"チャンピオン"日誌[あの日あの時エトセトラ]

64年から07年4月まで43年間、東京・阿佐ヶ谷で洋食店「チャンピオン」を営業していたマスター、山本晁重朗が記すエッセイ集。18年1月より、「あの日あの時」シリーズを開始、19年1月で終了。19年2月より、解題して、「あの日あの時あの人」シリーズを開始、20年9月に終了。新たに、20年11月より、「あの日あの時エトセトラ」シリーズを開始。                                      英訳版[Champion's Journal - WordPress.com]https://asagayachampion.wordpress.com/

カテゴリ: あの日あの時ある人

 映画館ユジクの前で立ち止まり、タイムテーブルを見ていると、「マスター」と声をかけられた。振り向くと同年輩の男が、「ゲンキ?」と言いながら近づいて来た。その人は元チャンピオンの常連客だった。マニアックな映画ファンだったのを思い出したが、名前が出てこない。相手も私の名前を忘れたので、マスターと呼んだんだろう。「最近、何か見た」、「ウン、見たよ、アメリカ映画で、えーとアカデミー賞をとったやつ」と言ったものの映画のタイトルが出てこない。

「ほら、あれだよ」「あれか、オレも見たよ」「面白かったね」

二人は、その映画の話をしたのだが、ちぐはぐだった。十分ぐらい立ち話をしていると、お互いにタイトルを思い出した。だが、二人が口にしたタイトルは異なっていた。そのように、近年はとかく忘れっぽいのである。

ところが、四十年、五十年前の出来事は昨日のように覚えているから不思議だ。

チャンピオンを開業したのは半世紀以上も前だ。居抜きで借りた店はカウンターだけで、八人座ると満席になった。私は銀座ビフテキのスエヒロと九段会館の洋食部で料理の修業をしているので、食べ物のメニューを出したかった。だが、それは不可能だった。この店は元バーだった故に、家庭用のガスが二台と氷で冷やす小さな冷蔵庫があるだけだ。

店はスナックなので、ビール、ハイボール、ウイスキーのオンザロックが主な飲みもので、料理はスパゲッティと生野菜サラダだけである。店は口コミで軌道にのり、七時を過ぎると常連客で席は埋まった。客層は二十代から三十代で、学生、サラリーマン、自営業だった。共通しているのは、よく飲み、よくしゃべる。彼らの話題は豊富で、映画とボクシングのトークが多かった。

ある夜、スポーツ刈りの青年が入って来た。ひとつ空いていた席に座り、ビールを注文した。一杯飲み乾すと立ち上がり、「ボクは昨日、この店の近くに引越して来ました。名前は相川愛一郎です。愛ちゃんと呼んで下さい」と挨拶をした。常連たちは酔っぱらっているので、すぐに彼を受け入れて、仲間にしてしまった。次の日から愛ちゃんは毎晩、七時になると顔を見せた。

生れは静岡県富士市で、明治大学のラグビー部のレギュラーだったが、腰を痛めて退部した。就職した出版社が倒産したので、今は休職中である。と、経歴をしゃべりまくっている。それでも、人なつっこい笑顔と、どんなジャンルの話題にも対応出来る軽妙な話術で人を笑わせ、人気者になってしまった。

ある時、キザで酔っ払いの中年男ぬまさんが、バーのママを連れて来た。「美人のママにカクテルを作って」と気どってみせた。ぬまさんは、私がカクテルを作れないのを知っているのに、意地悪だ。どうしようと思っていると、愛ちゃんが、「ボクが作ります」と言ってカウンターの中に入って来た。

「ボクはバーテンのアルバイトをやったことがあるので、まかしておいて下さい」

愛ちゃんは格好よくシェーカーを振った。その日から彼は、当店のバーテンダーになってしまった。愛ちゃんは同じ年だが、私より背は高い、風貌がいいので、初めて来店した客に「マスター」と呼ばれることもあった。

その頃、世界フライ級のタイトルを失ったファイティング原田と東洋バンタム級チャンピオン青木勝利のノンタイトル戦が話題になっていた。古物商の吉永さんが、天才のハードパンチャー青木が勝つと豪語したので、愛ちゃんは、対抗して努力型の原田がKOで勝つと言い張った。口論になり、勝敗にビールを賭けることになってしまった。結果は原田のKO勝ちだった。負けた吉永さんはカウンターにビールを十本並べた。そして、「今日はオレのおごりだ!飲んでくれ」と叫んだ。いきさつを知らない常連たちは並べられたビールを飲み、「カンパイ」。吉永さんには、〝完敗〟と聞えたのではないか。ところが愛ちゃんは吉永さんに、「無理しないで五本でいいよ」と言ったのに、「十本賭けたのだから、同情はいらない」、きっぱり断った吉永さんの男気にボクは負けましたと、言っていた。

