助で、阿佐谷北の日大二高の近くに一軒家を借りて、“マッサージ尾崎”の看板を掲げた。尾崎さんは健常者と変らない好青年なので女性の客が多い。予約制になっている。私が電話で予約をしてマッサージをしてもらっている時、尾崎さんが障害者の卓球大会に出場した時の話をしてくれた。三試合勝ち抜き、優勝したと言うので、目が見えないのに、どのようにして卓球が出来るのか聞くと、笑いながら話してくれた。

「私には三年間の卓球のキャリアがあります。玉がラケットに当る音、卓球台に落ちた時の音、観客の声などで、玉の位置を判断するのです。私の頭の中には対戦者と玉と卓球台があるのです。あの座頭市が相手の殺気を感じ取り、立ち回るのと同じです。審判員にも、それが判ってもらえなかった。『尾崎君は目が見えるのでしょう』と言われ、医師の証明書を見せるまで、優勝を認められなかった。」

チャンピオンフレンド会の忘年会は、毎年十二月の第二土曜日、午後七時から十二時まで、隣のスタジオを借りて催しをする。五十人から六十人集まる。呼び物は隠し芸大会である。歌、踊り、ギター演尾崎紀美彦氏奏、女装してフラメンコ、プロボクサーを相手にする女性のスパーリング、エトセトラ。そこに尾崎さんが出場したのだ。司会者が、「尾崎さんはマッサージ師です。目は見えません」と紹介。彼が舞台に立つと、若い女性を一人選んでもらい、その女性と三分ぐらいジョークをまじえての雑談をする。そして、その女性の身長、年齢、顔の特徴を当てる。尾崎さんらしい隠し芸であった。それが殆ど当っているので拍手喝采だった。

あの時は常連客でごった返す金曜日の夜だった。「ミスターヤマモト、ヒヤ、アイアム!」と声が聞こえたので、フライパンを置いて振り向くと青年の顔が見えた。「ドゥユーリメンバーミー」と言われ、私が首を傾げると青年は、「アイアムフロムアイスランド」と言うので、私は驚き、あわてて「イエス、アイリメンバーユ!」と叫んだ。

その青年は、一年前にタイの世界チャンピオン、チャナ・ポーパオインを取材に行った時、現地在住の青島氏に紹介されたマギーだ。彼はバンコクにタイ式マッサージを習いに来ていた。マギーがアイスランドに空手道場を開くので「学生時代に修業した大阪の松濤館に来年、挨拶に行く予定がある」と言うので、「その時、時間があったら、東京の私の店に来て下さい」と名刺を渡した。マギー曰く、成田行きの機内で隣のシートに居合せた日本人に“チャンピオン”の名刺を見せると、その日本人はオギクボまで行くので、「フォロミー」と言ってくれて、アサガヤまで一緒だった。駅前の交番で名刺を見せるとこの店を教えてくれた。

マギーは北欧人の平均体格からみると小柄な方なので、体格が同じぐらいの常連にしてみれば違和感がない。「ウエルカム」と言って彼を歓迎し、ビールで乾杯。マギーはアイスランドの大使のように自国をアピールした。アイスランドは大きな火山島で、温水はあちこちに湧き出ている。温水プールはどの学校にもある。水道の蛇口をひねれば温水が出る。それを分かりやすく、スローリィアンドクリアリでしゃべり、カウンター席は盛り上がった。後で気が付いたのだが、マギーは九日間、東京に滞在する予定だと言っていたのに、ホテルは決っていなかった。どうしよう。そんな話になった時、中国拳法の揚先生が「弟子の中国人が住んでいる私のアパートは四部屋あるが、一部屋だけ洋間になっている。中国人は洋間を嫌うので、その部屋だけは、いつも空いている。そこで良かったら、使ってもいいよ」と言ってくれたので一件落着した。

翌日来店したマギーが「帰国したら、空手道場を開くので、日本武道の道場を見学して、その雰囲気を知りたい」と言うので、揚先生に頼み、中国拳法道場を手始めにして、空手、柔道の道場を案内してもらった。剣道は私の知人の刑事に依頼して、杉並警察署の道場を見学させてもらった。マギーは滞在中毎晩、来店している。五日目の夜、久々に筑波大学の教授、矢島先生が来店。マギーと同年輩のフランス人の青年を連れて来た。フランス人は「こんなところでアイスランド人に会うなんて奇跡だ!ミラクル!」とオーバーに表現し、二人は興奮して英語とフランス語でしゃべりまくっている。二人は話し合っているうちにマギーが明日から二日間、大阪の松濤館道場に行くので、留守中の二日間、マギーが借りている部屋を使わないか、ということになったようだ。

