"チャンピオン"日誌[あの日あの時あの人]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。19年2月より、新たに、「あの日あの時あの人」シリーズを開始。                                      英訳版[Champion's Journal - WordPress.com]https://asagayachampion.wordpress.com/

カテゴリ: あの日あの時ある人

 新型コロナウイルスの感染を防ぐため、ステイホームをしている時、本棚の上にある赤い表紙のアルバムが目に付いた。ずっしりと重い。分厚い表紙を開くと、〝「チャンピオン」開店三十八周年記念パーティのご案内〟が貼ってあった。

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 前略、早速御案内申し上げます。

 私たちの「チャンピオン」は、東京オリンピックの開催された一九六四年にはじまり、二十一世紀幕開けの今年を数えて三十八年目を迎えます。そこで、有志の方たちが発起人となり、記念パーティを開催することになりました。「チャンピオン」で青春を過ごされたあの時、あの時代に戻り、様々なご縁に恵まれた懐かしい方々と、新旧一同に会し、大いに語り合い、楽しんでいただきたく、御案内申し上げる次第です。何卒、御出席賜りますようお願い申し上げます。尚、当日は、ボクシングのエキシビジョンや、プロの方々の音楽、歌、そしてフラメンコダンス、その他を予定しています。                                  
                                    発起人代表 鶴田正浩

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 「日時 平成十三年十一月二十二日(木曜日)、午後六時三十分より、場所・九段会館(三階真珠の間)。会費 お一人様一万円(子供は無料です)」と記してあった。

 三十八周年記念パーティ開催の二カ月前に、ニューヨーク同時多発テロがあった。〝九・一一〟である。その二十日後に、初子と九段会館に行き、宴会係主任の庭月野氏を訪ねた。彼は私が会館に勤めていた時の友人で、私たちの結婚披露宴は彼が便宜をはかってくれた。立食パーティで出席者は百人だった。「三十八周年は二百人近く案内状を出している」と言うと、会館で一番広い三階の真珠の間を確保してくれた。

 アルバムの二頁を開くと、今井重幸氏が舞台の中央で乾杯のポーズをとっているショットがあった。その横に、発起人の鶴田正浩氏がマイクに向っているショットがあり、俳句誌「炎環」主宰の石寒太氏、スポーツライターの藤島大氏、二宮清純氏、前田哀氏らのショットが並んでいる。その中に日本語でスピーチをしているジョナサンのスナップショットもあった。

 次の頁には司会者の松岡みどりさん、そして私と初子が挨拶をしているツーショットがあった。それを見ていると私は何時の間にか十九年前にタイムスリップしてしまった。

 満員の立食スタイルの会場には、ボクシングの関係者、俳句の関係者、映画友の会、佐藤塾(空手)の関係者達の新旧常連客が入りまじり歓談していた。

 私はカメラを持って、ごった返す出席者の渦の中に入った。一人ひとりにお礼の挨拶をしながら、笑顔でポーズをとる彼らを撮りつつ歩き回っていると、「ちょうさん」、背後から声をかけられた。振り向くと、東大生だった上田薫ちゃんが美人の奥さんを紹介した。カップルは名古屋から来てくれたのだ。その隣にいる薫ちゃんと高校が同級だった長谷川夫妻は、小学生の娘と三人で新潟から、飲み仲間だった上智の木村君は宝塚から来てくれた。後に、安倍内閣の復興大臣になる田中和徳氏に肩を叩かれた。彼も学生時代からの客だった。

 七時から余興が始まるが、その前に、チャンピオンで知り合い、結婚したカップル第一号の永島夫妻と第九号の中村夫妻が舞台に上がりスピーチ。仲が良いところを見せつけられた。

 余興のトップバッターは殴られ屋の純君だった。新宿の歌舞伎町で、酔っ払いのうさばらしに、一分間千円で殴らせるという珍商売だ。当時、彼はマスコミの寵児になった。因みに日曜ボクシングのレギュラーでもある。その殴られ屋に挑戦したのが鶴田氏の娘さんの育子ちゃんだった。十二オンスのグローブを付けた彼女は、舞台の中央で、純君を殴りまくったが、パンチは一発も当たらなかった。拍手と感声が静まるのを待って、橋口瑞恵さんがさっそうと登場、ヴァイオリンを演奏。続いて珠木美甫さんのシャンソン。そして大橋巨泉の娘さんのジャズシンガー、美加さんと、妹のチカさんのデュエット。この姉妹は阿佐谷恒例の〝ジャズストリート〟のレギュラーで、会場を満席にするボーカリストである。レコード会社新星堂の鶴田氏が、「彼女たちのデュエットは、初めて聴いた。素晴しい!」と絶賛した。「カン、カン、カン」と、ゴングのテンカウントが場内に鳴り響いた。それは私がゴングの代りに調理場から借りてきたフライパンを、ステンレースのスプーンで叩いた音だ。舞台に現役のベテランレフリー島川威氏が登場。日曜ボクシングの練習生のスパーリングが始った。一ラウンド二分の三回戦。両者の激しい打ち合いに会場は興奮のるつぼと化し、後楽園ホールさながらの声援がとんだ。

 その余韻が治まらないうちに、メインイベントのフラメンコダンサーが舞台に華やかなドレスで登場。息子将光のジャマキート舞踏団だ。「オーレイ」、「ブラボー」と掛け声が入り、情熱的なムードが会場と一体になった。