数ヶ月後、愛ちゃんは突然、可愛い女の子を連れて来た。名前はひろ子、十七歳だという。

「ボクは来月、一番街にバーを開業します、この子がホステスです」

それを聞いた私も常連たちも啞然とした。開業資金は病院を経営している実家の父親が出してくれるという。

阿佐谷南口のパチンコ屋の横を左に曲ると高円寺に向って飲み屋街がある。そこが一番街で、バー、スナック、居酒屋が百二十軒のきを並べている。オリンピックの名残りもあって、深夜までにぎやかで、どの店も繁盛していた。開店する店は、その中ほどにあった。チャンピオンより広い。カウンターとテーブルがあり、キャパは十六席。店名は〝メロス〟だった。

愛ちゃんが、バーを開店するのを驚いている常連たちに開店祝に行こうと声をかけた。当日、私はカウンターの中に入り、マスターの愛ちゃんと並んだ。「この店はチャンピオンの姉妹店です。よろしく」と挨拶をした。店はチャンピオンの常連客であふれている。ビールグラスを掲げて、「おめでとう」。ホステスのひろ子ちゃんもホールで接待し、愛嬌を振りまき大盛況だった。

パーティが終り、店を出ると吉永さんが私を呼び止め、「愛ちゃんは人気者だから、チャンピオンの客を取られちゃうぞ」とささやいた。「それでもいいよ、愛ちゃんには助けられたし、これで恩返しが出来た」とは言ったものの、それが現実となった。何時も七時頃に来る客が十時すぎに来店、「メロスで飲んで来た。愛ちゃん張り切っているよ」と言う客が増えたのだ。

月日は流れ、ある夜、有線放送の三井さんが来店した。

「チャンピオンは相変らず盛況だね、メロスは閑古鳥が鳴いているぞ」

隣で飲んでいた野沢君が、「一週間前にメロスに行ったら、客は四人居ただけで、顔見知りの人は居なかった」。そう言われてみれば、最近はメロスで飲んで来た話を聞かなくなった。常連たちは、もうメロスに行かなくなったのだろうか。

メロスが開店してから二度目の春を迎えたある夜、愛ちゃんが開店と同時に入って来た。店内に客が居ないのを見定めると、「おやじが倒れたんだ、店を閉めて実家に帰ります」と言い残して、愛ちゃんは阿佐谷の町から姿を消した。

それから二年後だったと思う。吉永さんが来店し、「愛ちゃんが死んだって、ひろ子ちゃんから電話があった」。

葬式の日時も知らされていたので、二人は静岡県の愛ちゃんの実家に行くことになった。吉永さんは、「親の死に目に会えなかったと愛ちゃんは嘆いていたし、これで病院の跡取りは居なくなったんだ。ひろ子ちゃんは、まだ若いのに未亡人になってしまった」と、車窓から景色を見ながら、ぼやいていた。

富士市の駅に降りて、外に出ると、目の前に富士山がパノラマのように広がっている。二人は立ちすくんだ。屋久島生れの吉永さんは初めて見る光景だ。

「風呂屋のペンキ画より凄い!」

駅前でタクシーに乗った。吉永さんは、「相川病院に行って下さい」。行き先を告げると、運転手は、「この町に、そんな病院はありません」。「そんなことないよ、総合病院だよ」。運転手は振り向いて、「相川医院ならありますが」。吉永さんは声を大にして、「じゃあ其処に行って!」と言うと、運転手は、「歯医者ですよ」。

入口のベルを押すと、ひろ子ちゃんが出て来た。「お義父さん!東京から吉永さんたちが来ました」。二人は顔を見合せ、「お父さん、死んだんじゃなかったのか」。吉永さんは首をかしげた。