その日から二日後、フランス人が来店。「マギーにキーをかえして下さい」と言うので、「あと一日泊るのでは?」と問い掛けると肩をすくめ「でも、あの部屋はもういやです」と言い、小さな声で答えた。

「寝ているとゴーストが出るのです。」

揚先生に電話をすると「十年前にあの部屋で中国人が首つり自殺をしたんだよ、出るかもしれないね」とのことだった。

大阪から戻って来たマギーにその話をした。

「ゴーストは出るよ、ベッドの周りを歩き廻る音がするからね、でもワタシに危害を加えたりしないから平気だけど。」

そんな話をしている時に尾崎さんが店に入って来た。尾崎さんをマギーの隣に座らせ、英語で紹介した。マギーはマッサージに興味を持った。それはタイ式マッサージのライセンスを持っているからだ。尾崎さんはカイロプラクティックだ。二人は互いのテクニックのディスカッションになった。尾崎さんは帰り際に「晁さん、明日の午後三時にマギーを私の治療室に連れて来て下さい」と言って、マギーに「シーユートマロウ」とを振った。

マギー氏マギーの東京滞在最後の夜、日大相撲部の学生が二人来店した。マギーは二人を見て「ワタシ、あの人たちとアームレスリングがしたい」と言うので、そのことを学生に伝えると、「あの外国人ですか」と顔を見合せ、「ボクらはいいですが、彼のウエイトはウエルター級ぐらいでしょ、ボクらはヘビー級です、それでもいいなら、やりましょう」と言ってくれた。

テーブルを土俵にし、「お前が先にやれ」と言われた学生とマギーはテーブルの中央で手を握り合った。レフリーの私が「はじめ!」と声をかけると、両者の腕は十秒ぐらい動かなかったが、じわじわとマギーの腕に相手は圧倒され勝負はついた。驚いた先輩学生は「お前、手を抜いただろう!今度はオレがやる」と、凄い形相でチャレンジしたが勝てなかった。マギーは「サンキュー」と言って自分の席にもどった。

十分後、学生が私の前に立ち、「このままでは相撲部のプライドが許しません。相撲部で一番強いのを連れて来ましたので対戦させてください」と言った。その学生の体格はマギーとあまり変らなかった。マギーは二人と対戦している。当然疲れいると思い、「どうする」と聞くと、挑戦は「OK!」、受けると言うので、対戦させた。店内の総ての客が観戦する中でのファイトだった。熱戦の末、マギーは相手の腕をテーブルに捩じ伏せた。啞然としている学生に「ユーアーグッドファイター、サンキュー」と言って、チャレンジャーと握手をした。その笑顔は相手をしてくれた彼らに感謝をしているようだった。

学生が帰った後、マギーにアームレスリングのファイトの秘訣を聞いた。

アームレスリングは腕力ではない、テクニックである。対戦者が力を入れる時と抜く時がある。力を抜こうとしたその一瞬、一気に攻める。それは対戦者の目の微妙な動きで分かる。だから試合中は相手の目しか見ていない、と教えてくれた。

マギーは親しくしていた常連たちに「Xマスカードを送るからアドレスを書いて下さい」と手帳をひろげていた。

翌日、尾崎さんから電話があり、二人で成田空港までマギーを見送りに行った。「シユーアゲイン」の言葉を最後にマギーは消息を絶った。Xマスカードは誰のところにも来なかった。ヒーハズゴーン!

                                       【山本晁重朗】
                                                                                             

 あの夜は、常連客に「この店のクーラーは、壊れているんじゃないの」とぼやかれるほど、暑かった。山崎君も「暑いですね」とつぶやきながら、カウンター席の私の前に座った。山崎英眞は私が所属していた極東ボクシングジムの後輩で、アマチュアの選手だった。ちなみに私のスパーリングパートナーでもあった。