 余興が終り、舞台に元日本チャンピオンが四人登場。ライト級のシャイアン山本、Jライト級の赤城武幸、Jミドル級の引地博、ライト級の大山悦。シャイアン山本氏が代表で、「三十八周年おめでとう。チャンピオンの防衛回数をもっと伸ばして下さい」と激励の挨拶をしてくれた。彼らが舞台を下りると、私と初子が上がり、花束が贈呈され、お礼の挨拶。そこに御輿のコーちゃんが登場、三、三、七拍子でパーティは無事に終了した。

 二次会は隣の桜の間だった。会計係の深代チャンが、「出席者は子供四人をプラスして二百三人です」と耳打ちをした。会場は真珠の間より狭い。どんな状態なのか見に行くと、入口に鷺谷達夫さんがいて、両手を広げ、私を迎えた。その瞬間を女性カメラマンの岩本昌子さんが捉えた。そして、その写真がアルバムのラストの頁に貼ってあった。

 五六頁に一九四枚の写真が納まっているこのアルバムは、私にとって貴重なものである。見終ると裏表紙を閉じ、そっと戻した。            
                                       【山本晁重朗】

パジャマに着替えた時、ケイタイが鳴った。「まだ起きているの?」。次男の寛朗の声だった。新型コロナウイルスの感染拡大の緊急事態宣言が出た。売上げが減少している。それが気掛りのようだ。「でも、皆で頑張っているから心配しないで」。まだ店に居る気配がした。

寛朗は平成十四年からチャンピオンが閉業するまでの五年間、私のもとで料理の修業をしている。その時の常連だった馬場昭次氏に、料理の腕と人格が認められ、チャンピオンが閉業すると、JR中野駅南口、丸井デパートの横丁にある、スペイン料理店「シオノ」の店長に抜擢された。店は繁盛している。そして、チャンピオンの常連だった人たちが寛朗の存在を知ると次々と来店し、今や、「シオノ」の常連客になっている。寛朗の座右の銘は、〝出会いを大切にする〟だという。

あの時は常連客が二人居ただけだった。「今日は暇だから早く帰ろうかな」と時計を見た時、赤電話が鳴った。ほりちゃんからだった。「チョウさん!来て下さい、沼さんがエディさんに絡んでいるのです」。ほりちゃんは後に、チャンピオンの二階にバー「ランボー」を開業する同業者だ。その時点では鍋屋横丁交差点の近くにあるバーの雇われマスターだった。客に絡んでる沼さんは田宮二郎にちょっと似てる中年のキザな男で、シルバーウイスキーのセールスマンだ。素面の時は好人物なのだがアルコールが入ると、がらりと人柄が変り、誰にでも絡んでしまう。

ほりちゃんの電話ではエディさんに絡んでいると言っているが、あのボクシングトレーナーのエディ・タウンゼントだろうか。数日前、ほりちゃんが来店した時に、店の近くに住んでいるので、飲みに来ることがあると言っていたが。

エディ・タウンゼントはハワイ生れの日系人で、プロレスラーの力道山の招きで来日した。ハンマーパンチの藤猛、海老原博幸、ガッツ石松、柴田国明、井岡弘樹ら五人の世界チャンピオンを育てた名伯楽である。

「早く行って上げなよ、新沼はチョウさんの言うことは聞くから」。沼さんと大学が同期だった星野さんが言うので、前掛をはずし、駅前のタクシー乗場に走った。

沼さんは、なんとかなるだろうが、エディさんはTVで見ただけで面識が無い。どうしよう。

店内は薄暗かった。ほりちゃんが沼さんがいる席に案内した。沼さんは立ち上がり、「チョウさん来てくれたか!」。彼の前にいた若者二人も立ち上がり、「この野郎はエディさんをバカにしたのだ!こんなジジイがエディじゃない、偽物だ!と」。私は三人に頭を下げると、「オレたちはエディさんのファンなのだ、この野郎は、こんな店にエディさんは来ない、と絡んでいやがった」。どうやらこの若者たちは、ここに居合わせた客のようだ。私が平に謝ると、「落し前をつけてやる」とわめいている。当のエディさん困惑した目で私を見た。そして、「アナタ、アノトキのヒト!」。

数年前、私が所属していた極東ボクシングジムの会長、小高伊和夫の葬儀の日に会った人だった。葬儀はジムの場内で行われた。弔問客が多かったので、場外に並び焼香の順番を待っていた。朝から降っていた小雨が突然、土砂降りになったので、あわてて、傘をさした。その時、私の前に居た人に、「入りませんか」と声を掛けた。「アリガトウゴザイマス」。たどたどしい日本語だった。あの人はエディさんだったのか。

エディさんは粋がっている若者の前に立ち、私と握手を交わした。驚いている彼らに、「コノヒト、ワタシノトモダチ」。その一言で一件落着した。

あの人の名前はリングネームではない。元世界フライ級チャンピオン花形進は本名である。米国の有名プロモーターのドン・キングが本名であるのならば、二人の名前は彼らのビジネスに相応したネーミングだ。ドン・キングは、プロレス、プロボクシングのプロモートを手掛けた若き日のドナルド・トランプのライバルだったと聞く。まさにキングは王様である。