ひろ子を助手席に乗せ、お父さんの運転で、お母さんと私たちは葬儀場に行った。車中でひろ子は、愛ちゃんはアル中だったと言うだけで、死因を訊くと、答えは曖昧だった。

儀式が終り、御清所に案内された。そこで、お母さんに愛ちゃんの高校時代の同級生を紹介してもらった。「大学も同じだったんですか?」と訊くと、「相川は、大学には行ってないよ」。「ラグビーの選手だったと聞いていたのですが」。「相川はスポーツは苦手だし、飛行機は恐いと言って、海外旅行を誘ったがだめだった」。

ハワイに行った話も聞いているので、私は狐につままれたようになり、吉永さんの顔を見た。不信の念をいだいた吉永さんは、「あなたは何年生れですか?」と質問すると、同級生の年齢は私たちより三歳も年上だった。同級生は、「相川はビールが好きで、高校生の頃から親の目を盗んで飲んでいました。それと本が好きだったようです」。「どんな本ですか」。「哲学の本から週刊誌まで読んでいました」。吉永さんが、「だから彼は物知りだったのか」とつぶやいた。その時、同級生は、「そうだ、相川は太宰治の愛読者だ、と言っていました」。私と吉永さんは目を合せて頷いた。そのショックで頭が混乱した。

一番街のやきとり屋鳥正で愛ちゃんの偲ぶ会を催した。吉永さんと連名で香典を出してくれた十二名が出席した。献杯し、みんながほろ酔いになるのを見計らって、愛ちゃんの秘話を披露した。どんな反応があるだろうか。心配だった。話が終ると神妙な顔で聞いていた彼らは、いっせいに笑いだした。「ウソー!」、「本当!」、「信じられない」、「ジョークでしょう」の声が交差した。

調理場で仕込み中のおやじさんが、鳥肉を串に刺す手を止めて、「にぎやかだけど、今日は何の集りなの?」。私は、「偲ぶ会です。〝メロス〟の」と応え、手もとにあったビールを飲み乾した。

 百枚ちかく届いた年賀状の殆どは元常連客からだった。その中にオリンピックの聖火ランナーの写真版があった。少しぼけているが、青年が聖火を持って走っている。差出人は三遊亭小遊三さんだった。師匠の若き日の姿は六四年、東京オリンピックの時のものだ。その年の二月にチャンピオンは開業した。

 ある夜、常連客が引き、カウンターが空席になった時、中年の男性が同年輩の女性と来店した。私の前に座り、「チャンピオンて、店の看板が気にいったので入っちゃった」、飲みものを注文すると、行き成り「私は海老原博幸が好きなんです、彼の試合は全部見ています」と言いながらファイテングポーズをとった。私は、「その海老原と同じ日にプロテストを受けましたよ」と応じた。すると彼の目は鋭く光り、ボクシング談義になった。この人は何者だろうか?

 その日以来、月に一回か二回来店するようになった。ボクシングの話は何時も同じような内容だが、連れの女性は日替りだった。若い人もいたが彼女たちは薄化粧のステキな女性だった。そして、連れの男を師匠と呼び、敬語で話をしている。「何の師匠ですか」と訊くと、彼女たちの応えは曖昧だった。

 ある時、隣りのヤキトリ屋のママが彼女の店の客と来店した。ママは私に目くばせをし、「あの人」と言って指を差している。それに気が付いた師匠とママの目が合った。彼女は大声で、「小遊三さんじゃない!〝笑点〟の人気者の!私、ファンなの」と叫んだ。師匠は立ち上がり、「ばれちゃった」と小游三さん。笑いながら一礼すると、ほぼ満席の店内が、どっと沸いた。見たことのある顔だと思っていたが、小遊三さんはお忍びで来ていたのだった。

 その後は、小遊三さんが所属しているタマス卓球道場の若い仲間を連れて来るようになった。彼らとの席では二、三枚の座布団に座り、下ネタとアウトローのギャグをキザに演じる笑点〟の顔はなかった。愉快な普通のおじさんになっている。因みに小遊三さんとの交流は今でも続いている。年末には、〝笑点暦〟の豪華なカレンダーを送って下さる。私も師匠の高座を聴きに行っている。

 昭和が終り、年が明けて四日目の夜だった。開店当時からの常連が三人顔を合せた。古参客は、その時代の思い出話をしている。サラリーマンの三木さんは「ボクは早稲田の学生だった」、「オレは、まだ結婚していなかった」と古物商の吉永さん。「私は聖火ランナーだった」と美容師の勝ちゃんが得意げに言うと、「ウソーッ!」、隣りにいる二人の口調が重なった。
 痛風でアル中の勝ちゃんが聖火ランナーだったとは、信じがたい。「青梅街道を走ったんだ!」。勝ちゃんはグラスを置いて立ち上がった。その時、彼らの横で居眠りをしていたロクさんが目を覚まし、口を挟んだ。
「ニリンピックって知ってる?」。三木さんが、「それ何?」。ロクさんはフンと鼻で笑い、「競輪だよ」。三人は顔を合せ、「確かにニリンだ」。ロクさんはやばい空気を読んだのか、話題を変えてしまった。