 ある時、二人でジムの帰りに新宿の歌舞伎町を散策した。相変わらず人々でごった返している。ふと気が付くと、四人のチンピラに囲まれていた。そして、ミラノ座の裏に連れて行かれ、長身の茶髪の男に、「お前、オレに眼付けただろう!」と言い掛かりをつけられ、私の胸を拳で突いた。私は黙ったまま、相手を睨みつけた。すると顔に傷のある男がナイフをちらつかせながら、「お前ら、いい面構えしているな!どこの組の者だ」と啖呵を切られたので、「オレたち〝極東〟だけど」と言ってしまつた。すると、彼らは顔を見合せ、態度が、がらりと変わり、「悪かったな、〝極東組〟は組員が多いので仲間の顔を覚えきれないんだ」と言って、彼らは雑踏の中に消えていった。二人で顔を見合せて笑った。極東拳は暴力団の極東組と間違えられるので、つねづね嫌なジムの名前だと思っていたが、その〝名前〟で助けられるとは皮肉なものだ。

 山崎君はアルコールを飲めないのに、まずはビールを注文する。そして私のグラスに注ぐのが何時ものことだった。ところが、今夜は自分のグラスに注いで飲み始めたのだ。私は、これは何かあるなと思った。案の定、彼は、「晁さん、オレ今年三十歳になったのです。誰かいい人を紹介して下さい」と言われ、咄嗟に数カ月前から毎週火曜日に来店する沙チャンの顔が目に浮んだ。彼女は十九歳で八王子の美容院に勤めている可愛い娘で、常連たちのあいだで人気があった。

 「ひとりいい娘がいるんだ、来週の火曜日、七時に来なさい、それとなく紹介するから」と即答した。山崎君は、チェーン店の理髪一番に勤めている理容師だ。沙チャンは美容師だし、二人には共通するものがあると思ったので、山崎君にすすめてみたのだ。指定した火曜日から沙チャンの隣の席には何時も山崎君が座っている。沙チャンはウィスキーの水割で、山崎君はコーラ。それで二人の会話は盛り上がっているようだった。数週間の時が流れ、ある深夜、山崎君が沙チャンをアパートに送った帰りに店に寄った。山崎君は、いきなり、「どうしよう!沙チャンは来週、美容院の寮に入ることになったと言うのです」と顔をしかめてうなだれた。私は、「山崎君、やっとチャンスが来たね、君は車を持っているのだから、引越を手伝えばいいんだよ」とはっぱをかけた。一週間後、山崎君はさっそうと店に入って来た。私が、「美容院の寮の部屋は、広いの?」と聞くと、山崎君は言った。

「八王子には行かなかったのです。沙チャンの引越の荷物はボクの自宅の自分の部屋に運びました!」

それを耳にした常連たちは、立ち上がり、「やったね!」と言って、ビールで乾杯をした。その時も山崎君のグラスの中はコーラだった。三カ月後、沙チャンの郷里、和歌山県から両親が上京し、私の古巣の九段会館で挙式をあげた。それから一年後に、二人は自分たちの貯えと、山崎君の親の援助をうけて、鷺ノ宮駅の近くの店舗を借り、喫茶店を開店した。屋号は、〝みつばち〟だった。

 

ある夜、山下智子が神妙な顔で入って来た。

「私、今のアパートを出なくちゃならないみたい。」

彼女は、徳島県出身の三十二歳。独身で化粧品会社ポーラの経理課に勤めている。毎日、会社の帰りに来店、軽く食事をすますと、ビール(大ビン)を、三、四本飲み、楽しい雰囲気を作る女性である。

「昨夜ね、大家さんが、ご主人の郷里から送って来た物のおすそ分けと言って、こんな物をくれたの。包の中を見ると腐った豆が入っていたのよ。こんな物をくれたのは私にアパートを出て行けと言っていることかしら?」

