"チャンピオン"日誌[あの日あの時エトセトラ]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。18年1月より、「あの日あの時」シリーズを開始、19年1月で終了。19年2月より、解題して、「あの日あの時あの人」シリーズを開始、20年9月に終了。新たに、20年11月より、「あの日あの時エトセトラ」シリーズを開始。                                      英訳版[Champion's Journal - WordPress.com]https://asagayachampion.wordpress.com/

カテゴリ: ボクシングをめぐって

 WBA世界ミドル級タイトルマッチの微妙な判定と、試合後に村田諒太が「結果は結果、試合の内容は第三者が判断すること、僕自身、勝っていたとか、負けていたとか言いたくない」と、スピーチしたのが気にかかり、親しくしていただいている作家・安部譲二氏の見識を伺ってみた。安倍氏から手紙と彼の著書『ファイナル・ラウンド』が贈られてきた。
 手紙には、「村田はまだアマチュアで、プロボクサーではないと思います」と。その後に、アマチュアボクシングのルールと、アマのボクサーの戦い方が詳細に書いてあった。読んで、アマとプロのボクシングの違いを再確認した。
 深夜、TVで偶然、村田のインタビュー番組を見た。対談を聞いていると、村田のボクシングに対する心境が、筆者なりに解かった。村田の目標はアマチュアの頂点のゴールドメダリストだった。プロボクサーにはなりたくなかったと思える。ところが、高額の契約金で、説得されてしまったのだろうか。
 プロのデビュー戦は、東洋太平洋ミドル級王者・柴田明雄だった。柴田を2R右ストレート一発でKO!これはいけると期待した。その後、十一戦して全勝、八度のKO勝ちがあったが、なぜかレフリーに右手を上げられた時の村田の表情が、あまり嬉しそうに見えなかった。
 それは顔面にパンチが当った時と当てられた時の衝撃、ボディを打たれた時の苦痛を知りつくしている村田にしてみれば、対戦者があまりにも呆気なく倒れてしまうからだろうか。『ボクシング・ビート 7月号』の“KOトーク”で尾崎恵一氏は、微妙な判定で亀田興毅がランダエタに勝ってチャンピンオンになったことに触れていたが、村田は亀田のようなかたちで造られたチャンピオンにはなりたくなかったのだろう。
 そのように思うと、スホーツマンシップと村田の真面目な性格が、世界戦で、中途半端なファイトをしてしまったのは頷ける。
 インタビュー番組で、「再戦するでしょう?今度はKOで勝ちますね?」と突っ込まれ、村田は「その質問に答えるのが一番〝苦手〟なのです」と消極的であった。
 安倍氏の小説『ファイナル・ラウンド』は、学生時代にアマのボクサーだった男達が社会人になってからの人生と彼らのファイナル・ラウンドを描いている。村田のファイナル・ラウンドが気掛かりだ。

二〇一七年七月三〇日・記

※八月三日、再戦は一〇月二二日に決まったと発表されたが。            [ 山本晁重朗]

 会場は騒然としている。リング上で敗者が、マイクを持った。
 『結果は結果。試合内容は第三者が判断すること。僕自身、勝っていたとか、負けていたとか言いたくない』
この言葉は、ボクサー・村田諒太のポリシーだと思った。ミドル級のウエイトは平均的日本人の体型にむいていない。現在、日本に十一人の世界チャンピオンがいるが、軽量級の選手ばかりだ。二十二年前に竹原慎二がWBA世界ミドル級チャンピオンのホルヘ・カストロを判定で下す快挙があったが、一度も防衛は出来なかった。
 アメリカにフォアマン方式というのがある。ジョージ・フォアマンのマネージャーが考案したシステムで、まずは必ず倒せる相手を選び、徐々に上位のボクサーとグローブを交え、無敗で頂点に立たせ、世界チャンピオンに挑む方式である。タイソンは、その方式だったという。村田はデビュー戦に東洋チャンピオンの柴田明雄を選び、KOで下し、フォアマン方式で次々と対戦者をKOで葬り、世界に挑んだ。同門の浜田剛史(現・帝拳プロモーション代表)も、このシステムで世界のベルトを手にしたのではないか。
 村田はデビューしてから四年になる。プロモーターは、強豪ひしめくチャンピオン達の中から、やっと村田と噛み合う相手を見つけ、世界戦が決った。空位のタイトル決定戦の相手は一位のアッサン・エンダムだ。エンダムの戦績とプロフィルを見ると、二位の村田に勝機ありと予想はできた。
 五月二十日、ゴングが鳴った。エンダムはフットワークに乗ってパンチを打つスピーディな選手だった。村田はガードをしっかりと固めて応戦。四回に右ストレートで強烈なダウンを奪い、五回、六回、七回とエンダムをぐらつかせ、主導権を握り、これで勝負は決まったかに見えた。だがその後の村田はジャブを打たず、右ストレートに頼る消極的なファイトになってしまった。エンダムは依然と手数は多いが、村田のガードの上を打っているだけで、クリーンヒットはなかった。終了のゴングが鳴った時、ふと四十九年前の桜井孝雄が、ライオネル・ローズに挑戦した世界バンタム級タイトルマッチを思い出した。桜井は前半にダウンを奪い、ポイントを取っているので勝利を確信し、後半は、そのポイントを守る逃げのファイトをした。ところが、その作戦が裏目に出て判定負けをしている。まさか?村田も同じようなファイトをしたのではないかと、かんぐる。皮肉にもそれが金メダリストのジングスなのかとも。
 後日、WBAのメンドーサ会長は試合を検証し、判定のあやまちを認め、エンダムとの再戦を決めた。
村田は、『試合の内容は第三者が判断すること』ときれいごとを言っているが、勝敗を決めるのは第三者でも、ジャッジでもない!
 己の二つのこぶしとファイティングスピリッツである。

二〇一七年五月二十五日・記                                [ 山本晁重朗]

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