 ロクさんは運動神経がにぶいので自転車に乗れない。そのコンプレックスを解消してくれる競輪の選手を尊敬しているという。「競輪場に行ったことはあるの?」と問われ、「後楽園野球場の隣りにある競輪場に行こうと思っていたんだけれど、美濃部都知事が競輪はギャンブルだと言って廃止してしまったんだ」。オレンジジュースを飲みながら、「ギャンブルは人間をクレージーにしてしまう」とロクさん節が続く。それを吉永さんが遮り、恒例の新年会の打ち合せを始めた。そこに印刷屋の木崎さんが入って来た。「寸劇をやろうよ、オレが脚本を書くから」。

 数日後、木崎さんは「一本刀土俵入」と「ロミオとジュリエット」の脚本のコピーを持って来た。

 「一本刀土俵入」のキャストはすぐに決った。東洋大学拳法部キャプテンの晶ちゃんが駒形の茂兵衛の役をやりたいと名乗り出た。おかみさんの役はテレビタレントのさとみさんに依頼した。晶ちゃんに対抗してか、ロクさんがロミオの役をやりたいと言い出し、失笑を買った。ロクさんの役ではないと皆にからかわれ、しゅんとしていると、チャンピオンのアイドル、自称十七歳のポン子が、「私がジュリエットをやるから、ロクさん、ロミオをやんなよ」と助け舟を出した。喜んでいるロクさんにポン子は、「台詞は確り覚えてね」と釘をさした。

 新年会は毎年一月第二土曜日、隣りの貸しスダジオで、午後七時から十二時まで催している。常連たちの隠し芸が面白いので、仲間が五十人から六十人は集まる。

 その年の新年会は午前中に雨が降り寒い日だった。スタジオには暖房設備はないが、狭い会場を六十八人の出席者の体温が、それを補った。

 隠し芸が始まり、宴たけなわになった。歌、ダンス、ギター演奏、エトセトラ。

 司会の荻野さんが、次は「一本刀土俵入」とアナウンス。

 晶チャンは本格的にやりたいと言うので、日大相撲部からふんどしを借りてきた。ふんどしは大きくて重い。絞めかたが分からないと言うので当日、相撲部の学生に来てもらった。

 舞台の中央で、「これが、おかみさんに見せる、おいらの土俵入でござんす」。晶チャンは、ここが見せ場とばかりに、大みえを切り、しこをふんだ。会場から、「ニッポンイチ!」と声がかかったので、調子にのり、もう一度、大きくしこをふんだ。その時、〝どさっ〟と物が落ちる音が聞えた。かぶりつきで見ていたホステスの在美ちゃんが、「キャーッ!エッチ」。

 時計屋の荻野さんが自前のマイクを持って、「本日のメインイベント〝ロミオとジュリエット〟です」。舞台の中央にスタジオにあったでかい脚立を置き、その上にポン子のジュリエットが腰掛け、その横にロミオのロクさんが立っている。ロクさんはジュリエットを見上げ、「マイダーリン、ジュリエット、私のジュリエット」。両手を広げ、堂々と、気持ちよさそうにアドリブもいれて演じている。ところがジュリエットは悲しそうな表情をしているだけで何も言わない。これはポン子の演技なのかと思っていると、司会者が、「ポンちゃん台詞を忘れたの?」、マイクで呼びかけた。ポン子は、すくと立上がり、「だって!ロクさんは私の台詞まで言っちゃったんだもの」、場内は一瞬、シーンとしたが、誰かが、「クスッ」と笑った。それにつられて場内は笑いと拍手のうずになった。司会者が、「凄い!コント55号の〝欽どこ〟よりも面白い!」と絶賛。脚本家の木崎さんにマイクを向けると、「オレが書いた脚本はコントではない!」と怒っている。その後ろにロクさんとポン子が気まずそうに立っていた。