それを私が手に取ってみると、〝納豆〟だった。四国生れの智子さんは納豆を初めて見たそうだ。

翌日、智子さんはスーパーマーケット西友のチラシを持って来た。「晁さん、これを壁に貼って下さい」と手渡されたので、見てみると裏の白い部分に、〝この犬を捜して下さい〟と太文字で書いてあった。その横にボールペンで書いた犬の絵があり、犬の特徴も書いてあった。体形はドーベルマンぐらい。毛並はグレイ、名前は〝シロ〟。その紙をのぞきこんだ中島君が、「賞金三万円だぞ!」と叫んだ。智子さんの話では、依頼主は智子さんの上司の土屋課長で、半年前に、彼の大学の先輩から血統書付きの雄犬を十万円で譲ってもらった。生後三カ月だった子犬を、先輩のすすめで、調教師に三カ月あずけた。その犬が、一週間前に彼の家に帰って来た。犬小屋を買い、庭で放し飼いにしていたが、四日前に姿を消した。家の周辺を捜したが見つからなかいので、公開捜査にしたそうだ。それを聞いた智子さんが、「私が親しくしているお店のマスターに頼んで上げます」と言って、その紙を持って来たのだと言う。私はボクサー犬を飼っているし、犬のことにはオーソリティだと思い込んでいる智子さんは始めから私をあてにしていたようだった。私は、「それは気の毒ですね、明日捜しに行きます」と安易に引き受けた。そして上司の住所を聞くと、馬橋だった。そこは、店から歩いて三十分ぐらいの所なので、その近辺から捜すことにしようと思った。家に帰ると、愛犬のエルが尻尾を振って私を迎えてくれた。それを見て私はシロオは逃げたのではない!人に逢いに行こうとしているのではないか?その相手は調教師だろうか?調教師は訓練を厳しくし、犬との心の距離を常に保たなくてはならない。犬が調教師になついてしまうと飼主に帰せなくなるからだ。それは調教師の掟だと聞いたことがある。調教所は野方だ、犬には帰巣本能がある。野方に向かって歩いているのではないか。もしかするとその調教師は〝若い女性だったのでは〟と、勘繰る。

私は毎日、午後二時にエルを連れて、一時間散歩をする。そのコースはだいたい決まっている。馬橋にある東公園には必ず行く。そこは、〝犬の出入り禁止〟の立て札が無い。犬の散歩道の穴場になっている。私はエルの散歩はやめて、一人で公園内をぶらついてみた。何時ものように色んな種類の犬が飼主と散歩をしている。顔見知りの人と挨拶をして、三十分ぐらい歩き廻ったが無駄な時間だった。公園の外に出た時、五、六メートルぐらい先に灰色の毛並の痩せた犬が歩いていた。野良犬のように見えたが、何気無く、「シロオ」と呼んでみた。すると、その犬は私を見て近づいて来た。私は犬の頭をなぜながら首輪を見ると、小さな字でシロオと書いてあった。だがあのチラシに書いてあった犬の絵との風貌があまりにも違うので一瞬、躊躇したが、ズボンのベルトをリールがわりにして取り敢えず、家に連れて帰った。智子さんに電話をすると、びっくりしていたが、飼主の土屋さんと駅前で会うことにしてくれた。土屋さんは犬を見ると、しゃがみこみ泣き出しそうな声で、「シロオ」と呼んだ。シロオは土屋さんの顔を見て、足早で近づき、飼主の顔をペロペロと、舐めた。その光景を見て、私は礼金を辞退して帰った。その日の夜、智子さんが、土屋課長からと言って、白い封筒を持って来た。中には三万円入っていた。

 

あの晩、一週間ぶりに来店した永島氏は、カウンターに座ると、「晁さん、オレまた、やっちゃったんだ」と言ってから、ビールを注文した。永島氏は三十六歳、山之内製薬の営業課長だ。彼は当店では酔っ払いの部類に入るが、酒癖は悪くない方だ。彼はビールしか飲まない。それもサッポロビールだけだ。キリンビールなんかは馬の小便だとうそぶく。

「俺には女はいらない、ビールがあればいいんだ。結婚なんかしたら自由が無くなる。」

これが永島氏の口癖だった。三カ月前、六年間住んでいたアパートを出て、オデオン座の裏のマンションの三階に引越した。ところが、酔っ払うと、なぜか今まで住んでいたアパートに帰ってしまう。ある夜、たまたま鍵が開いていたので部屋の中に入り、冷蔵庫からビールを取り出して飲んでいる所に現在の住人が帰って来て、大騒ぎになったことがある。住人は五十代男性だったので、その時は何とか許してもらったが、〝また、やってしまった〟のでは警察沙汰になったのだろう。私は永島氏を、このままにしておいては危ないと思い、何とかしなくてはと考えていると名案がうかんだ。山下智子さんに白羽の矢を立てたのだ。智子さんと永島氏は当店の常連であるが、二人が隣り合わせになったことはない。そこで智子さんに永島氏の隣の席に座るように頼んだ。智子さんが話しかけると、永島氏は戸惑っているので、私が、「あなた方には共通点があるのですよ」と言うと二人が怪訝な顔をしたので、「お二人の名前に共通点があるのです。永島智昭、山下智子、〝智〟の字です」と話すと、二人がびっくりしているので、「まだあります。あなたたちはサッポロビールしか飲まないでしょう」と、そう言われてみればそうだと、気がついた二人は、照れ臭そうに顔を見合せて、乾杯をした。土曜日だったこともあって、閉店まで意気投合して飲んでいた。そこで智子さんに、「智昭さんは酔っ払うと以前住んでいたアパートに行ってしまうのです。智子さんのアパートと智昭さんのマンションは方角が同じなので、今日は智昭さんをマンションまで送って行ってください」と頼んだ。その日以来、二人は毎週土曜日には閉店まで飲み、智子さんは智昭さんをマンションまで送っている。それから二カ月後、二人は中野サンプラザで、山之内製薬会社とポーラ化粧品会社の友人達に囲まれて、盛大な挙式をあげた。