花形を英語にするとスターだが、名前とは程遠い地味なボクサーだった。昭和三十八年に十五歳でデビュー。四十九年十月十八日、チャチャイ・チオノイ(タイ)をKOで世界フライ級タイトルを、奪取するまで十年の歳月があり、六十二戦目だった。因みにライバルの大場政夫が世界タイトルを奪取したのはデビューから四年、二十八戦目だった。そして、事故死するまでに五度防衛しているが、花形選手は翌年のサラバリアとの初防衛戦に失敗している。その後、黒星を二つ重ねて引退した。

そんな地味なボクサーが、数年後、横浜の池辺町に花形ボクシングジムをオープンしたのだ。

チャンピオンの常連のプロボクサー高橋純が、そのジムに所属している。彼の案内で、花形ジムを見学に行った。ジムは三階建の新築ビルの一階にあった。純君が花形会長を紹介してくれた。気さくな人柄で私を歓迎してくれた。ジムは広いフロアに正規と同じサイズのリングがある。その横に大小のサンドバックが五、六本吊るしてあった。ビデオカメラも設置してあり、設備が整った近代的なジムだった。

オフィスでコーヒーをご馳走になりながら、「世界チャンピオンになると、こんな立派なジムが持てるのですね」と言うと、会長は首を横に振り、「ファイトマネーで、このジムを所有したのではありません」。右手の人差指を立て、「一本の牛乳ビンが縁で、このジムのオーナーになったのです」。

会長は、その経緯を話してくれた。

TVのインタビューが終り、ジムの外に出ると、入門したばかりの練習生が、にっこりと笑い挨拶をしたので、「一緒に帰ろう」と声をかけた。練習生は、「ボクシングマガジン」を読んだのだろう、私が世界チャンピオンになるまでの苦労談をよく知っている。彼はTVのインタビューとは異なった質問をいろいろとするので、私は、それなりに楽しかった。駅前の売店で牛乳を二本買い、「喉が渇いたね」と、言って一本、彼に渡した。

それから数年後、引退して古巣のジムのトレーナーになった私の前に、あの時の練習生が立派な扮装で現れた。彼は、「バブルの波に乗って、事業が大成功しました。近々、三階建のビルを建てるのです。二階、三階はオフィスにして、一階をボクシングジムにします。そこを花形さんに使ってもらいたいのです」。いきなり言われたので、驚いていると、「あの時に頂いた〝牛乳〟のお礼です」。

会長の話を訊いた私は、花形選手との〝出会い〟と練習生のその時の心境を推測した。練習生にとって世界チャンピオンは雲の上の人だ。そんな人から貰った牛乳ビンには、彼の人生に刺激を与える何かがあったのだろう。練習生にとって花形会長は、〝スター〟だったのだ。

花形ボクシングジムをオープンして、半世紀。一本の牛乳ビンは、日本王者六名、世界王者一名を輩出している。

七十二歳で日本ボクシング協会の会長に就任し、努力と根性の人が、今、新型コロナウイルス終焉を目指して頑張っている。
                                       【山本晁重朗】

ある夜、常連客の木村和男君がポスターを持って来た。「これを店に貼ってくれますか」。見ると、〝日本空手道佐藤塾〟と大きな字で書いてあった。その横に、〝塾生募集〟とある。「ボクシングの店に空手はだめですか」と声が控えめだった。私は、「空手も好きですよ」と言って壁を指差した。そこには大川ボクシングジムのポスターが貼ってある。「その横に並べて、そのポスターを貼ります」。其処は一番目立つ場所だ。

数日後、スポーツ刈りで体格のいい中年の男が来店した。男は一礼すると、「空手塾のポスターが貼ってある店があると聞きましたので、見に来ました」。「あそこにあります」。目くばせすると、男はポスターの前に立ち、「ありがとう御座います。このポスターは誰が持って来たのですか?」。「木村和男君です」。男は頷き、「木村は私の道場の塾生です」。私は一歩前に出て、「では、あなたは佐藤勝昭さんですね」。見たことのある顔だと思っていたので、すぐに彼だと分かった。「私はあなたの試合を見ています」。佐藤氏は、「本当ですか」と言いながら席に着いた。

佐藤勝昭は昭和五十年に、〝世界空手道選手権大会で、優勝した初代の世界チャンピオンである。昭和五十二年に極真会を退会して〟日本空手道佐藤塾を設立している。三十一歳だった。道場はJR武蔵境の駅前ビルの地下にある。

佐藤氏は隣に貼ってある大川ジムのポスターを見ているので、「私はこの店を開業する前は大川ジムのトレーナーだったんです」と言うと、佐藤氏は、「ボクシングのテクニックは凄い!空手家が、パンチを二発打つのと同じスピードで五発打てる。そしてパンチ力もある」。今までに何人かの異種格闘家が来店しているが、こんなことを言われたのは初めてであった。私は佐藤氏の横顔を見詰め、世界の頂点を極める人は矢張り、どこか違うと思った。佐藤氏は、「ビールのグラスは大きいものを下さい」と言うので、酎ハイ用の大きいグラスをわたすと、ビールをなみなみとついだ。それを飲み乾すと、「道場に来て、パンチの指導をしてくれませんか」。私はそれに応えず、「今度の店の定休日に見学に行きます」と言いながら、佐藤氏がついでくれたビールグラスを目の前に掲げた。