 甘い物が好物だったロクさんは持病の糖尿病が悪化して入院。タローちゃんが見舞いに行った時は小野田六四郎の名札は二日前に外されていた。世田谷の松沢病院だった。クリスチャンのロクさんが召天して三十年。オリンピックの活字を見るとロクさんが好きだった、〝ニリンピック〟を思い出す。
                                       【山本晁重朗

 赤ちょうちんで酒を飲むと、ロクさんを思い出す。

ロクさんは、小野田六四郎の愛称で、小太りの風貌は作曲家にしてタレントの小林亜星に似ていた。生まれは横須賀、地元の高校を卒業すると米軍キャンプに就職した。給料は全額預金し、夜は下宿の近くの大衆酒場で働き、酒もタバコもやらずストイックな生活をして百万円を貯えた。

そして上京。阿佐谷の北口商店街スターロードに小さな居酒屋を開業し、店名は髙峰とした。店内はカウンターだけで、メニューはたったの六種類。だが何を注文しても出て来るのが遅い。それでも値段が安いのとロクさんの人柄で繁盛している。学生や、サラリーマンが集まる若者の店だった。

ある時、「煮込みのなかからレシートが出て来た」と客からクレームをつけられた。ロクさんは「オレ、今それをさがしていたんだ。そんなところにあったの?」と、とぼけた。こんなひょうきんなところが客に受けていた。

ロクさんは狭い調理場に小さな椅子を置き、オーダーの無い時は腰かけて居眠りをしている。

ある日、一人で映画館に行った。『ロミオとジュリエット』を、一番前の席で観ていたが、腰掛けると眠る癖がついているので、つい眠ってしまった。ところが余りにもイビキが強烈なので周囲の客が係員に通報した。場外に連れだされ、「入場料は返すから出て行って下さい」と怒鳴られ、金をもらって外に出た。そしてロクさんは、おもむろにポケットからくちゃくちゃのチケットを取り出した。それは招待券だった。

ロクさんは自分の店を会社、住んでいるアパートをマンションと常連客に言う。そして外国人(欧米)を進駐軍と呼ぶ。

ある夜、髙峰にアメリカ人のロジャーと飲みに行った。ロクさんにロジャーを紹介すると、「君は進駐軍か」と言って米軍キャンプ仕込みの英語で、挨拶をした。ロジャーはきょとんとして、私にンチューグンって何ですか?」。ロジャーは流暢に日本語を話す外国人だが、進駐軍と呼ばれたのは初めてだろう。困惑している。私が説明すると納得した。その彼の顔を見てロクさんは「ドゥユーアンダスタンド?」。彼は咄嗟に立ち上がり「イエス〝ラジャー〟」と応えた。ロクさんは「オレは名前を聞いているんじゃないよ」、手を左右に振った。私の隣に居た早大生が笑いながら「〝了解〟と言ったんですよ」。ロクさんはテレ笑いをして頭をかいた。因みにアイスランド人のマギーも進駐軍と呼ばれた。

木曜日はチャンピオンの定休日だ。それを忘れたのか鶴田さんは店の前まで来てしまった。久しぶりに阿佐谷に来たので、このまま帰りたくない。そこで、ロクさんの店に行くことにした。髙峰とチャンピオンは客が行き来する同盟店になっている。そこに行けば顔見知りの誰かがいるはずだ。

鶴田正浩は大手レコード店新星堂の重役だ。彼は誰とでも気さくに応対するチャンピオンの人気者である。そして三代目のフレンド会の会長に選ばれている。鶴田さんは知らなかったようだが、ロクさんも鶴田さんのファンだった。

その日から数日後、来店した鶴田さんは、ロクさんの店に一人で行った日の体験談を、ウイスキーのオンザロックを飲みながら話してくれた。

店内に客が三人いたが、チャンピオンとの共通の客は居なかった。ロクさんは私が一人で来たのを凄く喜んでくれて、会話が弾んだ。気がつくと十二時近くになっていた。しこたま酔ってしまい、帰ろうとするとロクさんが「オレのマンションに泊っていきなよ」と言うので、その気になって看板まで飲んだ。「さあ帰りましょう」と言われてロクさんのマンションに向かった。ライオンズマンションの前に立ち止ったので「ここですか?」と聞くと「いいえ、この裏です」。そこはJRの線路際のオンボロアパートだった。モーフを一枚貸してくれたので、それをかけて寝転んだが、クーラーが無いので窓を開けっぱなしにしている。蚊にさされるし、電車の音が聞える。その上、ロクさんのイビキが強烈なので一睡も出来なかった。それでも酔っていたので少しは眠ったようだ。目が覚めた時、ロクさんはまだ眠っていたので、そのまま帰った。翌日、電話でお礼を言うと「オレの会社で飲んだ時は、またマンションに泊って下さい」。その声を聞いていると小林亜星が扮する寺内貫太郎のとぼけた姿とダブリ、脳裏をかすめた。