 

国際結婚が二組あった。シンガポールの留学生ソー・ウィリアム君と台湾の留学生マーさんだ。彼らも当店で知り合い、何時の間にか結婚していた。もう一組はイギリス人のステファン・ダーニンと小川直子さんだった。彼らは、直子さんがステファンに英会話を習ったのが切っ掛けだった。山崎君と永島氏のカップルは、私が手助けをしたが、その他の五組の若き男女は当店で知り合い、恋に落ち、結婚している。北海道は帯広の在住で、上京すると、必ず来店し、チャンピオンの人気料理〝チキンソテイ〟を食べていた初子と私との結婚をプラスするとトータル十組になる。
                                       【山本晁重朗】

 我が母校の杉並区立第七小学校の正門の前に、日大相撲部の稽古場がある。その隣に同じような稽古場が出来たので見に行くと、大きな看板に、〝花籠部屋〟と書いてあった。それから数年後、成田東に、〝二子山部屋〟が出来、次に文化学園大学の付属高校の近くに、〝放駒部屋〟が出来て、阿佐谷は、お相撲さんの町になってしまった。〝本場所〟がない時は、昼間からパールセンターを肩を並べて闊歩し、夜は酒場で町内の若者と和気あいあいと飲んでいる姿も見かける。駅の近くにあるオデオン座に行くと、場内の中央にある通路の前列の席が、四席並んで壊れている。お相撲さんが大きな体を無理やり入れて座るからだそうだ。マネージャーは、「直してもすぐに壊されるから、そのままにしてある」とぼやいていた。

 ある夜、そんな話を肴にしてパールセンターの長老、石井明氏と居酒屋で久しぶりに飲んだ。石井氏が言う。

「あれは昭和五十年代だったと思う、輪島が優勝した時はパールセンターをパレードしたし、いい時代だったね。」

わたしたちの話を聞いていたのか、隣で飲んでいた年輩のオジサンが、「懐かしいね」と言いながら椅子の向きを変え、仲間に入った。そして、「オレの話を聞いてくれ」と言うので石井氏と耳をかたむけた。

あの時は夕方だった。駅前のタクシー乗り場に背が高くてスタイルの良いイケメンのお相撲さんが若い衆を二人連れて立っていた。その人の前を行き来している人達は、誰もが気に留めず、存在すら無視していた。その人は当時人気絶頂の横綱千代の富士だったのだ。お相撲さんを見慣れている阿佐谷の住民にとって千代の富士は普通の相撲取りだったのだ。

当時、チャンピオンにも花籠部屋の相撲取りが時々来てくれた。輪島は学生時代にはよく来たが、横綱になってからは一度しか来なかった。ある日、日大相撲部の学生が、「先輩の色紙です」と言って、輪島の手形を持って来てくれた。それを店の目立つところの壁に貼っておいた。ある晩、輪島の学生時代の先輩が来店。輪島の色紙を見て鑑定をしてくれた。

「マスター、この色紙は本物だ。北口の駅前のラーメン屋に立派な額に入れて飾ってあるのは偽物だよ。だってあの色紙のサインの字がうますぎる。」

ひょうきんな気合の入れかたをして人気者になった高見盛は学生時代から来ていた。彼は納豆チャーハンが大好きで、いつもそれしか注文しなかった。チョンマゲを結ってから仲間と来店した時も、納豆チャーハンだった。連れの相撲取りは三五〇gのビッグステーキを食べているのに。

ある夜、長身で筋肉質の相撲取りが入って来た。ちょっと酔っているようだった。「マスターはプロボクサーだったんだってね。相撲とボクシングとどっちが強いかオレと勝負をしよう」と、詰め寄られた。私は、「あなたはヘビー級だし、私はフライ級なので、試合になりません」と断ると、後から来店した関脇の二子岳が、「それじゃあ、ルールを決めよう、オレがレフリーをやるから、マスターやってみなよ」と口をはさんだ。私は、「じゃあ、やってみます」と答えてしまった。