定休日を木曜日にしたのは、ごく最近だった。道場はJR武蔵境の南口て、ボーリング場があるビルの地下にあった。七時に道場のドアを開けると、佐藤氏が笑顔で迎えてくれた。大川ジムより、ひと回り広い道場に塾生が四十人ぐらい稽古に励んている。片隅で見ていると、佐藤師範は手を叩き、彼らを中央に集めた。そして、私を紹介した。「元プロボクサーの山本晁重朗さんです。毎週木曜日にパンチの指導に来てくれます」と言ったので、私は驚いた。見学に来ただけなのに指導者になってしまっている。稽古が終わると、「一杯やりましょう」。近くの行き付けのバーに誘われた。佐藤氏は可也のビール党で、佐藤氏専用の大ジョッキーが置いてあった。大ビンのビールが一本入る。私にも同じジョッキーを持たせて、一本ついでくれた。「押忍!」で乾杯。「これで山本さんは佐藤塾の同志です」。一杯飲み乾した佐藤氏は、「やっぱりパンチだけだったらボクシングの方が強いです」。それは、私のパンチの指導を見た感想だろうか。私はふとある空手家を思い出した。「大山倍達さんが、若い頃、日本ミドル級チャンピオンのピストン堀口とスパーリングを二ラウンドやったけど、私のパンチは一発も当たらなかったと言っていました」。佐藤氏は立ち上がり、「それは誰から聞いたのですか?」。私は怪訝な顔で、「大山さんからですが」。「大山館長と面識があるのですか?」。「えゝあります」。

ある日、平沢貞通を救う会の事務局員だった私は、事務局長の森川哲郎氏の自宅兼事務所に出勤すると、大柄でがっちりとした体格の客人がいた。森川氏が、「この人は空手家の大山倍達さんです」と紹介してくれた。

大山倍達は戦後、初の全日本空手道選手権大会で優勝。以後、〝昭和の武蔵〟をめざして精進を重大山倍達さんね、猛牛と格闘し角を叩き折り、〝ウシ殺しの大山〟の異名をとる。国内にはなく、昭和二十七年、渡米、空手代表としてプロボクサー、プロレスラーと対戦して、連戦連勝している空手家である。その偉業をマスコミに載せたのが森川氏であった。実録小説を書いている。その森川哲郎を大山氏は尊敬しているという。

大山氏の血気盛んなエピソードを頷きながら聞いていた佐藤氏は、空になったジョッキに気付きビールを注文した。

私が救う会の事務局員になった時は、二十五歳だった。森川事務局長と何時も行動を共にしているので、大山氏と会う機会が多かった。極真会館の道場開きのパーティにも出席した。初代の極真会会長に選ばれた佐藤栄作氏(のちに総理大臣になる)と大山氏のツーショットを写している。因みにその写真が大きな額に納まって館長室の正面の壁に掛けてある。大山氏はチャンピオンに来店したことはないが、新装開店の時に、〝極真会館空手道場、大山倍達〟の大きな花輪をお祝に下さった。

佐藤塾へ指導に行く度に新しい塾生の顔がある。名前を覚えるのが大変だった。三度目の木曜日に行った時、佐藤師範は私のトレーニングウエアにクレームをつけた。「ここは空手の道場なのです。ボクシングシューズも脱いで空手の道着を着て下さい」と忠告された。私は早速、青梅街道にある井上武道具店に行った。店員が私の顔を見て、「帯は黒ですね」と言ったが、私は初心者の白帯を選んだ。

私の空手着姿を見た佐藤師範は、「似合いますよ」と言って笑ったが、師範代の高橋さんは、「指導者が白帯とはね?」と首をかしげている。塾生たちは、「親しみがあっていい」と言って積極的に指導を受ける若者が増えた。

マンガ「空手バカ一代」がヒットし、世間は空手ブームになっていた。佐藤塾にもTVが取材に来た。その時、師範は、私に黒帯をそっと貸してくれた。それを締めてカメラの前に並んだ。

土曜日の十時頃、塾生が二人来店。「オス!」と言って一礼し、カウンターに座ると、「先生!自分にビールを下さい」。立ち上がって「ボクはハンバーグをいただきます」と大声で注文するので常連たちはびっくりしている。「君たち、ここは道場じゃないのだから先生はやめて下さい」と注意すると、「どこに居ても、先生は先生です!」。肉屋のコーちゃんが、「ちょうさんは何の先生なの?」。

そこに月刊誌「ボクシングワールド」の編集長の前田さんが、元世界Jライト級チャンピオンの小林弘さんを連れて来た。常連たちは、「雑草の男!」、「クロスカウンターの名手!」と声を掛けると、小林さんは両手を上げてガッツポーズ。如才ない人で、気さくにファンの質問に答えている。彼の芸術的に曲がり、潰れている鼻は、世界タイトルを通算六回防衛している歴戦のたまものである。前田さんは今までに、Jミドル級の輪島功一、Jバンタム級の飯田覚士ら、元世界チャンピオンを連れて来ている。小林さんは帰り際に、「ジムに遊びに来て下さい」と言ったので、前田さんに紹介された時に交換した名刺を見た。ジムの所在地は武蔵境だった。もしかすると佐藤塾の近くかもしれない。木曜日は少し早めに家を出て、小林ジムを訪ねると、佐藤塾道場のすぐ近くだった。ジムは大川ジムより少し狭かったが、設備が近代的だった。小林会長に、「空手の道場が、この近くにあるので、佐藤塾長を紹介したい」と進言すると、小林会長は、「是非」の一声だった。道場を案内し、佐藤塾長を紹介すると、意気投合し、二人の交流が始まった。