鶴田さんはロクさんとのエピソードを笑い話にしてしまった。そんなところが鶴田さんの魅力なのかもしれない。

ある時、私は安いツアーにロクさんとラーメン屋の太郎チャンを誘い、フィリッピン旅行をした。そのとき、ロクさんは空港のロビーにアロハシャツで現れた。「ハワイに行くんじゃないよ」と揶揄され、「これはオレの一張羅なんだ」と照れた。「そりはいいけど、どうして前掛けを締めているの?」。ロクさんは下っ腹をおさえながら「これがないとズボンが下がってしまうんだ」と苦笑した。そして珍道中が始まった。旅の終りに宿泊したホテルのロビーをバックにし、ツアーで知り合った人たちをストロボカメラで写していた。それを見ていたロクさんが、「オレに撮らせろ」と言うのでカメラをわたした。ロクさんはぎこちない手つきでカメラを額に付け、シャッターを押した。その瞬間、顔が真白に光った。プリントするとロクさんの大きな目玉が写っていた。

あれから三十年。今でも思い出は尽きない。
 享年五十歳。

 数少ない遺品の中に、松本清張の著書『球形の荒野』があった。

 

 戦争の終らぬ星の星まつり       三輪初子
                                       【山本晁重朗】

 テレビの画面に映るローマ教皇の姿を見ながら、朝刊に目を落とすと、〝ローマ教皇のミサ五万人(東京ドーム)〟の大きな見出しがあった。その横に袴田さん拘置所で洗礼、招待受け参列したと続いている。 

 キリスト教徒らがドームを埋め尽した大規模なミサで、袴田さんの席は前列に用意された。かねて弁護団や支援者が面会を求める手紙を教皇宛に送っていたところローマ教皇庁の報道官が今月十五日、袴田さんがミサに招待されていることを公表。日本のカトリック司教協議会が二十日、招待状を届けた。黒のスーツに蝶ネクタイ姿で袴田さんは参列したと「東京新聞」に記してあった。

 袴田巌は昭和三十四年、バンタム級でデビューした。二十三歳だった。フェザー級でもファイトをし、六位にランクされている。ボクシング界の黄金時代だった。〝ダイヤモンドグローブ〟、〝チャンピオンスカウト〟その他二局のテレビ潘組があり、ゴールデンタイムに一日おき、放映されていた。選手の試合数も多かった。月に二回はリングに上がるのが普通だった。袴田と同じ年に海老原博幸がデビュー、翌年原田正彦(ファイティング原田)と新人王戦で対決している。袴田がファイトをしたバンタム級では米倉健司、石橋広次、フェザー級では大川寛、高山一夫、勝又行雄。テクニシャンとハードパンチャーが名を連ね、東洋王者の金子繁治、関光徳は大スターだった。そんな時代のランキングボクサーは存在価値があった。

 年間十九回もリングに上がった袴田は三十五戦してKO勝ちもKO負けもなかった。根性とスタミナ、タフネスを身上とするファイターで、人気ボクサーと激しい打ち合いを演じ、客席をわかせていた。

 その袴田が引退後、事件に巻きこまれ、逮捕された。それが、「袴田事件」である。

 無実を訴えるが、死刑の判決が下り、四十八年間独房に勾留された冤罪事件だ。

 平成二十六年三月二十七日、袴田さんは釈放された。

 その二年後の三月二十七日に、「袴田さんの再審早期開始を求める集会」が静岡県浜松市で開かれた。支援者約八十人の前で、袴田さんは「勝たなければしようがない。幸せに生きることが大切」と挨拶。一緒に暮らしている姉の秀子さんも「会話や笑顔が増えてきた」と述べ、弟の回復ぶりを報告した。

袴田さんと晁さん その後、この集会に東京から掛けつけ、同じ年にプロデビューした私が紹介された。マイクを持ち、「あなたは一年間に十九回も試合をした体力と精神力がある人です。これからもがんばって無罪を勝ち取るまで戦って下さい」と励ました。