「ルールは、マスターは、ボディをナックルで打っていいが、顔は平手打ちだけ。睦の海は張り手と投げ、〝まいった〟と言うまで、時間は無制限。」

場所は店の隣の駐車場に決まった。零時を過ぎていたので、駐車している車は少なかった。そこはスポーツジムのリングくらいのスペースがあり、適度の明るさがあった。二子岳の「ファイト」で始まった。睦の海は両腕をぶるんぶるんと振り回しながら前進してくる。私はそのスイングをダッキングでかわし、懐に入りボディに右左のパンチを打ち込み、ガードが下がり、空いている顔に平手打ちを連発し、フットワークを使い、相手の攻撃をかわした。その攻撃パターンを繰り返ししていると、睦の海は、鬼のような形相で私を追い回した。調子に乗った私は、サイドステップ、バックステップと足を使い睦の海の攻撃をかわしていたが、この試合場が駐車場であることをつい忘れてしまった。大きくバックステップをした時、後ろにあった車にお尻が当り、はじきとばされて、睦の海の前に飛び出してしまった。睦の海は私を掴み、投げ飛ばすと、私は四、五メートル地面の上を横滑りになり、慌てて起きようとした時、睦の海が馬乗りになった。私は、「まいった!」と叫んだ。そこで二子岳が、「ストップ」と声をかけ、陸の海の右手を上げた。

いつの間にか見物人が、五、六人居た。私の両肘と左の頬から血が滲んていた。「マスターが可哀相!」と女性の声が聞こえた。レフリーの二子岳が、慰めるように言ってくれた。

「睦の海は、酒場で知り合った格闘技の経験のある人には必ず、他流試合を申し込んでいるが、空手、日本拳法、柔道の有段者たちには、みんな断られてしまった。ところが、このマスターは挑戦を受けちゃったのだから、凄い!負けましたが立派です。」

見物人は、それを聞いて納得したようだった。

酒を飲み直しながら、二子岳が言った。

「こんな結果になるとは思わなかった。もし、あのアクシデントが無かったら、マスターは、ハワイ出身の高見山を首投げで土を付けた十両の睦の海に勝ったかもしれない。でも勝負は時の運と言うからね。」

睦の海はグラスに手を付けず、私に怪我をさせてしまったのが気まずいのか、黙って下を向いていたが、いきなり立ち上がると、私を見つめた。彼の目のまわりが赤く腫れている。ビールを飲み干すと、私の手を握り、「ありがとう」と言って、二子岳を置いたまま帰ってしまった。その後、睦の海は常連客となり、相撲を引退し高円寺に〝チャンコむつ〟を経営してからも、交流は続いている。

ある日、私が店に向って歩いていると、後ろから乗用車が近づいて来たので横によけると、更に近づいて来る。「マスター」と呼ぶ声がするので、振り向くと、助手席に荒勢が乗っていた。「マスター、睦チャンとやったんだってね、二子岳がみんなの前でしゃべっていたよ」と、いたずらっぽく笑った。「お店まで乗せてあげる」と言うので、中に入ると、相撲部の学生が運転をしていた。「この車は誰のもの?」と尋ねると荒勢は、「五日前に錦糸町で拾ったんです」と言ったが、彼はお国訛りがきつく、聞きとりにくいので、運転手の学生に通訳してもらった。錦糸町に荒勢の先輩がいて、その家に行く途中にこの車が路上に駐車していた。帰りに同じ道を歩いていたら、この車が同じ場所に駐車していたので、あれから三時間も経っている。これは駐車違反だと、ドアに手をかけたら開いたので中を覗くとキーが付けっぱなしだった。それで、一緒にいた学生に運転させて、阿佐谷に帰り、駅前の米屋の駐車場に置いていた。三日たっても持ち主が名乗り出ないので、たまたま乗りまわしている。と、要約してくれた。その二日後、米を注文したので、店主が配達をしてくれた。彼はいきなり、「昨日は、大変な事があったんです」と話しだした。夕方、顔に傷のあるやくざ風の中年男が来て、駐車場に止めてあるベンツは何時からここにあるのか、誰が駐車したのか、ねほりはほり聞かれて恐かった。そこに、のこのこと荒勢がやって来た。やくざは、「お前がオレの車を盗んだのか!オレはあちこち一週間も探したんだ!」と怒鳴り飛ばした。大きな体を小さくして、誤っている相撲取りが、荒勢だったと気がつくと、やくざは、「今日は許してやる、半殺しにしてやろうと思ったが、オレは関取と同郷だし、お前のファンなので許してやる」と言って帰っていった。米屋は、「警察沙汰にならなくてよかった」と、胸をなでおろしていた。