佐藤勝昭は、昭和六十一年から新ルールによる全日本空手道選手権大会を、主催している。会場は代々木体育館だった。その来賓席の中央には小林弘の姿があった。そして、後楽園ホールのリングサイドには佐藤氏が座していた。数年後、佐藤氏の結婚披露パーティには小林夫妻は招待され、私もカップルで出席している。

道場には足掛三年と三ヶ月、指導に行っていた。山中湖の夏の合宿にも二度参加している。私は腰の回転で打つパンチの打ち方、キックに対してパンチを打つ間合い、空手の型にはないフックとアッパー、サイドステップなどを指導した。佐藤師範は空手を通して、礼節、義理、人情、そして武道の精神を指導していた。彼の思想に共鳴し、佐藤塾での三年と三ヶ月は、私にとって貴重な体験であった。佐藤勝昭は、九歳年下であるが、私の人生の師でもある。

ある夏の夜、神博行君が格闘技の専門誌を持って来店した。彼は札幌出身で二年前に来店し、常連客になっている。雑誌には、〝空手バカ一代〟のヒーローである極真会館長の大山倍達が、主催する〝夏の合宿五日間募集〟の記事が載っていた。神君は札幌の空手道場に通った経験があるので、この合宿に応募したいという。私が佐藤塾でパンチの指導をしていたのを知っているので、報告に来たのだ。私は老婆心で、自分の名刺に、〝大山先生、神博行君は私の友人です、よろしくお願いします〟と書いて渡したのだ。

一週間後、神君が意気揚揚と店に入って来た。「合宿はどうだった」と聞くと待ってましたとばかりに話し出した。

合宿最後の日に大山先生が、指導員二人と歩いていたので、大山先生の前に立ち、ちょうさんの名刺を渡しました。怪訝な表情で見ていましたが、「君は私に何をしてもらいたいのですか」と聞かれたので、「館長と一緒に写真を撮ってもらいたいのです」と言ったのです。

神君は葉書サイズの写真を、私の前に出した。それは神君と大山館長のツーショットだった。神君は自慢げに常連たちにも見せていた。

数日後、家に神君から残暑見舞いが届いた。

その葉書は大山館長とのツーショットの写真版だった。神君に電話をすると、その葉書は友人、知人に三十枚ぐらい出したという。木村君が来店したので、それを見せると、「これチョッとヤバイんじゃないですか、極真会の関係者が見たら、何か言ってくるかもしれない」。

午後三時、外出しようとした時、電話のベルが鳴った。「山本君、大山です」。館長からの電話だった。私は怒られるのを覚悟した。「夏の合宿に道場生を紹介してくれてありがとう」。私はあわてて、「写真を撮らせて頂き、ありがとう御座いました」。受話器を持つ手が震えている。大山氏は、「神君は素敵な青年です、私に直訴したのですから、気に入りました」。意外な言葉に驚いていると、「池袋の駅の近くにうまい焼肉屋があるのです。今晩、奥さんと来ませんか」。私は行き成り言われたので、気が転倒してしまった。〝はい〟と即答しそうになったが、今日は金曜日、常連たちが集まる日だ。今までに休んだことのない大事な日なのだ。躊躇したが、「今夜はお店があるので」と無意識に言ってしまった。大山氏は、「では、次の機会にしましょう」と言って電話は切れた。

それから数年後、佐藤塾の木村君が店に来て、「大山館長が肺癌で、入院しています」と教えてくれた。初子とお見舞いに行きたいので、入院先を尋ねたが、それは誰にも知らせていないという。

ある朝、初子から無言で渡された新聞に目を通すと、〝ゴッドハンド(神の手)の大山倍達さん死去〟と大きな見出しがあった。死因は肺癌だった。平成六年四月二十六日、七十歳。

私は茫然とした。「焼肉屋へ行こう」と誘われた時、〝はい〟と言えなかったことを今でも悔やんでいる。

 映画館ユジクの前で立ち止まり、タイムテーブルを見ていると、「マスター」と声をかけられた。振り向くと同年輩の男が、「ゲンキ?」と言いながら近づいて来た。その人は元チャンピオンの常連客だった。マニアックな映画ファンだったのを思い出したが、名前が出てこない。相手も私の名前を忘れたので、マスターと呼んだんだろう。「最近、何か見た」、「ウン、見たよ、アメリカ映画で、えーとアカデミー賞をとったやつ」と言ったものの映画のタイトルが出てこない。

「ほら、あれだよ」「あれか、オレも見たよ」「面白かったね」

二人は、その映画の話をしたのだが、ちぐはぐだった。十分ぐらい立ち話をしていると、お互いにタイトルを思い出した。だが、二人が口にしたタイトルは異なっていた。そのように、近年はとかく忘れっぽいのである。

ところが、四十年、五十年前の出来事は昨日のように覚えているから不思議だ。

チャンピオンを開業したのは半世紀以上も前だ。居抜きで借りた店はカウンターだけで、八人座ると満席になった。私は銀座ビフテキのスエヒロと九段会館の洋食部で料理の修業をしているので、食べ物のメニューを出したかった。だが、それは不可能だった。この店は元バーだった故に、家庭用のガスが二台と氷で冷やす小さな冷蔵庫があるだけだ。