 かつて袴田さんとは東洋J・ライト級王者勝又行雄氏の自宅で、ライト級日本ランカーの大石日出夫選手と四人で飲んだことがある。そのことを話したが、彼は覚えていなかった。まだ拘禁症状が残っているのだろうか。

 二次会は巌さんの姉の秀子さんの家に、ごく親しい人が十人集まり、てんでにコンビニから缶ビールと食べ物を買って来て袴田姉弟を囲み酒盛りをした。宴たけなわになり、唄や手拍子が出る雰囲気になったが巌さんは仲間に溶け込めず、彼だけの世界にいるように見えた。誰かから巌さんはどんなボクサーだったのですか?の質問があった。そこでボクシング経験があるという中年の男性を相手にして、巌さんのボクシングのファイトの真似をすると、もくもくとおにぎりを食べていた巌さんが立ち上がり、「オレはそんなへたくそじゃないよ!」と言って左右のコブシを振り回すが、ぎこちないので、爆笑。彼にはユーモアのセンスがある。

 袴田さんのドキュメント映画『夢の間の世の中』の監督金聖雄氏も同席していたので、その映画を話題にした。「死刑囚や冤罪事件をモチーフにした映画は、とかく暗くなりがちなのに巌さんのひょうきんな行動が明るくユーモラスに描写されている。秀子さんの活発で前向きの言動から明日への力をもらいました」と言うと、監督は満足そうに頷いた。そして、「もしこの映画がドラマだったら秀子さんは、演技賞ものですが、巌さんの役は本人以外に誰も演じられないでしょう!」と強調すると、監督はカウンターパンチを食らったように笑った。

 何時の間にか巌さんが私の横に立っていた。私たちの話を聞いていたのだろうか。その袴田巌がローマ教皇のミサに招待されたのだ。
                                       【山本晁重朗】


                                        

 ブログのコメントが届いた。「安部さんは、私が柳瀬尚紀さんと二月二十二日の〝猫の日〟実行委員をしていた時、ゲストにお招きしたことがありました」と葉書に書いてあった。差出人は、熊井明子さんだ。安部さんの猫好きは知っていたが、明子さんが猫好きだったのは知らなかった。安部譲二さんと熊井明子さんに、そんな接点があったのは奇遇である。明子さんは、二〇〇七年に七十六歳で死去した映画監督、熊井啓さんの未亡人だ。もしかしたら、ベストセラーの作家、安部譲二と映画の巨匠、熊井啓の二人も生前、面識があったのかもしれない。因みに熊井明子さんの著書に『めぐりあい』がある。

 私は、チャンピオンを開業する二年前は、「平沢貞通を救う会」の事務局員だった。ある日、内幸町にある事務局に、日本文化連合会の小見山登氏が、森川事務局長を訪ねて来た。彼は森川哲郎の著書『帝銀事件』を持っていた。その本を森川氏の前に置き、「森川さん、これを映画化しよう」。驚いている森川氏に、「私は戦前、日活映画の俳優だった。その時の同期が柳川武夫と江守樹郎なのだ。今は重役のプロデューサーと専務になっている。私が映画化するように説得する」と言って半信半疑の森川氏を日活の本社に連れて行った。

 数日後、事務局にシナリオライターの熊井啓さんが現われた。森川氏は私を熊井さんに紹介し、「山本君は役に立つと思うので、アシスタントに使って下さい」。それから数ヶ月、熊井さんと行動を共にした。その時、私は二十六歳、熊井さんは三十三歳だった。熊井さんは石原裕次郎のように背が高い、私は堺正章ぐらい。のっぽとちびなので、〝凸凹コンビ〟とあだ名が付けられていた。熊井さんはシナリオを書き上げると、『帝銀事件死刑囚』を監督した。映画は六四年、東京オリンピックの年に全国で上映された。この映画は、熊井監督のデビュー作である。

 熊井さんとは、その後も交流が続き、チャンピオンにも時々、顔を見せてくれた。常連たちと気さくに話をするので、カントクと呼ばれ、人気者だった。

 ある時、『深い河』の映画完成記念パーティが某ホテルで盛大に挙行された。原作者の遠藤周作、監督の熊井啓と出演者たちが集まっていた。往年のスター高峰三枝子、水の江滝子の顔もあったが、なぜか王貞治の姿があった。王さんにカメラを向けると快くポーズを取ってくれた。熊井さんとのツーショットを入れて四枚撮った。プリントすると良く写っているので、王さんに送りたいと思った。住所が分からないので、熊井さんに電話をした。