相撲部の学生も常連だった。一人で三人前は食べるので彼らの顔を見ると、すぐにご飯の鍋に火を付けた。一年生が先輩のテイクアウトを取りに来ることがしばしばあった。ある日、小柄の学生が来たので、「君はマネージャー候補ですか」と聞くと、「いいえ、レギュラーです」と答えた。その人が、後の業師、舞の海だった。キャプテンの田中君はいつも一年生を、二、三人連れて来る面倒見のよい男だった。当店の近くにある日本料理店には一人で通い、その店の看板娘と、卒業すると同時に結婚した。ある時、新しいキャプテンが来店したので、「最近、田中君が見かけないけど、どうしている」と尋ねると、キャプテンが言った。

「マスター、田中〝君〟はやめてください。田中先輩は監督なんです。」

「そうか、田中さんは、どうしてプロにならなかったの?」

「それは分かりませんが、監督は二度、全日本相撲選手権で優勝しています。凄いのは、輪島先輩は監督と三度対戦して、一度も勝てなかったのです。」

その学生は、田中監督がプロになれば、絶対に横綱になれる人だと豪語した。そして、先輩にも後輩にも好かれている人で、相撲部出身の力士の四股名は、田中監督が付けていると言う。

田中さんは、社会人になっても、学生を、二、三人連れて、時々来店、奥さんと二人で来る時もあった。その田中さんが、世間を震撼させた日大のドン、田中英寿理事長と同一人物とは思えない。

                                       【山本晁重朗

夕方五時から一時間、雨の日も風の日も、散歩をする。コースも決っている。我が家を出ると、元、〝チャンピオン〟があった店の前を通り、商店街のパールセンターから青梅街道に出て、成田東にある善福寺川公園まで行く。

ある日、元、〝チャンピオン〟があった店の前にさしかかった時、黒のスポーツウェアーを着たスタイルのいい青年が、ウロウロしていた。不審に思い、近づいてみると、見覚えるのある顔だった。「失礼ですが、山中慎介さんでは?」と声をかけると、青年は立ち止まり、「はい、そうです。ここで待ち合わせをしているのです」と、目の前にある新築のビルを指差して、「確か、ここにチャンピオンがありましたね」と言うので、「その店は、十一年前にビルが老朽化してしまったので、止むを得ず閉店しました。四十三年間も営業していたのですが」と説明した。山中氏は、「チャンピオンのこと、詳しいですね。貴方も常連客だったのですか?」と言われたので、「いいえ、私はオーナーだったのです」と答えた。

「えっ、そうなんですか、私は学生時代、阿佐ヶ谷に四年間住んでいたので、何回か店に行きました。」

「そうでしたか。」

二人の会話は続いた。

山中慎介は元WBC世界バンタム級のチャンピオンである。山中のパンチには、〝神の手〟、〝ゴッドハンド〟の代名詞がある。左の一発で相手を倒すパワーがあるのでKOアーティストとも言われていた。当時、日本には十一
人も世界チャンピオンがいたが、その中で、一番人気があった。山中は世界バンタム級のタイトルを、連続十二回防衛(八KO)している。しかし、十三回目の防衛戦はルイス・ネリーに、四ラウンドTKOで敗れてしまった。半年後、同選手と再戦するが、二ラウンドでTKO負け(ネリーは体重超過でタイトル剥奪)。

平成三十年三月二十六日に三十五歳にして引退した。彼と私が、対話しているのは、その一カ月後の四月二十六日である。三十一戦の戦績があるのに傷一つない端正な顔立ちは、ボクサーには見えなかったのか、道路の真ん中で立ち話をしているのに、行き来している人たちは気が付かなかったようだ。私は、「ここで山中さんに会えたのも何かの縁ですね」と言って、石橋ボクシングジム・トレーナーの名刺を渡して別れた。

散歩が終り家に着いた時、携帯が鳴った。橋本昌子さんからだった。

「さっき、元のお店の前で立ち話をしていたでしょう。あの人、山中慎介じゃない?何の話をしていたの。」

彼女は流石、ボクシング関係者だ。気が付いていたのだ。橋本さんは女子ボクシングの世話役をしている。

「再戦一ラウンドに擦ったようなパンチで、山中さんがダウンしたのは、半年前、TKO負けした時のダメージが残っていたから倒れたのではないですか?と率直に聞いたのですが、否定されました。」