店はスナックなので、ビール、ハイボール、ウイスキーのオンザロックが主な飲みもので、料理はスパゲッティと生野菜サラダだけである。店は口コミで軌道にのり、七時を過ぎると常連客で席は埋まった。客層は二十代から三十代で、学生、サラリーマン、自営業だった。共通しているのは、よく飲み、よくしゃべる。彼らの話題は豊富で、映画とボクシングのトークが多かった。

ある夜、スポーツ刈りの青年が入って来た。ひとつ空いていた席に座り、ビールを注文した。一杯飲み乾すと立ち上がり、「ボクは昨日、この店の近くに引越して来ました。名前は相川愛一郎です。愛ちゃんと呼んで下さい」と挨拶をした。常連たちは酔っぱらっているので、すぐに彼を受け入れて、仲間にしてしまった。次の日から愛ちゃんは毎晩、七時になると顔を見せた。

生れは静岡県富士市で、明治大学のラグビー部のレギュラーだったが、腰を痛めて退部した。就職した出版社が倒産したので、今は休職中である。と、経歴をしゃべりまくっている。それでも、人なつっこい笑顔と、どんなジャンルの話題にも対応出来る軽妙な話術で人を笑わせ、人気者になってしまった。

ある時、キザで酔っ払いの中年男ぬまさんが、バーのママを連れて来た。「美人のママにカクテルを作って」と気どってみせた。ぬまさんは、私がカクテルを作れないのを知っているのに、意地悪だ。どうしようと思っていると、愛ちゃんが、「ボクが作ります」と言ってカウンターの中に入って来た。

「ボクはバーテンのアルバイトをやったことがあるので、まかしておいて下さい」

愛ちゃんは格好よくシェーカーを振った。その日から彼は、当店のバーテンダーになってしまった。愛ちゃんは同じ年だが、私より背は高い、風貌がいいので、初めて来店した客に「マスター」と呼ばれることもあった。

その頃、世界フライ級のタイトルを失ったファイティング原田と東洋バンタム級チャンピオン青木勝利のノンタイトル戦が話題になっていた。古物商の吉永さんが、天才のハードパンチャー青木が勝つと豪語したので、愛ちゃんは、対抗して努力型の原田がKOで勝つと言い張った。口論になり、勝敗にビールを賭けることになってしまった。結果は原田のKO勝ちだった。負けた吉永さんはカウンターにビールを十本並べた。そして、「今日はオレのおごりだ!飲んでくれ」と叫んだ。いきさつを知らない常連たちは並べられたビールを飲み、「カンパイ」。吉永さんには、〝完敗〟と聞えたのではないか。ところが愛ちゃんは吉永さんに、「無理しないで五本でいいよ」と言ったのに、「十本賭けたのだから、同情はいらない」、きっぱり断った吉永さんの男気にボクは負けましたと、言っていた。

数ヶ月後、愛ちゃんは突然、可愛い女の子を連れて来た。名前はひろ子、十七歳だという。

「ボクは来月、一番街にバーを開業します、この子がホステスです」

それを聞いた私も常連たちも啞然とした。開業資金は病院を経営している実家の父親が出してくれるという。

阿佐谷南口のパチンコ屋の横を左に曲ると高円寺に向って飲み屋街がある。そこが一番街で、バー、スナック、居酒屋が百二十軒のきを並べている。オリンピックの名残りもあって、深夜までにぎやかで、どの店も繁盛していた。開店する店は、その中ほどにあった。チャンピオンより広い。カウンターとテーブルがあり、キャパは十六席。店名は〝メロス〟だった。

愛ちゃんが、バーを開店するのを驚いている常連たちに開店祝に行こうと声をかけた。当日、私はカウンターの中に入り、マスターの愛ちゃんと並んだ。「この店はチャンピオンの姉妹店です。よろしく」と挨拶をした。店はチャンピオンの常連客であふれている。ビールグラスを掲げて、「おめでとう」。ホステスのひろ子ちゃんもホールで接待し、愛嬌を振りまき大盛況だった。

パーティが終り、店を出ると吉永さんが私を呼び止め、「愛ちゃんは人気者だから、チャンピオンの客を取られちゃうぞ」とささやいた。「それでもいいよ、愛ちゃんには助けられたし、これで恩返しが出来た」とは言ったものの、それが現実となった。何時も七時頃に来る客が十時すぎに来店、「メロスで飲んで来た。愛ちゃん張り切っているよ」と言う客が増えたのだ。

月日は流れ、ある夜、有線放送の三井さんが来店した。

「チャンピオンは相変らず盛況だね、メロスは閑古鳥が鳴いているぞ」

隣で飲んでいた野沢君が、「一週間前にメロスに行ったら、客は四人居ただけで、顔見知りの人は居なかった」。そう言われてみれば、最近はメロスで飲んで来た話を聞かなくなった。常連たちは、もうメロスに行かなくなったのだろうか。

メロスが開店してから二度目の春を迎えたある夜、愛ちゃんが開店と同時に入って来た。店内に客が居ないのを見定めると、「おやじが倒れたんだ、店を閉めて実家に帰ります」と言い残して、愛ちゃんは阿佐谷の町から姿を消した。