 「王さんは、人格者で気さくな男だ。写真送ったら喜ぶよ」

 住所を聞くと、「東京都目黒区と書けば届きます」。私は半信半疑で写真をポストに入れた。

 ある朝、トイレで新聞を読んでいる私に、初子が、「ラーメン屋の鳳凰さんから電話よ」とドア越しに大声で知らせた。新聞にラーメン屋の折込広告が挟まっていたが、何だろう?と思いながら受話器を取った。

 「ラーメン屋ではありません!読売ジャイアンツの王貞治です」。
 私は受話器を落としそうになった。

 「写真、ありがとう御座います」

王貞治氏と。 穏やかな声だった。私は妻の無礼を丁重に謝罪すると、王さんは、「勘違い誰にでもあります、気にしないで下さい」。スポーツマンらしい口調だった。

 時は前後するが、あれは、三月十五日の夜だった。店に東京地検特捜部と名乗る二人の男が入って来た。任意出頭で本部まで来てくれと言う。

 時計は午後十時を廻っていた。車で検察庁まで連れて行かれ、取調室に案内された。中年の検事がいて、生年月日から「帝銀事件平沢貞通を救う会」の事務局員になるまでのいきさつを丁重な言葉で、訊き出し、調書を取っていた。

 その途中、机の上の電話が鳴り、検事は席をはずした。数分で戻って来ると、一枚の紙を突き出し、「逮捕状が出た。これから巣鴨の拘置所に連行する」と、今までとは手の平を反す荒々しい態度に豹変した。

 私は驚き、「妻と連絡を取りたい」と言うと、「十二時を過ぎているぞ、電話交換手はもういない!」と怒鳴られた。

 拘置所の一室に入ると、刑務官に衣服を脱がされ、素っ裸にされた。体重と身長を測り、越中褌と囚人服を着せられ独房に放り込まれた。

 中は三畳間ぐらいで薄暗く、肌寒かった。私は逮捕された時から気が動転し、なぜこんな扱いをされるのか分からず、気が狂いそうだった。逮捕容疑は、「偽証罪」だが、まったく身に覚えがない。

 もし、事故を起こしていたり、何らかのトラブルに巻き込まれていたのなら、それに対する悔いと反省がある筈だ。潔白な私には野生動物が捕らわれ、突然、檻に入れられてしまったようにしか思えない。頭の中は更に混乱し、その夜は、一睡も出来なかった。

 翌日から取調べが始まり、夜遅くまで続いた。接見禁止のため、会えるのは弁護士だけで、それも数十分。その他は誰とも会えなかった。そんな状況に置かれたら真犯人でもない人が厳しい検事の取調べで虚偽の自白をしてしまうだろう。事実、平沢は自白し犯人にされた。死刑判決を受けてしまい、冤罪事件になっている。

 四月十五日、保釈になった。拘置期間は一カ月だった。出所して二日目に店をオープンしたが、ドアを開ける客は一人もいなかった。やはり、テレビと新聞の事件の報道が影響してか、客に敬遠されてしまったようだ。困惑する。

 時計が九時をさした時、ドアが静かに開き、東大生の佐方君の顔が見えた。その彼を押すようにして、同級生の宗チャンが入って来た。続いてサラリーマンの眞杉君。三人は声を合わせて、「チョーさん、おかえりなさい」。

 翌日、佐方君たちは、手分けして人を集め、銀杏通りにある居酒屋の二階で、出所祝いをしてくれた。七人出席した。顔見知りの人ばかりだった。幹事の佐方君は法律を専攻しているだけあって、帝銀事件と、私が拘置された経緯を分りやすく説明した。彼らは納得したようだ。眞杉君が立ち上がり、「チャンピオンを救う会を設立しよう!オレがリーダーになる」。一同、「オーッ!」。若者たちは、グラスを掲げた。彼らはどんな行動を起こしたのか分からないが、常連だった客が、二人、三人と日毎に来店し、何時の間にか以前の活気を取り戻していた。

 保釈で出所してから、一年が過ぎ、裁判の判決は、〝無罪〟だった。そして、世間から冷やかな目で見られている被告人の私を苦境から救い出してくれた常連客の人情と彼らとの絆を決して忘れない。

                                       【山本晁重朗】

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