私が、そう言うと、彼女は、「そうですか。でも、TKOで負けたあの試合は、まともに強打を浴びていたので、かなりのダメージはあったと思う」と強調し、わたしと同じ見識だった。私がなぜ、山中氏にそんな質問をしたのか、後日、彼女と会って話した。

フレンド会の会計係の咲谷達夫は元プロボクサーだった。十七歳でデビューし、昭和三十二年、第十四回ライト級新人王になり、僅か六戦目に、同級日本チャンピオン小林秀人とノンタイトルで対戦、引き分けて、一躍、四位にランクされた新星だった。

その後、日本ライト級挑戦者決定戦で二位の金田森男(後に、ミドル級チャンピオン)と対戦することが決まり、ハードなトレーニングに入った。咲谷は一階級上のウェルター級の選手とスパーリング中に、右ストレートをまともに顎に受けて、ダウン、そのまま意識を失い、KOされたのと同じ状態になってしまった。JBCでは、試合でKOされたボクサーは、九十日間の出場停止になる。それは選手のダメージの回復をはかるための最小限必要な期間である。咲谷の試合は十日後だ。菊地トレーナーは困惑したが、意識を取り戻し咲谷の強い意志に押され、会長にアクシデントを隠して出場させた。

咲谷は先制攻撃で、金田をコーナーに追い込み、滅多打ち。これで勝負は決まったと、誰もが思った。その時、苦し紛れに振り回した金田の右が、咲谷の顎を擦すった。効いているパンチではない!だが、咲谷はダウン、そのままキャンバスに大の字で寝てしまった。レフリーはカウントをせず、両腕を大きく左右に振った。KO負けである。気を失っている咲谷はセコンドに抱えられ控室のベンチに寝かされた。三十分後、ドクターが再び診察に来た。

「大丈夫です。このまま、しばらく寝かせておいて下さい」と言って控室を出ると、入れ替りに、レフリーの手崎弘行が入って来た。意識不明の咲谷を見て、「私が起します」と言うと、姿勢を正し、かん高い声で、カウントを始めた。

「ワン、ツー、スリー!」

この声に反応して、咲谷の体が少しずつ動き出した。〝エイト〟をカウントした時、咲谷は立ち上がったではないか。そして、パッと目を開きファイティングポーズをとったのだ。それを見た菊地トレーナーは、咲谷の右腕を掴み、力強く上に突き上げた。そして、「チャンピオン!」と叫んだ。その声を耳もとで聞いて、〝キョトン〟としている咲谷に心配して駆け付けた同門の選手たちがいっせいに拍手をした。

話が終わると、橋本さんは山中に、質問した主旨は分かったが、咲谷の後遺症が気掛かりのようだった。咲谷に後遺症は全く無かった。電卓を使わずに暗算で、フレンド会の会計係をしている。聡明な男である。

数日後、月刊誌『ボクシングビート』の〝山中慎介引退特集〟を読んでいると、山中氏が「学生時代、阿佐ヶ谷に四年間住んでいたので、何回か店に行きました」と言っていたので、思い出したことがある。

年輩の常連客が、「オレがいた大学の後輩の、この子がボクシング部のレギュラーだと言っているので連れて来た」と学生服の青年を紹介してくれた。青年は立ち上がり挨拶をしたが、普通の学生でボクサーのイメージはなかった。むしろ演劇部の二枚目のタイプだった。

「卒業したら、プロボクサーになるのですか?」と聞くと、学生は、「はい」と真顔で答えた。私は、「君はハンサムだし、世界チャンピオンになれる顔をしている」と言うと、青年は照れ臭そうに頷いた。一週間後、青年が、「今日は、先輩は来ません、ボクだけです」と言いながらカウンター席に座った。私は、あの時のイケメン学生だとすぐに気が付いた。

「マスターに世界チャンピオンになれる顔だと言われたのが、嬉しくて来ちゃいました。

山中氏とは、過去にそんなエピソードがあったのだ。あれから十数年、時は流れた。

今や、伝説の店になってしまった〝チャンピオン〟が、かつてあった場所に、〝無冠〟の山中慎介が立っていたのは、偶然だったとしても、その光景を忘れることはないだろう。


                                                                              【山本晁重朗】

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