それから二年後だったと思う。吉永さんが来店し、「愛ちゃんが死んだって、ひろ子ちゃんから電話があった」。

葬式の日時も知らされていたので、二人は静岡県の愛ちゃんの実家に行くことになった。吉永さんは、「親の死に目に会えなかったと愛ちゃんは嘆いていたし、これで病院の跡取りは居なくなったんだ。ひろ子ちゃんは、まだ若いのに未亡人になってしまった」と、車窓から景色を見ながら、ぼやいていた。

富士市の駅に降りて、外に出ると、目の前に富士山がパノラマのように広がっている。二人は立ちすくんだ。屋久島生れの吉永さんは初めて見る光景だ。

「風呂屋のペンキ画より凄い!」

駅前でタクシーに乗った。吉永さんは、「相川病院に行って下さい」。行き先を告げると、運転手は、「この町に、そんな病院はありません」。「そんなことないよ、総合病院だよ」。運転手は振り向いて、「相川医院ならありますが」。吉永さんは声を大にして、「じゃあ其処に行って!」と言うと、運転手は、「歯医者ですよ」。

入口のベルを押すと、ひろ子ちゃんが出て来た。「お義父さん!東京から吉永さんたちが来ました」。二人は顔を見合せ、「お父さん、死んだんじゃなかったのか」。吉永さんは首をかしげた。

ひろ子を助手席に乗せ、お父さんの運転で、お母さんと私たちは葬儀場に行った。車中でひろ子は、愛ちゃんはアル中だったと言うだけで、死因を訊くと、答えは曖昧だった。

儀式が終り、御清所に案内された。そこで、お母さんに愛ちゃんの高校時代の同級生を紹介してもらった。「大学も同じだったんですか?」と訊くと、「相川は、大学には行ってないよ」。「ラグビーの選手だったと聞いていたのですが」。「相川はスポーツは苦手だし、飛行機は恐いと言って、海外旅行を誘ったがだめだった」。

ハワイに行った話も聞いているので、私は狐につままれたようになり、吉永さんの顔を見た。不信の念をいだいた吉永さんは、「あなたは何年生れですか?」と質問すると、同級生の年齢は私たちより三歳も年上だった。同級生は、「相川はビールが好きで、高校生の頃から親の目を盗んで飲んでいました。それと本が好きだったようです」。「どんな本ですか」。「哲学の本から週刊誌まで読んでいました」。吉永さんが、「だから彼は物知りだったのか」とつぶやいた。その時、同級生は、「そうだ、相川は太宰治の愛読者だ、と言っていました」。私と吉永さんは目を合せて頷いた。そのショックで頭が混乱した。

一番街のやきとり屋鳥正で愛ちゃんの偲ぶ会を催した。吉永さんと連名で香典を出してくれた十二名が出席した。献杯し、みんながほろ酔いになるのを見計らって、愛ちゃんの秘話を披露した。どんな反応があるだろうか。心配だった。話が終ると神妙な顔で聞いていた彼らは、いっせいに笑いだした。「ウソー!」、「本当!」、「信じられない」、「ジョークでしょう」の声が交差した。

調理場で仕込み中のおやじさんが、鳥肉を串に刺す手を止めて、「にぎやかだけど、今日は何の集りなの?」。私は、「偲ぶ会です。〝メロス〟の」と応え、手もとにあったビールを飲み乾した。

 百枚ちかく届いた年賀状の殆どは元常連客からだった。その中にオリンピックの聖火ランナーの写真版があった。少しぼけているが、青年が聖火を持って走っている。差出人は三遊亭小遊三さんだった。師匠の若き日の姿は六四年、東京オリンピックの時のものだ。その年の二月にチャンピオンは開業した。

 ある夜、常連客が引き、カウンターが空席になった時、中年の男性が同年輩の女性と来店した。私の前に座り、「チャンピオンて、店の看板が気にいったので入っちゃった」、飲みものを注文すると、行き成り「私は海老原博幸が好きなんです、彼の試合は全部見ています」と言いながらファイテングポーズをとった。私は、「その海老原と同じ日にプロテストを受けましたよ」と応じた。すると彼の目は鋭く光り、ボクシング談義になった。この人は何者だろうか?

 その日以来、月に一回か二回来店するようになった。ボクシングの話は何時も同じような内容だが、連れの女性は日替りだった。若い人もいたが彼女たちは薄化粧のステキな女性だった。そして、連れの男を師匠と呼び、敬語で話をしている。「何の師匠ですか」と訊くと、彼女たちの応えは曖昧だった。

 ある時、隣りのヤキトリ屋のママが彼女の店の客と来店した。ママは私に目くばせをし、「あの人」と言って指を差している。それに気が付いた師匠とママの目が合った。彼女は大声で、「小遊三さんじゃない!〝笑点〟の人気者の!私、ファンなの」と叫んだ。師匠は立ち上がり、「ばれちゃった」と小游三さん。笑いながら一礼すると、ほぼ満席の店内が、どっと沸いた。見たことのある顔だと思っていたが、小遊三さんはお忍びで来ていたのだった。

 その後は、小遊三さんが所属しているタマス卓球道場の若い仲間を連れて来るようになった。彼らとの席では二、三枚の座布団に座り、下ネタとアウトローのギャグをキザに演じる笑点〟の顔はなかった。愉快な普通のおじさんになっている。因みに小遊三さんとの交流は今でも続いている。年末には、〝笑点暦〟の豪華なカレンダーを送って下さる。私も師匠の高座を聴きに行っている。

 昭和が終り、年が明けて四日目の夜だった。開店当時からの常連が三人顔を合せた。古参客は、その時代の思い出話をしている。サラリーマンの三木さんは「ボクは早稲田の学生だった」、「オレは、まだ結婚していなかった」と古物商の吉永さん。「私は聖火ランナーだった」と美容師の勝ちゃんが得意げに言うと、「ウソーッ!」、隣りにいる二人の口調が重なった。
 痛風でアル中の勝ちゃんが聖火ランナーだったとは、信じがたい。「青梅街道を走ったんだ!」。勝ちゃんはグラスを置いて立ち上がった。その時、彼らの横で居眠りをしていたロクさんが目を覚まし、口を挟んだ。
「ニリンピックって知ってる?」。三木さんが、「それ何?」。ロクさんはフンと鼻で笑い、「競輪だよ」。三人は顔を合せ、「確かにニリンだ」。ロクさんはやばい空気を読んだのか、話題を変えてしまった。

 ロクさんは運動神経がにぶいので自転車に乗れない。そのコンプレックスを解消してくれる競輪の選手を尊敬しているという。「競輪場に行ったことはあるの?」と問われ、「後楽園野球場の隣りにある競輪場に行こうと思っていたんだけれど、美濃部都知事が競輪はギャンブルだと言って廃止してしまったんだ」。オレンジジュースを飲みながら、「ギャンブルは人間をクレージーにしてしまう」とロクさん節が続く。それを吉永さんが遮り、恒例の新年会の打ち合せを始めた。そこに印刷屋の木崎さんが入って来た。「寸劇をやろうよ、オレが脚本を書くから」。

 数日後、木崎さんは「一本刀土俵入」と「ロミオとジュリエット」の脚本のコピーを持って来た。

 「一本刀土俵入」のキャストはすぐに決った。東洋大学拳法部キャプテンの晶ちゃんが駒形の茂兵衛の役をやりたいと名乗り出た。おかみさんの役はテレビタレントのさとみさんに依頼した。晶ちゃんに対抗してか、ロクさんがロミオの役をやりたいと言い出し、失笑を買った。ロクさんの役ではないと皆にからかわれ、しゅんとしていると、チャンピオンのアイドル、自称十七歳のポン子が、「私がジュリエットをやるから、ロクさん、ロミオをやんなよ」と助け舟を出した。喜んでいるロクさんにポン子は、「台詞は確り覚えてね」と釘をさした。

 新年会は毎年一月第二土曜日、隣りの貸しスダジオで、午後七時から十二時まで催している。常連たちの隠し芸が面白いので、仲間が五十人から六十人は集まる。

 その年の新年会は午前中に雨が降り寒い日だった。スタジオには暖房設備はないが、狭い会場を六十八人の出席者の体温が、それを補った。

 隠し芸が始まり、宴たけなわになった。歌、ダンス、ギター演奏、エトセトラ。

 司会の荻野さんが、次は「一本刀土俵入」とアナウンス。

 晶チャンは本格的にやりたいと言うので、日大相撲部からふんどしを借りてきた。ふんどしは大きくて重い。絞めかたが分からないと言うので当日、相撲部の学生に来てもらった。

 舞台の中央で、「これが、おかみさんに見せる、おいらの土俵入でござんす」。晶チャンは、ここが見せ場とばかりに、大みえを切り、しこをふんだ。会場から、「ニッポンイチ!」と声がかかったので、調子にのり、もう一度、大きくしこをふんだ。その時、〝どさっ〟と物が落ちる音が聞えた。かぶりつきで見ていたホステスの在美ちゃんが、「キャーッ!エッチ」。

 時計屋の荻野さんが自前のマイクを持って、「本日のメインイベント〝ロミオとジュリエット〟です」。舞台の中央にスタジオにあったでかい脚立を置き、その上にポン子のジュリエットが腰掛け、その横にロミオのロクさんが立っている。ロクさんはジュリエットを見上げ、「マイダーリン、ジュリエット、私のジュリエット」。両手を広げ、堂々と、気持ちよさそうにアドリブもいれて演じている。ところがジュリエットは悲しそうな表情をしているだけで何も言わない。これはポン子の演技なのかと思っていると、司会者が、「ポンちゃん台詞を忘れたの?」、マイクで呼びかけた。ポン子は、すくと立上がり、「だって!ロクさんは私の台詞まで言っちゃったんだもの」、場内は一瞬、シーンとしたが、誰かが、「クスッ」と笑った。それにつられて場内は笑いと拍手のうずになった。司会者が、「凄い!コント55号の〝欽どこ〟よりも面白い!」と絶賛。脚本家の木崎さんにマイクを向けると、「オレが書いた脚本はコントではない!」と怒っている。その後ろにロクさんとポン子が気まずそうに立っていた。

 甘い物が好物だったロクさんは持病の糖尿病が悪化して入院。タローちゃんが見舞いに行った時は小野田六四郎の名札は二日前に外されていた。世田谷の松沢病院だった。クリスチャンのロクさんが召天して三十年。オリンピックの活字を見るとロクさんが好きだった、〝ニリンピック〟を思い出す。
                                       【山本晁重朗

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